世界はチカでできている

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    前編:世界はセンちゃんでできている

     

     凍える風に首を竦めて、南千宗はコートの襟をかき合わせた。十二月に入ったとたん、ぐっと冷え込むようになった気がする。
     今年は暖冬だと予報が出ていたはずなのに、どういうことだろう。
     気象庁に文句を言ってやりたいところだが、鬱々とした自分をよそに、年の瀬の街を急ぐひとびとはなにかと楽しいイベントが目白押しのこの季節、寒さに頬を上気させながら笑顔であちこちへと散らばっていく。
     ――もしかしたら、寒いのは俺だけかもしれないな。
     一昨年のボーナスで奮発したコートも、昨年買ったマフラーも、忍び込んでくる寒さを防いでくれない。だけど唯一、両手だけは暖かかった。
     シープスキンでできたやわらかな手袋をはめている右手を見下ろし、南は気弱に微笑む。
     昨年のクリスマスプレゼントにこの手袋を買ってくれた男は、いまごろ、なにをしているのだろう。
    「チカ……元気かな」
     無意識に口をついて出た言葉は、白い息とともにゆるゆると冬の夜空に消えていく。
     高校時代の親友にしてただひとりの恋人である羽沢誓史、通称チカと喧嘩をしたのは、今年の夏のことだ。まだ暑い盛りに、彼の元・奴隷だった橘美散を自宅に引き取り、しばし様子を見がてら調教するというとんでもない計画に南は心底激怒し、一緒に暮らしていた彼のマンションを飛び出したのだった。
     チカのもとを離れて一週間はビジネスホテルに仮住まいしていたが、すぐにこのままでは生活が破綻すると気づき、実家に戻ろうか、それとももっと安いホテルを探そうかどうしようか考えあぐねた結果、ひとまず会社近くのウィークリーマンションを借りることにした。
     実家との関係は良好だけれど、いまいきなり帰ったら『どうしたの』と不審がられるに決まっている。チカとの同居は、両親も妹も知るところだ。恋人としての同居ということはもちろん伏せているが、なにかと金のかかる都会暮らし、『高校時代の同級生とシェアしているんだ』という南の言い分はなんの疑いもなく受け入れられたのだ。
     だが、そのすみかが六本木のど真ん中にある超高級マンションだと知ったら、物わかりのいい両親も腰を抜かすだろうけれど。
     一週間ごとに家賃を払うウィークリーマンションなら、ホテルよりも割安だ。家具や調理道具もひとそろいあるから、無駄な出費が抑えられるのは助かる。
     とはいえ、ここもやはり仮の住まいであることには変わりない。きちんとした家捜しをしたほうがいいとこころの片隅で思いながらも、仕事が忙しいことを理由に先延ばしにしていた。
     スポーツ雑誌の編集者である南の日常は、多忙を極めていた。チカと再会した頃は箸にも棒にもかからないような原稿ばかり書き、連日、先輩の吉田にどやされていたが、ここ最近ではひとりで特集ページを担当することもある。しかも、長らく担当してきた「柔の道」という柔道コーナーをまとめた小冊子を、新年号の付録としてつけるという大役まで来たのだから気が抜けない。
     そこでまた、南は苦笑いする。
     ――チカにも、相談したかった。あのコーナーがたとえ付録でも、一冊にまとまると知ったら、あいつも喜んでくれただろうに。
     いつも笑顔で、南のすることならどんな些細なことでも気に懸けて応援してくれた男のことを思い出すと、会いたくてたまらなくなる。
     会いたい。声が聞きたい。
     だけど、いまはだめだ。橘の一件にけりがつかないかぎりは、絶対に会うものか。
     会社から歩いて十分ほどのところに、仮住まいしているウィークリーマンションがある。三階の角部屋の扉を開け、ビジネスホテルと似たような白っぽい壁に手をつきながら靴を脱いだ。
    「ただいま」
     ちいさな呟きに応えてくれる者はいない。ただ、暗い部屋の片隅で、赤いランプがちかちかと点滅していた。誰かが電話をかけてきて、メッセージを残したらしい。
     コートも脱がず、ベッドに腰を下ろして留守番電話のメッセージを再生してみた。ピー、と甲高い音の次に、『もしもし……』とやわらかな声が聞こえる。
    『センちゃん、僕です。チカです。元気ですか、風邪なんかひいてませんか?』
     録音された声に知らずと微笑み、南はベッドに寝そべった。暗い部屋の中、こうして目を閉じていると、チカがすぐそばで囁いてくれているような錯覚を覚える。
    『毎日、センちゃんのことを考えてるよ。センちゃんは、どうしてる?……僕のこと、忘れてない?』
    「……忘れるわけねえだろ……」
