もうすぐお茶会

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    昨日はえすりのファンミでしたね! 私はなんとライビュまで落ちるというていたらく……。

    TLを羨ましく見ておりました〜。

    次のイベントこそ絶対行きたいぞ! 名古屋大阪も狙ってみます。

     

    さてさて、お茶会の準備が進んでいます。

    ビンゴの景品に笑ったり、当日参加者様につけていただく名札で失敗したり・・・

    枚数を勘違いしていたので、改めて買い直しました。ウウ。

     

    会場となるお店には何度か行っていて、味は保証します。

    ちょっとオーガニック系の落ち着くお店ですよ。

    当日は飲み放題となっているので、よかったらどんどん飲んでくださいね。

    アルコールもありますきゃvネコ

    おみやげにする予定の「他人同士」番外編小冊子も着々と進行中です。

    私が原稿を頑張らねば。記念の1冊ですし、楽しいものにします♪

     

    ずーっと書いているので、首の痛みが限界です。

    なので、月曜日、近所のお医者さんに行ってきます汗

    効くお薬が出るといいんですけど!

     

    まだ細かな仕事が1件あるのですが、それが終われば久しぶりにいつもどおりです。

    9月からこっち死ぬほど忙しかったので、11月は温泉三昧です。ふふおかお(幸せ)

    原稿合宿もあるので、楽しい原稿を書いてきますね。

    ブログにも写真をアップします星

     

     


    「愛してるよ」(「チェックインで幕はあがる」番外編2006)

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      「あんたを調べてほしいって、どういう意味だよ」
       花岡唯は訝しげな顔をして、眼鏡を押し上げながら訊ねた。
       世界的に名を知られたホテルグループのひとつ、クラヴィア横浜の総支配人である沖田恭一の職場を久しぶりに訪れたところ、思いがけない相談を持ちかけられて驚いていた。
      「そのままの意味だ。期間は一週間、俺の身辺をあまさずチェックして、周囲の人間が俺をどう思っているか徹底的に調べてほしい」
      「そんなこと言われても……俺はフリーライターで、探偵じゃないんだぞ」
      「とはいっても、隠密行動はお手のものだろう? 他人からそれとなく話を聞き出すのだって巧いじゃないか」
       そう言われてもな、と仏頂面をして花岡は熱いコーヒーをすする。
       沖田といえば、ホテル業界紙だけでなくビジネス誌の表紙を飾ることもあるほどの人物だ。赤字続きだったクラヴィア横浜を見事立て直した手腕に惚れ込む政治家とつながりを持つだけでなく、芸能界やスポーツ界、それに少々後ろめたい世界ともパイプラインを持つ実力派だ。
       そういう男が、『自分を調べてほしい』と思うこと自体はさほどおかしくない。立場上、さまざまな敵につけ狙われるだろうから、寝首をかかれる前に予防策を立てておけというのはトップに立つ者ならではの思考だろう。
      「……前に、加藤たちに策を練られたことをまだ気にしているのか」
       彼と知り合うきっかけになったクラヴィア内部分裂の件を持ち出すと、沖田は「いや、それとは関係ない」と肩をすくめる。
      「今回は純粋に俺自身がどんな評価を下されているか、知りたいだけだ」
      「沖田さん」
       ここに来て花岡の渋面は本物になった。
       どんな評価を下されているか知りたいなんて、彼らしくない言葉だと思ったからだ。
       沖田にまつわる黒い噂を暴き立て、スクープに仕立ててあげてやると意気込んだフリーライターの花岡がクラヴィアに潜入したのは、もう一年前のことになる。その最中、専属秘書だった加藤と副支配人の三浦が手を組み、卑劣なやり方で沖田をトップの座から引きずり下ろそうとした計画を聞きつけ、否応にも巻き込まれた。
       だが、結果的に沖田を守る形になった理由はただひとつ。彼の身辺を調べ回るうちに、その確かな力と自信に惚れ込んでいたからだ。
       ――でも、自分を調べてほしいと思うようになったらまずい。周囲を信じないばかりか、自分が今後なにをすべきかわからなくなっているんじゃないか。
       出会いのきっかけはどうあれ、恋人としてつき合うようになったいま、彼の力になってやりたいと思う。とはいっても、フリーライターの自分とホテル支配人の彼とでは、互いに忙しい日常に追われっぱなしで、甘い時間とはほぼ無縁だ。
       ――今日だって、このくそ忙しい年末に二週間ぶりに電話がかかってきて呼び出されたんだ。それでわざわざ横浜くんだりまで出てきてみれば身辺調査をしろと言われて、まったく、俺たちはいったいいつになったらのんびりした時間が過ごせるんだろう。
      「とにかく、頼んだからな。結果がまとまったらすぐに報告してくれ」
      「わかったよ」
       知らずと眉間に縦皺を刻んでいたのだろう。ふたりきりの総支配人室で、向かいのソファを離れて近づいてきた沖田が身軽な仕草でソファの手すりに座り、素早く顔を傾けてくる。
       あ、と声を出す暇もなかった。眼鏡を取り上げられ、ぼやけた視界に精悍な相貌が飛び込んできたと思ったら、次の瞬間にはうなじを掴まれてのけぞらされ、深くくちづけられていた。
      「……ッんぅ……」
       沖田のやり方はいつも唐突だ。男にも女にも慣れていると豪語しただけあって、ありきたりの経験しか積んでいない自分を翻弄するのなんかお手のものだ。
       顎を押し上げられて息苦しい。はッ、とひとつ息を吐いてくちびるを開いた隙に熱く濡れた舌を受け入れ、そのまま甘く吸われて強い快感に涙が滲んだ。
      「ん……んっ……」
      「久しぶりに会ったのにしかめ面ばかりしている罰だ」
       一瞬くちびるを離した沖田が笑い、「相変わらずネクタイの締め方が下手だな」と歪んだ結び目を引っ張ってくる。
      「しょうがない、だろ……、あんたに会うときぐらいしか締めないんだから……」
      「もったいない、おまえの顔にネクタイは似合うんだがな。生真面目な顔をしている奴がネクタイを締めていたらむしり取りたくなるじゃないか」
       それじゃ、なんのために締めているのかよくわからない。ばかばかしいと言い返そうとしても、喉をくすぐられ、伝ってくる唾液を飲むよううながされるのが悔しくて、たまらなく気持ちいい。
       だが、いま自分がいる場所を忘れきるほどの馬鹿でもない。いくらここがホテルだろうと、沖田はその頂点に立つ人物だ。男の自分相手に不埒なことをしている現場を誰かに見られたら、今度こそ大スキャンダルになってしまう。
       覆い被さってくる男を押しのけようと、必死にもがいた。
      「だめだって……誰か、来たら……」
      「夜の八時を過ぎているんだ。誰が来るわけでもないだろう。それともなんだ、花岡はここで止めてもいいのか?」
       くくっと低い笑い声が耳元で響き、身体の力が抜けていってしまう。オーダーメイドのスーツで包んだ沖田の鍛え上げた身体からかすかに香るすっきりしたトワレが、抑えていた官能を呼び覚ましてしまう。頻繁に会える仲じゃないから、少し触れられただけでもうだめだ。肌がざわめき、シャツをとおしても沖田の愛撫を欲しがっているのがひと目でわかるぐらい、胸の尖りが突き出してしまうのが恥ずかしくてしょうがない。
      「感じやすいのがおまえのいいところだよな」
       薄い生地を指でぴんと伸ばし、上から下へゆっくり撫でてくる沖田が視線を合わせてくることに内心歯噛みした。感じやすいなんて冗談じゃない。もともとセックスがそんなに好きだというわけじゃないと反論したくても、ボタンの隙間から忍び込んでくる長い指に硬くしこる乳首をつままれて転がされると、そこが熱く痺れてしまう。
      「くそ、……勝手に、触るな……っ」
       一方的に感じさせられるのが悔しくて小声で怒鳴ると、沖田も顔を引き締め、あろうことか胸ぐらを掴みあげてきた。厳しい顔を間近に見ると、その迫力に思わず呑まれてしまう。
      「二週間ぶりに会ったというのにずいぶんな言いようじゃないか。俺が勝手に触っちゃいけないっていうなら、他の誰に触らせるんだ」
      「――え……?」
       なにが彼の怒りに火を点けたのか、さっぱりわからない。快感の靄に取り巻かれてぼうっとしているのに、首根っこを掴まれるままに立ち上がらされた。
      「おまえが誰のものか、よくわかってないようだな。来い、ねんごろに可愛がってやる」
      「ちょっと待てよ、馬鹿……!」
      「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは。仮にも俺はおまえより七つ上だぞ」
       ベッドルームに向かってずかずかと歩いていく沖田に力ずくで引っ張られ、ぎょっとしてしまった。
       うっかり忘れていたが、この支配人室は客室を転用したものだから、きちんとメーキングされたベッドルームが隣にあるのだ。
      「ごめん、さっきのは口がすべって……」
       ふわりとした灯りだけが点く室内でベッドに突き倒され、慌てて起きあがろうとする花岡を組み敷く男が鼻先でにやりと笑う。その骨っぽさに先ほどの愛撫を思い出し、じわりと腰が熱くなる。
      「その口も、なんのためにあるか思い出させてやるよ」
      「……ッ……」
       言い返す前にくちびるをふさがれ、あとはすべて沖田の言うとおりになった。

      「畜生……なんで俺がこんなことしなきゃいけないんだ」
       声が掠れるまで沖田に抱かれた翌日、花岡はぶつぶつ不平を呟きながらクラヴィア横浜のロビーを歩いていた。
       昨晩はほんとうに大変だった。沖田も三十六歳といういい大人なのだから、いちいちこっちの言うことに角を立てず、落ち着いた態度を見せてくれたっていいだろうに、あれで案外嫉妬深いところがある。そうとわかっていて、七つ下の自分もかわいげのないことを言ってしまうのだから、どっちもどっちといったところかもしれないが。
       とにかく、彼の頼みを聞かないことには穏便にすまなさそうだ。
      「どこからあたるかな……」
       身辺調査といっても、探偵が本業ではないのだから秘密裏に行動するのにも限界があるが、今回のケースは沖田本人の依頼という点が以前の潜入とはまったく違う。沖田自身が調査の依頼者だという点だけ伏せて、対象者からそれとなく話を聞き出すだけならさほど難しくない。
      「世間話につなげて聞いてみるか」
       ひとり呟きながら、十二月の忙しない雰囲気に包まれたロビーを突っ切り、コンシェルジュが控えているデスクに向かった。沖田の秘書として潜入していたときも、何度か顔を合わせたことのある男性コンシェルジュが笑顔で客と話している。
      「……それでは、気をつけて行ってらっしゃいませ。もし途中でおわかりにならないことがありましたら、お気軽にご連絡ください」
       横浜観光に出かけていくらしい客を送り出したあと、コンシェルジュが花岡を目に留め、「ああ」と顔をほころばせたのをきっかけに、そばに近づいた。
      「こんにちは、お久しぶりですね。お元気ですか?」
      「ええ、なんとかやってます」
      「沖田支配人の個人秘書になられたとか。さぞお忙しいでしょう」
       にこにこと話すコンシェルジュが言う「個人秘書」というのは、本来フリーライターという身分で潜入取材を行っていた花岡の過去を隠すために、沖田があてがってくれた肩書きだ。ホテル側の人間というより、公私ともにわたって沖田のスケジュールを管理するといった意味合いが強いだけに、日頃ホテルに顔をあまり出さなくても奇妙に思われることはない。
       ――一応、気を遣ってくれているんだよな、あれでも。
       そう思うとほんの少し胸が温まるが、実際こき使われている現状を思い返すとため息が出る。儲けにならない話には絶対に乗らない男だと思う、沖田というのは。
      「沖田支配人、最近はどうですか。ちゃんと現場を見て回っていますか?」
      「おっと、もしや抜き打ち検査ですか」
       ほがらかに笑うコンシェルジュは、ジャケットの胸ポケットに挿した銀色のペンをなにげなく引き抜き、「大丈夫ですよ」と頷く。
      「ああいう方が僕らのような現場の人間にいちいち声をかけて回るのは、大層めずらしいことなんですがね。支配人はその点、相当気を配られていると思います」
      「でも、逆に言えばいつも見張られている気がして落ち着かなかったりしません?緊張が続きすぎると疲れるじゃないですか」
      「答えにくいことを聞きますねえ。もしかしてこれ、支配人に頼まれての調査なんですか」
       核心を突かれたものの、花岡は鷹揚に「いえいえ」と笑った。
      「私個人の興味ですよ。……加藤秘書や三浦副支配人を糾弾したときもそうですけど、あれだけドラスティックな決断をされる方を周りは実際どう見ているのか、興味があるんですよ」
      「なるほど」
       見たところ、自分と同じ歳ぐらいのコンシェルジュは、「久坂」という名札をつけている。その久坂が、「もしよかったら、お茶でもいかがですか」と誘ってきた。
      「このあと、僕ちょうど休憩に入るんですよ。ラウンジでお茶でも飲みながら話しませんか」
      「いいですか? すみません」
       とんとん拍子に話が進んだことに気をよくしたものの、ちょっとうまく行き過ぎじゃないだろうかと案じる面がないわけじゃない。どんなことも、九十九パーセントまで物事を突き進めたとしても、あと一歩というところで気を抜くのがいちばん危険なのだ。
       ――残り一パーセントにくつがえされることはよくある。たとえば、いまはもういない加藤や三浦にとって、俺がその一パーセントだったんだ。
       クラヴィア横浜のスキャンダルを暴こうとした異分子のような自分がこのホテルにとって大きな梃子になったとまでは言わないが、沖田をトップに据え、現在の磐石の体制を築くまでの過程において、それなりに重要な位置を占めているというのもまた事実だ。
       油断することなく、かといって卑屈になることなく自分の信じるままに。それが沖田の胸にもあったはずなのに、なにを迷って身辺調査をしてほしいと言い出したのかがわからないだけに、不安は募る一方だ。


       雑誌の記事を書くという普段の仕事の合間に、久坂をはじめとした数人の人物へ接触し、必要な情報を集めたところでいよいよ一年の最後、大晦日となった今日、夕方過ぎに彼に電話をかけてみた。
       これから会えるか、という急な誘いに沖田は一瞬驚いた様子だが、「身辺調査がまとまった」と言うと、『すぐに行く』と返ってきた。年末年始、ホテルとしてはかき入れ時で総支配人としても休んでいる場合ではないらしいが、沖田は今日と明日の元旦の二日だけ休暇を取ったらしい。
       ――いつも忙しいから、正月ぐらいは家でのんびりするんだろうか。ひとりで? 家族と一緒に? そもそもあいつがどういう暮らしをしているか、そういえばはっきり聞いたことがないな。
       ふたりの関係に嫉妬という醜い感情を持ち込みたくないけれど、知っているようで知らないことも多い沖田の私生活を想像すると、疑いたくなってしまうのは自然な流れだ。巨大ホテルの総支配人という立場だけに、さまざまな出会いが沖田を待ち受けている。才能ばかりか、容姿にも優れた人物が多いだろうと思うと、自分らしくもなく落ち着かなくなるのだ。
       ――どうして俺と一緒にいるんだろう。それなりに役立つからだろうか。むろん、俺もそうありたいと思うけれど、それだけじゃないところでも求めてほしいと思うのは、我が儘かな。
       とりあえず、数時間だけでも一緒に過ごせるなら自分としても嬉しい。沖田を前にすると甘い言葉を言うのがどうしても照れくさいから黙り込んでしまうが、好きだから彼の無茶な願いも聞いてやりたいし、たとえ短い時間でもそばにいたい。そういうとき、べつに抱いてもらえなくても構わない。沖田がいまどんなふうに仕事にあたっているか、クラヴィア横浜の雰囲気はどうかという話が聞ければ、もう十分だ。
       ――彼とは仕事を介して知り合った。なにより、自分の才能を信じてあの大きなホテルを引っ張っていく強い骨に惚れたんだ。あんたは俺の憧れなんだよ、沖田さん。
       そんなことを正面切って言ったとしたら、どんな顔を見せてくれるのだろう。ひとり笑いしながら部屋を徹底的に掃除し、さっぱりしたところで風呂に入って汗を流したあとは、買い込んでおいた材料で水炊きをつくりはじめた。
       手料理をつくるなんてめったにないが、沖田がこのマンションを訪ねてくるのも久しぶりのことだ。味付けが多少心配だったが、そこは知り合いのシェフで、いまはクラヴィア横浜のメインシェフでもある倉下に頼み込んで、簡単においしくできるコツを教えてもらった。
       ――旨いものを食べ慣れているあいつが鍋なんて所帯じみたものを喜ぶかどうかわからないけど。
       沖田ほどの立場なら世界各国の旨い料理を制覇しているはずだが、こういうところで変に肩肘を張ってもしょうがないだろう。水炊きでもてなせるかどうか謎だが、精一杯こころを込めてつくれば、普段はなかなか言えない気持ちも通じるんじゃないかということにしておきたい。
      「鍋を食って好きだって気持ちが伝わるなんて変だよな」
       苦笑いしていると、インターフォンが鳴った。はっと壁の時計を見れば、電話をしてもう二時間近く経っている。急いで迎えに出ると、ぴしりとしたスーツにコートを引っかけた沖田が立っていた。
      「あ、……あの、……」
      「ただいま。エプロンが似合っているじゃないか」
       ちいさく笑い、沖田はワインボトルが入った紙袋を押しつけてさっさと部屋に上がってしまう。その後ろ姿を茫然と見送り、「……おかえり」と呟いたときには耳が火傷するぐらいに熱かった。シャツを汚さないようにとカフェエプロンを巻いていたことをすっかり忘れていたのも、痛恨の極みだ。
       一緒に暮らしているわけでもないのに、このしみったれた挨拶はどういうことだとぎりぎり歯ぎしりするのは、むろん恥ずかしいからだ。
      「今夜は鍋か。いいな、外も寒かったんだ」
      「あ、……いますぐ準備するよ。コート預かるから、こっちによこせ」
       リビングの真ん中に用意したこたつにもぐり込む沖田がコートを投げてくる。それを受け取り、寝室の壁にかけて再びリビングに戻ってみると、ジャケットを脱いで沖田はすっかりくつろいだ様子だ。
       今夜はこのまま泊まっていくのだろうか。それとも、数時間いるだけで、結局自分の家に帰ってしまうのだろうか。
       ――あと数時間で新しい年に切り替わろうとしている一年最後の日、一緒にいたいと子どもみたいなことを言って忙しい身の上のあんたを困らせるつもりはないけれど。
      「腹が減ってるんだ。早く食べたい」
      「わかったわかった。ちょっと待ってろ」
       家主よりも堂々とした態度には、どうしたって噴き出してしまう。一瞬の気まずさも忘れて花岡は鍋を置いたカセットコンロの火を点け、沖田が持ってきてくれたワインを開けた。
      「まずは乾杯といくか、今年もお疲れさん」
      「ああ、ぎりぎりまでお互い頑張ったよな。……あんたに頼まれた調査も終わってるよ」
       グラスを触れ合わせて芳醇な香りのワインを一気に流し込むと、沖田が嬉しそうな顔で、「そうか」と頷く。
      「結果はあとで聞かせてもらおう。それよりも早く食わせてくれ。これ、もう煮えてるのか? 食べてもいいのか?」
       腹が減っているというのは嘘じゃないらしい。そわそわしている沖田に笑いながら、花岡は機嫌よく菜箸を手に取った。


       慎重な顔つきで花岡が調査の話を持ち出したのは、鍋もすっかり平らげ、ワインボトルも残り少なくなったあたりだ。テレビでは大晦日恒例の紅白歌合戦をやっていて、沖田も満ち足りた顔をしている。
      「紅白歌合戦を見るのなんて何年ぶりかな……」
       ぼそりと呟く男に笑いを堪えながら、鍋やコンロを片付けた。
       超一流ホテルの支配人とふたり歌合戦を見ているというのも、なんだか変だ。思わず口元がほころんでしまいそうになるのを努めて引き締め、調査結果を切り出した。
      「あんたがどういうつもりでこの調査を依頼したのかわからないけど、おおむね、クラヴィアの人間は沖田支配人の経営に満足していたよ」
      「どのへんの人間に聞いたんだ」
       暖かい室内でシャツの袖をまくっている沖田がワインボトルを傾けたが、空になっていることに気付き、花岡はまだ封を切っていないブランデーを棚から出して渡してやった。もらい物だが、そこそこいい味のものだ。
      「現場クラスがメインだ。たとえばコンシェルジュの久坂さんとか、厨房のシェフとか。それからクリーニング部門のひとたちにも聞いたよ」
      「管理職には聞かなかったのか? ほら、加藤や三浦を追いつめるときには重役に話を聞いたんだろう」
      「あれは今回必要ないと思えたから省いた。逆に、現場のひとのほうがあんたを正しく判断するだろうと思ったんだ。管理職はさまざまな利害関係があって、本音を隠すことが往々にしてあるからな。……なあ沖田さん、あんた、なにが不安で自分がどう思われているかなんて知りたいんだ? 俺が話を聞いた誰もがあんたに強い信頼を抱いていたよ。クラヴィア横浜が今後どんなふうに変わっていくか期待しているとも言っていた。なのに、あんたはそういうスタッフを信用していないのか? 自分のやり方に迷いがあるのか?」
       周囲からどんなふうに思われているか、誰でも不安に思うことがあるだろう。だが、それがあまりに高じてこころを病んでしまうことがある。多くのスタッフを抱える立場にある者は、とくにその兆候があるのだろう。
       しかし、自分の印象なんてあやふやなものだ。百人に聞けば百人分の印象が返ってくるだろうし、たとえ「こう思ってほしい」と自分のいい面を全面に出したところで、みんなの目に同じように映るともかぎらない。
      「コンシェルジュの久坂さんと一緒にラウンジでお茶を飲んだけど、旨かったよ。俺が最初に飲んだ味気ない紅茶とは大違いだった。久坂さんはあんたの指示が細部まで行き渡っていることを、俺に一発でわからせてくれたんだよ。そういう部下を持って、あんたはしあわせじゃないか。いったい、なにが不安なんだよ」
      「誰が不安だと言った」
      「は?」
       思ってもみない切り返しに驚いて沖田を見やると、なぜだか苦笑いしている。
      「俺を心配してくれたのか? だったら悪かったな、勘違いさせて」
      「勘違いって……どういうことだよ」
      「俺を調べるうえで、いろんな奴から俺の印象を聞いたんだろう。それで? おまえはどう思ったんだ、花岡。多くの部下に慕われる俺という人間に惚れ直さなかったか?」
      「なに言ってんだ、あんた……」
       あんぐりと口を開ける花岡に、沖田は声をあげて笑い出した。
       なにが可笑しいのか、こっちはさっぱりわからない。すると沖田が素早く腕を掴み、強引に引きずり寄せてくる。
       むりやり背中から抱き込まれてしまった花岡としては恥ずかしさのあまり、肩越しに振り向いて目をつり上げた。
      「沖田さん、……ッ」
      「馬鹿だな、花岡は。どうしてそう頭が固いんだ。俺の評判を聞いて惚れ直させたいから、あの調査を依頼したんだろうが」
       そんな話があるか。一週間もかけた調査の依頼理由が、こんなに阿呆なものだなんて許し難い。
       ほんとうに冗談じゃない、一発怒鳴ってやると憤然と振り向くと、さも楽しげな目とぶつかった。
      「もし、おまえが俺に一ミリも興味を持っていなかったら、ギャラの発生しない仕事なんか引き受けなかったんじゃないのか? それでも調べてくれたってことは、多少なりとも俺を案じて――おまえのこころに俺が棲んでいるから、放っておけなかったんだろう?」
       自分で言うかと思ったが、真っ向から反論する気分でもない。
      「だからって、……俺を騙すようなやり方をしなくても……」
      「そもそも、おまえが俺にまったく甘えないのが悪いんだよ。電話してもちっともいないし、たまに捕まえても『忙しい』とあしらわれる身にもなれよ。俺が一方的に好きなのかと疑ってもしょうがないだろうが」
      「……ごめん」
       思わず謝ってしまった。だがよくよく考えれば、沖田だって時間に追われる身で、こっちが電話をかけることもある。
       なのに、いつもいつも、沖田は『もっと甘えろ』と言うのだ。
      「でも、あんただって忙しいし、俺もどう甘えればいいかなんてわからない。電話も邪魔になったらいけないからしないだけで……。しつこくして嫌われるのが嫌なんだよ……」
      「ほんとうは俺と一緒にいたいのか? だったらそう言えよ」
       うしろから抱きすくめられて耳朶を甘く噛まれると、意地を張りたい気分がぐずぐずととけてしまう。
       ここには自分と沖田しかいない。誰も見ていない。だったら今日ぐらい、甘えてもいいかもしれない。
       部屋は暖かいし、沖田もやさしい。頬をなぞってくれる指の感触に身体が火照り出してしまうのも、きっと彼にはばれてしまっているはずだ。
       じわじわと熱くなる頬をうつむけて、掠れた声で呟いた。
      「……一緒にいたいよ。俺だってあんたのことが好きだから、心配になってあの依頼を引き受けたんだ。今夜だってふたりで食べようと思って鍋をつくったんだし、部屋も掃除したんだよ。……ていうか、いまさらだけど、あんた、家で待っているひとがいるってことはないよな」
      「どういうことだ」
       奇妙な顔をする沖田に、ひとり暮らしなのか、それとも家族と暮らしているのかと訊ねてみると、ますます訝しそうな表情になる。
      「ひとりに決まっているだろう。それぐらい、どうしておまえが知らないんだよ。血のつながった家族ならともかく、俺がほかの奴と暮らしているなんて馬鹿なことを考えているのか?」
      「だって、はっきり言ってくれたことがないじゃないか」
      「はっきり聞いたこともないじゃないか」
      「でも、部屋に招待してもらったことがない。沖田さんは一方的に俺の部屋に来るけど、その逆はない」
       ああ言えばこう言う、の典型例になってしまった。勢いに任せた言葉が嫉妬混じりだったことに自己嫌悪してうつむくと、さも楽しげな笑い声が響く。
      「……悪かったよ。そういえばそうだ。忙しくて招いたことがなかったかもしれないな。明日でも明後日でも、おまえの好きな日に来ればいい。今度合い鍵もつくろう」
      「うん……」
       照れくさいけれど、胸が満たされていく。広い胸に頭を擦りつけると、首筋に軽くくちびるが押し当てられていく。その感触に胸の奥がとろけて、もう少し我が儘を言いたくなってしまう。
      「それから、あんたが今日と明日は休みを取っているって聞いたから、もしかしたら……」
      「泊まっていくかもしれないと考えたか?普通の恋人みたいに」
       とまどった末に頷くと、くすりと笑い声が聞こえる。
      「泊まっていけよ。せっかく、久しぶりに会ったんだから……」
       逞しい胸にもたれ、沖田の手がゆっくりとシャツを剥いで素肌に触れていくのを黙って許した。普通の恋人だったら、こんなふうにするのだろう。ふたりきりの部屋で身体を隙間なく密着させ、胸が疼くような熱と言葉をやり取りするのだ。
       うなじにくちびるが押し当てられ、ぞくぞくしてくる。
      「おまえは可愛いよ、唯。九十九パーセントは強情なのにな」
      「沖田さん……」
      「俺がいなくちゃ寂しくて眠れないぐらいのことを言ってみろ」
       そんなこと誰が言うかと思いながらも、胸の裡でなら言ってやる。
       ――そんなこと思いたくないのに、最近の俺はどうかしている。あんたともっと一緒にいたい。このまま帰したくない。
       両方の乳首をこりこりとねじる沖田の長い指を見ただけで、身体のどこかがしっとりと熱くとけていく。ちいさくても感度のいいそこは沖田の愛撫を敏感に受け止め、腫れぼったく尖って触りやすくしてしまう。
      「んッ――は……っ……」
       たまらずに首をねじってキスを求めると、鋭いまなざしがすぐそばにある。沖田の目元も赤く染まり、急速に乱れる花岡の姿に煽られているようだ。唾液がこぼれてしまうほどに深く舌を絡め合い、ときどき、悪戯っぽくくちびるの端を噛まれた。それでお返しに沖田に同じことをしてやると、低い笑い声と一緒に顔中にくちびるが押し当てられる。
       広い胸にすっぽりと収まり、とことん甘やかされるのが心地いい。いままで、誰にもこんなことをしてもらったことがない。それも当然だろう。男の自分を抱き締める余裕を持つ、まぎれもない男とつき合うのは沖田が初めてなのだ。
      「もう勃たせてるのか」
       ジーンズのジッパーがまっすぐ下りないことを指摘されたことで、羞恥に身悶えた。明るい部屋の中、羽交い締めにされているから、ボクサーパンツの縁を下ろして硬く勃起するペニスを引きずり出すところや、ぬるっとすべる亀頭のくびれを長い指がくすぐっていくところも、全部見えた。
       まるでオナニーを手伝ってもらっているような淫らな構図に、よけいに感じてしまうことに沖田も気付いたのだろう。びくんと跳ねるペニスをいやらしく扱きながら、「たまには我を忘れてみろ」と笑う。
      「眼鏡をかけてくそ真面目に仕事するだけがすべてじゃないだろう。俺だけに見せる顔があるんだろう?」
      「……冗談……ッそんなこと、したら、……呆れるくせに……」
      「それこそ冗談じゃない。いま以上におまえから目が離せなくなるだろうが」
       膝立ちするように命じられて、よろけながらこたつに手をついた。ついでに、やかましいテレビを消してしまえば、しんと静まり返った室内をふたりぶんの熱っぽい吐息だけが満たしていく。
       唾液で濡れた指に窮屈なそこを押し拡げられ、ひくんと喉を反らした。ゆっくり挿ってくる指に襞を丁寧に擦られ、信じられないほどに身体が熱くなっていく。
      「っ……あッ……」
       自分の部屋で、まさかこんな淫らな格好をさせられるとは思わなかった。しかも、相手は七つ上の男だ。過去に数度、リビングの隣にある寝室で抱き合ったことはあるけれど、場所を選ばずに求め合うなんて中学生のようながっついた真似をしたことはない。このあいだ、総支配人室で誘われたときだって最終的には寝室に連れていってもらった。
       だが、今日の沖田にはそのつもりがないらしい。ひくつく粘膜を押し分けていく獰猛なものを想像させるようにぐるりと指を動かし、抜き挿しする。
      「……そこ、……」
      「いいのか?」
       涙混じりに頷くとくるりと身体を返され、勃起したそこに噛みつくように沖田が顔を近づけてくる。
      「あぁ……ッ!」
       こたつの縁に座らされ、男に剥き出しのそこを咥えられて喘ぐ自分が信じられない。
       沖田の頭をどうにか押しのけようとしても、先端の敏感な割れ目を舌でくちゅくちゅとくすぐられると鮮烈な快感が意識を支配してしまう。
      「……ッいい……」
       どうしてこんなに自分の感じるところを知っているのだろう。濡れた舌がぬるぬると竿を伝い、いやらしくふくれた裏筋を吸われると眩暈がするほど気持ちいい。シャツの裾がひらひらとかすめるそばで、先端のくぼみを指でつつかれると、溜まっていたぬるみがつぅっと糸を引いてこぼれ落ちた。
       淫らな仕草を見せつけられて、おとなしくしていられるわけがない。
      「沖田さん――沖田、さん……」
      「ベッドに行くか?」
       聞かれたが、即座に首を横に振って沖田にしがみついた。
       震える指でスラックスのジッパーを硬く押し上げているそこに手のひらを這わせた。
      「……おかしくなりそうだよ、あんたのここ、触ってるだけで……」
       胸にある欲情を精一杯の言葉で言い表すと、沖田が目を瞠る。
      「――おまえにそういうことを言われる俺のほうがどうにかなりそうだ」
       沖田の両足のあいだにしゃがみ込んでジッパーを押し下げ、猛々しくそそり立つ男根を口いっぱいに頬張った。頬の裏側で亀頭を擦り、ぬちゅぬちゅと音を響かせてしゃぶるあいだ、頭上から艶っぽい吐息がいくつも落ちてくる。
       口に収まりきらないぐらいに大きくしたところで、沖田が腰骨をきつく掴んできた。
      「うしろを向け」
      「あ……」
       ぼうっとした頭で沖田に従い、こたつの天板にうつ伏せになって腰を上げた。
       指と舌でやわらかくなったそこに勃ちきったものがあてがわれ、息を吸い込んだ瞬間、ひと息にねじ込まれた。
      「――ん……っ」
       沖田にしか感じない硬い熱を待ちかねていたかのように、貪欲に絡みついてしまう浅ましさにくちびるを噛み締めた。
       もう何度も抱かれているのに、最初に感じる圧迫感は強烈だ。張り出した亀頭で狭いところを抉られ、擦られ、身体ばかりか頭の中までも熱くなっていく。
      「……唯、いいのか」
      「……うッ……う……」
       押し出されるように呻き、シャツをとおして伝わってくる沖田の吐息に身体を震わせた。
       男なら女を抱いて喘がせるのが普通だが、自分の場合は同性の沖田に骨が軋むほど抱き締められ、硬く太いものを身体のずっと奥に受け入れることまでする。涙を滲ませ、しだいに色濃い官能を混じらせていく喘ぎを漏らすことになるなんて、彼と出会った頃には想像もしていなかった。
       沖田と出会ったことで、さまざまなことを知った。
       自分の野望を押し進めるためならいくらでも非情になれる面や、異分子をばっさりと斬り捨てる潔い決断力に惚れたのはもちろんだが、その反面、彼なりに手に入れたものを慈しむことにも惹かれた。それが多少強引な方法であっても、沖田らしいなと思ってしまうのだから苦笑いしてしまう。
       たとえば、いまもそうだ。
       ――身体の隅々まで征服するような抱き方があんたにはよく似合っている。それにそう、俺もそのやり方に惹かれている。こうしているときだけ、あんたに屈服したふりをして、堂々としがみついてしまえるのが俺は嬉しいのかもしれない。
      「あぁ……沖田――さん……」
       突き動かされ、少しずつとろけていく襞をかき回すような動きに堪えられそうもなかった。夢中になって沖田の名前を呼ぶと、つながったままくるりと身体を返され、向き合った形で抱きかかえられた。うつむけば、互いに濡れた硬い毛が絡み合っている。少し腰を浮かせると、ぬちゅりと淫らな音とともに筋が浮き立った沖田のものが自分の身体の奥深くに挿っていくところがわずかに見えて、否応にも煽られてしまう。
      「このままいかせてやろうか? でも、後始末が大変だぞ」
      「……構わないよ」
       現実的なことを言われて思わず笑ってしまった。間近で見る沖田も男っぽい相貌に汗を滲ませ、シャツをとおして伝わる体温も高めだ。
       顔も名前も広く知られている彼のような男が、自分の前では自然に振る舞ってくれる。感じる顔を見せてくれる。そうとわかれば、忙しない日常の隙間にふっと生まれる密度の高い時間をもっと大事にしたいと思う。
       ――あんたを独り占めしたいよ。
       顔をほころばせてくちづけると、沖田はたまらなそうな顔をして腰をよじらせる。ちょっとした動きが、彼にも快感を刻むらしい。
      「泊まっていくんなら、……あんたに掃除させてやる」
      「ベッドメーキングならお手のものなんだがな。昔よくやらされたよ」
       くだらないことを言って笑い合い、キスを繰り返した。
       彼も自分もこころに決めた仕事に邁進する性格で、慌ただしい毎日を送っている。会えない時間が長引けば寂しさが募るのは当然で、ときどき大人げない喧嘩を繰り広げてしまうこともあるが、一年の締めくくりにこんなふうに抱き合えれば文句はない。
       そう思えるのなら、沖田が依頼してきたあの阿呆な調査もそれなりの意味があったのだろう。
       彼という人間をいま一度振り返り、さまざまな人間が抱く印象をつなぎ合わせた最後に、自分だけの純粋な想いをひとかけらつけ加えて惚れ直すという馬鹿馬鹿しい調査は、後にも先にも沖田にしかしてやるものか。
       誰よりも深い声で「唯」と呼んでくれる男を抱き締め、花岡は微笑みながら彼の耳に囁いた。
       仕事を愛し、それを理解しあえるパートナーにめぐり会えた嬉しさと、互いに心強い味方であるための勇気がずっと続くように。
       愛してるよ。


      ちくちく

      0

        仕事しています。

        Twitterでも書いたんだけど、今週は細かい仕事の締め切りが毎日あるので気が抜けません。

        ようやく折り返しに入って、明日1本仕上げたら初稿はいったん終了。

        週末は鬼のように改稿頑張ります。

         

        来週と再来週は少しゆったりできるかなーという感じ♪

        ほんとうは今月いっぱい休むつもりだったのですが。

        いろいろスケジュールが入れ替わったので、11月に休めそうならちょっとだけゆっくりします。

         

        お友だちと11月に熱海へ原稿合宿に行こう! 

        という話になって、宿泊先をいろいろ探していました。

        最初はホテルかなと思ったのですが、執筆に適したテーブルや椅子がないことが多いんですよね。

        なので、ここは頭を切り替えて、座卓と座椅子のある旅館に。

         

        いまは秋の行楽シーズンなんですかね?

        熱海もわりと混雑していて、お宿を探すのに苦労しましたが、

        その甲斐あっていい感じの旅館を見つけました。

        温泉に入りつつ執筆しつつお喋りしつつ、楽しみますき

         

        さてさて、11/12のサイン会追加枠の募集期間もそろそろ後半戦に入るので、宣伝しておきますね。

        コミコミスタジオ様のご厚意で、若干ですが追加枠を設けて頂くことになりました。

         

        バラサイン会応募はこちら!バラ

         

        せっかくの機会なので、ぜひいらしてくださいね。

        たくさんお話できたら嬉しいです某うさぎ

         

        調子こいて夜食を食べる生活をしていたら、太りました……! 当たり前か。

        今日から麺断ち、おかし断ちです。ウッ……kyu

        頑張ります!

         

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        10/19 13:04 焔は青く/炎は青く...さん>>

        おおーありがとうございます! ラストがラストなのでどうかなとは思いますが、ダメ元で今度どこかの編集部に持っていってみますね!


        Secret214(「くちびるに銀の弾丸」2006)

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          「おっ、澤村、呑んでるか」
          「呑んでる呑んでる」
           ノックする音に続いて唐突に開いた扉にぎょっとして振り向くと、案の定、水嶋だ。
           切れ長の目元がいつになく赤らみ、普段なら口を閉ざしていることの多い男が今夜にかぎっては終始笑顔だ。ずかずかと室内に入ってくるなり隣にどかりと腰を下ろし、顔をのぞき込んでくる。
          「よし、じゃあ俺が酌をしてやるからグラスを寄こせ」
          「うわー……なんつう酔っぱらいだよ……」
           見慣れないものを見て、吹きだしていいのか困り果てるべきか。澤村の隣に座った水嶋は勢いよくグラスにビールをそそぎ、盛大に泡をぼたぼたこぼしたまま笑顔で、「ほら」と寄こしてきた。そういう男に、本気で怒れるはずがない。慌てておしぼりで濡れた手やスラックスを拭いてやり、わざとらしくため息をついてみせたのだが、水嶋はにこにこしているばかりだ。
          「しょうがねえな、もう。あんたのグラスもよこしな」
          「うん」
           こくりと頷く男からグラスをひったくってビールをついでやると、水嶋は一気に飲み干す。
           天井のスピーカーからははやりの曲が流れ、フロアのあちこちで笑い声が響いていた。
           ふたりの勤めるゲームメーカー、ナイトシステムが六本木の大規模なクラブを借り切った今夜、恒例の親睦会が開かれていた。毎年二月のバレンタインデーに開催されるパーティはナイトシステムの社員のみならず、つき合いのあるソフトメーカーや出版社、フリーのクリエイターが一挙に集まるため、大層華やかなものになる。つい少し前までは、海外旅行や大型液晶テレビが当たるビンゴ大会が開かれ、今日のために呼ばれたバニーガールたちが笑顔で当たり番号を読み上げるたびに、フロア中がにぎやかに揺れたものだ。
           昨年のナイトシステムは、水嶋が制作した『ぼくらのおやすみ』というソフトでミリオンヒットを飛ばしたおかげで、文句なしの業績だ。パーティも例年より大がかりなものになり、この春にも追加ボーナスが出る勢いだ。誰も彼もがはしゃいだ顔をしているのは当然というところだろう。
           水嶋もそのひとりなのかもしれないが、彼の場合は自身によるヒット作に浮かれているというよりも、今夜ここに集った客に次々に呑まされたせいかもしれない。
          「あー……呑まされた……」
           大きく伸びをする水嶋が身体をもたせかけてきたので、「頭、乗せなよ」と膝を貸してやると素直に寝そべり、気持ちよさそうにため息をつく。ストイックな印象の相貌に映えるシングルスーツに皺が寄るのにも構わず、ソファに乗り切らない片側の靴紐がほどけかかっていた。
           日頃の毅然とした態度はどこへいったのか。大勢のひとを逃れて、フロア三階にあるVIPルームにやっと逃げ込んできた水嶋に苦笑し、ネクタイの綺麗な結び目をゆるめてやっていると、「煙草、吸いたい」と聞こえてきた。
          「なんだよ、今夜はずいぶん甘えっ子じゃねえか」
          「悪いか」
           からかうように笑うと、水嶋も可笑しそうに口元をゆるめる。
          「しょうがないだろ。夕方から延々呑まされっぱなしなんだ。何回も乾杯の音頭を取らされるし、ステージで挨拶させられるし……ああいうの、恥ずかしいからいやなんだよ。……あ、サンキュ」
           くわえ煙草に火を点けてから水嶋のくちびるに挟んでやると、旨そうに深々と吸い込んでいる。
          「挨拶なんて慣れてるんじゃねえの? ゲームショウでもトークショーにはよく出てるじゃん。雑誌インタビューだって似たようなもんだし」
          「そうだけど、あれはなんていうか、あくまでも仕事の一環だろう。今夜みたいに見知った顔を前にした挨拶っていうのは妙に気恥ずかしい」
          「わかる気がするけどね。仲間を前にして改めて挨拶するってのも、ちょっと照れるよな」
          「なのに、おまえときたらさっさとVIPルームに逃げ込みやがって」
           じろりと睨まれ、「いやいやいや」と澤村も大げさに手を振った。
          「俺だってもう散々呑まされてんだよ。あのまま下のフロアに居続けたらそのうち絶対呑みすぎて倒れると思ってさ。あとは瀬木に任せてきた」
          「ずるい奴」
           くすくすと笑う水嶋と自分がいるのは、吹き抜けの円形フロアを見下ろすことができるVIPルームのひとつだ。はめ殺しのガラス窓から下をのぞけば、輝くライトを弾いてはしゃぐひとびとが見える。
           トップクリエイターとして名高い水嶋が次々に酒をつがれる側だとしたら、ナイトシステムのチーフ広報である澤村はやってきた客にどんどん挨拶してどんどん酒をつぐ側だ。広報という仕事柄、顔見知りの数は桁違いに多い。しょっちゅう会う出版社の人間やフリークリエイターなら名前も顔も完全に一致しているが、その連れの友人の知人といったところまで参加している状態では、愛想を振りまくのにも限界がある。それでもパーティ開始から三時間近くは広報としての役目を果たすべく奮闘し、知り合いに酒を呑まされ続けていい加減つらくなってきたところで、「おまえに任せたからな、次代のチーフを狙うんだろ」と瀬木の肩を思いきり叩いてこの部屋に駆け込んだというわけだ。
           部屋の灯りを落としたVIPルームは少人数用で、座り心地のいいゆったりしたソファの前には少し前にボーイに持ってきてもらったミネラルウォーターの入ったピッチャーとグラス、それにビールが並んでいた。
          「酒はもういい……」
           ぐったりした感じで呟く水嶋に、思わず笑い出してしまった。手元にあるリモコンで天井から流れ出す音楽のボリュームを絞ると、遠いところから喧噪が聞こえてくるだけになり、間接照明のやわらかい光で満たされる室内は静けさを取り戻す。
          「疲れただろう。パーティはまだ続きそうだから少し寝ておけば」
          「んー……」
           スーツ姿の水嶋は眠そうに瞼を擦り、澤村の膝に頭を乗せたままごろりと寝返りを打つ。フロアは違えど、仕事関係の人間が大勢いる場所でこんなふうに甘えてくるなんて、初めてじゃないだろうか。澤村の膝枕でうつらうつらしているところを見たら、あの瀬木でさえ腰を抜かすはずだ。
           ――よほど呑まされたんだろう。『ぼくおや』ヒットを祝う酒じゃ、このひとも断れないだろうし。
          『ぼくおや』は発売後、一年経っても未だ売れ続けており、ゲーム業界でも驚異的なロングセラーを放っていた。今日のこのパーティも、水嶋率いる『ぼくおや』チームをねぎらうためという側面がある。
           そういう場所で、水嶋も仏頂面を決め込むわけにはいかないのだろう。まめな対応と愛想の良さがウリの広報ならば、誰かに話しかけられてとっさに笑顔を取りつくろうこともできるが、水嶋にそういう器用さはない。
           広報はあくまでも、相手とのあいだに「仕事の話題」というものが挟まっているが、水嶋に近づくひとびとは皆、彼自身に興味を持っている。
           褒めそやされ、敬われ、注目を浴び続けることがどれほどのプレッシャーを呼ぶか、正直なところ恋人としても計りかねるというのが本音だ。笑顔で近づいてきても、内心は水嶋に対してねじくれた感情を抱いている者もいるだろう。
           ――このひとに近づくひとみんなが味方じゃないしな。
           実際、なかには「水嶋はもう終わった」と言い張る者が業界内外にいるのだ。
           ナイトシステムに来る以前、べつのメーカー在籍中に手がけたゴシックホラー・アクションアドベンチャーで、水嶋は一躍トップに躍り出た。そのときの印象が強いのだろう。『ぼくおや』のようなのんびりした世界観が受け入れられず、知ったような顔で「水嶋も日和見になっちゃって。子ども向けのものをつくり始めたらもうおしまいだよな」と冷笑する奴がいることを、澤村も知っている。
           だけど、あえて抗弁することもない。したり顔でああだこうだと言う奴がいる反面、『ぼくおや』の世界に存分に浸ってくれるユーザーもいるのだ。
           ――いまは大人も子どももゲームで遊ぶ時代だけど、このひとはそのへんの区別を意図的に大きくつけようとしているわけじゃない。誰でも、気に入ったらすぐに手に取れるような敷居の低さを目指しているんだ。楽しい世界を楽しく感じられる、そのことだけを頭に置いているんだ。
           自分の生み出した世界をより多くのひとに触れてもらえるよう、こころを砕く男をそばで見ていて、後押ししてやりたいと思う気持ちはいつの間にか自然とこの胸に根付いていた。
           水嶋とて、つまらないことを言って滅入らせようとするタイプの人間がいることを知らないわけではないだろう。昔、『ぼくおや』にバグを仕込もうとしたプログラマーの木内がいい例だ。かつての同級生に裏切られる気分というのは、どんなものなのか。
           澤村自身、未だなにかの折りに思い出すことがあるが、彼のほうはなにも言わない。
           あのときのことを忘れたわけではないだろうが、いまやるべきことに意識を集中している。そんなふうに感じられるのだ。
          「案外、あんたってしっかりしてるところはしっかりしてるよな」
           笑いながらやさしく髪を撫でると、水嶋は薄目を開けて、「なにが」と呟く。
          「俺がいなくても大丈夫なんじゃねえのって思ってたとこ」
          「当たり前だろ。澤村なんかいなくたって俺はちゃんとやっていける。ばかにするな。こう見えても俺は今年三十三で……」
           言っているそばから、はぁ、と熱っぽい時を漏らしながら腰に顔を押しつけてくる男の言うことなんか説得力ゼロだ。「はいはいわかったわかった」と笑い出すと水嶋はむっとした顔で起き上がり、「あのな」と斜な視線を向けてくる。
          「そうやっていつもからかうけど、俺がどれだけもてるか知らないだろう」
          「知らない。ぜーんぜん知りません」
           恐ろしいほどの酔っぱらいに、笑いを噛み殺すのがどれだけ難しいか。今夜の水嶋はめちゃくちゃだ。話があちこちに飛んでいることすら、自分で気づいていないんじゃないだろうか。
           ――からかったことと、もてるもてないってのがどうしてつながってんだか。
          「今日はバレンタインだっただろう。俺なんか死ぬほどチョコレートをもらった」
          「誰から」
          「パーティに来た女性全員から」
          「へーえ、スゲエな。水嶋さんってもてるんだぁ。ていうか、そんなこと言うなら俺だってめちゃくちゃもてるんだぜ。持って帰れないぐらいのチョコレート、クロークに預けてある」
          「どれぐらい」
          「んー、百個まではいかないかな」
           ばかばかしいやり取りに水嶋はふっと鼻で笑い、「俺なんかそれ以上だ」と胸をそらす。
           いまこの一瞬を携帯カメラで撮ってやれたら、どんなに楽しいだろう。あとで何度も繰り返しそれを本人に見せて、逆上するまでいたぶってやりたい。
           普段の水嶋からはまったくかけ離れた一面が可笑しくて可笑しくて、涙が滲みそうだ。
          「それ以上って、どれぐらい?」
          「段ボールで送られてきた」
          「マジかよ」
          「マジで」
           思わず乗ってしまった澤村に、水嶋は素直に頷く。そういうあたりが、どうにも可愛いと思わされるゆえんだ。膝枕してやっていたときに頭をぐりぐりと擦りつけていたせいか、髪の一部が撥ねているのを見ると撫でつけてやりたくなってしまう。
           どこからどう見ても大人の男が自分の前でだけだらしなくなったり、甘く崩れたりするのだ。そんなことのひとつひとつが最近、前にも増して嬉しく感じられるのだから自分でも困る。
           ――そういう顔を見られるのが恋人の特権だからな。
          「段ボールで送ってきた奴ってどんなのだ」
           訊ねてみると、水嶋の笑顔が本物になった。
          「『ぼくおや』のユーザーだよ。正確に言えば俺宛じゃなくて、『ぼくおや』のキャラクターたちに」
          「ああ、なるほどな」
           互いに吹きだした。あの世界に惚れ込んでくれている子どもたちが送ってきてくれたチョコレートなら、間違いなく純粋な愛情がこもっているはずだ。
          「あとで澤村にも分けてやるよ。食べきれないほどもらったんだ」
          「瀬木や北野たちにも振る舞ってやったら。俺はあんただけでいい」
           ぐっと肩を引き寄せたとたん、水嶋が大きく目を瞠る。澤村の切り込むような目つきに深い艶を見て取ったらしく、いま頃になって顔を引き締めようとしているが、もう遅い。あれだけ煽られて、黙っていられるかという心境だ。
          「待てよ、おまえ……こんなところで……」
          「あ、なに、いまさら酔いが覚めたとかふざけたこと言うんじゃねえだろうな。さっきあれだけ可愛く誘ってきたくせに」
          「誘ってない!」
          「誘っただろ」
           もがく男を押さえ込むのは、思っていた以上にたやすい。酒が浸透した身体で抗うのはつらいらしく、くちびるを重ねた瞬間、水嶋の目がじわっと潤むのがわかった。
          「ばか、まずいって……パーティの途中、だろ……」
          「だからなんなんだよ。俺に触ってきたのはあんたのほうだろ。俺はね、弘貴に触られておとなしくしているような男じゃねえんだよ。……とっくにわかってんだろうが、それぐらい」
          「ん、ん……っ」
           ソファに崩れ込む男に覆い被さり、両手で頭を鷲掴みにしてくちびるを甘く吸ってやった。蕩けてしまいそうに熱い吐息を飲み込み、口蓋をしつこく舐めしゃぶってやると、水嶋の四肢から力が抜けていく。
           ホテルや自宅以外で触れ合うことを頑なに拒む男でも、今夜ばかりは酒のせいで自制がきかないらしい。澤村が試すように舌をきつく吸い上げ、唾液をとろりと伝わせると、そのあとを追うように首に両腕を絡み付けてくる。
          「……朗……」
           せつなく掠れていく声を聞くだけで、こっちがおかしくなりそうだ。薄暗い照明の中、水嶋のシャツを剥ごうとすると思いのほか抵抗された。
          「いやだって、ここじゃ……!」
          「じゃ、どうすんの。いますぐ抜け出してホテルでも行く? でも三十分後にはあんた、もう一度挨拶しなきゃなんないだろ。だからって、このまま放っておいていいとは思えねえけど」
          「っ……」
           互いのスラックスの前を擦れ合わせるように抱き締めると、水嶋がひくんと喉をのけぞらせる。男にしてはきめの整った肌に歯を突き立ててやれば、腕の中の身体が一層火照るようだ。
           きつく閉じた瞼の縁が赤らんでいる。それを見ていたら、もっと強く揺さぶって泣かせてしまいたくなる衝動に駆られるが、ここでむりをしてもしょうがない。
           同じ男で、いまはもう同居もしている間柄だ。なのに、いつまで経っても水嶋の中の羞恥心は薄れず、それが澤村を夢中にさせるのだ。
           どんなに深く交わり合ったとしても、他人だからこそ崩せないものがある。水嶋の場合、それが羞恥心だったり、プライドだったりするのだろう。
           ――それでいいんだ。ずっと変わらないものを持ち続けるあんたは、俺を強く惹きつけるんだ。
           汗ばむ額をやさしく撫でて、澤村は「それじゃ」と彼の前にしゃがみ、大きく開かせた両足のあいだに身体を割り込ませた。
          「口でしてやる。残りは、パーティが終わったらな」
          「え、――……朗、待てよ、……ッあ、……あ!」
           阻まれる前にスラックスのジッパーを引き下ろし、とっくに昂ぶっていた水嶋のそこを下着の縁からのぞかせた。自分のものより少し細めで、先端のくぼみに透明なしずくを滲ませた男の反り返るものを見るだけで、頭の底が熱くなってくる。もう数えきれないぐらい愛撫してやったのに、感じやすい水嶋が必死に快感を堪えようとしている声を聞いただけで興奮してしまう。
          「感じさせてやるよ」
          「あ――……っ」
           細く尖らせた舌先でちろちろと割れ目をくすぐると、我慢できない感じでとろとろと愛液があふれ出す。淫猥な舌遣いに、水嶋は驚愕のあまり目を閉じることも忘れているらしい。頬をかっと赤らめて澤村の頭を押しのけようとして失敗し、掠れた声をあげてのけぞる。
          「っ……よせ……! 誰か、来たら……」
          「余裕あるじゃねえか」
           不敵に笑い、握り込んだそこをねっとりと舐った。とくにくびれのところはしつこく舌を這わせ、水嶋がすすり泣いてもやめなかった。うしろのくぼみにも指を這わせてやさしく擦ると、自然と腰が浮き上がって水嶋みずから口淫を求めているような格好になるのが、またいい。
          「ん、あ……」
           硬く勃起したものは欲情に先端を色濃くし、水嶋の端正に整った相貌とは不釣り合いなほどに淫猥だ。そういうところにも惹かれると言ったら、惚れすぎだと笑われるだろうか。
           シャツが少し乱れていても、ネクタイは締めたまま。だけど、スラックスのジッパーだけ下ろして、剥き出しにさせられたそこをいいように弄られて喘ぐなんて、いつもの水嶋だったら絶対に許していなかったはずだ。とすれば、たまには泥酔してくれるのもいいかもしれない。
           ほんの少し前までは、日めくりカレンダーのように女を取っ替え引っ替えしていたのに、いまじゃたったひとりの男に身もこころも奪われている。
           切れ味のいい仕事ぶりを見せてくれる反面、こんな場では超然と構えていることもできず、自分と同じように昂ぶり、感じることを言葉ではなく、身体そのもので教えてくれる男から一瞬たりとも目が離せない。
          「……い、きそう……朗……もう……」
          「もう少し感じなよ。パーティが終わるのが待ちきれなくなるぐらいにさ」
           言うなり、ぬるっと扱いてやると水嶋が身体を強く震わせた。
          「ん――ン……ッぁあ……っ!」
           口に含んだまま扱いてやると、熱いしずくがびゅくっと喉の奥に引っかかる。硬く脈打つものを澤村は丁寧に舐め回し、しつこくしずくを誘い出すように何度も先端の割れ目を舌先でつついた。
          「――朗、もう、……いい……」
           熱っぽく気怠い声で水嶋が呟くので、下肢を拭いて身なりを整えてやったあと、「満足した?」と顔をのぞき込んだ。
          「……おまえは……」
           乱れた髪を乱暴にかきあげる水嶋の目元は、一方的にいかされたことの悔しさのせいか、場所を選ばずに感じさせられた恥ずかしさのせいか、ひどく潤んでいる。
           その顔を見て、仏頂面でいられるか。
           なにも知らない男ならいまの行為だけで十分満足するだろうが、水嶋も、自分もそうじゃない。もう長いこと、互いの身体にひそむ深い熱の虜になっているのだ。ただ触れ合うだけじゃもの足りない身体になっていることがわかっていれば、こころの底から微笑んで、じわじわと熱く、赤くなっていく耳たぶを噛んでやればいい。
          「あんたがこれぐらいじゃ満足しないってこと、俺にはばれてるんだよ」
          「……それなら」
           欲情冷めやらぬ眼差しで射すくめてくる水嶋が、憤然と立ち上がる。それからおもむろにジャケットの内側から財布を取り出し、クレジットカードを投げつけてきた。
          「俺が挨拶してるあいだ、これで近くのホテルを押さえておけ。スイート以外許さないからな」
          「待てよ、バレンタインの今夜にスイートルームなんかどこも……」
           空いてねえだろ、という反論は、扉に行きかけていた水嶋が足早に戻ってきたことでかき消えた。ソファのうしろに立った男を振り返るや否やいきなり顎を掴まれ、ぐいっとねじられる。
          「弘貴」
          「……もの足りない。もっと朗としたい」
           甘く掠れた声に目を瞠るのが先か、くちびるをふさがれたのが先か。ただくちびるの表面が重なるだけのキスなのに、しっとりと濡れた感触がひどく疼くものをもたらしてくれる。
           水嶋らしからぬ挑発に目を見開いたままなのが、可笑しかったらしい。
           ネクタイを締め直した男が、ふと肩を揺らして笑い出す。しばし呆然としていた澤村も、やがて楽しげな声につられて笑ってしまった。
           これでこそ水嶋だ。やられっぱなしで黙っていないところが、同性ならではの醍醐味だ。つき合いだした当初は自分との恋に臆する面もあったが、いまでは日に日に力を増し、ときおり、こっちがびっくりするようなことをやってくれる。
           たとえば、いまのキスのように。
           軽く触れただけでも甘くみずみずしい熱を残すキスは、水嶋にしかできないものだ。
          「やるじゃねえか、あんたも。いま言ったこと、覚えとけよ。広報の意地に懸けて、東京じゅうのホテルをかっさらってでもスイートを探しておいてやる」
          「だったら、俺も早めに挨拶を終えてくる」
           現金なことを言いながら部屋を出ていこうとする男を捕まえて、澤村はそっと囁いた。
          「どれだけたくさんのひとからチョコレートを贈られても、あんたをいちばん好きなのは俺だよ」
          「……うん」
           いい大人が交わすには甘ったるい言葉だが、水嶋ははにかむように微笑んでいる。その顔にもう一度くちづけると、チョコレートよりも甘い疼きが身体じゅうに広がっていくようだ。
           ひとりきりでいたらけっして味わえなかったもどかしさを、楽しさを、せつなさを意識の隅々まで染み渡らせる今宵、パーティのざわめきが遠ざかったら、今度はふたりで終わらない熱を探しに行くのだ。


          焔は青く(オリジナル2006)

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             数年が経ち、あの恋は間違いだった、あのとき別れてよかったのだと思い出すたびに胸のどこかが痛んだかと言えば、まるきり嘘になる。
             だいたい、とうに終わった関係を律儀に覚えておくほど川畑健吾は記憶力がよくない。善人でもない。
            「そんなに変わったかな」
             隣で首を傾げて微笑む昔の男をためつすがめつ眺め、川畑は「そうだな」と素直に相づちを打った。
            「どのへんが? 自分じゃどこが変わったんだかよくわからないよ」
            「顔」
             無遠慮に言い切ると、彼がちょっと目を丸くする。
            「整形なんかしてないって」
            「そうじゃない。なんていうか……ちょっと痩せたな。頬のあたりが」
            「ああ、ここ数年仕事が忙しいからな」
             気安い感じで頷くその仕草も、鋭角的なものを思わせる頬のラインも、昔の彼にはなかったものだ。ただ、表面的なものだけで判断したならば、工藤周一はさほど変わっていなかった。
             年が明けたらますます寒さが厳しくなった一月の半ば、灯りを絞った行きつけの店で川畑が四年ぶりに見たのは、相変わらず神経質そうなものを窺わせる切れ長の目に高い鼻梁。やや突き出た頬骨のせいで、見た者にどこか貴族的な印象を与える。
             もしくは、ある種の近寄りがたさも。それらとは対照的なふっくらした上くちびるを見ると、端々まで揺るぎなく制御されている精緻な機械に異質な官能が混ざっている気分に駆られる。四年前も、川畑は彼の奇妙なバランスを保った顔に強く惹かれていた。
             しかし、以前よりもさらに感情が読みとりにくくなった気がする。男にしては長い睫毛と灯りのせいで、工藤の目はよけいに暗く見えた。
            「それにしても久しぶりだな。三年……四年ぶりか?」
            「四年だよ」
             曖昧な感じで川畑が言ったのに対して、工藤が短くきっぱりと答え、グラスを手にする。
             間隔を空けて設置された天井のライトはちょうど川畑と工藤のそれぞれ端についていて、ふたりのあいだをぼんやりと照らしていた。
             そうだ。あれからもう四年も経ったのだ。忙しない毎日を送っていると、時間の流れがどんなに速いものか、改めて知る機会はあまりない。たとえばこんなふうに、旧知の仲にでも会わないかぎり。
             ――旧知の仲、か。
             ちょっと笑って、川畑は半分ほど残っているグラスを彼に向かって掲げた。
            「乾杯しよう。偶然の再会だよな」
             そう言って、彼の返事を待たずにグラスを触れ合わせると、工藤も口元にそれとない笑みをにじませる。
             こころから笑っているのか、それとも川畑の無神経さを嘲笑っているのか、判別がつかないが、くちびるの端をわずかに持ち上げるという少し崩れた色気を感じさせる笑い方は、四年前にはなかったものだ。
            「乾杯」
             透明で薄いグラスの縁がかちんと綺麗な音をたてて合わさった。

            ***

             同じ年の工藤とは、二十五歳のときに知り合った。場所は四年前と変わらない、行きつけのこの店だ。新宿二丁目の片隅にあるバー・キブラには、同性を愛するという奇妙な性癖を川畑が自認した二十代前半の頃から通っていた。いつ来ても数人の男が客として訪れ、雑然としながらも居心地のいい雰囲気をつくり出している。
             キブラにはただ普通に酒を呑みにやってくる客もいるし、店の耀子ママと他愛ないお喋りを楽しむだけの者もいる。だけど、たいていはなんとなく寂しくて、満たされない欲求をぶつける相手を探しに来る者がほとんどだ。
             川畑はどっちつかずの客だった。学生時代にラグビーをやっていた身体はいまでも硬く引き締まっており、精悍な顔立ちに甘さを併せ持つ顔に生まれついたおかげで、寝る相手に困った覚えがない。大手の証券会社に勤めているというあたりも、周囲からの信頼度を高めている一因だろう。
             ただし、性格は最悪だ。俺ほど冷淡な人間もめったにいないと川畑自身よく思うことがある。性格の悪さというのはもっぱら、個人的なひと付き合いの面だけに出た。仕事の場ではそんなことはない。顧客の資産管理を務めるファイナンシャル・プランナーという職にある以上、笑顔と誠実な対応というのはイコールで結びつけられており、無表情、無口、無愛想であったらサラリーマン稼業が務まるはずがない。
             しかし、個人的につき合った男は皆、川畑がどんなにひとでなしであるかよく知っていた。
             時間を守らない、約束を忘れる、そのうえ平気な顔をしてほかの男と寝る。
             いくらその場かぎりのつき合いになれている男が多くても、ここまで徹底しているのはめずらしいと、いつぞや店の常連客に笑われたことがあったっけ。浅田諒一と名乗るその男はどうかすると工藤に似た芯の硬さを感じさせたが、関係を持てなかったのは彼も川畑同様、タチを好む男だったからだ。
             そういえば、浅田も工藤と同じ、出版社に勤める編集者だった。徹夜仕事の連続で、土日の休日も満足に取れない彼らみたいな人種は、長年不規則な生活を送っているうちに、どこかおかしくなるのだろうか。太陽をまったく浴びない生活は、神経にも悪影響を及ぼすと聞いたことがある。
            「いまでも真っ当じゃない生活してるのか?」
             ジャケットの胸ポケットから取り出した煙草に火を点けながら言うと、低い笑い声が聞こえてくる。
            「変わらないな、川畑は。相変わらず口が悪い。それでよく証券会社に勤めていられるな」
            「外面がいいのが自慢なんだよ。で、どうなんだ。ちょっとは出世したのかよ。まさか二十九にもなってうだつの上がらない編集者のままとか言わねえよな」
            「このあいだデスクに昇格したよ」
             ずけずけ言う川畑に怒るでもなく、工藤のそれは淡々としている。
            「デスクってなんだよ。どういう立場なんだ?」
            「いちばん偉いのが編集長、次が副編集長、デスクはその次だよ」
             子どもに言い聞かせるような丁寧な口調に、川畑はふんと鼻を鳴らす。
            「なんだ、中間管理職ってとこか」
            「うちの雑誌部署は大所帯なんでね。二十九歳でデスクっていうのはこれでもわりと早い出世なんだよ」
            「へえ」
            「川畑は? いまはどうなんだ。仕事はうまくいってるのか?」
            「当たり前だろう」
             ふぅっと煙を細く吐き、川畑は笑った。
            「今年の年収は軽く一千万を超えた」
            「それは凄いな。うまくいってるようで安心したよ」
             穏やかな笑顔で工藤は頷き、銀色の小皿に盛られたナッツをぱりぱりとかじっている。
            「おまえはやり手だったもんな。これからますます忙しくなるんだろうな。もう結婚したのか?」
             なんでもない調子で言われただけに、危うく最後の言葉を聞き落としそうになった。
            「まさか。いまは忙しくてそれどころじゃねえよ。最近、上司から見合いだのなんだの持ち込まれるのがうざくてさ。こっちはそんなつもりねえのに。女も子どもも面倒なだけだろう」
            「でも、いつかは結婚するんだろう」
            「まあ、そのうちはな。うちの仕事はいろいろと体面上に気を遣うんだよ。そのうち、偽装でもなんでも結婚しなきゃいけねえんだろうなあ……。その点、工藤はいいよな。うるさいこと言われるような仕事じゃないんだろ?」
            「個人主義だからね。ちゃんと仕事してりゃ文句を言われることはない」
             グラスの縁をなぞったあと、濡れた指先を軽く口に含む男の横顔は年相応の落ち着きを備えている。
             デスクという、川畑にとってはわけのわからない立場にありながらも、まあそこそこの仕事はこなしているのだろう。前につき合っていたときだったら、さっきのような軽口はただじゃすまされなかった。
             同じ社会人で宮仕えにあっても、証券会社と出版社ではまったく雰囲気が異なる。
             神経質な工藤のほうがよほど、銀行と同じく一円の金にもうるさい証券会社に似合っていると思うのだが、実際には、うさんくさいのと自由なのと紙一重の業界に身を置いている。人間の本質と、その当人が抱く欲望はかならずしも一致するわけではないといういい見本だろう。
             それを言うなら自分だってそうだが、幸いにも川畑は自分のなかにある矛盾というものに頭を痛める悪癖がなかったので、自己嫌悪に陥ることは数少なかった。
            「あれから何人と寝た?」
             振り向いた工藤がぽつりと呟き、「何人?」と川畑も聞き返す。
            「覚えてないな。そんなもんいちいちメモしてるわけじゃないし」
            「おまえはそういう奴だったよなぁ……。よくそれで誰にも刺されないのが不思議だよ」
            「人徳、人徳」
             自分で言っていてもさすがに空々しいなと可笑しくなった。刺されることまではなくても、工藤をはじめ、別れる際に揉めたことは数かぎりない。だけど、工藤はそのなかでもとびきり、もっとも記憶に強く残っている男だ。
            「死んでやるって言われて本気でやられたのはおまえぐらいだよ」
            「そうだろうね。川畑のために死ぬのなんかもったいないっていまじゃそう思うのにな。あのときはどうかしてたんだ」
             思い出し笑いをする工藤は、四年前に睡眠薬を大量に飲み、自殺しかけた過去がある。
             妙に神経質になったり、かと思えばひどく饒舌になったりと、あの頃の工藤はとかく浮き沈みを繰り返していたため、心療内科に通っていた。薬はそこでもらったものをため込んでいたらしい。
             睡眠薬を飲んだからと言って、眠るようにたやすく死ねる幻想は物語のなかだけだ。発見したのは川畑だった。こっちから別れを切り出したその夜、一度は家に帰ったものの嫌な予感がして再度彼の部屋を訪ねたところ、丸く白い錠剤を床にばらまいた工藤を見つけた。幸いにも薬を摂取してからそう時間が経っていなかっただけに症状は軽くすんだが、本人にとって胃洗浄は思いのほか苦しかったらしい。
             自殺未遂の騒ぎを起こしたあと、川畑は一か月近く彼に付き添った。このまま見捨てるのはさすがに鬼畜生だと想ったからだ。しかし、工藤からはひと言の礼も聞かれなかった。
            『死に損なったことさえ恥だ』
             そう言っていた。
            『おまえなんかに付き添ってもらう覚えはない』とまで言われ、川畑も『そうだよな』と頷いたのだが、あのときだけは唯一、自分のなかにある良心が揺り動かされた瞬間だったのだろう。文句を言われながらも毎日見舞いに行き、まったく顔を見せない工藤の家族の代わりに身の回りを世話してやった。工藤の両親は健在のようだったが、自殺未遂で運び込まれたという不甲斐ない場面を見せたくなかったのだろう。『絶対に連絡するな』と言い渡されたので、『わかった』とだけ言った。工藤自身とつき合っていることは了承していたけれど、彼の家族にまで会うつもりは一切なかった。
             言い換えれば、工藤にまつわる過去とか未来とかなんてものに触れる気はしなかった。いつだって川畑の中には、「いま」と「いまつき合っている男」しかなかった。そして、そのときすでに工藤は「過去つき合っていた男」という存在になっていたのだ。
             川畑は自分がろくでもない男だとよくよくわかっていた。そんな自分に自信を持つわけではない。むしろ、この飽きっぽい性格はどうしようもない、手がつけられない、けっして死ぬまで治らない病気みたいなものだと諦めていた。だから、別れるときも素直にそう告げた。
            『工藤が嫌いになったわけじゃない。俺はだめなんだ。誰かひとりとずっとつき合うって考えただけで息が詰まるんだ』
             彼の部屋の玄関先、長い棒を飲んだようにしゃちほこばっていた工藤は、川畑が別れたい旨をつらつら話しているあいだ、ずっと真っ青な顔をしていた。
             彼とつき合った日数を数えてみると、半年にも満たなかったと思う。それでも、自分にしてはよく保ったほうだ。約半年のうち、四か月近くは工藤ひとりに絞っていた。キブラで知り合ったときから、彼の性格の脆さに気づいていたからだ。
             端正な顔立ちをしている工藤に声をかける男は多かった。自分を含め、誰とでも簡単に寝る奴が多いなかで、彼のまとう硬質な雰囲気に惹かれる者は後を絶たなかった。隣り合って座った同士、気さくに喋ったとしても、工藤はなかなか他人行儀な態度を崩さず、キブラの中でもちょっとした存在感を誇っていた。
            『誰かと親しげに喋ってるってとこ、アタシも見たことないのよねえ』
             いつだったか、耀子ママが気遣わしげな顔をして言っていたことがある。
            『うちの店に来てくれるようになってずいぶん経つんだけど……あれだけの顔してんだから、ほかにちゃんとした恋人がいるんじゃないかって話にもなったんだけどね。週に三回もうちに来るところを見ると、どうもそうじゃないらしいのよね』
            『男には興味があるけど、やったことないから怖いってだけじゃねえの』
             川畑がそう言うと、耀子ママはさも可笑しそうに笑っていた。
            『世の中の男みんながみんな、川畑ちゃんみたいに種馬じゃないのよ。やるだけやってハイおしまい、なんて、いつまでもそううまくいかないんだからね』
             さらりと言われた嫌みは、さらりと聞き流すにかぎる。ほんのちょっと体温を分け合い、触れ合って、気持ちよくなって、射精すればどんな関係だって片が付く。川畑はそう信じていたし、いまでもそう思っている。
             気まぐれに工藤とつき合っていたあいだ、彼の神経の細やかさに免じて四か月ほどは彼ひとりを抱いていたが、性格的な欠陥は簡単に直るものではない。五か月目に我慢できず、キブラで知り合った男を抱いたのをきっかけに、自制心はぼろぼろと崩れていった。
             男同士のつき合いでも、ほかの相手にこころを移すことを浮気と言うのだろうか。もしそう言われたとしたら、川畑は失笑していたと思う。
             こころを移した覚えはない。ただ寝ただけだ。誰かを傷つけるつもりはないし、気持ちよくなりたかっただけだ。
             そんな調子でほかの男を抱き、確か四人目あたりで工藤にばれたのだった。その頃にはもう、工藤の思いつめた表情が日に日にこころに負荷をかけていたから、事がこれ以上こじれないうちに「俺たち、別れたほうがいいんじゃないか」と切り出した。
             もちろん、工藤が素直に了承するはずはないと思っていたけれど、まさか自殺未遂を起こすとは思わなかった。
             あのとき彼を助けたことが唯一の良心の働きだというなら、あれだけ動揺したのも生まれて初めてだった。
             もっと簡潔に言えば、工藤が怖いと思ったのだった。たかだか自分と別れるだけだというのに、死にたくなるなんて。そこまで愛されてしあわせだと言える奴は、よほどおめでたい頭をしているとしか言えない。
             他人が生きるも死ぬも、自分の行動ひとつにかかっているとわかったら、誰でも逃げ出したくなるものではないだろうか。
             身体がもとに戻るまでのあいだ、彼のそばにいたときも、ずっとそんなことを考えていた。ここでもし、ずっとおまえについててやると言ってやれたらどんなにいいだろう。悲しませて悪かった、そこまで追いつめてごめんなと言えれば、万事めでたしめでたし。キブラでも話題もちきりになり、窮地を乗り越えたふたりとして語り継がれたかもしれない。
             だけど、やっぱり現実はそんな甘いものではない。しあわせな終わりを迎えたふたりはつかの間どこか誰かの寂しい胸を慰める物語になるけれど、すぐに忘れられる。思わず目をそむけたくなるような局面を経ている者たちほど、周囲は好奇の目をかがやかせ、最後はどうなるかと興味津々に食らいつく。
            『あいつらどうなったんだよ』
            『別れるとか別れないとか、まだごちゃごちゃやってんじゃねえの?』
             これが自分の身に起こっているのじゃなかったら、川畑も話題に乗っていたことだろう。笑い混じりにふたりの行く末を勝手に予想し、案じるふりをして良識派の仮面をかぶってみたり、はたまた毒舌とともに嘲笑してみたり。
             酒の席には欠かせない、他愛ない噂話のひとつとして口をすべらせたとたん、誰も彼もが、自分がいちばんこの件についてよく知っているのだという顔で勝手なことを言いふらす。
             川畑もよくそんな話で楽しんだ。そんなとき、まさか自分がいつか槍玉にあげられるかもしれないなんて想像するはずがない。これは罪のない噂話だ。実際には、自分にはなにひとつ関係のない話だ。知った顔で一席ぶつのは誰だって日常的にやることで、咎められることではない。真剣な顔をしていても本音はそうじゃなく、単なる場つなぎとしての話題。口裏を合わせるだけで明日になったら忘れてしまう、そんな軽さで話し合う。
             だが、いざ話題の中心人物になってしまったら、そんなことはもう言えなくなる。
             他人の恋について好き放題言っていた頃、当人たちもこの噂を耳にしないことはないだろうと不思議に思っていたことがあった。
             勝手なことを言うな、それは事実と違うと、どうして言わないのだろう。でたらめが事実として吹聴されることに、なぜ怒らないのか。そんなふうに考えていたことがある。
             しかし、いまの川畑はあの頃よりも年を重ね、経験も積んでいる。というわけで、抜き差しならない事態に足を踏み込んだとき、口を閉ざすのが賢いのだとわかっていた。
             ほんとうの意味での窮地に立たされた者は、怯えることしかできないのだ。噂話に興じる者など放っておけばいい。いまおまえたちが嬉々として口にしていることはすべてでたらめだ、といちいち指摘してまわる暇はない。ほんとうに恐れなければいけないのは泡のように不確かな存在である彼らではなく、ある日いきなり突拍子もない形で人生に食い込んでくる工藤のような男だ。
            「工藤のほうはどうなんだ。いま誰かとつき合ってるのか?」
             彼が隣に座ってから五本目の煙草を深く吸い込んだ。いつものペースから考えると相当に早いという点では、自分もそれなりに緊張しているのだと認めなければならなかった。
             工藤が退院したあとも彼の部屋に通い、見舞いで持っていった花束を投げつけられて以後、一度も――この店でも顔を合わせなかった男が、今日来てみたら普通の顔をしてスツールに座っていたのだ。驚くのも無理はなかった。
             川畑のほうは以前と変わりなく、ずっとキブラに通っていた。工藤とのあいだのことは常連客にすでに知れ渡っていて、耀子ママでさえ渋面をつくっていた。
             よくある別れ話に逆上した挙げ句、自殺未遂を起こした工藤に皆、恐れをなしただろうけれど、やはりこの場合、責められるべきは川畑であって、しばらくは誰も話しかけてこなかった。
             そこでもまた、川畑は自分の破綻した性格に向き合うことになった。
             工藤のことは確かに予想外の出来事だったが、だからといってキブラに出入りしてはいけないと言われたのではない。あるとき耀子ママにはっきりとそう言ったら、なんとも言えない顔を向けられたっけ。
             ゆるく流れる煙に顔をしかめ、工藤が「……いたり、いなかったり」と呟く。
             つき合う男がいたり、いなかったり。
             そんなふうに言い表す彼の私生活は、どうなっているのだろう。川畑がよく知っていた頃の彼はいまよりもっと硬度なバリアを張り巡らせていたものだ。なにを話すにしても、寝るときでも、こっちのやることなすことをいちいち確かめるような目つきをしていた。
             いまはそのバリアが薄く透けた膜に取って変わったように見える。指先でつつけばぷつんと穴が空き、なんとも言えない艶やかな感情があふれ出しそうな錯覚にとらわれる。
             しかし、その艶は以前にも増して不健康なものだ。エロティックではあるものの、崩れている。
             そんなところにまたも惹かれたといったら、呆れられるだろうか。
            「なあ」
             深く考える前に、川畑は火を点けたばかりの煙草を灰皿に押しつけていた。彼の吐息が感じ取れるほどに顔を近づけ、囁いた。
            「俺とこのあと――」
            「そのつもりだった」
             やんわりと言葉を遮った工藤が微笑む。
            「今日、この店でおまえが隣に腰掛けたときからそのつもりだったよ」
             くどくのにもう少し手こずるかと思っていたから川畑は拍子抜けしてしまい、「……いいのか?」と呟いた。
            「おまえ……」
             四年前のこと。忘れたわけじゃないだろう。あれはもういいのか? もう終わったこととして片づけていいのか?
            「リストカットして傷が残ったわけじゃない。おまえはどうも俺のことを勘違いしているようだから言っておくけど、そんなに繊細にできてるわけじゃないよ。二十九にもなって古傷に泣いてる男なんているはずないだろう」
             肩をすくめて笑う工藤が目くばせしてきたので、「そうだな」と川畑もほっとして笑い返した。
             だが、胃の底に正体のわからないしこりがある。
             どうして今日、ここで会ったのだろう。

             内にこもりやすい性質をのぞけば、工藤は理想的な男だ。それは当時もいまも変わらない。
             今夜の彼の肌は四年ぶりとは思えないほどのなめらかさでなじみ、川畑の強引な要求にもほぼ完璧に応えた。
             均整の取れた身体もあまり変わっておらず、うしろから抱え込んだときに背中に走る深い溝もくっきりしていた。
             ただ、ちょっと変わったなと川畑をおもしろがらせたのは、みずから進んで奉仕する点だ。前は、嫌がる彼を何度もあやさなければ望みどおりのことをしてくれなかったのに、今夜は彼のほうからのしかかってきた。
             苦しげに川畑のそこを咥える昔の工藤も禁欲的でよかったけれど、別れていたあいだになにかを吹っ切ったらしい。熱っぽい息を混じらせて、物欲しげな顔で指を添えてくる男の髪をきつく掴み、川畑は猥雑な舌遣いをこころゆくまで愉しんだ。
             工藤の舌はくねり、ねっとりと這い回る。まるで男のそれをしゃぶるのが好きでたまらないというようなあられもない仕草に興奮させられた。
            「どこでそんなの覚えてきたんだよ」
             馬乗りになった工藤は、先端の割れ目からあふれる先走りを舐め取るのに夢中になっていて答えない。
             キブラを出たあと、これまたよく行くホテルに直行しようとしたが、工藤が「俺の部屋に来ないか」と言ってきたので、そうした。
             タクシーに乗ってわりとすぐの場所にある彼のマンションは別れたときと同じで、室内もたいして変わった様子はなかった。
             川畑が住んでいる部屋と似たような、2DK。そこに工藤はいまもひとりで住んでいるらしい。寝室のカーテンは深い緑で、深夜のいま、きちんと閉じられている。ベッドの片隅には朝脱いだままの形でパジャマが置かれていた。さっき、それを川畑が足の爪先で蹴り落とした。
             いやらしく音をたててしゃぶる工藤の目元が赤いのも、カーテンが緑だとわかるのも、ベッドの脇に置いたフロアライトがほんのり点いているからだ。この点も、前とは違う。以前は、室内が少しでも明るいと嫌だと言っていた。
             ――恥ずかしい。見られたくないから嫌だ。
             拒否されればされるほど、無理をきかせたくなるのだとあの頃の工藤はわかっていたのだろうか。だとしたら、ずいぶんなやり手だったと笑うしかないが、本心から言っていたことは川畑も知っている。
            『おまえの嫌がる顔にそそられるんだよ』
             一度はっきりそう言ってやったら、工藤はほんの一瞬、泣き出しそうな顔をしていた。彼がかならず泣くとわかっていて四つん這いにさせ、奥深くまで犯してやるのも好きだった。工藤はその体位が好きなくせに、いつもいつも抵抗していた。きつく締め付けるところを意地悪く、甘く抉り、どうにもならなくなる頃までゆっくり揺すってやると、最後にはきまって彼のほうが耐えきれずにねだってきた。
             本気で無理強いをしたという覚えはない。いわゆる強姦罪というのが男同士にも適用されるとしても、工藤とのあいだに起こったことはすべて合意の上だ。互いにわかっていて、焦らし焦らされる。それが楽しいからやっているだけだ。
            「川畑……」
             せっぱ詰まった声に瞼を開けると、工藤が口元を拭いながら身体の位置をずらしている。川畑のそこを掴み、自分から受け入れようとしている姿は初めて見るものだった。
             いまどきこんなものはめずらしくない、ありふれた光景だとしても、以前の工藤を覚えている身としてはやはり驚きを感じずにはいられなかった。
             四年前の彼は、とてもこんなことをできるような度胸も欲望も持ち合わせていなかったのだ。川畑のすることにかならず怯み、狭いベッドで逃げまどう素振りさえ見せていた。
            「自分でできるのかよ」
             ちょっとだけ腰を浮かし、猛々しくそそり立ったそれで工藤のそこをつつくと、「――あ」と息を呑む気配に続き、ぐらりと身体が揺れる。
            「……無理するなよ」
             腰を支えて位置を変えようとしたが、止められた。
             汗ばんだ胸を反らし、少しずつ、少しずつ受け入れていく工藤の顔が苦痛で歪んだのは一瞬だ。屹立したものを中ほどまで受け入れたところで動きを止め、かすかに息を漏らて視線をまっすぐ合わせてきたのをきっかけに、頬がさっと染まった。
             川畑が掴んでいる腰も淫らに揺れ始める。肌という肌に継ぎ目がないのは当たり前、だけどまたたく間にこんなにも熱くなるなんて、なんだか魔法にかけられたような気分だ。
            「っ……あ、ぁあ……っあ、っ……」
             のけぞる工藤の喘ぎ声を聞いているだけで、じっとしていられなくなった。
             この男は、自分と離れていたあいだに、どこでなにをしていたのだろう。しなやかな身体をばねのように反り返らせるところを、ほかの男にも見せてやったのだろうか。そうすれば男はもっと感じるのだと教わったのか。乱暴にすればとろけてしまうような場所で締め付けることを、ほかの男にもしてやったのだろうか。
             火照る肌をまさぐり、硬くしこる乳首を思いきりねじったときも、彼は掠れた声で応えた。勃起したそこを扱いてやったときも、わずかに開いたくちびるから熱っぽい吐息を漏らした。
             こんなにも熱くなるなんて。こんなにも感じるなんて。
             四年前の彼が不感症だったとはけっして言わないけれど、見事に騙されたという感触が拭えない。
             それでもいい。諦め悪く抵抗する彼にもそそられたけれど、一線を飛び越えたようないまの工藤の目つきはもっといい。
             川畑の胸を突っぱね、腰を揺らす男は新鮮に見える。ときどき思い出したように汗のにじむ額に触れる髪をかき上げる仕草も、川畑が突き上げてやるとくちびるをきつく噛むのも、次の瞬間にはもっと深く求めてくるところも、なにもかもが前とは違う。
             彼の目のなかに、色とりどりの光の欠片が浮かんでは消える。フロアライトが反射し、色素の薄い工藤の虹彩をよけいにあざやかなものに変えていた。
             虹は彼のなかでかがやき、ほとばしり、跳ね飛ぶ。狂的な光はきらきらしていて、とても綺麗だ。
             光の欠片が川畑の意識にも刷り込まれるようだった。

             工藤とまたつき合うことになったことを最初に知って驚いたのは、当然といえば当然か、バー・キブラの耀子ママだった。
            「ホントなの、その話」
             疑わしげに訊きながらも、ママは手にした薄い布でグラスを拭い続ける。
            「ホントもホント。再会してもう一か月になるかな」
            「焼けぼっくいに火がつくってのはよく聞くけど、アンタたちの場合はねえ……。工藤くんの前のことを思うと、素直に喜べないわよ」
            「どうして?」
             眉尻を下げて笑うと親しみやすさがにじみ出て、とても魅力的に映ることを川畑は自分でよくわかっていた。
            「そりゃまあ、前はいろいろあったけどさ。いまはいまだろ。あいつもとくにつき合ってる奴はいなそうだし、べつにいいんじゃねえの」
            「アンタは相変わらずね。その歪んだ性格、どうにかなんないの」
             店のママという立場にあるなら、たとえ客の事情を聞いても嫌悪感を示すことはタブーだろうに、いまの耀子ママはそれこそ掛け値なし、むっとした顔だった。
            「アンタとも長いつき合いだし、いまさらどうこう言うつもりじゃないけど。工藤くんがどんな子かは嫌ってほどわかってるんでしょう」
            「ああ、知ってるよ。俺が別れるって言ったら、死にそうになった」
            「だったらどうしてまた手を出すの!」
             耀子ママが磨いていたグラスをガンとカウンターに叩きつける。
             平日の夜八時、キブラに来ているのは偶然にも自分だけだった。これでほかの客がいたら、いいからかいの種になっていただろう。
            「四年も経てば人間変わるだろう。あいつも変わったんだよ」
            「アンタはちっとも変わってないじゃない」
            「俺は変わる必要性はないよ。工藤はちょっとばかり神経が細すぎたんだ。いまじゃ俺とのつき合いも楽しんでるみたいだしさ、文句ねえだろうが」
             呆れた、とため息を漏らすなり、耀子ママはふきんをぽいと放り出し、そばにいたボーイを呼びつけ、「アンタが相手しなさい。アタシはこの子の顔を見てるだけで頭きちゃうの」と言い捨てた。
             それでもなお、控え室に姿を消す寸前、耀子ママは険しい顔を向けてきた。
            「今度もし工藤くんになにかあったら、アンタ、この店出入り禁止だからね」
            「なにもないって。心配しすぎだよ」
            「……だったらいいけどさ……、一度ぐらい、あの子をしあわせにしてやんなさいよ」
             ごつい顔を曇らせたまま控え室に引っ込んだママの代わりに、ボーイのヒロシがあやふやな笑顔でカウンター内に立つ。彼も四年前の騒ぎを知っているひとりだ。
            「今日はおひとりなんですか」
            「いや、もう少ししたら周一が来ることになってるんだ」
             くわえた煙草に火を点けてもらい、川畑は「サンキュ」と言い足した。
             今日は校了明けだから、早めにあがれると言っていた。
             周一、と前のように呼ぶようになったのは、再会した晩からだ。彼がそう呼べと言ったのだ。
             川畑の肩を強く掴んで貪欲に求める最中、何度も耳元で言っていた。
            『俺の名前を呼べよ。覚えてるだろう』と。
             そう言われたから呼んでるに過ぎないが、こころのどこかにはあの日以来、ねじくれた快感が巣くっている。透明な糸は日に日に幾重にも川畑のこころに絡みつき、ある種倒錯した楽しさを味わわせてくれた。
             工藤、もとい周一は芯の強い男だが、その反面、脆すぎるところがあったために、全体のバランスが取れていなかった。だから、川畑と別れるときもあれだけの騒ぎを起こしたのだ。一見、冷静に見えても、ひどく動揺させられることがあるとそのことだけに囚われてしまう。よく言えば一途な性格なのだろうが、それも度を越せば鬱陶しい。
             久しぶりに会った彼のバランスは、ますますおかしなことになっていた。男同士ならば力も拮抗しているし、感じるところも分かり合える。とくにうしろめたい理由がないかぎり、どちらかが一方的に弱い立場に追いやられることがない。
             その点、以前の周一は、どんなことにおいても受け身に回るタイプだった。臆病で、胸の奥に多くの望みを抱えていてもたやすく口にすることができない。川畑のような男とつき合えば、間違いなく振り回される側だった。
             だが、いまの彼には臆病なところなど微塵も感じられない。代わりに、奇妙な自信が備わっているようだ。その根拠は四年離れていた川畑にはわからないもので、なにが前とどう違うのか明確に言い表すことはできなかったけれども、なめらかな視線や仕草が以前の彼とは違うことを物語っていた。
             川畑に抱かれながらも、実際のリードは周一が握っている。どんな手順で始めるかも、いついかせてもらえるかも、周一が全部決めていた。
             さまざまなやり方で川畑を感じさせる男は甘く喘ぎながら、「名前を呼べよ」と囁く。「もっとこんなふうに――」と淫猥な目つきで誘い込んでくる。「もっと」に続く行為は、男に慣れた川畑でも目を丸くすることが多かった。
             彼を抑制していたのは、たった一本のねじだったのだろうか。それがなにかの拍子に吹っ飛んでしまい、硬い鋼のうろこがばらばらと剥がれ落ちたから、あんなにもなめらかで凄絶な本性が剥き出しになったのだろうか。
             一昨日は映画館でやった。映画が始まって十分もしないうちに舌なめずりする周一が手を伸ばしてきたので、どんな内容だったかさっぱり覚えていない。
             彼の目に浮かぶとめどない欲望を見ると、こっちも抑えがきかなくなってしまう。男同士がそういう目的で使う専門の映画館ならいざ知らず、一昨日は普通のひとびとが足を運ぶところだ。割合空いていたから、川畑の隣も周一の反対側もひとがいなかったけれど、ぬめった淫らな音に気づくひとがいないとも言えない。
             コートに隠れさせて川畑のものを愛撫する手つきに負け、「おまえもしてほしいか」と訊いた。すると周一は内緒話をするようにくちびるを近づけ、「触りたいんだろう。おまえのここ……凄いじゃないか。ちょっと触っただけでぬるぬるになってる」と笑っていた。
             こんな言い方をする彼も、初めて見た。誰がなにをどう言うか、他人のことはどうでもいい。問題は、周一だ。周一が場所もわきまえずに不埒なことをしでかし、口にするというのがいまもって川畑には信じられない。それでいて、快感のためにかすかにひび割れた声を聞くとどうにもたまらなくなるのだ。
             一昨日は映画館、その前は公園、そしてその前は――思い返せばこの一か月、あまり間を置かずに周一を抱いている気がする。この新鮮味がいつまで続くか、当事者である自分ではなく正真正銘神のみぞ知るというところだが、いまのところ彼以外に興味を惹く者はいなかった。
             離れていたあいだ、彼になにがあったのだろう。前は真っ暗な寝室でしかやらせてくれなかったのに、いまじゃいつでもどこでも彼が「したい」とひと言呟けば、そこが押し殺した喘ぎを漏らす場所になる。
             いったいどこの誰と、どんなことをしてきたのだろう。
             それを考えると、いつだって胸騒ぎがする。どことなく落ち着かない、不安定な感じがする。
             よく知っていた男がまったく知らない男になって戻ってきたというのは、川畑の興味を惹きつけてやまなかった。
             もしかしたら、無理しているんじゃないか。虚勢を張っているんじゃないかと最初は疑いもしたが、一か月も経ったいまとなっては、周一の振る舞いはごく自然なものであると川畑も認めていた。
             いくつもの夜に繰り返された不埒な指先の余韻に浸っていると、キブラの重い扉の開く気配がする。目を転じると、彼だ。外ではいつの間にか雨が降り出したらしい。きらきらしたしずくを散らせた髪を軽く振り、周一は隣に腰掛けてくるなり、カウンターに投げ出していた川畑の手を掴む。
            「出よう」
             飲み物を一杯注文するでもない周一と、ちょっととまどっているボーイのヒロシを交互に見やり、川畑はスツールから降り立った。こういう周一はいまに始まったことじゃない。目が合った瞬間に胸をかき乱すような声でねだる男を前にして、おとなしく酒を呑んでいられるほど川畑は老成していないのだ。

            「この部屋、広いよな。家賃いくらだっけ」
            「十三万ちょっとかな」
             いつものようにタクシーで周一のマンションに行き、すぐにも始めるのかと思っていたが、今夜はちょっと順序が違うらしい。綺麗に片づいたリビングに川畑を通したあと、周一は対面式のキッチンで料理をつくり始めた。
            「腹が減ってるんだ。今日は忙しくてろくに食べる暇がなくて」
            「構わないよ」
             ジャケットを脱いだ川畑はソファに深々と腰掛け、ぐうっと足を伸ばす。
             二月の夜、ワイシャツ一枚でも室内は暖かい。さっき、タクシーで帰ってくるあいだ、雨はみぞれに変わる兆しを見せていた。薄暗い道を寂しげに照らす電灯に、湿ったしずくが慎ましやかなかがやきを放っていたことをなんとなく思い出しながら、「それにしてもおまえ、料理できたのか」と返すと、慣れた手つきでほうれん草を刻んでいた周一が軽く眉をはね上げる。
            「長いことひとりで暮らしてれば、料理のひとつやふたつ覚えるだろう」
            「そうかな。俺は面倒くさくてやらないよ。疲れて帰ってきて、さらに疲れることなんか。だいたい、ひとりで食べるのもつまらないしさ」
            「……前におまえにも何度かつくったんだけど。覚えてないか?」
            「全然」
             ちっとも覚えていなかった。川畑にとって食べることはあまり大切じゃない。最悪にまずくなければ構わないという程度で、おいしかったものに対する記憶も不確かだ。周一に言われてみれば、何度か彼の手料理を食べた気もするけれど、どんなメニューだったか、どんな味だったか思い出せなかった。そして、そのことを正直に告げるのに、いささかのためらいも感じなかった。
            「そうか」
             フライパンに油をひいている周一は気のない返事だ。すぐににぎやかな音が聞こえてきた。
            「なにつくってるんだ?」
             興味を覚えて、川畑はカウンター越しにキッチンをのぞいた。
            「たまごとほうれん草の炒飯。おまえも食べるか?」
            「食べる食べる。ああ、いい匂いだなあ」
             くんくんと犬のように鼻を鳴らす姿に、周一が可笑しそうに笑う。
             できたての炒飯はとてもおいしかった。炒ったたまごが可愛い菜の花のようで、ほうれん草はあざやかな緑のままだ。さくさくした味わいも楽しい。
             綺麗に平らげたあと煙草に火を点けると、周一が皿を片づけ、灰皿を出してくれた。
             そういえば彼は煙草を吸わないのだっけ。この部屋に何度も足を運んでいた四年前も、いつもこうして川畑のためにガラス製の灰皿を置いてくれていた。
            「悪いな」
             周一は微笑んだだけでなにも言わず、渦を巻く煙を追っている。
            「相変わらず綺麗に住んでるんだな」
            「片づいてないと落ち着かないんだよ」
             床に置いたクッションに座り、周一はビールをグラスにそそいでいる。グラスには指紋ひとつついていない。きっと、普通に洗うだけじゃ気がすまず、キブラで使うような特製の布を使って磨いているのだろう。
            「おまえぐらいきれい好きだったら、キブラの耀子ママも喜ぶんじゃねえの? ほら、いま出版業界ってヤバイっていうじゃん。万が一リストラされたら、キブラで雇ってくれるよ」
            「俺にボーイが務まるとは思えないけどね。愛想がないし」
            「そりゃ言えてる。もったいないよなあ、いい顔してんのによ」
             ビールを呑み、煙草を吸い、川畑はとりとめなく喋り続けた。煙草の灰がスラックスにぱらぱらと散り、それを無造作に手で払う。テレビをつけず、音楽も流していないから、室内は静かだ。
            「料理も旨いし、部屋も綺麗。おまえみたいなのと一緒に暮らしたら楽だろうな」
             こういうことがつらっと言えるのも、川畑ならではだった。
             良心が揺り動かされたのは、かたわらで強張った顔を見せている男が死にそうになったあのときだけ。彼が受けた傷の深さも、実際の痛みも、川畑にとってはあくまでも他人事だ。
             煙草の煙がふっと揺れる。周一が立ち上がり、隣に腰掛けてくる。
            「……川畑さえよければ、一緒に暮らさないか? いまのところ俺は決まった相手がいないんだ」
            「え?」
             聞き返した瞬間、周一がにこりと笑う。常日頃の頑なさも嘘のように思える完璧な微笑みに思わず見とれ、最初に彼に声をかけたときのことを思い出した。
             四年前、キブラの片隅でひとり呑んでいた周一に耀子ママがなにごとか話しかけていたのを見たのが、最初だ。ママの言葉に、声をたてずに微笑んだ男を三つ離れた席から見ていた川畑は、彼のくちびるの動きに目を奪われて声をかけたのだった。
             周一が声をたてて笑うことはまれだった。内気な性格らしく、川畑とつき合っていたあいだも、なにか可笑しいことがあったところで静かに微笑むことがほとんどだった。
             ちょっとのあいだ黙ったのを勘違いしたらしい。周一が目にかかる髪をかきあげ、「前のことは忘れてほしいんだ。……ああいうのは、もうしないから」と言う。
             ああいうの、がなにを指しているか、すぐにわかった。死に損なったことだろう。これに対する当てこすりを言うのはさすがに大人げないと思ったので黙っていたが、同居の件についてはどうすべきか。彼のように気の利く男と暮らすのは確かに便利だろうけれど、それはそれでいろいろと問題が出てくるはずだ
             さしあたっては、この四年のあいだに自分がまったく変わっていないということが問題だ。キブラの耀子ママにもそう言ったことは決して自己卑下でもなんでもなく、れっきとした事実を述べたまで。
             ここでもし、「やっぱりおまえが好きなんだよ」とか、「俺は川畑がいなきゃだめなんだ」という言葉が周一の口から出たら、同居の話はなかったことにするつもりだった。
             四年前も、周一は暖かなオレンジ色の灯りがついた玄関先で、小説か映画のなかでしか見られない言葉をいくつも言っていた。
            『俺を捨てないでくれ』
            『川畑がいなかったら生きていけない』
            『おまえと別れたらこの先、どうしていけばいいかわからない』
            『どこにも行かないでくれ。俺から逃げないで』
             顔色は真っ青だったが、泣いていなかったと思う。
             一緒に暮らせば、またもあの凍り付いた顔を拝むことになるのかもしれない。
            「川畑?」
             首を傾げてのぞき込んでくる周一が、くちびるを色っぽくつり上げる。目元も頬のラインも鋭いのに、そこだけがやけに扇情的だ。
            「俺はあの頃と違うよ。そのことはもうわかってるんだろう?」
             鼓膜に忍び込んでくる囁き声に、どうして抗えるのだろう。あのときだって、こんな声で囁いてくれたら別れなかったかもしれない。
             このあいだ、七色が見えた周一の目に今夜は薄い青が浮かんでいた。リビングにかかっているカーテンの濃い青を映す目は、まばたきするたびに深みを増していく。
             頭で考えるのではなく、こころに従え。周一自身が、あの頃と違うと言うなら、そうなのだろう。
             二十九年間ずっとそうしてきた川畑は結局のところ、物事を新しい局面に進ませるときに判断を下すのは冷静な理性ではなく、勢いのある衝動だと知っている。だから、この先どうなるかなんてことも想像せずに頷いた。
            「わかったよ。一緒に暮らそう」

            ***

            「工藤さんとまたつき合ってるってほんとか? 一緒に暮らしてるらしいって聞いたけど」
             キブラで久しぶりに顔を合わせた浅田諒一がグラス片手に話しかけてきたので、川畑も笑顔で「ああ、よく知ってるな」と返事した。周一は今夜、仕事で遅くなると聞いている。家でひとり食事をとるのもいやだし、仕事が終わったあと、近くの店で夕食を食べ、キブラに寄ったのだった。
            「もう店中の噂になってるよ」
            「へえ。暇人が多いんだな」
             川畑の口の悪さにもめげず、浅田はちょっと肩をすくめて笑っている。
            「よく了承したよな。あんなことがあったのに」
            「まったくな。周一もよく俺みたいなひとでなしを選んだもんだよ」
            「違うよ、俺が言ってるのはあんたのこと」
             理知的なメタルフレームの眼鏡を押し上げながら、浅田はひとつため息をつく。
            「工藤さんがどんな男か、あんた知ってるんだろう。それでよくもう一度つき合う気になったよな」
            「どんな男かって、そりゃまあ、いまどきめずらしいぐらいに思いつめるタイプだよな。別れるって言ったぐらいで死にかけるんだから」
            「怖いとか思わねえの」
            「べつに。今度は一緒に暮らしてるんだし、あいつもバカな真似はやらないだろ」
             周一との同居が始まって、すでに二週間が経っていた。彼のマンションに川畑が押しかけた形だが、もともと住んでいたマンションは解約せずにいる。「荷物をいっぺんに運ぶのが大変だろう」と言ったのは、周一のほうだ。
            「……俺は工藤さんとつき合ったわけじゃないから、詳しいところまでは知らないけどね」
             くわえ煙草の浅田は目を細めている。
            「四年前の――自殺未遂は、あのひとにとって初めてのことじゃない。それは知ってたか」
             思いがけない言葉に川畑は目を丸くし、首を振った。
            「だろうね。じつはあのひと、あんたよりもずっと前からこの店に来てるんだ。俺もよく見かけたし、実際に誘われたこともある」
            「おまえが? あいつに?」
            「そう。有名だよ、工藤さんは男を喰うってんでね。あのひとはあんたの前にも二度、自殺未遂を起こしてるんだよ」
             これにはさすがに驚いた。周一が誰かを誘うような度胸を持っているなんて。川畑の知っている彼というのは無口で、塞いだ顔ばかりしている。でもそれだって思い出に過ぎず、いまは自分と一緒に暮らしていることで落ち着いているようだ。
            「陰口をたたくみたいで気が進まないけど、あのひとはちょっとまずい相手だぜ。だから、あんたたちが別れたって聞いたときはほっとしたぐらいだよ」
            「いまは違うだろう。変わったんじゃねえのか」
            「そんなに簡単に変わるもんかな」
             思案顔の浅田にふと思いついて、「そのときの相手は」と聞いてみた。
            「周一がつき合ってた相手は、いまどうしてるんだ?」
            「知らないな」
             浅田はすっと目をそらす。その不自然な仕草に、「嘘言うなよ」と声を荒らげた。少し離れたところで、耀子ママが心配そうな顔でこちらを見ているが、構うものか。
            「悪いことは言わない。いますぐ工藤さんとは別れたほうがいい」
            「どうして。そこまで言うなら、理由を教えろよ」
            「聞かないほうがいいって」
            「キブラのみんなは知ってるのか? 耀子ママも? ボーイも? 客も全員、周一がどんな男かって知ってるのか? それでいま一緒に暮らしてる俺だけが知らないのか? そんな変な話、あるかよ」
             周一がどう言われているのか、ほんとうはどんな男なのか。知らないから怖いのではない。自分の知らないことだから知りたいだけだった。
            「言うまで帰らねえぞ」
             念を押すと、浅田が諦めたようにため息をついた。自分からこの話を切り出したことを後悔しているような面持ちだ。
            「彼がつき合ってた男は、もう……」
             語尾を曖昧にして口を閉ざした男を、川畑は胡乱そうに見つめるだけだった。

            ***

             浅田の不穏な言葉をどう受け取るか、しばし迷ったものの、川畑は結局、いちばん最良だと思われる方法をとった。
             聞かなかったことにする。それでいい。いまのところ周一とはうまくいっているのだし、よけいなことで亀裂を生じさせたくない。
             昔は昔、いまはいま、ときっぱり割り切れる性格だからこそ、周一ともまたつき合うことができたのだ。
             過去の周一になにがあったのか、知りたくないわけではないけれど、どうしても突き止めたいというのでもない。
             いまの彼は、自分と一緒にいることでしあわせそうだ。こっちはこっちで、欠けていたこころの一部を補ってもらえたようで、落ち着く。どこにも問題はない。
             その夜、周一は午前二時を回った頃にようやく帰ってきた。彼はちっちゃなミニ・クーパーを持っていて、あらかじめ帰りが遅くなるとわかっているときは車で会社に向かう。今夜もそうだったのだろう。金属の鍵が擦れる音がベッドの近くで聞こえた。
             先にベッドに入っていた川畑は、冷たい爪先がそっと寄りそってきたことで目を覚まし、無造作に彼を抱き寄せた。
             周一の身体はいつも冷たい。熱くなるのはほんの一瞬で、抱いているあいだだけ。湿った髪から香るシャンプーの匂いは、自分と同じものだ。
            『あのひとはあんたの前にも二度、自殺未遂を起こしてるんだよ』
            『彼がつき合ってた男は、もう……』
             ぼやける意識に、浅田の言葉が煙のようにふっと浮かんで消える。
             そのあとに続く言葉はなんだったのだろう。
             周一が寝返りを打ち、パジャマの襟にしがみついてくる。
            「……起きてるか?」
            「うん……」
             寝ぼけた声で答え、川畑は瞼をこする。いまみたいな掠れた声を聞いたら、寝かせてもらえないのはここ二週間で承知ずみだ。
             襟を掴んでいた指が胸元を這い、そろそろと下半身に下りていく。彼はこんなにセックスが好きだっただろうか。なにをするにも怖じけていた頃とは大違いだ。
             笑い出しえたい気分を抑え、川畑はしだいに熱くなっていく身体を強く抱き締めた。

            ***

             前につき合ったときは四か月保った。それじゃ今回はどうなのだろうと、解けないクイズをひねくり回すような日々は、同居二か月を過ぎたあたりであっさり終わった。
             周一の仕事が忙しいことを理由に、性懲りもなくキブラに通っていた川畑は、たまたまその晩店に来ていた新顔と気が合い、目くばせひとつでホテルに向かった。
             名前も覚えていない男と忙しなく抱き合ったあと、周一のところとは違うシャンプーを使って髪を洗い、マンションに帰ったのは午前一時過ぎだった。
             自分のマンションと、周一の部屋。両方の鍵がついたキーリングをコートのポケットから取り出し、扉の鍵穴に差し込んだところで首をひねった。
             鍵が開いている。周一が先に帰ってきていたのだろうか。
             さして深くも考えずに扉を開き、「ただい――」と言いかけたところで、川畑はぎくりとして立ちすくんだ。
            「どこに行ってた?」
             灯りも点けずに、真っ暗な玄関に周一が立っている。川畑の背後、廊下から差し込む灯りで、彼がコートを着たままだとわかった。
            「周一? おまえ、帰ってたのか」
            「どこに行ってたんだ」
            「どこって……」
            「ほかの男と寝たのか」
            「なんでわかるんだよ」
             隠すこともせず、言いつくろうこともしない川畑に、周一はしばらく黙り込んでいた。だが、見ているあいだにも無表情だったのがゆるゆる崩れ、くっと肩を揺らしたのをきっかけに大声で笑い出した。
             その笑い声はしだいに大きくなり、壁に、天井に跳ね返り、川畑をぎょっとさせるのに十分だった。可笑しくてたまらないといった笑い声は、砲弾がばらばらとあたりに散っていくのにも似ていた。
            「――おまえは変わらないな、川畑。前は四か月保ったのに、今度はたった二か月か。おまえの下半身のモラルってやつはどうなってるんだよ。最悪だ」
            「しょうがねえだろう。俺は前にも言ったとおり……」
            「そう、ひとりに絞ることができない性格だったよな。それはわかってる」
             よくわかってるよ、と繰り返す周一がまっすぐ見つめてくる。
            「……ずっと考えてた。おまえみたいに、罪の意識を欠片も感じずにいられたらどんなにいいだろうって。俺はおまえになりたかったよ、川畑。誰にも頼らずに、その場かぎりの快感を追えたら楽だろうな」
            「周一」
            「たぶん今回もおまえがこうなることは予想してたよ。どうせいつかはみんな俺に飽きる。また離れていく。いつもその繰り返しだ」
             いま耳にした言葉が引っかかって、川畑は「みんな?」と眉をひそめた。どこからか、鼻を刺すツンとした匂いが漂ってくるが、いま気にかけなければいけないのは、笑いながらも尖った犬歯をのぞかせている男のことだ。
            「おまえが初めてじゃない。おまえの前に二回ある」
             周一の声は感情を欠いており、棒読みもいいところだ。
             浅田から話を聞いていなかったら、周一がなにを言っているのか、まるきりわからなかっただろう。でも、知っている。彼が言いたいことを川畑は知っている。
             ――俺の前にも二回。おまえは死にかけたんだ。
            「どうしてなんだ。どうして俺はおまえみたいな馬鹿ばかり好きになる? ろくでもない男ばかり好きになるんだ?」
             みるみるうちに周一の目に透明な涙が盛り上がり、頬にこぼれ落ちていった。
            「……俺の前につき合ってた男ってどんな奴なんだ」
            「おまえとそっくりだよ。自分のことしか頭にない、俺のことなんかちっとも考えてくれない、すぐに浮気して平気な顔してる奴ばっかりだ」
            「どうしてそういう奴を選ぶんだよ」
            「さあな。自分と違うからだろう」
             鼻をすすり、乱暴に瞼をこする男がぐらりと身体をふらつかせ、壁にもたれる。その拍子に、彼の足下でゴツンとなにかが倒れる音がした。
             川畑がうしろ手にゆっくり扉を閉めかけようとすると、「早く閉めろ」と周一が鋭く言った。それから二度、三度荒く息を吸って吐き、言葉を続けた。
            「……おまえが変わってくれるかもしれないなんて、期待したわけじゃない。俺ひとりを愛してくれるなんて夢見たわけじゃない。だから、俺のほうで変わることにしたんだ」
            「どんなふうに」
            「もう少し前向きになろうかって、思ってさ」
             彼とまともにつき合ったのは四か月と今回の二か月、合計半年。でも、泣くところを見たのは今日が初めてだ。別れると言ったときでさえ、彼は泣かなかった。顔色を変えていただけだ。それでいまは、泣きながらも笑っている。
             おまけに、自分の言ったことに噴き出すことまでしたから、川畑もこんな状況にありながら、つられて笑い声をあげた。
             ほんとうに変なことを言う。鬱屈した周一が前向きになるなんて、あり得ない。だけど、セックスの面でいえば確かに変わったと思う。場所を選ばずに求められるやり方には、確かに興奮させられた。
             思ったままを口にすると、周一も「そうだな」と頷く。
            「俺もこの二か月は生まれ変わったみたいに楽しかったよ。……俺はひとりじゃいられない性格なのに、どうしてだかいつもろくでもない奴を好きになるんだ。おまえみたいに、誰にも気兼ねしないでいられたらどんなにいいかって、何度も考えた。……おまえとつき合う前に二度、俺は死にかけてるんだ。理由はだいたい同じだ。俺がしつこいから、相手はいつも逃げる。馬鹿だよな、俺も。そういう相手ばかり選んでた」
            「やさしい奴はいくらでもいただろうが」
            「ああ。いたよ。絶対に俺を泣かせたりしない、大事にするって約束してくれる奴は数え切れないぐらいいたよ。でも、結局俺が惹かれるのはだめな男ばかりなんだよ。俺を愛してくれない奴ばっかり」
             ハイカラーの黒いコートをはおったままの周一は暖かそうな生地を身体に巻き付け、ちょっとうつむいている。
             どうして俺のような男を選ぶんだろう。前からそう思っていたが、その理由がなんとなくわかった。
             ある種の病気みたいなものだ。
             愛されないとわかっている相手を好きになり、こころを痛めることを、彼はひょっとしたら楽しんでいるんじゃないだろうか。
             とすれば、自分たちのようなひとでなしは、可哀相な工藤周一が思う存分憐憫に浸るための引き立て役。ついていない彼の人生を飾るための小道具だ。
            「……おまえさ、自分で望んで傷ついてるんだろう。わざと俺みたいな男を選んで、楽しんでるんだよな。こっちから別れを切り出すのだって計算に入ってるんじゃないのか?」
            「そうかもな。……違うと思いたいけど、もうよくわからないんだ」
             周一はまだ泣いていた。だけど、口元だけはどうにか微笑もうとしている。
             彼が足を組み替えた拍子に、またコツンと音がして、空のガラス瓶が転がってきた。それに目をやる川畑の耳に、続いて、シュッと擦る音が聞こえてきた。
            「周一」
             匂いと、いま耳にした音に、弾かれたように顔をあげた。
             ちいさな炎が周一の指の先に灯っている。
             マッチの火は扉を閉めていてもゆらゆらと頼りなく揺れ、すぐにも消えそうだ。
            「前の男は俺の嫉妬深さに耐えきれなかった。俺が自殺未遂を起こしたのは、興味を惹きたかっただけなんだ。なのに、あっちのほうが勝手に先に死んだ」
             低く呟き、周一がマッチを吹き消す。
             彼の言ったことを、どう理解すればいいのだろう。
             ――興味を惹きたかっただけ。
             狂言だったのか。俺のときも、芝居だったのか。ほんとうに死んでしまわないよう、薬の量を調節したとでもいうのだろうか。
             白い錠剤を床にばらまき、うつぶせに倒れていた男が目に浮かんでくる。
             ――なのに、あっちのほうが勝手に先に死んだ。
             そこでふいに、浅田の言葉がよみがえってくる。
            『彼がつき合ってた男は、もう……』
             あれは、こういう意味だったのか。底知れぬ周一の執心に相手の男が追いつめられたというわけか。
             まるで安っぽいドラマのようだ。いまどき、こんな展開ははやらない。信じられない。
             笑い飛ばすことは簡単だが、川畑はできなかった。
             室内であるにもかかわらず、周一の足下には水たまりが広がっている。それは川畑のところまで届き、独特の尖った臭気を放っている。
            「川畑は、ひとりで食事するのが嫌だって言ってたな……。俺もひとりは嫌なんだよ。もう絶対に嫌なんだ。だから、四年ぶりにあの店で会ったとき、決めたんだ。もし、おまえとまたつき合ったとして、またほかの男を抱くようなことがあったら――いや、それは嘘だ。キブラにおまえが通ってるのは知ってた。再会したのは偶然じゃない……。何か月も前からおまえが俺の隣に座るのをずっと待ってたんだ……狙っていたんだ……」
             そこで再び、マッチに火が灯る。暗闇のなか、どこからともなく生まれる炎は、周一の胸からこぼれ出てくるように思えた。
             揺れる先端は赤く見えるけれど、周一の指を焦がしそうな細い木の軸の根本で炎は青く見える。それに照らされる彼の顔も、微妙な陰影を刻んでいる。
             ――それじゃ俺は、まんまと引っかかったわけか。虫をも殺さぬ顔をして、危害を加えるのはいつだって俺のような奴らだと周囲の同情をひくおまえが張りめぐらせていた罠に。
             周一がくるりと指を回すと、赤い軌跡に従って彼の切れ長の目、鼻筋がぼんやり浮かぶ。それが、なんだかとても綺麗に見えた。暗がりにくるりと尾を引く赤い線。ふわりと跳ね飛ぶちいさな炎。翳る周一が少しだけくちびるを尖らせると、炎は左にふっと揺れて消える。
            「ごめんな、川畑。たぶん、俺のほうがおまえなんかよりずっとおかしいんだ。でも、これで終わりにするから」
             周一の正気を疑っている余裕はない。彼がこれまでにどんな恋をしてきて、傷を受けたのか、四か月と二か月のつき合いしかない川畑にはわかりかねた。
             だが、最後の相手になれという言葉は気に入った。いや、正確には「これで終わりにするから」というものだが、たいして変わりはないだろう。
             いま、初めて見るような目つきで周一の顔をまじまじと眺め回した。これだけ目鼻立ちが整っている男もめずらしい。強固な意志を思わせる目元と鼻筋。だけどそれを裏切るようなエロティックなくちびる。
             バランスの悪い男。
             彼という人間が、少しだけわかったような気がする。自分などよりもずっと冷酷にできているのだ、工藤周一という男は。愛されるために不実な男を追いつめ、そいつが神経を病もうとも手をゆるめず、死と引き替えに永遠を誓わせたところで、こころに刻みつけるのではない。さっさと忘れ、次の男、次の男――そして自分へと乗り換えてきたのだ。
             なぜ周一がそんなことをしたのか、聞いても仕方がないだろう。でも、ひとつだけは確かだ。
            「欲が深すぎるんだよ、周一は」
             遠慮のない言葉に周一が目を瞠る。
            「……そう言ったのはおまえが初めてだ。誰もそんなこと、言わなかった……」
            「言う暇も知恵もなかったんだろ、たぶん。おまえは男を喰うんだって、浅田が言ってたよ。そのとおりだな。前の奴も、その前の奴も食い散らかすだけ食い散らかして、綺麗さっぱり忘れたんだろう。おまえは誰かに大事にされたいんじゃなんだよ。俺みたいな屑をわざわざ選ぶのは、しあわせになりたいからじゃない。可哀相な自分に酔ってるんだろう? 俺がいつほかの男に目を移すか、待ち構えてたんじゃないのか。俺が浮気をすれば、なんで自分は愛してもらえないんだって堂々と胸を張れるもんな」
            「……そうだったのかもしれないな」
             周一はちいさく笑う。その声がまたも奇妙な具合に震えだしている。
            「でも、寂しかったのはほんとうなんだ。ひとりじゃ嫌だったんだ。なのに、みんな俺と一緒にいるのを拒んだ」
             三本目のマッチに火がついたとき、川畑は決定的な言葉がいともするりと自分の口をついて出ることに、いささかの動揺も感じずにいられた。
            「いまは俺がいるじゃないか」
             誰でもひとりは寂しい。だから、ほんの少しでもいい、温もりを分け与えてくれる誰かを必死に探す。
             目の前でちいさな火に手をかざす男もそうで、自分もそうだ。いびつな欲望を抱えた者同士、暗闇のなかで死を呼ぶ水たまりに足を突っ込んでいる。
             車を乗り回す彼ならば、容易に準備できたのだろう。ふたりの足下には揮発性の高い液体が広がり、扉を閉めていることで胸苦しくなるような匂いを充満させていた。
             ひたひたと忍び寄る水のような液体。ガソリン。
             周一が手にしているマッチの火で、透明な液体は禍々しい虹色を描き出している。
             これが彼なりの、「前向き」ということなのだろう。ひとりがいやなら、ふたりで。川畑はその相手に選ばれたということだ。
             一緒に死ねというのかと激昂することはもちろんできる。いますぐここを逃げ出すことだってできる。だけど、そうしないのは、周一の目にある虹を刷り込まれてしまったから。彼が見せてくれる青い火に魅入られてしまったせいだ。
             ――一度ぐらい、あの子をしあわせにしてやんなさいよ。
             そう言っていたキブラの耀子ママに、いまなら笑ってやれる。
             周一が欲したしあわせは、永遠の終わりだ。
             かつては死と引き替えに愛情を求められたことが苦痛でたまらなかったけれど、あれから四年が過ぎ、不埒な遊びも十分過ぎるほどに楽しんだ。だから、もういい。どの男を相手にしても得られなかった極度の興奮を、周一はもたらしてくれる。
             ――俺を巻き添えにすることで。
            「……俺に会ったことを後悔してるか?」
             そう聞かれて、川畑は微笑んだ。いままでに、誰にも一度も見せたことのない穏やかな笑顔は、周一の視線を釘付けにさせるのに成功したらしい。
             よもや、ここまでやる男にはお目にかかったことがない。自分の願いを叶えるためなら他人を道連れにしても構わないという、恐ろしいまでの利己的な考えは、単に相手を取っ替え引っ替えして楽しんでいた自分を遥かに上回る。
            「おまえみたいな男は見たことがねえよ」
             こころから微笑んだ。
             四年前、彼を怖いと思ったのが嘘みたいだ。こんなに可愛い男もめったにいない。自分自身を愛しすぎるあまり死にたくなるなんて、どうしようもない。
             炎の向こうで周一の顔が揺れる。なにかが焦げる匂いがする。マッチの火が彼の指を焼いているのかもしれない。息詰まるような匂いもする。
             これでなにもかも終わる。ひとでなしだと散々言われた自分も、綺麗な顔をして灰色のこころを抱え続けてきた周一も、あっという間に、この火が消えればまるで魔法のように、なにもかもなくなる。
            「俺がいる」
             もう一度言った。移り気な自分が永遠を約束することはできないけれども、まばたきに匹敵する一瞬だったらそれも可能かもしれない。
             周一が泣き出しそうな顔で腕を伸ばしてきたのと同時に、燃え尽きる寸前のマッチが落ちた。


            アフタヌーンティーでした

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              漫画家の村上左知さんと、京王プラザホテルの47階でハロウィンアフタヌーンティーでしたにじ

              京プラ、美味しくて好きなんですよね。いつも地上階の「樹林」に行くのですが、

              昨日は初めての47階。

              (写真がなくてすみません!)

               

              お茶も飲み放題で、やっぱり美味しくて可愛かったです。

              アフタヌーンティーってそれなりにするので、美味しいのって大事ですよね。

              たくさんお話して、夜景にも盛り上がって、帰りはマグロ丼も食べてきました笑

               

              今週は、細かい仕事がたくさんあります。

              毎日違う原稿を書くので、ちょっとあわあわ汗

              でも、せっかくなので、楽しいものをお届けできるように頑張ります。

               

              サイン会の追加枠応募は、もうすぐ締め切り……だったかな?

              22日の日曜日23:59まででした。

               

              応募ページはぴのこ:)こちらぴのこ:)です!

               

              コミコミさんのご厚意、とても嬉しく思っております。

              ひとりでも多くの方とお会いできたらいいなあきらきら

              お話する時間がわりとありそうなので、サイコロトークができるアプリを仕込んでみましたにた

              へへ、盛り上がりましょうね!

               

              明日、いや今日か、今日は「アウトレイジ最終章」を観てくる予定です。

              ああ〜〜〜終わってしまうの寂しいです。これ大好きなシリーズだったので。

               

              大きな山を抜けたら外出しまくりです。わかりやすいですよね笑

               

              いまは雨宮兄弟に夢中です……:)


              日常的なもろもろ

              0

                眠れないのでこれを書いています。

                今日はアフタヌーンティーなので寝たい。

                 

                さてさて、いくつかSSをアップしました。どちらもなつい!

                お時間のあるときにでもどうぞハート

                 

                また、ご感想をお聞かせ頂けるとめちゃ嬉しいです。

                Twitterのリプ、ブログのコメント欄、拍手(匿名可)、お題箱(匿名可)もありますよ〜。

                読者さんのご感想をなによりものエネルギーにしていきたいので、ぜひともゆう★

                 

                頂いた拍手にお返事です苺

                 

                10/07 09:02→新刊楽しみにしていま...さんェックしてくださいね。
                 

                10/13 13:51→私もニキビに悩まされ...さん

                おおおありがとうございます!でしたら、このあとはオルビスのホワイトニングケアを使ってみます。ファンケルもいいですよねー。サプリメントでお世話になってます♪

                 

                10/15 17:56→有難うございます(^...さん

                どういたしましてです!(´ ◡ `三´ ◡ `) ♡ 

                 

                10/16 02:06→私も重度の睡眠障害で...さん
                重度だと結構大変ですよね。でも、たいていのことはなんとかなるので、一緒に頑張りましょう♡

                 


                求めたら最後(「愛執の鎖」原型2006)

                0

                   固く引き締めていたはずの意識がぐらりときたのは、呑んでいる最中だった。
                   周りの目を盗んで膝頭をゆっくりとまさぐる大きな手をまじまじと見つめた次に、三浦浩一は隣に座る部下の顔に視線を移した。
                   大石祐は、笑っていた。普段と変わらぬ親しみやすい笑顔で、向かい合わせに座る同僚の行員たちと客の話で盛り上がっている。
                   金曜の夜十時、三浦は部下を連れて勤め先の銀行からほど近い中華料理店でささやかな打ち上げを行っていた。
                   ずいぶん前から手がけていた企業への大型融資が今日ようやく決まったため、中心となって動いてくれた大石をはじめとした部下たちをねぎらっていたのだが、そろそろ食事も終わろうとする頃に、不埒な悪戯が始まったのだった。
                   左に座る大石が、テーブル下の三浦の膝を掴んで撫で回している。スラックス越しに膝をじわじわと触れ、たまに冗談っぽくジッパーのほうに向かって、指が這い上がってきた。だが、それで三浦がぎょっとした顔をすると、指はすぐに膝へと下りていく。
                   大石も自分も、男なのに。しかも、同じ銀行に勤める上司と部下だ。いくら呑んでいるからといって、こんな悪ふざけが許されるのか。
                   ――あのときもそうだ。こいつの口車に乗ったせいで、散々な目に遭ったんだ。
                   一か月前、十歳も年下の大石によって身体の奥に刻まれた熱は未だはっきりとした痕跡を残し、日々、三浦を悩ませ続けていた。夢に見ることもある。三十九歳になったいま、夢精にはもう縁がないと思っていたのに、大石に触られたあの場所や、大石が深く挿ってきたあの場所が無意識の世界では淫らに疼いてどうしようもなくて、はっと気がつけば下着を汚している朝が何度かあった。
                   そうしたときの自分がどれほど情けない顔をしているか、ふたつ年上の妻である亜紀にはけっして見せられなかった。
                   下着は、洗濯すればいい。それが面倒なら過去の女同様、片っ端から捨てて買い換えればいい。それと一緒に、この身体のあちこちに残る大石の感触も消し去ることができればいいのに。
                   ――ああそうだ。ほんとうにそうできるなら、肌をこそぎ落としてもいい。醜い傷が残っても、こいつに挿り込まれた場所に残る熱さえ消えてくれるなら、なにをしてもいい。大金を払ってもいい。
                   酔った頭で考えたが、実際にそんなうまい話があるはずもない。
                  「課長、どうしたんですか。しかめ面してますけど、また頭でも痛いんですか?」
                   ビールが半分ほど残ったグラスを握り締めてくちびるを噛む三浦に、正面に座る部下の山下由美が心配そうな顔でのぞき込んでくる。
                  「わたし、頭痛薬なら持ってますけど。飲みます?」
                  「あ……うん、ありがとう」
                   偏頭痛持ちの三浦は、特定のメーカーの鎮痛剤しか飲まなかった。痛みがひどくなるとそれしか効かないので、いつも鞄の中に常備していた。もちろん、いまも足下の鞄に薬が入っている。だが、山下のやさしい気持ちを無下にすることはできない。
                   そもそものことを言えば、とくべつ頭が痛いわけではなかった。ただ、隣の男から逃れたいだけだ。
                   笑顔の山下が差し出す丸い錠剤を受け取るとき、かすかに手が触れた。今年で三十一歳になる山下がわずかに頬を染めたのを、隣の大石が見逃すはずがない。ひとのよさそうな顔で煙草を吸い、「山下さん、顔が赤いですよ」と笑い混じりにからかう。
                   今日の大石は白いワイシャツに甘めのピンクのネクタイを締めている。軽いくせ毛が似合い、笑うと無邪気な男だが、口を閉ざしていると妙な威圧感があった。そのことを本人も知っているのかもしれない。黄色やピンクといった華やかな色合いのネクタイで雰囲気をやわらげているみたいだ。
                  「ホント、山下さんって三浦課長にお熱ですよね。なにかっていうと課長の手に触ってませんか」
                  「そんなこと、ないわよ。ちょっともう、大石くんったらみんなの前で変なこと言わないでよ」
                   山下の頬がますます赤くなっていく。彼女の両隣に座る男性行員も、女性行員もいっせいにくすくすと笑い出した。これはいわゆる、酒の席での冗談というやつだ。三浦も、独身の山下が自分に対してほのかな好意を抱いていることは当然気づいていたが、むろん応えるはずもない。
                   学生時代から妙に女にもてたので、それとなくはぐらかす術は身につけていた。
                   見た目は悪くないと自分でも思う。若い頃はきつい感じが勝っていた整った顔立ちも、年を経るとともに相応の落ち着きとやわらかさを備えて、三十後半になってからはよけいに女から誘われる機会が増えた。
                   ――でも、俺はだめだ。もうだめだ。
                   鎮痛剤を水で飲み下したときだった。
                  「でも、だめですよ」
                   三浦の胸の裡を見透かしたように、そして山下に釘を刺すように、大石がにこりと笑う。
                  「三浦さんは――」
                   そこで言葉を切り、ちらりと視線を向けてくる男の目の中に浮かぶ獰猛さに背筋がぞくぞくする。
                   なにを言うつもりなんだ、おまえは。やめろ、言うな。俺たちのことをもしもひと言でも漏らそうなら、俺もおまえもおしまいだ。
                   みるみるうちに真っ青になっていく三浦だけに通じる目くばせをして、大石は笑顔のまま続けた。
                  「三浦さんには可愛い奥さんがいるんだから、冗談でも手を出しちゃだめですよ」
                  「……わかってるわよ、そんなのいちいち言われなくたって」
                   三浦より十も下、山下自身から見てもふたつ下の男にひとくさりやられておもしろくないのだろう。それまでの笑顔をさっと消して眉をひそめる女性行員に、周囲の行員たちが慌てて機嫌を取り始めた。大手都市銀行の九段下支店、渉外課のエキスパートを怒らせると、自分たちにも災難が降りかかることを、みな賢明にも知っているのだ。
                  「ねえねえ、山下さん。なにかデザートでも食べません? わたし、甘いもの食べたくなっちゃった」
                  「僕も。あ、そうだ、よかったらこのあと、おいしいケーキの店にでも行きましょうか」
                  「こんな遅くにやってるの? だってもう十時じゃない」
                  「大丈夫。駅前に新しい店ができたんだよ。そこなら終電近くまでゆっくりできるし……」
                   山下を取り囲む部下たちがにぎやかに喋りたてるなか、大石と言えば平然と煙草を吸っているだけだ。
                   堂々とした態度にやりきれなさを覚え、トイレに行こうと立ち上がると、大石が伏し目がちに視線を動かす。その確信めいたなめらかな仕草を見ただけで、指先がじわっと熱く痺れていく。
                  「……ちょっとトイレに行ってくるよ」
                  「はい、どうぞー。課長が戻ってくるまでに、次のお店決めておきますね」
                   気のいい女性行員が手を振り、隣で大石が「俺もちょっと」と席を立つ。
                   うしろを振り返ることなく、逃げるようにしてトイレに向かった。すぐうしろから大石も追ってくる。
                   大股気味に近づいてきて、もはや駆け足状態の三浦の肘を強く掴み、「ちょっと」と低い声で言って、ふたり足下をもつれさせながらトイレの個室に入った。
                   バタンと扉が閉まる大きな音を耳にするのが早いか、それともついさっきまで見ていた笑顔をなくして、険しい目をする大石にくちびるをふさがれるのが早かったか。
                  「ん――……ッ!」
                   自分よりも頭半分ほど身長の高い大石に抱きすくめられて、強引に舌を絡めさせられた。たっぷりとした唾液を伝わせる長い舌で口内をいいように犯されるかたわら、背中から尻へとまさぐる手つきに声が漏れ出てしまいそうだ。
                  「んぅっ……ん――ふ……」
                   ろくに息継ぎもさせてもらえないことに涙がじわりと浮かぶ。激しくもがいても、大石のほうがつねに一歩早い。壁に三浦を押しつけて舌をうずうずと擦り合わせ、急速に昂ぶる下肢にも手を伸ばす。
                   下から揉み込むような手つきがいやらしい。陰嚢を手の中に収めて、竿ごとゆっくりと揉みしだくおぞましい快感にびくんとのけぞると、濡れたくちびるを離して、大石が笑いかけてきた。
                  「……覚えてるんですね。俺がここを可愛がったこと」
                  「おまえ……」
                   やめろよ、と言おうとしたのを察したのだろう。またも大石の目に鋭い感情が浮かび、左手をねじりあげられた。
                  「……ッい、た……っ大石……っ!」
                   ワイシャツを透かして、大石の熱い体温が伝わってくる。二十九歳になっても大石の身体は引き締まっており、学生時代にずっと剣道をやっていたというのも頷ける逞しさだ。ぱっと見ただけではそのことがよくわからないが、彼のシャツの下に隠された衝動を三浦は一か月前に知ってしまった。
                  「覚えてるんでしょう。三浦さん。俺と寝たこと、覚えてるでしょう?」
                   左手をねじりあげるほうとは別の手で、ジリジリと音を立ててジッパーを下ろしていく大石が目と鼻の先で笑う。
                   あれ以後、彼が正面切ってこの話を持ち出してきたのは、今日が初めてだ。いつなにを言われるかと毎日怯えていた自分を、きっと嘲笑っていたのだろう。
                   微笑んでいるのに、凶暴なものを感じさせる男に頷いてしまったら、この先もずっと言いなりだ。
                  「三浦さんのここ、……あの日もこんなふうにして触ってあげたこと、覚えてませんか」
                  「――お、覚えてるわけ、ないだろう!」
                   全身を揺らすような快感から必死に意識を立て直してちいさく怒鳴ると、ほんの一瞬、三浦がまったくの無表情になった。それがやけに恐ろしい。なにも言わない、眉ひとつ動かさない大石の中で、唐突に電池が切れてしまったみたいだ。
                   日頃は朗らかな男が黙り込むととたんに落ち着かなくなり、せっかく振り切ったことも忘れて、「大石……」と囁くと、のろのろと視線が絡み付く。
                  「どうしてそんな意地悪を言うんですか」
                   掠れた声に答えられなかった。
                   一か月前の夜、やはり酒に酔っていた三浦は、途中から隣に座る大石に半分身体を預け、ふわふわした気分に包まれていたものだ。確かそのときも、比較的大きな仕事に決着がついて祝杯をあげていたのだった。
                   三浦が二年前に課長に昇進したのを機に融資課から異動してきた大石は、人懐こい性格と機転が利く性格で、渉外課にもすぐに馴染んだ。十歳も年上の三浦に対して臆することなく、それでいて礼を失さずに接してくれて、いつの間にか誰よりも頼れる懐刀となっていたのだ。
                   その刀がどうして自分を斬りつけようと考えたのか。いまもって、三浦にはよくわからない。
                  『三浦課長、呑みすぎですよ』という年下の男のやさしい声も、支えてくれる手のひらも、いままでに味わったことがないもので心地よかった。
                   昔から、三浦は酒にだらしなかった。ある一定量を呑むととたんに自制心が崩れ、ふと気づくと見知らぬ女と寝ていることが数え切れないほどあった。
                   だが、あの日隣に座っていたのは男だ。同性の大石だ。仕事の話をする名目で部下たちと飲み歩き、最後に残った大石とふたりでそれからも店をはしごして、しまいには完全に泥酔した三浦の耳に、あの蠱惑的な声が聞こえてきたのだ。
                  『課長は、男に興味があるんですか』
                   あのときの自分はなんと応えたのだろう。『なに言ってんだよ』と目を丸くしたか。『ばかなこと言うな』と吹き出したか。いずれにせよ、大石から身体を離さなかったのは確かだ。
                   ――あなたって、酔うと他人の体温を欲しがるのよね。そこに、わたしも負けちゃった感じ。
                   三浦の中にひそむ荒淫さを、妻の亜紀はそんなふうにたとえた。けっして自分から強く求めた覚えはないのに、ふっと気づくと彼女たちが自分の上に乗っかっていたり、胸の下で喘いで積極的に腰を動かしていたりするのだ。
                   男に興味があるか、と聞いてきた部下に、自分がなんと答えたのかはいまでもはっきり思い出せない。
                   だけど、その後のことならよく覚えている。熱くてたまらない頬をシーツに擦り付け、迫る大石の手から逃れようとして笑いながら身体をよじらせたのだ。
                   ――そうだ、俺は笑っていた。こいつに抱かれるとわかっても笑っていたんだ。
                   自分よりも若い男を惑わせるように肢体をくねらせ、徹底的に焦れさせたあげく、いよいよ硬い熱を受け入れる段になってもさして暴れなかった。
                   ――まあいいか。そう思ったんだ。こういうことが一度ぐらいあっても、べつにいいじゃないかと思ったんだ。
                   だが、正気に戻れば自分の乱れた思考に頭を抱えるほかなかった。あの晩、一杯でも酒を少なくしていれば、こんなことにはならなかったのに。
                  「あのとき、三浦さんは男に抱かれるのが初めてだったんですよね」
                   ひとり勝手に想いふける三浦を引き戻すように、大石が呟く。
                  「俺が誘っても、一度も拒まなかった。いやじゃなかったんでしょう? 男に興味があったってことでしょう? 俺のことだって」
                  「違う、あのときは……ほんとうに酔ってたんだ。いまでもどうしてあんなことをしたか、わからない」
                   頭を強く振り、部下の言葉を最後まで聞かずに遮った。
                   酒にだらしなければセックスにも節操のない自分から、目をそらしたい。忘れてしまいたい。渉外課の課長として仕事はできるかもしれないが、それ以外の点ではまるでだめな人間だ。
                   家庭のことも亜紀に任せっぱなしだ。まだ子どもはいらないと気ままな暮らしを楽しむなか、連日したたか酔って帰る三浦に、『もう、いつまで経っても手を焼かせるんだから』と苦笑しながら靴下を脱がせてくれる亜紀と寝る回数は年々減ってきているが、大切な存在なのに変わりはない。
                  「頼むから、おまえも忘れてくれ。あれは間違いだったんだ。あんなことは二度としちゃいけない」
                  「どうしてですか」
                  「どうしてって……」
                   おうむ返しに問うてくる男は少し傷ついた顔をし、再び、「どうしてですか」と言った。
                  「誰にも言いませんよ。たまに、こんなふうに触らせてくれれば……」
                  「――それが迷惑だと言ってるんだろう!男同士でこんなことをするなんて変だと言ってるんだよ。わかれよ、それぐらい!」
                   触らせてくれればなんて、ひとのことをダッチワイフみたいに言いやがって。
                   瞬時に顔を引きつらせた三浦に、大石も眉をつりあげた。
                  「そんなのわかりませんよ。だったらどうして一か月前、俺の前であんなに簡単に足を開いたんですか。俺は無理強いしませんでしたよ? 何度も確認しましたよ? ……でも、最終的にいいって言ったのはあなたのほうじゃないですか」
                  「だからって、俺には妻がいるんだ」
                  「ああ、そうですよね。いますよね、なんか面倒なのが」
                   あんまりな言いようにきつく睨み据え、「……いい加減にしろよ」と唸った。
                  「毎日うちに無言電話をかけてくるのも、おまえなんだろう。亜紀だって参ってるんだよ」
                   一か月前に関係を持ってしまってから、自宅に名前を名乗らない電話が何度もあるのだ。「気味が悪い」と眉をひそめる亜紀に、「気にするなよ」と適当なことを言った自分自身がいちばん気に懸けていたなんてみっともないことは、絶対に口にできない。
                   大石は「……へえ、そう」と言っただけだ。視線をそらしているあたりを見るに、痛いところを突かれてまともに反論できないのだろう。
                  「俺とおまえは同じ課にいるんだし、こんなことをしていたら……」
                  「わかりましたよ、そう何度も同じこと言わなくても」
                   にやりと笑う男は、前触れもなしに耳をきつく噛んできた。
                  「やめろ……離せよ……!」
                  「大声を出したら誰か飛んできますよ」
                   大石の冷ややかな声が合図になったかどうかは知らないが、そのときほんとうにトイレの扉が開く気配がし、誰かが入ってきた。
                  「……ッ!」
                   扉一枚向こうに誰かがいるとわかっているのに、大石がシャツの上から乳首をゆるく擦ってくる。ちいさくて、肌に埋もれてしまいそうな肉芽を執拗に弄られることで、もどかしい快感が腰のあたりにまとわりつく。
                  「気持ちいいんでしょう」
                  「そんな、わけない……」
                  「だめ、我慢してください」
                   声を漏らさないために大石の手できつく口をふさがれたが、それがなんだというのだ。そんなことをするなら、いますぐ胸から手を離せと言いたかったのに、親指と人差し指のあいだで硬い芯を孕ませられていくそこから意識が離れない。
                   気づけば、自分から物欲しげに胸を突き出してしまっていた。
                  「……あっ……ん……」
                   どんなに必死に声を押し殺しても、声が揺れてしまうことに大石が目を細める。
                   こりこりとねじったり、丸く円を描いてみたり、つまんで軽く揺らしてみたり。他愛ない愛撫なのに、頼りにしていた部下に淫らなことをされていると思うと信じられないぐらいに感じてしまう。
                   ――男の乳首なんか弄ってなにが楽しいんだ。女と違うのに。
                   だったら、どうしてそこを弄られて下半身を熱くさせるのだろう。自分でもうまい理由が見つけられずに、混乱するばかりだ。
                   外から、鼻歌が聞こえてきた。声を聞くに部下のひとりだ。それが大石にもわかったのだろう。小声で囁いてきた。
                  「今夜だけでいい。もう一度だけ、俺と寝てください。そうしたら、もうなにも言わない。しつこくつきまとったりしないから」
                  「いや、だ……、いやだ……」
                   胸の尖りに与えられる愛撫が、しだいに本格的になっていく。そんなところへの刺激に慣れていない身としては、つらすぎて涙が滲んでしまう。もともと、快感に流されやすいたちなのだ。膝ががくがく震えてきて、無意識に大石の首にしがみついてしまった。
                  「いやだ……」
                  「いやじゃなくて、いいって言ってください。今夜だけ。もう一度だけ抱かせてくれたら、無言電話もしない」
                   冗談じゃない。誰がこんな確証のない約束を信じるか。
                   けれど、あの晩と同じ、甘く低い声で囁かれると意識は端からゆるくとけだしてしまう。胸も弄られっぱなしで、男の愛撫に応えて痺れるように疼いていた。
                  「ほら、三浦さんの身体も俺を欲しがってる」
                  「あぁ……」
                   シャツをせり上げる硬い尖りを指摘され、ほんとうに涙がこぼれた。甘い毒を含んだ大石の言葉を笑い飛ばす余裕など、これっぽっちもなかった。
                   浅ましい自分をこれほど嫌悪したことがあっただろうか。
                   どうしていつもこうなんだろう。だめだとわかっているのに、体温に惹かれてしまう。肌を熱く燃やしてくれる手を求めてしまうのだ。それで、過去どれだけもめ事を起こしたことか。妻の亜紀と知り合う四年前まで、三浦は女と女のあいだに挟まれてつねに困惑し、けっして自分から別れを切り出そうとはしなかった。
                   ――ただ、気持ちいいことがしたかっただけだ。温めてほしかっただけなんだ。
                   不遇な幼少時代を送ってきたわけでもないのにと、自分でも失笑することがある。だけど、いつも誰かの体温を欲していた三浦は、押しの強い亜紀に出会ったことで、このへんで諦めるかと長い長い爛れた遍歴に蹴りをつけたのだった。
                   それ以後、亜紀以外には手を出していない。年齢に比例して地位もあがったのだから、些細な不祥事で足下をすくわれることは絶対に避けるべきだ。そうでなくとも、銀行というところはモラルにとかくやかましい。
                   なのに、このざまだ。そんなに体温が欲しけりゃ風俗にでも行けばよかったのだが、金を払ってシステマティックにいかされるのはつまらなかった。
                   ――できれば相手は普通でいてほしい。俺と同じように朝起きて、夜に寝る健康的な生活を送っていて、友だちもいる、家族もいる、だけどとりあえず恋人はいなくて、なんとなく寂しい同士ならちょうどいい。
                   そんなふうに考える自分がどれだけひとでなしか、幸か不幸か、三浦はいままでに誰にもなじられたことがなかった。「あたしとあの女と、どっちを取るの」と詰め寄られたら「いまはきみだけだと思っている」と言い、「ほかに女はいるの」と聞かれたら「いたり、いなかったり」と笑ってみせることで、たいていの局面は切り抜けてこられたのだ。
                  「いまは」きみだけだ、と、時間を限定させてしまえば、昨日や明日に違う女と寝ても構わないと本気で考えていた。
                   いたりいなかったり、と言うときにちょっと寂しい顔をすれば、誰もきつい言葉を口にすることなく、逆にとらえどころのない男として夢中になってくれた。
                   そして、そんな女たちが求めるままに寝ることが、誠実な男のすることだと信じて疑わなかった。
                   ――でも、こいつだけは無理だ。いままでのやり方が通用しない。
                  「三浦さん?」
                   人前では「課長」と呼ぶくせに、ふたりきりになったとたん、親しげに名前を呼ぶ男をぼやける視界に映し、それでもまだ三浦は頷かなかった。一度頷いてしまえば、二度目も三度目もなし崩しになってしまうことは自分がいちばんよくわかっている。
                   頬を撫でる男はベッドの中で豹変する。女のやわらかな感触しか知らない三浦の奥の奥まで探って硬い楔を打ち込み、摩擦に慣れていない粘膜を擦ってとろけさせ、泣かせ、求めさせて、喘がせたのだ。
                   身体はとっくに倒れかかっているのに頑固に口を結ぶ三浦にくすりと笑い、「うんって言わないなら」と大石が歌うように囁く。
                  「無言電話じゃなくて、声、出しますよ。奥さんに俺とあなたのことを言いますよ。ほかの行員にも、ばらします」
                   やさしい声に顔を強張らせたが、大石も引くつもりはないらしい。視線を合わせながら、三浦の左手の薬指を掴んで、そこにはまる銀色の指輪をそっと舐めていく。
                   濡れた舌先に魅入られて、「あ……」と漏らした声の弱々しさに三浦自身が瞠目する思いだった。大石の温かい口の中で泳ぐ指に、血が伝ってくるような錯覚を感じる。
                   なにかを期待する声は、ほんとうに自分のものか。この一か月、同じ職場の部下と寝たことを何度も何度も否定してきたくせに、こころの底では、またあの夜と同じことをしたいと願っていたのか。浅ましいにもほどがある。だらしないどころの話じゃない。
                  「……だから、言うことを聞いてください。今夜だけ」
                   くちゅりと音を立てて指を舐める男と視線を絡めてしまえば、頷くほかない。
                   脅されているのだから、仕方がないではないか。このあと彼に連れられていくだろうホテルの一室で、はしたなく乱れてしまっても、しょうがない。
                   寝なければ関係をばらすと強要されているのだ。自分はなにも悪くない。酔ったところをつけ込まれたにすぎないのだ。
                  「誰にも言わないって……約束するか」
                   絞り出した声に大石は「はい」と言う。
                  「……ほかの奴にも、亜紀にも……」
                  「言いません」
                   念を押すあいだにも、大石の手がスラックスの上から尻をやわやわと揉み、くぼみに指をすべらせて、くっと押してくる。そのちょっとした刺激に押されて、とうとう頷いてしまった。
                  「……このあいだみたいに、縛らないって約束しろよ。タオルでも手が痛かった。跡も残って亜紀に変な顔をされて……」
                  「あれはあなたがしろって言ったんですよ。一度でいいから、こんなふうにしてみたかったって」
                  「嘘だ」
                  「嘘じゃありません。……べつにいいですけどね、信じなくても。俺のせいにすることで気が楽になるなら、それでいいですよ」
                   大石の声にうっすらした痛みが混じっていることに、三浦は気づけなかった。年下の男の胸の下で暴かれていく凄まじい本性に、眩暈を覚えていたのだ。
                   自分の中に、違う性を見出してしまったような心境は最悪だ。男の身体を持ち、男としての意識もちゃんとあるのに、中に挿れて欲しくてよがり狂うなんて正気の沙汰じゃない。
                   だけど、それも今夜かぎりだ。
                   ――この一か月、何度も忘れようとして忘れられなかったことを、こいつがまたしてくれる。気が狂いそうだ。したくてしたくて――大石が欲しくておかしくなりそうだ。
                  「山下さんやほかの奴らには俺がうまく言いますから、心配しないでいいですよ。このまま行きましょう。いま、あなたの鞄を取ってくるから……三浦さん?」
                  「早く」
                   すると決まったら、もう待てない。一分一秒だって待てなかった。ここへきて都合よく酒が一気に回ったらしく、驚く部下にすがりつくのも簡単だった。ついでに、「早く」とうわずった声でせがんだ。自分のくちびるがどんな言葉を吐き出すか、いまこの場では知ったことか。
                   傷つくなら傷つけばいい。三浦自身、抱かれるまで気づくことがなかった、身体の中にひそむとろりとした熱にくちづけた男がすべて悪いのだ。
                  「おまえとアレがしたい。亜紀にばれないように――したい。でも、今夜かぎりなんだろ。だったら、前のときよりも激しくしていいから……言うことを聞かなきゃばらすんだろ、俺はいやなのに……でもいい、おまえの好きにしろよ……」
                   扇情的な言葉のひとつひとつは鋭い弾丸となって、男の胸を確かに撃ち抜いたようだった。
                   大石はつかの間呆然としていたが、やがてじわじわと顔を歪め、「……ずるいよ」と呟いた。
                  「どうしてそんなこと言うんだよ……」
                   後ろ髪を掴まれて強く強く抱きすくめられる三浦の胸に、けれどその言葉は正しい意味を持って届くことはなかった。その頃にはもう、大石がもたらす熱に神経がとろけていた。
                   いずれこの男によって滅ぼされるとわかっていてもなお、我慢することができない。自分はそういうふうにできている。
                   彼という男が、怖い。
                   そして、たまらなく魅力的だ。


                  炎は青く(オリジナル2006)

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                     数年が経ち、あの恋は間違いだった、あのとき別れてよかったのだと思い出すたびに胸のどこかが痛んだかと言えば、まるきり嘘になる。
                     だいたい、とうに終わった関係を律儀に覚えておくほど川畑健吾は記憶力がよくない。善人でもない。
                    「そんなに変わったかな」
                     隣で首を傾げて微笑む昔の男をためつすがめつ眺め、川畑は「そうだな」と素直に相づちを打った。
                    「どのへんが? 自分じゃどこが変わったんだかよくわからないよ」
                    「顔」
                     無遠慮に言い切ると、彼がちょっと目を丸くする。
                    「整形なんかしてないって」
                    「そうじゃない。なんていうか……ちょっと痩せたな。頬のあたりが」
                    「ああ、ここ数年仕事が忙しいからな」
                     気安い感じで頷くその仕草も、鋭角的なものを思わせる頬のラインも、昔の彼にはなかったものだ。ただ、表面的なものだけで判断したならば、工藤周一はさほど変わっていなかった。
                     年が明けたらますます寒さが厳しくなった一月の半ば、灯りを絞った行きつけの店で川畑が四年ぶりに見たのは、相変わらず神経質そうなものを窺わせる切れ長の目に高い鼻梁。やや突き出た頬骨のせいで、見た者にどこか貴族的な印象を与える。
                     もしくは、ある種の近寄りがたさも。それらとは対照的なふっくらした上くちびるを見ると、端々まで揺るぎなく制御されている精緻な機械に異質な官能が混ざっている気分に駆られる。四年前も、川畑は彼の奇妙なバランスを保った顔に強く惹かれていた。
                     しかし、以前よりもさらに感情が読みとりにくくなった気がする。男にしては長い睫毛と灯りのせいで、工藤の目はよけいに暗く見えた。
                    「それにしても久しぶりだな。三年……四年ぶりか?」
                    「四年だよ」
                     曖昧な感じで川畑が言ったのに対して、工藤が短くきっぱりと答え、グラスを手にする。
                     間隔を空けて設置された天井のライトはちょうど川畑と工藤のそれぞれ端についていて、ふたりのあいだをぼんやりと照らしていた。
                     そうだ。あれからもう四年も経ったのだ。忙しない毎日を送っていると、時間の流れがどんなに速いものか、改めて知る機会はあまりない。たとえばこんなふうに、旧知の仲にでも会わないかぎり。
                     ――旧知の仲、か。
                     ちょっと笑って、川畑は半分ほど残っているグラスを彼に向かって掲げた。
                    「乾杯しよう。偶然の再会だよな」
                     そう言って、彼の返事を待たずにグラスを触れ合わせると、工藤も口元にそれとない笑みをにじませる。
                     こころから笑っているのか、それとも川畑の無神経さを嘲笑っているのか、判別がつかないが、くちびるの端をわずかに持ち上げるという少し崩れた色気を感じさせる笑い方は、四年前にはなかったものだ。
                    「乾杯」
                     透明で薄いグラスの縁がかちんと綺麗な音をたてて合わさった。

                    ***

                     同じ年の工藤とは、二十五歳のときに知り合った。場所は四年前と変わらない、行きつけのこの店だ。新宿二丁目の片隅にあるバー・キブラには、同性を愛するという奇妙な性癖を川畑が自認した二十代前半の頃から通っていた。いつ来ても数人の男が客として訪れ、雑然としながらも居心地のいい雰囲気をつくり出している。
                     キブラにはただ普通に酒を呑みにやってくる客もいるし、店の耀子ママと他愛ないお喋りを楽しむだけの者もいる。だけど、たいていはなんとなく寂しくて、満たされない欲求をぶつける相手を探しに来る者がほとんどだ。
                     川畑はどっちつかずの客だった。学生時代にラグビーをやっていた身体はいまでも硬く引き締まっており、精悍な顔立ちに甘さを併せ持つ顔に生まれついたおかげで、寝る相手に困った覚えがない。大手の証券会社に勤めているというあたりも、周囲からの信頼度を高めている一因だろう。
                     ただし、性格は最悪だ。俺ほど冷淡な人間もめったにいないと川畑自身よく思うことがある。性格の悪さというのはもっぱら、個人的なひと付き合いの面だけに出た。仕事の場ではそんなことはない。顧客の資産管理を務めるファイナンシャル・プランナーという職にある以上、笑顔と誠実な対応というのはイコールで結びつけられており、無表情、無口、無愛想であったらサラリーマン稼業が務まるはずがない。
                     しかし、個人的につき合った男は皆、川畑がどんなにひとでなしであるかよく知っていた。
                     時間を守らない、約束を忘れる、そのうえ平気な顔をしてほかの男と寝る。
                     いくらその場かぎりのつき合いになれている男が多くても、ここまで徹底しているのはめずらしいと、いつぞや店の常連客に笑われたことがあったっけ。浅田諒一と名乗るその男はどうかすると工藤に似た芯の硬さを感じさせたが、関係を持てなかったのは彼も川畑同様、タチを好む男だったからだ。
                     そういえば、浅田も工藤と同じ、出版社に勤める編集者だった。徹夜仕事の連続で、土日の休日も満足に取れない彼らみたいな人種は、長年不規則な生活を送っているうちに、どこかおかしくなるのだろうか。太陽をまったく浴びない生活は、神経にも悪影響を及ぼすと聞いたことがある。
                    「いまでも真っ当じゃない生活してるのか?」
                     ジャケットの胸ポケットから取り出した煙草に火を点けながら言うと、低い笑い声が聞こえてくる。
                    「変わらないな、川畑は。相変わらず口が悪い。それでよく証券会社に勤めていられるな」
                    「外面がいいのが自慢なんだよ。で、どうなんだ。ちょっとは出世したのかよ。まさか二十九にもなってうだつの上がらない編集者のままとか言わねえよな」
                    「このあいだデスクに昇格したよ」
                     ずけずけ言う川畑に怒るでもなく、工藤のそれは淡々としている。
                    「デスクってなんだよ。どういう立場なんだ?」
                    「いちばん偉いのが編集長、次が副編集長、デスクはその次だよ」
                     子どもに言い聞かせるような丁寧な口調に、川畑はふんと鼻を鳴らす。
                    「なんだ、中間管理職ってとこか」
                    「うちの雑誌部署は大所帯なんでね。二十九歳でデスクっていうのはこれでもわりと早い出世なんだよ」
                    「へえ」
                    「川畑は? いまはどうなんだ。仕事はうまくいってるのか?」
                    「当たり前だろう」
                     ふぅっと煙を細く吐き、川畑は笑った。
                    「今年の年収は軽く一千万を超えた」
                    「それは凄いな。うまくいってるようで安心したよ」
                     穏やかな笑顔で工藤は頷き、銀色の小皿に盛られたナッツをぱりぱりとかじっている。
                    「おまえはやり手だったもんな。これからますます忙しくなるんだろうな。もう結婚したのか?」
                     なんでもない調子で言われただけに、危うく最後の言葉を聞き落としそうになった。
                    「まさか。いまは忙しくてそれどころじゃねえよ。最近、上司から見合いだのなんだの持ち込まれるのがうざくてさ。こっちはそんなつもりねえのに。女も子どもも面倒なだけだろう」
                    「でも、いつかは結婚するんだろう」
                    「まあ、そのうちはな。うちの仕事はいろいろと体面上に気を遣うんだよ。そのうち、偽装でもなんでも結婚しなきゃいけねえんだろうなあ……。その点、工藤はいいよな。うるさいこと言われるような仕事じゃないんだろ?」
                    「個人主義だからね。ちゃんと仕事してりゃ文句を言われることはない」
                     グラスの縁をなぞったあと、濡れた指先を軽く口に含む男の横顔は年相応の落ち着きを備えている。
                     デスクという、川畑にとってはわけのわからない立場にありながらも、まあそこそこの仕事はこなしているのだろう。前につき合っていたときだったら、さっきのような軽口はただじゃすまされなかった。
                     同じ社会人で宮仕えにあっても、証券会社と出版社ではまったく雰囲気が異なる。
                     神経質な工藤のほうがよほど、銀行と同じく一円の金にもうるさい証券会社に似合っていると思うのだが、実際には、うさんくさいのと自由なのと紙一重の業界に身を置いている。人間の本質と、その当人が抱く欲望はかならずしも一致するわけではないといういい見本だろう。
                     それを言うなら自分だってそうだが、幸いにも川畑は自分のなかにある矛盾というものに頭を痛める悪癖がなかったので、自己嫌悪に陥ることは数少なかった。
                    「あれから何人と寝た?」
                     振り向いた工藤がぽつりと呟き、「何人?」と川畑も聞き返す。
                    「覚えてないな。そんなもんいちいちメモしてるわけじゃないし」
                    「おまえはそういう奴だったよなぁ……。よくそれで誰にも刺されないのが不思議だよ」
                    「人徳、人徳」
                     自分で言っていてもさすがに空々しいなと可笑しくなった。刺されることまではなくても、工藤をはじめ、別れる際に揉めたことは数かぎりない。だけど、工藤はそのなかでもとびきり、もっとも記憶に強く残っている男だ。
                    「死んでやるって言われて本気でやられたのはおまえぐらいだよ」
                    「そうだろうね。川畑のために死ぬのなんかもったいないっていまじゃそう思うのにな。あのときはどうかしてたんだ」
                     思い出し笑いをする工藤は、四年前に睡眠薬を大量に飲み、自殺しかけた過去がある。
                     妙に神経質になったり、かと思えばひどく饒舌になったりと、あの頃の工藤はとかく浮き沈みを繰り返していたため、心療内科に通っていた。薬はそこでもらったものをため込んでいたらしい。
                     睡眠薬を飲んだからと言って、眠るようにたやすく死ねる幻想は物語のなかだけだ。発見したのは川畑だった。こっちから別れを切り出したその夜、一度は家に帰ったものの嫌な予感がして再度彼の部屋を訪ねたところ、丸く白い錠剤を床にばらまいた工藤を見つけた。幸いにも薬を摂取してからそう時間が経っていなかっただけに症状は軽くすんだが、本人にとって胃洗浄は思いのほか苦しかったらしい。
                     自殺未遂の騒ぎを起こしたあと、川畑は一か月近く彼に付き添った。このまま見捨てるのはさすがに鬼畜生だと想ったからだ。しかし、工藤からはひと言の礼も聞かれなかった。
                    『死に損なったことさえ恥だ』
                     そう言っていた。
                    『おまえなんかに付き添ってもらう覚えはない』とまで言われ、川畑も『そうだよな』と頷いたのだが、あのときだけは唯一、自分のなかにある良心が揺り動かされた瞬間だったのだろう。文句を言われながらも毎日見舞いに行き、まったく顔を見せない工藤の家族の代わりに身の回りを世話してやった。工藤の両親は健在のようだったが、自殺未遂で運び込まれたという不甲斐ない場面を見せたくなかったのだろう。『絶対に連絡するな』と言い渡されたので、『わかった』とだけ言った。工藤自身とつき合っていることは了承していたけれど、彼の家族にまで会うつもりは一切なかった。
                     言い換えれば、工藤にまつわる過去とか未来とかなんてものに触れる気はしなかった。いつだって川畑の中には、「いま」と「いまつき合っている男」しかなかった。そして、そのときすでに工藤は「過去つき合っていた男」という存在になっていたのだ。
                     川畑は自分がろくでもない男だとよくよくわかっていた。そんな自分に自信を持つわけではない。むしろ、この飽きっぽい性格はどうしようもない、手がつけられない、けっして死ぬまで治らない病気みたいなものだと諦めていた。だから、別れるときも素直にそう告げた。
                    『工藤が嫌いになったわけじゃない。俺はだめなんだ。誰かひとりとずっとつき合うって考えただけで息が詰まるんだ』
                     彼の部屋の玄関先、長い棒を飲んだようにしゃちほこばっていた工藤は、川畑が別れたい旨をつらつら話しているあいだ、ずっと真っ青な顔をしていた。
                     彼とつき合った日数を数えてみると、半年にも満たなかったと思う。それでも、自分にしてはよく保ったほうだ。約半年のうち、四か月近くは工藤ひとりに絞っていた。キブラで知り合ったときから、彼の性格の脆さに気づいていたからだ。
                     端正な顔立ちをしている工藤に声をかける男は多かった。自分を含め、誰とでも簡単に寝る奴が多いなかで、彼のまとう硬質な雰囲気に惹かれる者は後を絶たなかった。隣り合って座った同士、気さくに喋ったとしても、工藤はなかなか他人行儀な態度を崩さず、キブラの中でもちょっとした存在感を誇っていた。
                    『誰かと親しげに喋ってるってとこ、アタシも見たことないのよねえ』
                     いつだったか、耀子ママが気遣わしげな顔をして言っていたことがある。
                    『うちの店に来てくれるようになってずいぶん経つんだけど……あれだけの顔してんだから、ほかにちゃんとした恋人がいるんじゃないかって話にもなったんだけどね。週に三回もうちに来るところを見ると、どうもそうじゃないらしいのよね』
                    『男には興味があるけど、やったことないから怖いってだけじゃねえの』
                     川畑がそう言うと、耀子ママはさも可笑しそうに笑っていた。
                    『世の中の男みんながみんな、川畑ちゃんみたいに種馬じゃないのよ。やるだけやってハイおしまい、なんて、いつまでもそううまくいかないんだからね』
                     さらりと言われた嫌みは、さらりと聞き流すにかぎる。ほんのちょっと体温を分け合い、触れ合って、気持ちよくなって、射精すればどんな関係だって片が付く。川畑はそう信じていたし、いまでもそう思っている。
                     気まぐれに工藤とつき合っていたあいだ、彼の神経の細やかさに免じて四か月ほどは彼ひとりを抱いていたが、性格的な欠陥は簡単に直るものではない。五か月目に我慢できず、キブラで知り合った男を抱いたのをきっかけに、自制心はぼろぼろと崩れていった。
                     男同士のつき合いでも、ほかの相手にこころを移すことを浮気と言うのだろうか。もしそう言われたとしたら、川畑は失笑していたと思う。
                     こころを移した覚えはない。ただ寝ただけだ。誰かを傷つけるつもりはないし、気持ちよくなりたかっただけだ。
                     そんな調子でほかの男を抱き、確か四人目あたりで工藤にばれたのだった。その頃にはもう、工藤の思いつめた表情が日に日にこころに負荷をかけていたから、事がこれ以上こじれないうちに「俺たち、別れたほうがいいんじゃないか」と切り出した。
                     もちろん、工藤が素直に了承するはずはないと思っていたけれど、まさか自殺未遂を起こすとは思わなかった。
                     あのとき彼を助けたことが唯一の良心の働きだというなら、あれだけ動揺したのも生まれて初めてだった。
                     もっと簡潔に言えば、工藤が怖いと思ったのだった。たかだか自分と別れるだけだというのに、死にたくなるなんて。そこまで愛されてしあわせだと言える奴は、よほどおめでたい頭をしているとしか言えない。
                     他人が生きるも死ぬも、自分の行動ひとつにかかっているとわかったら、誰でも逃げ出したくなるものではないだろうか。
                     身体がもとに戻るまでのあいだ、彼のそばにいたときも、ずっとそんなことを考えていた。ここでもし、ずっとおまえについててやると言ってやれたらどんなにいいだろう。悲しませて悪かった、そこまで追いつめてごめんなと言えれば、万事めでたしめでたし。キブラでも話題もちきりになり、窮地を乗り越えたふたりとして語り継がれたかもしれない。
                     だけど、やっぱり現実はそんな甘いものではない。しあわせな終わりを迎えたふたりはつかの間どこか誰かの寂しい胸を慰める物語になるけれど、すぐに忘れられる。思わず目をそむけたくなるような局面を経ている者たちほど、周囲は好奇の目をかがやかせ、最後はどうなるかと興味津々に食らいつく。
                    『あいつらどうなったんだよ』
                    『別れるとか別れないとか、まだごちゃごちゃやってんじゃねえの?』
                     これが自分の身に起こっているのじゃなかったら、川畑も話題に乗っていたことだろう。笑い混じりにふたりの行く末を勝手に予想し、案じるふりをして良識派の仮面をかぶってみたり、はたまた毒舌とともに嘲笑してみたり。
                     酒の席には欠かせない、他愛ない噂話のひとつとして口をすべらせたとたん、誰も彼もが、自分がいちばんこの件についてよく知っているのだという顔で勝手なことを言いふらす。
                     川畑もよくそんな話で楽しんだ。そんなとき、まさか自分がいつか槍玉にあげられるかもしれないなんて想像するはずがない。これは罪のない噂話だ。実際には、自分にはなにひとつ関係のない話だ。知った顔で一席ぶつのは誰だって日常的にやることで、咎められることではない。真剣な顔をしていても本音はそうじゃなく、単なる場つなぎとしての話題。口裏を合わせるだけで明日になったら忘れてしまう、そんな軽さで話し合う。
                     だが、いざ話題の中心人物になってしまったら、そんなことはもう言えなくなる。
                     他人の恋について好き放題言っていた頃、当人たちもこの噂を耳にしないことはないだろうと不思議に思っていたことがあった。
                     勝手なことを言うな、それは事実と違うと、どうして言わないのだろう。でたらめが事実として吹聴されることに、なぜ怒らないのか。そんなふうに考えていたことがある。
                     しかし、いまの川畑はあの頃よりも年を重ね、経験も積んでいる。というわけで、抜き差しならない事態に足を踏み込んだとき、口を閉ざすのが賢いのだとわかっていた。
                     ほんとうの意味での窮地に立たされた者は、怯えることしかできないのだ。噂話に興じる者など放っておけばいい。いまおまえたちが嬉々として口にしていることはすべてでたらめだ、といちいち指摘してまわる暇はない。ほんとうに恐れなければいけないのは泡のように不確かな存在である彼らではなく、ある日いきなり突拍子もない形で人生に食い込んでくる工藤のような男だ。
                    「工藤のほうはどうなんだ。いま誰かとつき合ってるのか?」
                     彼が隣に座ってから五本目の煙草を深く吸い込んだ。いつものペースから考えると相当に早いという点では、自分もそれなりに緊張しているのだと認めなければならなかった。
                     工藤が退院したあとも彼の部屋に通い、見舞いで持っていった花束を投げつけられて以後、一度も――この店でも顔を合わせなかった男が、今日来てみたら普通の顔をしてスツールに座っていたのだ。驚くのも無理はなかった。
                     川畑のほうは以前と変わりなく、ずっとキブラに通っていた。工藤とのあいだのことは常連客にすでに知れ渡っていて、耀子ママでさえ渋面をつくっていた。
                     よくある別れ話に逆上した挙げ句、自殺未遂を起こした工藤に皆、恐れをなしただろうけれど、やはりこの場合、責められるべきは川畑であって、しばらくは誰も話しかけてこなかった。
                     そこでもまた、川畑は自分の破綻した性格に向き合うことになった。
                     工藤のことは確かに予想外の出来事だったが、だからといってキブラに出入りしてはいけないと言われたのではない。あるとき耀子ママにはっきりとそう言ったら、なんとも言えない顔を向けられたっけ。
                     ゆるく流れる煙に顔をしかめ、工藤が「……いたり、いなかったり」と呟く。
                     つき合う男がいたり、いなかったり。
                     そんなふうに言い表す彼の私生活は、どうなっているのだろう。川畑がよく知っていた頃の彼はいまよりもっと硬度なバリアを張り巡らせていたものだ。なにを話すにしても、寝るときでも、こっちのやることなすことをいちいち確かめるような目つきをしていた。
                     いまはそのバリアが薄く透けた膜に取って変わったように見える。指先でつつけばぷつんと穴が空き、なんとも言えない艶やかな感情があふれ出しそうな錯覚にとらわれる。
                     しかし、その艶は以前にも増して不健康なものだ。エロティックではあるものの、崩れている。
                     そんなところにまたも惹かれたといったら、呆れられるだろうか。
                    「なあ」
                     深く考える前に、川畑は火を点けたばかりの煙草を灰皿に押しつけていた。彼の吐息が感じ取れるほどに顔を近づけ、囁いた。
                    「俺とこのあと――」
                    「そのつもりだった」
                     やんわりと言葉を遮った工藤が微笑む。
                    「今日、この店でおまえが隣に腰掛けたときからそのつもりだったよ」
                     くどくのにもう少し手こずるかと思っていたから川畑は拍子抜けしてしまい、「……いいのか?」と呟いた。
                    「おまえ……」
                     四年前のこと。忘れたわけじゃないだろう。あれはもういいのか? もう終わったこととして片づけていいのか?
                    「リストカットして傷が残ったわけじゃない。おまえはどうも俺のことを勘違いしているようだから言っておくけど、そんなに繊細にできてるわけじゃないよ。二十九にもなって古傷に泣いてる男なんているはずないだろう」
                     肩をすくめて笑う工藤が目くばせしてきたので、「そうだな」と川畑もほっとして笑い返した。
                     だが、胃の底に正体のわからないしこりがある。
                     どうして今日、ここで会ったのだろう。

                     内にこもりやすい性質をのぞけば、工藤は理想的な男だ。それは当時もいまも変わらない。
                     今夜の彼の肌は四年ぶりとは思えないほどのなめらかさでなじみ、川畑の強引な要求にもほぼ完璧に応えた。
                     均整の取れた身体もあまり変わっておらず、うしろから抱え込んだときに背中に走る深い溝もくっきりしていた。
                     ただ、ちょっと変わったなと川畑をおもしろがらせたのは、みずから進んで奉仕する点だ。前は、嫌がる彼を何度もあやさなければ望みどおりのことをしてくれなかったのに、今夜は彼のほうからのしかかってきた。
                     苦しげに川畑のそこを咥える昔の工藤も禁欲的でよかったけれど、別れていたあいだになにかを吹っ切ったらしい。熱っぽい息を混じらせて、物欲しげな顔で指を添えてくる男の髪をきつく掴み、川畑は猥雑な舌遣いをこころゆくまで愉しんだ。
                     工藤の舌はくねり、ねっとりと這い回る。まるで男のそれをしゃぶるのが好きでたまらないというようなあられもない仕草に興奮させられた。
                    「どこでそんなの覚えてきたんだよ」
                     馬乗りになった工藤は、先端の割れ目からあふれる先走りを舐め取るのに夢中になっていて答えない。
                     キブラを出たあと、これまたよく行くホテルに直行しようとしたが、工藤が「俺の部屋に来ないか」と言ってきたので、そうした。
                     タクシーに乗ってわりとすぐの場所にある彼のマンションは別れたときと同じで、室内もたいして変わった様子はなかった。
                     川畑が住んでいる部屋と似たような、2DK。そこに工藤はいまもひとりで住んでいるらしい。寝室のカーテンは深い緑で、深夜のいま、きちんと閉じられている。ベッドの片隅には朝脱いだままの形でパジャマが置かれていた。さっき、それを川畑が足の爪先で蹴り落とした。
                     いやらしく音をたててしゃぶる工藤の目元が赤いのも、カーテンが緑だとわかるのも、ベッドの脇に置いたフロアライトがほんのり点いているからだ。この点も、前とは違う。以前は、室内が少しでも明るいと嫌だと言っていた。
                     ――恥ずかしい。見られたくないから嫌だ。
                     拒否されればされるほど、無理をきかせたくなるのだとあの頃の工藤はわかっていたのだろうか。だとしたら、ずいぶんなやり手だったと笑うしかないが、本心から言っていたことは川畑も知っている。
                    『おまえの嫌がる顔にそそられるんだよ』
                     一度はっきりそう言ってやったら、工藤はほんの一瞬、泣き出しそうな顔をしていた。彼がかならず泣くとわかっていて四つん這いにさせ、奥深くまで犯してやるのも好きだった。工藤はその体位が好きなくせに、いつもいつも抵抗していた。きつく締め付けるところを意地悪く、甘く抉り、どうにもならなくなる頃までゆっくり揺すってやると、最後にはきまって彼のほうが耐えきれずにねだってきた。
                     本気で無理強いをしたという覚えはない。いわゆる強姦罪というのが男同士にも適用されるとしても、工藤とのあいだに起こったことはすべて合意の上だ。互いにわかっていて、焦らし焦らされる。それが楽しいからやっているだけだ。
                    「川畑……」
                     せっぱ詰まった声に瞼を開けると、工藤が口元を拭いながら身体の位置をずらしている。川畑のそこを掴み、自分から受け入れようとしている姿は初めて見るものだった。
                     いまどきこんなものはめずらしくない、ありふれた光景だとしても、以前の工藤を覚えている身としてはやはり驚きを感じずにはいられなかった。
                     四年前の彼は、とてもこんなことをできるような度胸も欲望も持ち合わせていなかったのだ。川畑のすることにかならず怯み、狭いベッドで逃げまどう素振りさえ見せていた。
                    「自分でできるのかよ」
                     ちょっとだけ腰を浮かし、猛々しくそそり立ったそれで工藤のそこをつつくと、「――あ」と息を呑む気配に続き、ぐらりと身体が揺れる。
                    「……無理するなよ」
                     腰を支えて位置を変えようとしたが、止められた。
                     汗ばんだ胸を反らし、少しずつ、少しずつ受け入れていく工藤の顔が苦痛で歪んだのは一瞬だ。屹立したものを中ほどまで受け入れたところで動きを止め、かすかに息を漏らて視線をまっすぐ合わせてきたのをきっかけに、頬がさっと染まった。
                     川畑が掴んでいる腰も淫らに揺れ始める。肌という肌に継ぎ目がないのは当たり前、だけどまたたく間にこんなにも熱くなるなんて、なんだか魔法にかけられたような気分だ。
                    「っ……あ、ぁあ……っあ、っ……」
                     のけぞる工藤の喘ぎ声を聞いているだけで、じっとしていられなくなった。
                     この男は、自分と離れていたあいだに、どこでなにをしていたのだろう。しなやかな身体をばねのように反り返らせるところを、ほかの男にも見せてやったのだろうか。そうすれば男はもっと感じるのだと教わったのか。乱暴にすればとろけてしまうような場所で締め付けることを、ほかの男にもしてやったのだろうか。
                     火照る肌をまさぐり、硬くしこる乳首を思いきりねじったときも、彼は掠れた声で応えた。勃起したそこを扱いてやったときも、わずかに開いたくちびるから熱っぽい吐息を漏らした。
                     こんなにも熱くなるなんて。こんなにも感じるなんて。
                     四年前の彼が不感症だったとはけっして言わないけれど、見事に騙されたという感触が拭えない。
                     それでもいい。諦め悪く抵抗する彼にもそそられたけれど、一線を飛び越えたようないまの工藤の目つきはもっといい。
                     川畑の胸を突っぱね、腰を揺らす男は新鮮に見える。ときどき思い出したように汗のにじむ額に触れる髪をかき上げる仕草も、川畑が突き上げてやるとくちびるをきつく噛むのも、次の瞬間にはもっと深く求めてくるところも、なにもかもが前とは違う。
                     彼の目のなかに、色とりどりの光の欠片が浮かんでは消える。フロアライトが反射し、色素の薄い工藤の虹彩をよけいにあざやかなものに変えていた。
                     虹は彼のなかでかがやき、ほとばしり、跳ね飛ぶ。狂的な光はきらきらしていて、とても綺麗だ。
                     光の欠片が川畑の意識にも刷り込まれるようだった。

                     工藤とまたつき合うことになったことを最初に知って驚いたのは、当然といえば当然か、バー・キブラの耀子ママだった。
                    「ホントなの、その話」
                     疑わしげに訊きながらも、ママは手にした薄い布でグラスを拭い続ける。
                    「ホントもホント。再会してもう一か月になるかな」
                    「焼けぼっくいに火がつくってのはよく聞くけど、アンタたちの場合はねえ……。工藤くんの前のことを思うと、素直に喜べないわよ」
                    「どうして?」
                     眉尻を下げて笑うと親しみやすさがにじみ出て、とても魅力的に映ることを川畑は自分でよくわかっていた。
                    「そりゃまあ、前はいろいろあったけどさ。いまはいまだろ。あいつもとくにつき合ってる奴はいなそうだし、べつにいいんじゃねえの」
                    「アンタは相変わらずね。その歪んだ性格、どうにかなんないの」
                     店のママという立場にあるなら、たとえ客の事情を聞いても嫌悪感を示すことはタブーだろうに、いまの耀子ママはそれこそ掛け値なし、むっとした顔だった。
                    「アンタとも長いつき合いだし、いまさらどうこう言うつもりじゃないけど。工藤くんがどんな子かは嫌ってほどわかってるんでしょう」
                    「ああ、知ってるよ。俺が別れるって言ったら、死にそうになった」
                    「だったらどうしてまた手を出すの!」
                     耀子ママが磨いていたグラスをガンとカウンターに叩きつける。
                     平日の夜八時、キブラに来ているのは偶然にも自分だけだった。これでほかの客がいたら、いいからかいの種になっていただろう。
                    「四年も経てば人間変わるだろう。あいつも変わったんだよ」
                    「アンタはちっとも変わってないじゃない」
                    「俺は変わる必要性はないよ。工藤はちょっとばかり神経が細すぎたんだ。いまじゃ俺とのつき合いも楽しんでるみたいだしさ、文句ねえだろうが」
                     呆れた、とため息を漏らすなり、耀子ママはふきんをぽいと放り出し、そばにいたボーイを呼びつけ、「アンタが相手しなさい。アタシはこの子の顔を見てるだけで頭きちゃうの」と言い捨てた。
                     それでもなお、控え室に姿を消す寸前、耀子ママは険しい顔を向けてきた。
                    「今度もし工藤くんになにかあったら、アンタ、この店出入り禁止だからね」
                    「なにもないって。心配しすぎだよ」
                    「……だったらいいけどさ……、一度ぐらい、あの子をしあわせにしてやんなさいよ」
                     ごつい顔を曇らせたまま控え室に引っ込んだママの代わりに、ボーイのヒロシがあやふやな笑顔でカウンター内に立つ。彼も四年前の騒ぎを知っているひとりだ。
                    「今日はおひとりなんですか」
                    「いや、もう少ししたら周一が来ることになってるんだ」
                     くわえた煙草に火を点けてもらい、川畑は「サンキュ」と言い足した。
                     今日は校了明けだから、早めにあがれると言っていた。
                     周一、と前のように呼ぶようになったのは、再会した晩からだ。彼がそう呼べと言ったのだ。
                     川畑の肩を強く掴んで貪欲に求める最中、何度も耳元で言っていた。
                    『俺の名前を呼べよ。覚えてるだろう』と。
                     そう言われたから呼んでるに過ぎないが、こころのどこかにはあの日以来、ねじくれた快感が巣くっている。透明な糸は日に日に幾重にも川畑のこころに絡みつき、ある種倒錯した楽しさを味わわせてくれた。
                     工藤、もとい周一は芯の強い男だが、その反面、脆すぎるところがあったために、全体のバランスが取れていなかった。だから、川畑と別れるときもあれだけの騒ぎを起こしたのだ。一見、冷静に見えても、ひどく動揺させられることがあるとそのことだけに囚われてしまう。よく言えば一途な性格なのだろうが、それも度を越せば鬱陶しい。
                     久しぶりに会った彼のバランスは、ますますおかしなことになっていた。男同士ならば力も拮抗しているし、感じるところも分かり合える。とくにうしろめたい理由がないかぎり、どちらかが一方的に弱い立場に追いやられることがない。
                     その点、以前の周一は、どんなことにおいても受け身に回るタイプだった。臆病で、胸の奥に多くの望みを抱えていてもたやすく口にすることができない。川畑のような男とつき合えば、間違いなく振り回される側だった。
                     だが、いまの彼には臆病なところなど微塵も感じられない。代わりに、奇妙な自信が備わっているようだ。その根拠は四年離れていた川畑にはわからないもので、なにが前とどう違うのか明確に言い表すことはできなかったけれども、なめらかな視線や仕草が以前の彼とは違うことを物語っていた。
                     川畑に抱かれながらも、実際のリードは周一が握っている。どんな手順で始めるかも、いついかせてもらえるかも、周一が全部決めていた。
                     さまざまなやり方で川畑を感じさせる男は甘く喘ぎながら、「名前を呼べよ」と囁く。「もっとこんなふうに――」と淫猥な目つきで誘い込んでくる。「もっと」に続く行為は、男に慣れた川畑でも目を丸くすることが多かった。
                     彼を抑制していたのは、たった一本のねじだったのだろうか。それがなにかの拍子に吹っ飛んでしまい、硬い鋼のうろこがばらばらと剥がれ落ちたから、あんなにもなめらかで凄絶な本性が剥き出しになったのだろうか。
                     一昨日は映画館でやった。映画が始まって十分もしないうちに舌なめずりする周一が手を伸ばしてきたので、どんな内容だったかさっぱり覚えていない。
                     彼の目に浮かぶとめどない欲望を見ると、こっちも抑えがきかなくなってしまう。男同士がそういう目的で使う専門の映画館ならいざ知らず、一昨日は普通のひとびとが足を運ぶところだ。割合空いていたから、川畑の隣も周一の反対側もひとがいなかったけれど、ぬめった淫らな音に気づくひとがいないとも言えない。
                     コートに隠れさせて川畑のものを愛撫する手つきに負け、「おまえもしてほしいか」と訊いた。すると周一は内緒話をするようにくちびるを近づけ、「触りたいんだろう。おまえのここ……凄いじゃないか。ちょっと触っただけでぬるぬるになってる」と笑っていた。
                     こんな言い方をする彼も、初めて見た。誰がなにをどう言うか、他人のことはどうでもいい。問題は、周一だ。周一が場所もわきまえずに不埒なことをしでかし、口にするというのがいまもって川畑には信じられない。それでいて、快感のためにかすかにひび割れた声を聞くとどうにもたまらなくなるのだ。
                     一昨日は映画館、その前は公園、そしてその前は――思い返せばこの一か月、あまり間を置かずに周一を抱いている気がする。この新鮮味がいつまで続くか、当事者である自分ではなく正真正銘神のみぞ知るというところだが、いまのところ彼以外に興味を惹く者はいなかった。
                     離れていたあいだ、彼になにがあったのだろう。前は真っ暗な寝室でしかやらせてくれなかったのに、いまじゃいつでもどこでも彼が「したい」とひと言呟けば、そこが押し殺した喘ぎを漏らす場所になる。
                     いったいどこの誰と、どんなことをしてきたのだろう。
                     それを考えると、いつだって胸騒ぎがする。どことなく落ち着かない、不安定な感じがする。
                     よく知っていた男がまったく知らない男になって戻ってきたというのは、川畑の興味を惹きつけてやまなかった。
                     もしかしたら、無理しているんじゃないか。虚勢を張っているんじゃないかと最初は疑いもしたが、一か月も経ったいまとなっては、周一の振る舞いはごく自然なものであると川畑も認めていた。
                     いくつもの夜に繰り返された不埒な指先の余韻に浸っていると、キブラの重い扉の開く気配がする。目を転じると、彼だ。外ではいつの間にか雨が降り出したらしい。きらきらしたしずくを散らせた髪を軽く振り、周一は隣に腰掛けてくるなり、カウンターに投げ出していた川畑の手を掴む。
                    「出よう」
                     飲み物を一杯注文するでもない周一と、ちょっととまどっているボーイのヒロシを交互に見やり、川畑はスツールから降り立った。こういう周一はいまに始まったことじゃない。目が合った瞬間に胸をかき乱すような声でねだる男を前にして、おとなしく酒を呑んでいられるほど川畑は老成していないのだ。

                    「この部屋、広いよな。家賃いくらだっけ」
                    「十三万ちょっとかな」
                     いつものようにタクシーで周一のマンションに行き、すぐにも始めるのかと思っていたが、今夜はちょっと順序が違うらしい。綺麗に片づいたリビングに川畑を通したあと、周一は対面式のキッチンで料理をつくり始めた。
                    「腹が減ってるんだ。今日は忙しくてろくに食べる暇がなくて」
                    「構わないよ」
                     ジャケットを脱いだ川畑はソファに深々と腰掛け、ぐうっと足を伸ばす。
                     二月の夜、ワイシャツ一枚でも室内は暖かい。さっき、タクシーで帰ってくるあいだ、雨はみぞれに変わる兆しを見せていた。薄暗い道を寂しげに照らす電灯に、湿ったしずくが慎ましやかなかがやきを放っていたことをなんとなく思い出しながら、「それにしてもおまえ、料理できたのか」と返すと、慣れた手つきでほうれん草を刻んでいた周一が軽く眉をはね上げる。
                    「長いことひとりで暮らしてれば、料理のひとつやふたつ覚えるだろう」
                    「そうかな。俺は面倒くさくてやらないよ。疲れて帰ってきて、さらに疲れることなんか。だいたい、ひとりで食べるのもつまらないしさ」
                    「……前におまえにも何度かつくったんだけど。覚えてないか?」
                    「全然」
                     ちっとも覚えていなかった。川畑にとって食べることはあまり大切じゃない。最悪にまずくなければ構わないという程度で、おいしかったものに対する記憶も不確かだ。周一に言われてみれば、何度か彼の手料理を食べた気もするけれど、どんなメニューだったか、どんな味だったか思い出せなかった。そして、そのことを正直に告げるのに、いささかのためらいも感じなかった。
                    「そうか」
                     フライパンに油をひいている周一は気のない返事だ。すぐににぎやかな音が聞こえてきた。
                    「なにつくってるんだ?」
                     興味を覚えて、川畑はカウンター越しにキッチンをのぞいた。
                    「たまごとほうれん草の炒飯。おまえも食べるか?」
                    「食べる食べる。ああ、いい匂いだなあ」
                     くんくんと犬のように鼻を鳴らす姿に、周一が可笑しそうに笑う。
                     できたての炒飯はとてもおいしかった。炒ったたまごが可愛い菜の花のようで、ほうれん草はあざやかな緑のままだ。さくさくした味わいも楽しい。
                     綺麗に平らげたあと煙草に火を点けると、周一が皿を片づけ、灰皿を出してくれた。
                     そういえば彼は煙草を吸わないのだっけ。この部屋に何度も足を運んでいた四年前も、いつもこうして川畑のためにガラス製の灰皿を置いてくれていた。
                    「悪いな」
                     周一は微笑んだだけでなにも言わず、渦を巻く煙を追っている。
                    「相変わらず綺麗に住んでるんだな」
                    「片づいてないと落ち着かないんだよ」
                     床に置いたクッションに座り、周一はビールをグラスにそそいでいる。グラスには指紋ひとつついていない。きっと、普通に洗うだけじゃ気がすまず、キブラで使うような特製の布を使って磨いているのだろう。
                    「おまえぐらいきれい好きだったら、キブラの耀子ママも喜ぶんじゃねえの? ほら、いま出版業界ってヤバイっていうじゃん。万が一リストラされたら、キブラで雇ってくれるよ」
                    「俺にボーイが務まるとは思えないけどね。愛想がないし」
                    「そりゃ言えてる。もったいないよなあ、いい顔してんのによ」
                     ビールを呑み、煙草を吸い、川畑はとりとめなく喋り続けた。煙草の灰がスラックスにぱらぱらと散り、それを無造作に手で払う。テレビをつけず、音楽も流していないから、室内は静かだ。
                    「料理も旨いし、部屋も綺麗。おまえみたいなのと一緒に暮らしたら楽だろうな」
                     こういうことがつらっと言えるのも、川畑ならではだった。
                     良心が揺り動かされたのは、かたわらで強張った顔を見せている男が死にそうになったあのときだけ。彼が受けた傷の深さも、実際の痛みも、川畑にとってはあくまでも他人事だ。
                     煙草の煙がふっと揺れる。周一が立ち上がり、隣に腰掛けてくる。
                    「……川畑さえよければ、一緒に暮らさないか? いまのところ俺は決まった相手がいないんだ」
                    「え?」
                     聞き返した瞬間、周一がにこりと笑う。常日頃の頑なさも嘘のように思える完璧な微笑みに思わず見とれ、最初に彼に声をかけたときのことを思い出した。
                     四年前、キブラの片隅でひとり呑んでいた周一に耀子ママがなにごとか話しかけていたのを見たのが、最初だ。ママの言葉に、声をたてずに微笑んだ男を三つ離れた席から見ていた川畑は、彼のくちびるの動きに目を奪われて声をかけたのだった。
                     周一が声をたてて笑うことはまれだった。内気な性格らしく、川畑とつき合っていたあいだも、なにか可笑しいことがあったところで静かに微笑むことがほとんどだった。
                     ちょっとのあいだ黙ったのを勘違いしたらしい。周一が目にかかる髪をかきあげ、「前のことは忘れてほしいんだ。……ああいうのは、もうしないから」と言う。
                     ああいうの、がなにを指しているか、すぐにわかった。死に損なったことだろう。これに対する当てこすりを言うのはさすがに大人げないと思ったので黙っていたが、同居の件についてはどうすべきか。彼のように気の利く男と暮らすのは確かに便利だろうけれど、それはそれでいろいろと問題が出てくるはずだ
                     さしあたっては、この四年のあいだに自分がまったく変わっていないということが問題だ。キブラの耀子ママにもそう言ったことは決して自己卑下でもなんでもなく、れっきとした事実を述べたまで。
                     ここでもし、「やっぱりおまえが好きなんだよ」とか、「俺は川畑がいなきゃだめなんだ」という言葉が周一の口から出たら、同居の話はなかったことにするつもりだった。
                     四年前も、周一は暖かなオレンジ色の灯りがついた玄関先で、小説か映画のなかでしか見られない言葉をいくつも言っていた。
                    『俺を捨てないでくれ』
                    『川畑がいなかったら生きていけない』
                    『おまえと別れたらこの先、どうしていけばいいかわからない』
                    『どこにも行かないでくれ。俺から逃げないで』
                     顔色は真っ青だったが、泣いていなかったと思う。
                     一緒に暮らせば、またもあの凍り付いた顔を拝むことになるのかもしれない。
                    「川畑?」
                     首を傾げてのぞき込んでくる周一が、くちびるを色っぽくつり上げる。目元も頬のラインも鋭いのに、そこだけがやけに扇情的だ。
                    「俺はあの頃と違うよ。そのことはもうわかってるんだろう?」
                     鼓膜に忍び込んでくる囁き声に、どうして抗えるのだろう。あのときだって、こんな声で囁いてくれたら別れなかったかもしれない。
                     このあいだ、七色が見えた周一の目に今夜は薄い青が浮かんでいた。リビングにかかっているカーテンの濃い青を映す目は、まばたきするたびに深みを増していく。
                     頭で考えるのではなく、こころに従え。周一自身が、あの頃と違うと言うなら、そうなのだろう。
                     二十九年間ずっとそうしてきた川畑は結局のところ、物事を新しい局面に進ませるときに判断を下すのは冷静な理性ではなく、勢いのある衝動だと知っている。だから、この先どうなるかなんてことも想像せずに頷いた。
                    「わかったよ。一緒に暮らそう」

                    ***

                    「工藤さんとまたつき合ってるってほんとか? 一緒に暮らしてるらしいって聞いたけど」
                     キブラで久しぶりに顔を合わせた浅田諒一がグラス片手に話しかけてきたので、川畑も笑顔で「ああ、よく知ってるな」と返事した。周一は今夜、仕事で遅くなると聞いている。家でひとり食事をとるのもいやだし、仕事が終わったあと、近くの店で夕食を食べ、キブラに寄ったのだった。
                    「もう店中の噂になってるよ」
                    「へえ。暇人が多いんだな」
                     川畑の口の悪さにもめげず、浅田はちょっと肩をすくめて笑っている。
                    「よく了承したよな。あんなことがあったのに」
                    「まったくな。周一もよく俺みたいなひとでなしを選んだもんだよ」
                    「違うよ、俺が言ってるのはあんたのこと」
                     理知的なメタルフレームの眼鏡を押し上げながら、浅田はひとつため息をつく。
                    「工藤さんがどんな男か、あんた知ってるんだろう。それでよくもう一度つき合う気になったよな」
                    「どんな男かって、そりゃまあ、いまどきめずらしいぐらいに思いつめるタイプだよな。別れるって言ったぐらいで死にかけるんだから」
                    「怖いとか思わねえの」
                    「べつに。今度は一緒に暮らしてるんだし、あいつもバカな真似はやらないだろ」
                     周一との同居が始まって、すでに二週間が経っていた。彼のマンションに川畑が押しかけた形だが、もともと住んでいたマンションは解約せずにいる。「荷物をいっぺんに運ぶのが大変だろう」と言ったのは、周一のほうだ。
                    「……俺は工藤さんとつき合ったわけじゃないから、詳しいところまでは知らないけどね」
                     くわえ煙草の浅田は目を細めている。
                    「四年前の――自殺未遂は、あのひとにとって初めてのことじゃない。それは知ってたか」
                     思いがけない言葉に川畑は目を丸くし、首を振った。
                    「だろうね。じつはあのひと、あんたよりもずっと前からこの店に来てるんだ。俺もよく見かけたし、実際に誘われたこともある」
                    「おまえが? あいつに?」
                    「そう。有名だよ、工藤さんは男を喰うってんでね。あのひとはあんたの前にも二度、自殺未遂を起こしてるんだよ」
                     これにはさすがに驚いた。周一が誰かを誘うような度胸を持っているなんて。川畑の知っている彼というのは無口で、塞いだ顔ばかりしている。でもそれだって思い出に過ぎず、いまは自分と一緒に暮らしていることで落ち着いているようだ。
                    「陰口をたたくみたいで気が進まないけど、あのひとはちょっとまずい相手だぜ。だから、あんたたちが別れたって聞いたときはほっとしたぐらいだよ」
                    「いまは違うだろう。変わったんじゃねえのか」
                    「そんなに簡単に変わるもんかな」
                     思案顔の浅田にふと思いついて、「そのときの相手は」と聞いてみた。
                    「周一がつき合ってた相手は、いまどうしてるんだ?」
                    「知らないな」
                     浅田はすっと目をそらす。その不自然な仕草に、「嘘言うなよ」と声を荒らげた。少し離れたところで、耀子ママが心配そうな顔でこちらを見ているが、構うものか。
                    「悪いことは言わない。いますぐ工藤さんとは別れたほうがいい」
                    「どうして。そこまで言うなら、理由を教えろよ」
                    「聞かないほうがいいって」
                    「キブラのみんなは知ってるのか? 耀子ママも? ボーイも? 客も全員、周一がどんな男かって知ってるのか? それでいま一緒に暮らしてる俺だけが知らないのか? そんな変な話、あるかよ」
                     周一がどう言われているのか、ほんとうはどんな男なのか。知らないから怖いのではない。自分の知らないことだから知りたいだけだった。
                    「言うまで帰らねえぞ」
                     念を押すと、浅田が諦めたようにため息をついた。自分からこの話を切り出したことを後悔しているような面持ちだ。
                    「彼がつき合ってた男は、もう……」
                     語尾を曖昧にして口を閉ざした男を、川畑は胡乱そうに見つめるだけだった。

                    ***

                     浅田の不穏な言葉をどう受け取るか、しばし迷ったものの、川畑は結局、いちばん最良だと思われる方法をとった。
                     聞かなかったことにする。それでいい。いまのところ周一とはうまくいっているのだし、よけいなことで亀裂を生じさせたくない。
                     昔は昔、いまはいま、ときっぱり割り切れる性格だからこそ、周一ともまたつき合うことができたのだ。
                     過去の周一になにがあったのか、知りたくないわけではないけれど、どうしても突き止めたいというのでもない。
                     いまの彼は、自分と一緒にいることでしあわせそうだ。こっちはこっちで、欠けていたこころの一部を補ってもらえたようで、落ち着く。どこにも問題はない。
                     その夜、周一は午前二時を回った頃にようやく帰ってきた。彼はちっちゃなミニ・クーパーを持っていて、あらかじめ帰りが遅くなるとわかっているときは車で会社に向かう。今夜もそうだったのだろう。金属の鍵が擦れる音がベッドの近くで聞こえた。
                     先にベッドに入っていた川畑は、冷たい爪先がそっと寄りそってきたことで目を覚まし、無造作に彼を抱き寄せた。
                     周一の身体はいつも冷たい。熱くなるのはほんの一瞬で、抱いているあいだだけ。湿った髪から香るシャンプーの匂いは、自分と同じものだ。
                    『あのひとはあんたの前にも二度、自殺未遂を起こしてるんだよ』
                    『彼がつき合ってた男は、もう……』
                     ぼやける意識に、浅田の言葉が煙のようにふっと浮かんで消える。
                     そのあとに続く言葉はなんだったのだろう。
                     周一が寝返りを打ち、パジャマの襟にしがみついてくる。
                    「……起きてるか?」
                    「うん……」
                     寝ぼけた声で答え、川畑は瞼をこする。いまみたいな掠れた声を聞いたら、寝かせてもらえないのはここ二週間で承知ずみだ。
                     襟を掴んでいた指が胸元を這い、そろそろと下半身に下りていく。彼はこんなにセックスが好きだっただろうか。なにをするにも怖じけていた頃とは大違いだ。
                     笑い出しえたい気分を抑え、川畑はしだいに熱くなっていく身体を強く抱き締めた。

                    ***

                     前につき合ったときは四か月保った。それじゃ今回はどうなのだろうと、解けないクイズをひねくり回すような日々は、同居二か月を過ぎたあたりであっさり終わった。
                     周一の仕事が忙しいことを理由に、性懲りもなくキブラに通っていた川畑は、たまたまその晩店に来ていた新顔と気が合い、目くばせひとつでホテルに向かった。
                     名前も覚えていない男と忙しなく抱き合ったあと、周一のところとは違うシャンプーを使って髪を洗い、マンションに帰ったのは午前一時過ぎだった。
                     自分のマンションと、周一の部屋。両方の鍵がついたキーリングをコートのポケットから取り出し、扉の鍵穴に差し込んだところで首をひねった。
                     鍵が開いている。周一が先に帰ってきていたのだろうか。
                     さして深くも考えずに扉を開き、「ただい――」と言いかけたところで、川畑はぎくりとして立ちすくんだ。
                    「どこに行ってた?」
                     灯りも点けずに、真っ暗な玄関に周一が立っている。川畑の背後、廊下から差し込む灯りで、彼がコートを着たままだとわかった。
                    「周一? おまえ、帰ってたのか」
                    「どこに行ってたんだ」
                    「どこって……」
                    「ほかの男と寝たのか」
                    「なんでわかるんだよ」
                     隠すこともせず、言いつくろうこともしない川畑に、周一はしばらく黙り込んでいた。だが、見ているあいだにも無表情だったのがゆるゆる崩れ、くっと肩を揺らしたのをきっかけに大声で笑い出した。
                     その笑い声はしだいに大きくなり、壁に、天井に跳ね返り、川畑をぎょっとさせるのに十分だった。可笑しくてたまらないといった笑い声は、砲弾がばらばらとあたりに散っていくのにも似ていた。
                    「――おまえは変わらないな、川畑。前は四か月保ったのに、今度はたった二か月か。おまえの下半身のモラルってやつはどうなってるんだよ。最悪だ」
                    「しょうがねえだろう。俺は前にも言ったとおり……」
                    「そう、ひとりに絞ることができない性格だったよな。それはわかってる」
                     よくわかってるよ、と繰り返す周一がまっすぐ見つめてくる。
                    「……ずっと考えてた。おまえみたいに、罪の意識を欠片も感じずにいられたらどんなにいいだろうって。俺はおまえになりたかったよ、川畑。誰にも頼らずに、その場かぎりの快感を追えたら楽だろうな」
                    「周一」
                    「たぶん今回もおまえがこうなることは予想してたよ。どうせいつかはみんな俺に飽きる。また離れていく。いつもその繰り返しだ」
                     いま耳にした言葉が引っかかって、川畑は「みんな?」と眉をひそめた。どこからか、鼻を刺すツンとした匂いが漂ってくるが、いま気にかけなければいけないのは、笑いながらも尖った犬歯をのぞかせている男のことだ。
                    「おまえが初めてじゃない。おまえの前に二回ある」
                     周一の声は感情を欠いており、棒読みもいいところだ。
                     浅田から話を聞いていなかったら、周一がなにを言っているのか、まるきりわからなかっただろう。でも、知っている。彼が言いたいことを川畑は知っている。
                     ――俺の前にも二回。おまえは死にかけたんだ。
                    「どうしてなんだ。どうして俺はおまえみたいな馬鹿ばかり好きになる? ろくでもない男ばかり好きになるんだ?」
                     みるみるうちに周一の目に透明な涙が盛り上がり、頬にこぼれ落ちていった。
                    「……俺の前につき合ってた男ってどんな奴なんだ」
                    「おまえとそっくりだよ。自分のことしか頭にない、俺のことなんかちっとも考えてくれない、すぐに浮気して平気な顔してる奴ばっかりだ」
                    「どうしてそういう奴を選ぶんだよ」
                    「さあな。自分と違うからだろう」
                     鼻をすすり、乱暴に瞼をこする男がぐらりと身体をふらつかせ、壁にもたれる。その拍子に、彼の足下でゴツンとなにかが倒れる音がした。
                     川畑がうしろ手にゆっくり扉を閉めかけようとすると、「早く閉めろ」と周一が鋭く言った。それから二度、三度荒く息を吸って吐き、言葉を続けた。
                    「……おまえが変わってくれるかもしれないなんて、期待したわけじゃない。俺ひとりを愛してくれるなんて夢見たわけじゃない。だから、俺のほうで変わることにしたんだ」
                    「どんなふうに」
                    「もう少し前向きになろうかって、思ってさ」
                     彼とまともにつき合ったのは四か月と今回の二か月、合計半年。でも、泣くところを見たのは今日が初めてだ。別れると言ったときでさえ、彼は泣かなかった。顔色を変えていただけだ。それでいまは、泣きながらも笑っている。
                     おまけに、自分の言ったことに噴き出すことまでしたから、川畑もこんな状況にありながら、つられて笑い声をあげた。
                     ほんとうに変なことを言う。鬱屈した周一が前向きになるなんて、あり得ない。だけど、セックスの面でいえば確かに変わったと思う。場所を選ばずに求められるやり方には、確かに興奮させられた。
                     思ったままを口にすると、周一も「そうだな」と頷く。
                    「俺もこの二か月は生まれ変わったみたいに楽しかったよ。……俺はひとりじゃいられない性格なのに、どうしてだかいつもろくでもない奴を好きになるんだ。おまえみたいに、誰にも気兼ねしないでいられたらどんなにいいかって、何度も考えた。……おまえとつき合う前に二度、俺は死にかけてるんだ。理由はだいたい同じだ。俺がしつこいから、相手はいつも逃げる。馬鹿だよな、俺も。そういう相手ばかり選んでた」
                    「やさしい奴はいくらでもいただろうが」
                    「ああ。いたよ。絶対に俺を泣かせたりしない、大事にするって約束してくれる奴は数え切れないぐらいいたよ。でも、結局俺が惹かれるのはだめな男ばかりなんだよ。俺を愛してくれない奴ばっかり」
                     ハイカラーの黒いコートをはおったままの周一は暖かそうな生地を身体に巻き付け、ちょっとうつむいている。
                     どうして俺のような男を選ぶんだろう。前からそう思っていたが、その理由がなんとなくわかった。
                     ある種の病気みたいなものだ。
                     愛されないとわかっている相手を好きになり、こころを痛めることを、彼はひょっとしたら楽しんでいるんじゃないだろうか。
                     とすれば、自分たちのようなひとでなしは、可哀相な工藤周一が思う存分憐憫に浸るための引き立て役。ついていない彼の人生を飾るための小道具だ。
                    「……おまえさ、自分で望んで傷ついてるんだろう。わざと俺みたいな男を選んで、楽しんでるんだよな。こっちから別れを切り出すのだって計算に入ってるんじゃないのか?」
                    「そうかもな。……違うと思いたいけど、もうよくわからないんだ」
                     周一はまだ泣いていた。だけど、口元だけはどうにか微笑もうとしている。
                     彼が足を組み替えた拍子に、またコツンと音がして、空のガラス瓶が転がってきた。それに目をやる川畑の耳に、続いて、シュッと擦る音が聞こえてきた。
                    「周一」
                     匂いと、いま耳にした音に、弾かれたように顔をあげた。
                     ちいさな炎が周一の指の先に灯っている。
                     マッチの火は扉を閉めていてもゆらゆらと頼りなく揺れ、すぐにも消えそうだ。
                    「前の男は俺の嫉妬深さに耐えきれなかった。俺が自殺未遂を起こしたのは、興味を惹きたかっただけなんだ。なのに、あっちのほうが勝手に先に死んだ」
                     低く呟き、周一がマッチを吹き消す。
                     彼の言ったことを、どう理解すればいいのだろう。
                     ――興味を惹きたかっただけ。
                     狂言だったのか。俺のときも、芝居だったのか。ほんとうに死んでしまわないよう、薬の量を調節したとでもいうのだろうか。
                     白い錠剤を床にばらまき、うつぶせに倒れていた男が目に浮かんでくる。
                     ――なのに、あっちのほうが勝手に先に死んだ。
                     そこでふいに、浅田の言葉がよみがえってくる。
                    『彼がつき合ってた男は、もう……』
                     あれは、こういう意味だったのか。底知れぬ周一の執心に相手の男が追いつめられたというわけか。
                     まるで安っぽいドラマのようだ。いまどき、こんな展開ははやらない。信じられない。
                     笑い飛ばすことは簡単だが、川畑はできなかった。
                     室内であるにもかかわらず、周一の足下には水たまりが広がっている。それは川畑のところまで届き、独特の尖った臭気を放っている。
                    「川畑は、ひとりで食事するのが嫌だって言ってたな……。俺もひとりは嫌なんだよ。もう絶対に嫌なんだ。だから、四年ぶりにあの店で会ったとき、決めたんだ。もし、おまえとまたつき合ったとして、またほかの男を抱くようなことがあったら――いや、それは嘘だ。キブラにおまえが通ってるのは知ってた。再会したのは偶然じゃない……。何か月も前からおまえが俺の隣に座るのをずっと待ってたんだ……狙っていたんだ……」
                     そこで再び、マッチに火が灯る。暗闇のなか、どこからともなく生まれる炎は、周一の胸からこぼれ出てくるように思えた。
                     揺れる先端は赤く見えるけれど、周一の指を焦がしそうな細い木の軸の根本で炎は青く見える。それに照らされる彼の顔も、微妙な陰影を刻んでいる。
                     ――それじゃ俺は、まんまと引っかかったわけか。虫をも殺さぬ顔をして、危害を加えるのはいつだって俺のような奴らだと周囲の同情をひくおまえが張りめぐらせていた罠に。
                     周一がくるりと指を回すと、赤い軌跡に従って彼の切れ長の目、鼻筋がぼんやり浮かぶ。それが、なんだかとても綺麗に見えた。暗がりにくるりと尾を引く赤い線。ふわりと跳ね飛ぶちいさな炎。翳る周一が少しだけくちびるを尖らせると、炎は左にふっと揺れて消える。
                    「ごめんな、川畑。たぶん、俺のほうがおまえなんかよりずっとおかしいんだ。でも、これで終わりにするから」
                     周一の正気を疑っている余裕はない。彼がこれまでにどんな恋をしてきて、傷を受けたのか、四か月と二か月のつき合いしかない川畑にはわかりかねた。
                     だが、最後の相手になれという言葉は気に入った。いや、正確には「これで終わりにするから」というものだが、たいして変わりはないだろう。
                     いま、初めて見るような目つきで周一の顔をまじまじと眺め回した。これだけ目鼻立ちが整っている男もめずらしい。強固な意志を思わせる目元と鼻筋。だけどそれを裏切るようなエロティックなくちびる。
                     バランスの悪い男。
                     彼という人間が、少しだけわかったような気がする。自分などよりもずっと冷酷にできているのだ、工藤周一という男は。愛されるために不実な男を追いつめ、そいつが神経を病もうとも手をゆるめず、死と引き替えに永遠を誓わせたところで、こころに刻みつけるのではない。さっさと忘れ、次の男、次の男――そして自分へと乗り換えてきたのだ。
                     なぜ周一がそんなことをしたのか、聞いても仕方がないだろう。でも、ひとつだけは確かだ。
                    「欲が深すぎるんだよ、周一は」
                     遠慮のない言葉に周一が目を瞠る。
                    「……そう言ったのはおまえが初めてだ。誰もそんなこと、言わなかった……」
                    「言う暇も知恵もなかったんだろ、たぶん。おまえは男を喰うんだって、浅田が言ってたよ。そのとおりだな。前の奴も、その前の奴も食い散らかすだけ食い散らかして、綺麗さっぱり忘れたんだろう。おまえは誰かに大事にされたいんじゃなんだよ。俺みたいな屑をわざわざ選ぶのは、しあわせになりたいからじゃない。可哀相な自分に酔ってるんだろう? 俺がいつほかの男に目を移すか、待ち構えてたんじゃないのか。俺が浮気をすれば、なんで自分は愛してもらえないんだって堂々と胸を張れるもんな」
                    「……そうだったのかもしれないな」
                     周一はちいさく笑う。その声がまたも奇妙な具合に震えだしている。
                    「でも、寂しかったのはほんとうなんだ。ひとりじゃ嫌だったんだ。なのに、みんな俺と一緒にいるのを拒んだ」
                     三本目のマッチに火がついたとき、川畑は決定的な言葉がいともするりと自分の口をついて出ることに、いささかの動揺も感じずにいられた。
                    「いまは俺がいるじゃないか」
                     誰でもひとりは寂しい。だから、ほんの少しでもいい、温もりを分け与えてくれる誰かを必死に探す。
                     目の前でちいさな火に手をかざす男もそうで、自分もそうだ。いびつな欲望を抱えた者同士、暗闇のなかで死を呼ぶ水たまりに足を突っ込んでいる。
                     車を乗り回す彼ならば、容易に準備できたのだろう。ふたりの足下には揮発性の高い液体が広がり、扉を閉めていることで胸苦しくなるような匂いを充満させていた。
                     ひたひたと忍び寄る水のような液体。ガソリン。
                     周一が手にしているマッチの火で、透明な液体は禍々しい虹色を描き出している。
                     これが彼なりの、「前向き」ということなのだろう。ひとりがいやなら、ふたりで。川畑はその相手に選ばれたということだ。
                     一緒に死ねというのかと激昂することはもちろんできる。いますぐここを逃げ出すことだってできる。だけど、そうしないのは、周一の目にある虹を刷り込まれてしまったから。彼が見せてくれる青い火に魅入られてしまったせいだ。
                     ――一度ぐらい、あの子をしあわせにしてやんなさいよ。
                     そう言っていたキブラの耀子ママに、いまなら笑ってやれる。
                     周一が欲したしあわせは、永遠の終わりだ。
                     かつては死と引き替えに愛情を求められたことが苦痛でたまらなかったけれど、あれから四年が過ぎ、不埒な遊びも十分過ぎるほどに楽しんだ。だから、もういい。どの男を相手にしても得られなかった極度の興奮を、周一はもたらしてくれる。
                     ――俺を巻き添えにすることで。
                    「……俺に会ったことを後悔してるか?」
                     そう聞かれて、川畑は微笑んだ。いままでに、誰にも一度も見せたことのない穏やかな笑顔は、周一の視線を釘付けにさせるのに成功したらしい。
                     よもや、ここまでやる男にはお目にかかったことがない。自分の願いを叶えるためなら他人を道連れにしても構わないという、恐ろしいまでの利己的な考えは、単に相手を取っ替え引っ替えして楽しんでいた自分を遥かに上回る。
                    「おまえみたいな男は見たことがねえよ」
                     こころから微笑んだ。
                     四年前、彼を怖いと思ったのが嘘みたいだ。こんなに可愛い男もめったにいない。自分自身を愛しすぎるあまり死にたくなるなんて、どうしようもない。
                     炎の向こうで周一の顔が揺れる。なにかが焦げる匂いがする。マッチの火が彼の指を焼いているのかもしれない。息詰まるような匂いもする。
                     これでなにもかも終わる。ひとでなしだと散々言われた自分も、綺麗な顔をして灰色のこころを抱え続けてきた周一も、あっという間に、この火が消えればまるで魔法のように、なにもかもなくなる。
                    「俺がいる」
                     もう一度言った。移り気な自分が永遠を約束することはできないけれども、まばたきに匹敵する一瞬だったらそれも可能かもしれない。
                     周一が泣き出しそうな顔で腕を伸ばしてきたのと同時に、燃え尽きる寸前のマッチが落ちた。
                     


                    ボタンをはずして(「黒い愛情」番外編 2006)

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                      「先月行った外貨運営部の意識調査をまとめてみましたが、三十代から四十代にかけて仕事に対する不安を抱えている方が多いようですね」
                      「やっぱりそうか……。最近、どうも彼らの士気が下がっている気がしてね。こういうのは早めに手を打ったほうがいいと前に聞いたもんだから、あなたたちにお願いしたわけです」
                      「適切な処置だと思われます」
                       手元の書類をぱらぱらとめくる加藤は冷静そのもので、五十代後半と思しき上司を前にしてもまったく動じない。
                      「私と伏見さんとで個人面談も行ってみましたが、二十人のうち、五人がちゃんと眠れていなかったり、食欲の減退を訴えていました」
                      「四分の一が危険信号を出しているとなると、相当のものです」
                       伏見があとを引き取り、きちんと結んだネクタイの結び目に手をやる。
                      「いま、進めてらっしゃるプランを一時中止するか、部員を入れ替えるというのは難しいですか?」
                      「うーん、そうだねぇ……」
                       しかめっ面をしている数人の男たちは、大手外資系の投資会社の役員だ。有能な部下をひとり失うことで、どれだけの損失が出るか頭を痛めているのだろう。
                       精神科医の免許を持つ加藤と伏見は、週に三日という約束でここの社員たちのカウンセリングを行っていた。
                       一日中、刻々と変わる数字とつき合うために、三十代なかばで疲弊してしまい、鬱に陥るどころか、そのまま会社を辞めてしまう者が年々増えているという。
                      「三十代から四十代といえば、サラリーマンとしても伸び盛りですから、多少の無理はしてでも……、っく……っ」
                       ふいに言葉を途切れさせた伏見に、部長は不思議そうな顔だ。だが、伏見はすぐに、「なんでもありません」と笑顔を取りつくろった。
                      「汗をかいているようだが、空調がおかしいかな? 暑いようなら室温を下げさせるが」
                      「いえ、ほんとうに気になさらないでください。大丈夫です」
                       そうは言ったものの、ほんとうは大丈夫どころではない。
                       役員たちにばれないよう、隣の加藤を睨み据えた。それが彼の気に障ったらしい。ぶるっ、と内側で硬いものが振動し、濡れて潤む肉襞を疼かせる感覚がまたやってきて、脂汗が浮かんでくる。
                       ――頼むから、ここではこれ以上しないでくれ。
                       やめてほしいと必死に目で訴えたけれど、加藤は見て見ぬふりだ。スラックスのポケットの中に隠したスイッチで振動を微弱にセットしたまま、疲れきった社員たちをどうするかお偉方と話し続けた。
                      「プランの休止が難しいとしても、このまま続けていればいつかひとりずつ倒れていきます。そうなる前に、いまより少しだけでも仕事のペースを落として、よほど疲れている者にはきちんと事の次第を説明したうえで、一週間程度の休暇を与えればいい。ろくな説明もなく、『休んでいい』と言われるほうがよけいに不安を募らせますからね」
                      「まあ、そうだろうな……。どうする、ペースを落としてプランを続けられそうか?」
                      「そうですね。いますぐには答えられませんが、加藤さんたちが『疲労している』と判断された者たちはとくに優秀ですから、ここらで少し休ませたほうが、長い目で見た場合得策かもしれませんね」
                       役員たちが話し合っているあいだ、加藤と伏見は互いの身体で通じ合っていた。
                       冷ややかな感じのする眼鏡越しにこちらの様子を窺う加藤が、おもむろに振動の強度を高めた。
                      「……ッ……!」
                       無機質な物体にぐねぐねと敏感な襞をこねられ、声を押し殺すのも必死だ。
                       ――どうして、加藤はこんなことを……!
                       同じ場所を何度も何度も単調な動きで擦られ続けた。それも当然だ。ちいさなローター自体には意思がなく、伏見の窮屈な窄まりのちょうど真ん中あたりでびくびくと震え、加藤の忠実なしもべとして快感のしるしを刻んでいく。
                       ――もっと奥まで擦ってほしい。突いてほしい。こんなちいさなものじゃなくて、加藤のものを思いきり感じたいのに。
                       じりじりと焦げるような快感に、目元まで潤んでくる。それを役員たちに不審がられないよう、伏見はうつむき、書類を意味もなくめくった。多くの難しい言葉が目に入ってくるが、まるで意味をなさない。感じるのは機械的な快感だけ。熱くもなく、冷たくもない。だが、不用意に動くと中の異物までこりっと動き、いちばん感じるあの部分をかすめていくのがたまらない。
                      「……加藤……!」
                       小声でなじると、ようやく加藤は振動を弱めてくれた。
                      「それでは、具体的な対応についてこれから伏見と話し合いますので、三十分ほどお待ちいただけますか。終わりしだい、ご報告に参ります」
                      「わかった。私たちは隣の部屋で打ち合わせをしているから、なにか不明な点があったらいつでも来てくれ」
                       びしりと肩のラインが決まった役員たちが足早に出ていったあと、ようやく加藤が本性を剥き出しにして笑いかけてきた。
                      「伏見さん、ボタンをはずしてください」
                      「……そんな、……こと……」
                      「できない、っていうせりふを言えば言うほどつらい目に遭いますよ」
                       たったいま、隣室に役員たちが入ったばかりなのに、加藤はここでシャツのボタンをはずし、淫猥な快感を愉しもうとしているのだ。
                       そうだろうということは、なかばむりやりローターを挿れられて会議室に入ったときからわかっていた。
                      「俺が弄ってなくても、伏見さんの乳首はきっと真っ赤だよ。シャツから透けて見えるぐらいにね。……だって、伏見さんは俺の望んだとおりの淫乱なんだから」
                       低く囁く声が悪い夢のようだ。いくらこころを通じ合わせたといっても、こういう行為には慣れていない。それに、加藤の扇情的な言葉にも、いつまで経っても慣れられないだろう。
                      「で、で、きな……っ、あ、あ……っ!」
                       悲鳴のような喘ぎをあげて、伏見は思わず目の前に立つ男の腰にしがみついてしまった。
                       また、内側でローターがぐちゅぐちゅと動き出したのだ。振動するだけでなく、軽くくねったり、ねじれたりするそれが実際の男のものを連想させるようで、「亮……」と涙混じりに見上げた。
                      「ボタンをはずして、乳首を自分で弄ってみせてください。俺が欲しいんでしょう?」
                      「ん、ん……」
                       昂ぶる塊をスラックス越しに感じて、ああ、とため息を漏らしてしまえば、彼の言い付けに従うほかない。
                       焦れったく、汗ばむ指でなんとかシャツのボタンをはずし、裸の胸をさらすあいだ、どうしても羞恥心が優ってしまい、加藤から顔をそらした。
                       ――自分で見なくてもわかる。俺のここは……身体すべてを亮に変えられてしまった。
                      「……やっぱりね。乳首がいやらしく勃起してる。さっきまで仕事してたくせに、なんでこんなに感じまくってるんですか」
                       赤くふくれた先端をきゅっとねじられ、伏見は喘ぎながらソファの背にぐったりともたれた。そこへ加藤が腰を押しつけてきて、「しゃぶって」と囁く。
                      「俺ね、伏見さんのフェラチオする顔が好きなんですよ。俺のものを最初は苦しそうに頬張ってるのに、そのうち、おいしそうなものを食べてるみたいに舌なめずりまでするんだ」
                      「……して、ない、そんなこと――亮がしてほしいって、言うから……」
                       口では散々抵抗したが、身体はまるっきり逆のことをしていた。
                       上質の生地でつくられたスーツを身につけた加藤は傲然としていて、震える指でジッパーを引き下ろす伏見をおもしろそうな目つきでじっと見つめている。
                       その仕草、その視線に少しずつ淫らな炎が宿っていくのを確かめるように。
                       ジッパーを下ろしたとたん、ぶるん、と飛び出した肉棒は最初から先端が濡れていて、赤黒くめくれたエラを見ただけで身体中が火照り出す。
                       理知的な眼鏡とスーツをまとう男に、淫猥な口淫を要求されている。そう考えただけで、頭の中まで熱くなり、伏見はぼうっとした意識のまま筋の浮き立つ男根にそっと触れた。
                      「……そう、最初はそういう感じがいいかな。あなたの中にあるたどたどしさは、いつまで経っても消えないんだろうね」
                      「ん、――く……」
                       先端の小孔から滲み出す加藤の先走りが、いつもより濃い。亀頭は凶悪なほどにふくれていて、竿も長く太い。これをいまから受け入れるのかと思うと、何度も情を交わした仲だが、やはり身体が強張る。
                       それに、ここは取引先のひとつだ。隣室には会社の役員たちがいて、どうすれば社員の士気を高められるか真面目に話し合っているというのに、壁一枚隔てたこっちでは、ローターで苛め抜かれ、フェラチオを強要されている。
                       口の中で感じる加藤のそれが上顎を強く擦り、伏見はくぐもった声で喘いだ。口内の上顎を擦られるとくすぐったいだけだったのが、いつの間にかどうしようもなく感じる場所になっていた。
                       右手で加藤のものを握り締め、亀頭から根元に向けてちらちらと舌を這わせていく。そのあいだ、俺を見て、と前に言われたことを思いだし、羞恥に顔を赤らめながらも懸命に加藤と視線を絡めた。
                      「いやらしい顔してる、伏見さん。俺のがそんなにおいしい?」
                      「ん――んっ……ふ……っ」
                       ぐっぐっと腰を突き出してくる男のものを口いっぱいに頬張り、答えようにも答えられなかった。けれど、自然ともう片方の手が乳首をつねり、――ああ、こんなのじゃない、加藤が触ってくれるほうがずっと気持ちいいと蕩けた意識で考え、次には自分のスラックスのジッパーを下ろしていた。
                       もう、ずっときつくて、役員たちと話しているあいだもどうにかなりそうで、自分で触っただけでもいけそうだ。
                       にちゃにちゃとしたしずくを垂らすペニスを剥き出しにして扱き、加藤のものも夢中になって奉仕した。先端からこぼれるとろみは、やっぱり加藤と同じように濃いのだろうか。
                       くく、と低く喉奥で笑う男の声が身体中に染み渡る。
                      「俺のを舐め回すだけじゃ満足できない? ここまで感じてるなら、ローターでいけるでしょう」
                       急に加藤が腰を引いたことで、はちきれそうなほどに勃ちきった男根もずるりと口内から抜け出ていく。
                      「いや……いやだ……加藤の、じゃなきゃ……」
                       それが欲しくてここまでしているのに、お預けを食らってしまった伏見は懸命にせがんだ。
                       意識の片隅では、いけないことをしているとわかっている。取引先の会社でこんなことをしているとばれたら、どれだけの大事になるか。それでも、加藤が欲しいという気持ちを抑えきれず、「なんでも、する、から……」と息を途切れさせた。
                      「お願いだから、このままにしないでくれ……もう、ずっとおかしくなりそうなんだ……」
                      「だったら、うしろを向いて。自分でローターを抜いてください」
                      「加藤……っ」
                       そんなことをしたら、淫らに熟れた場所を加藤に見られてしまう。加藤以外のもの――それがたとえばかげたおもちゃでも、中にもぐり込み、自分を狂わせてしまいそうなほどに感じさせていたローターを引き抜いてみせるなんて、到底できるはずがない。
                       頭を強く振り、「いやだ、できない」と言ったが、加藤も硬い肉棒で孔の周囲を擦ってくるからたちが悪い。
                      「挿れてほしいんでしょう? 奥まで挿れて、擦ってあげられるのは、俺だけですよ」
                      「あ、う……ぅ……」
                      「簡単なことだから、やってみて。自分の指でかき出せばいいだけですよ」
                       それを見られたくないのだ。きっと、自分のそこは縁が赤くふっくらと腫れ、ローターを抜く際に濡れた粘膜まで見せることになってしまう。男を受け入れるつらさと快感に悶えるその場所を、加藤に間近で見られるなんて絶対にいやだ――そう思うのに、ペニスは伏見の意思に反してぐんと勃ちあがり、いまにもぽたぽたとしずくをこぼしてソファを汚しそうだ。
                       慌ててジャケットを広げようとするよりも先に、加藤がジャケットをソファに広げてくれた。
                      「ほら、俺はこんなにやさしいでしょう? だから、言うことを聞いて」
                       やさしくなんかない、こんなのはやさしさじゃない。
                       だが、自分でローターを抜かないかぎり、加藤はなにもしてくれないようだ。しまいにはそのまま、衣服を調えて「帰りましょうか」とでも言いかねない。
                       いったん火の点いた身体を止めることなんかできないから、伏見はじっとりとした汗をこめかみに感じ、ソファの縁をきつく掴んだ。
                      「抜くから、見るな、……見ないでくれ……」
                       返ってきたのは笑い声だけだ。
                       中ほどまで挿っているローターを抜くにはスラックスを膝まで下ろして腰を突き出し、指で孔を拡げなければいけない。それがどんなにつらく、恥ずかしいものか、加藤にはわかっているのだろうか。
                       ――わかっているから、強要するんだ。俺がこんなことをされても感じてしまうと知っているから。
                      「ん……」
                       熱っぽい吐息とともに、伏見はゆっくりと自分の中へと指を挿れていった。
                       こんなことをするのは初めてだ。思っていた以上に中は熱く潤んでいて、自分の指にさえも淫らにまとわりつく。
                       ――いつも、こんなふうに加藤に絡みつくのか……。
                      「あぁ……っ」
                      「ひとりで勝手に感じてないで、早くローターを抜いてくださいよ」
                       そう言われても、つるつると滑るローターを指でつまむのは難しい。悔しいのか恥ずかしいのか、もうわからない。涙を浮かべて指を二本挿し込み、ローターの先端をつまんだと思ったら、突然ちいさな機械がぶるっと大きく震え、「――あ」と背筋をのけぞらせた。
                      「あ、う、加藤……!」
                       せっかく引き抜こうとしたところで、加藤が振動を強めたのだ。
                      「だめだ、もう、こんなの……っ、できない……っ」
                      「あともう少しですよ。ほら、もう半分出かかってる」
                       ぬるぬるに濡れたローターをつまむ伏見の顎を掴み、加藤が視線を合わせたままくちづけてくる。たっぷりとした唾液を交わし、伏見がこくりと喉を鳴らして飲み込むまで許してくれない深いくちづけこそ、加藤の執着の強さをよく表している。
                       何度かしくじったあと、ようやく抜けたローターが糸を引いてぽとりと加藤のジャケットに落ちた。その頃にはもう、身体中で熱が暴れ、加藤を求めることしか頭に浮かばない。
                       たったいままでローターを咥え込んでいたそこが加藤の指をたやすく飲み込み、もっときつく、もっと激しく絡みついてしまう。
                      「ひくひくしてる……智紀のここ、ローターが抜けたままの形でひくついてるよ。真っ赤だ」
                      「あ――……亮、りょう……、おねがい、だから……っも、はやく……!」
                      「しー、……あまり大きな声を出すと、隣に聞こえますよ。俺たちの信頼を落とす気ですか」
                       むちゃなことを強いてくるのは加藤のほうなのに。
                       目だけで反論すると、相手も相手で、「へえ」と笑う。
                      「そういう芯の強さが俺をいつまでも惹きつけるゆえんですよ。……それじゃ、もっと恥ずかしい思いをさせてやるよ」
                       がらりと声音の変わった男が身体をぐるっと返してきて、向かい合わせの形で伏見の両手を自分のネクタイで縛り上げたあと、両足を大きく広げさせた。
                      「……智紀のいやらしいあそこに挿れてあげるよ。前は触ってやらない。うしろだけでイくんだ」
                      「え……、あ――亮、亮……っ、あぁ……っ!」
                       煌々と点いた灯りのもとでシャツを半端に脱がされ、両足首を掴んだ加藤がぬるぅっとねじ込んできた。
                      「……ッく……っ!
                       加藤のそれはいつも大きくて、いくらほぐされていても張り出した亀頭を飲み込むまでが大変だ。だが、その先はもっとつらくて、気が狂うほどに気持ちいい。ずちゅずちゅと太竿が音を立てて引き抜かれ、伏見も無我夢中で腰を振った。
                      「あっ、あぁっ、いい、亮……っもっと、奥まで、いれて……っ」
                      「どうして奥まで欲しいんですか。俺の大きさだと、結構つらいと思うけど」
                      「だって……」
                       声につまる伏見の乳首をやさしく吸いながら、加藤が「それで?」と目顔で訊ねてくる。
                      「そのほうが……おまえのことを、もっと強く感じられる、気がするから……」
                      「ふぅん……なるほどね」
                       精一杯の言葉に、加藤は満足したようだ。
                      「じゃ、中に出していい?」
                      「ここで……か?」
                      「そう。智紀は中で出すとすごくいい顔をするから。大丈夫、汚れるのは俺のジャケットだけ」
                       なんとか声をひそめようとしても、危うい雰囲気が隣室に伝わらないとはかぎらない。
                       ――ばれるかもしれない。男同士でいやらしいことをしている場面を見られたら、いままで築き上げてきたすべてが終わりだ。
                       後ろめたい感覚は、終わりのない快感に繋がっている。
                       挿れっぱなしでゆるゆると焦らされ、散々悩み抜いたあげくに、伏見はこくりと頷いた。
                      「出して……いい」
                      「ほんとうに?」
                      「中に、出して……亮のアレを、いっぱい出してほしい」
                       一度声に出して言ったら、もう後戻りはできない。ぐりっと腰を巧みにひねって押し挿ってくる男に身体だけではなく、頭の中、こころの中まで犯されそうだ。熱く脈打つ肉棒が出たり挿ったりする光景を目の当たりにし、悶えよがる伏見はさまざまなことを口走った。
                      「亮、や、ん、――いやだ、……前も、触って……!」
                      「だめだよ。言ったでしょう。今日はうしろだけでいくって。乳首だったら触ってあげるよ」
                      「あっ……ぅ……うっ……さわ、って……」
                      「どんなふうに? やさしくされたい?」
                      「きつく、してほしい……さっきみたいに……ねじって……あ、――……っ!」
                       加藤が乳首を噛みまくり、ずるっと男根が抜けそうになるのを伏見は必死に追い求めた。
                      「あぁっ、――んっ、っも、いく……っ!」
                       ぎりぎりまで両足を広げさせられ、同じ男に尻の奥を犯されて悦ぶ自分の浅ましさを悔いている暇があったら、もっと深く、貪欲に加藤を求めたい。
                       望んでもいないのに、うしろだけでいかされてしまう。加藤に抱かれるまでは単なる排泄器官でしかなかったそこが、いまでは指を挿れられただけで蕩けた淫らな肉洞になったのだ。肌も以前より熱く湿り、身体全体で加藤を求めている。
                      「いく……っ」
                       限界まで昂ぶった孔がきゅうっと締まり、加藤に眉をひそめさせた。だが、それも一瞬だ。素早く彼はジャケットの胸ポケットから取り出した真鍮の輪っかで伏見のペニスのくびれにぎゅっとはめ込んだ。
                      「……ッぁ――……!」
                       目の前が真っ赤になる。それと同時に、こころから待ち望んでいた熱いものがたっぷりと奥へ放たれた。
                       達する寸前の新たな戒めによって、どっと噴きこぼれるはずだった精液がとろとろとしたしずくにしかならず、苦しくてたまらない。
                      「あ、あ……っぁ……っは……っ」
                      「どうですか? 乳首はクリップでずいぶん感じるようになったけど、智紀のここはまだちゃんと手を入れてなかったからね」
                       加藤の声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
                       身体の奥から押し出ようとする精液が、頑丈な輪っかで締められて真っ赤に充血した小孔からだらだらとこぼれ続け、伏見ははあはあと息を切らしながら、延々と続く絶頂に浸っていた。
                       その苦しさと快感は、いままで知らなかったものだ。
                       ――こんな快感があるなんて。苦しいはずなのに、痛いはずなのに、どうして感じてしまうんだ?
                      「感じた? やっぱりいいね、智紀は。ここぞというときの顔がほんとうにいい」
                       初めての快感に溺れる伏見に、加藤が笑いかけてくる。
                       まだ息が整わない伏見の衣服を直し、窓を開けて空気を入れ換えたあと、「それじゃ、簡単に打ち合わせして、隣室の面々に報告したら帰りましょうか」と加藤が言う。
                      「……わかった。でも……」
                       なにが言いたいか、加藤にはすべてお見通しのようだ。
                       快感の名残でふらつく伏見を支え、「大丈夫」と、あの悪辣で甘い声で囁く。
                       精神科医として、有能なキャリアカウンセラーとして社会的信用を得る反面、伏見ひとりを裸にして徹底的にいたぶることを望む男の声には、ほんとうの魔力がひそんでいるのだ。
                      「うちに帰ったら、輪っかをはずしてあげるよ。智紀が悦ぶことをもっとしてやる。その前に、どこか途中で――そうだな、人目のあるところで智紀を感じさせようか。輪っかをはめたままでね」
                      「……加藤……」
                       胸が高鳴るのは、不安のせいか。期待のせいだろうか。
                       知らずと胸を押さえ、伏見は加藤と肩を並べて歩き出した。ずきずきと痛むあの場所を意識すまいとしても、難しい。
                       きつく締め付けてくる輪の中に、自分という存在までもが入り込んでしまった気がする。
                       それなら、それでもいい。
                       行き着くところまで行けばいいという言葉は、加藤には当てはまらない。いまはただ望むままに――感じるままに。
                       加藤亮という輪の中に、終わりはないと知っているのだから、溺れてしまえばいい。 



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