     目のあたりを腕で覆い、ごろりと寝返りを打った。
     こんなにやさしく囁いてくれる男をどうして忘れられるというのだろう。だが、彼は橘を調教すると言ったのだ。それだけはどうしても許せない。
     チカがSMという趣味をおおいに楽しんでいることそのものは、南としてもなんとか理解しているつもりだった。男専門のSMクラブ・ゼルダにおいて、スタープレイヤーとして君臨し続けることも飲み込んでいたつもりだ。
     あれは、あくまでも仕事だと思っていたからだ。
     性癖というのは、一朝一夕で変わるものではない。チカの場合も、長い時間をかけて主人としての素質を鍛えてきたのだろうし、それを自分のために一切合切捨てろというのはいくらなんでもやり過ぎかという気がするのだ。
     チカの犬になることはできなくても、少しばかり彼の色に染まっていることを楽しんでいる節がないわけでもない。
     ――でも、それでも橘を自宅に入れることだけはだめだ。許せなかったんだ。あのマンションは俺とチカだけの場所じゃないか。奴隷を鍛えるのは外で、ということだったからいままで許せていたのに、家にまで持ち込まれたらなにもかもめちゃくちゃになるだろうが。
     だから、チカの制止を振り切って飛び出した。直後の二週間はまったく連絡を入れず放置し、ようよう電話をする気になったのは彼のもとを離れて一か月過ぎた頃だ。その頃もまだ怒りがとけているわけではなかったが、チカがどうしているのか気になって電話をしてみたところ、気が狂ったような反応が返ってきたっけ。
    『どこにいるの、いまどこ? 元気なの? 僕がほんとうに悪かったよ。許してください。もう二度ときみの嫌がることはしないよ。お願いだから戻ってきて』
     企み上手なチカのことだから、興信所でも使って自分の居場所を調べさせているんじゃないかと考えていたこともあったが、さしもの彼でにそこまで気が回らなかったらしい。
     動転した声に南もほだされかけ、――いや、ここで手をゆるめたらまたいつか同じことが起きると思い直し、『いますぐ帰ってきてよ、お願いだから』という切々とした声を断腸の思いで遮った。
    『おまえがいまの生活を悔い改めなかったら、俺との今後はないと思ってくれ』
    『センちゃん……』
     呆然とした声が、いまでも耳の奥にこびりついている。
     つねに余裕に満ちていたチカの、あれほど途方に暮れた声を聞くのは、初めてだった。
     言い過ぎたかと一瞬胸を押さえたけれども、いつも土壇場で気弱になるのがだめなんじゃないかと歯を食いしばり、前言を撤回することはしなかった。
    『とにかく、いまは戻る気はないし、おまえに会うつもりもないんだ。じゃあな』
     素っ気なく電話を切った直後に、胸がひどく疼いて思わずうつむいてしまった。
     思い返せば、強引な誘いに弱い自分にもいけないところがたくさんあるのではないだろうか。チカのやることなすことが常識の範疇を超えているからと言って、今回のように思いきった決断を取ってしまったら、彼だって傷つくに違いない。
     ――どうしていままで黙ってたの。文句があるなら、もっと前に言えばよかったのに。
     そう言われてもおかしくなかったのに、チカは反論しなかった。
     ――思い当たる節がいろいろありすぎて、言い返せなかったんだろう。
     意地悪に考えることもできるが、自分らしくない。
    「やっぱり、俺が悪いのかな……」
     またも寝返りを打ち、窮屈な感触にコートも脱いでいなかったことに気づいてため息をついた。チカと暮らしていた頃、こういうだらしなさはなかったのに。
     留守番電話のメッセージはいつの間にか終わっていた。伝言内容は、たいしたものではない。
     なにかあったときのためにここの電話番号は伝えてあり、チカは二、三日置きにちょっとしたメッセージを残してくれるようになった。『会うつもりはない』という南の気持ちを尊重して、無理強いをしないでいてくれるのだろう。
     それがよけいに寂しさをかき立てると言ったら、勝手すぎるだろうか。
     チカのマンションに置いてあった冬服も、きちんと包まれてこのマンションに送られてきていた。会社勤めの南が困らないようにという配慮なのだろうが、その細やかな気遣いがいまとなっては恨めしく思える。
     ――チカなら、もっと強引に押しかけてくると思ったのに。
    「あーあ、……ホントに俺らしくもない」
     苦々しく笑いながら、弾みを付けて起き上がった。チカに対して悪意を持つのも、うじうじと弱気になるのも、どっちも自分らしくない。
     いま、知りたいのは、チカがどうしているかということだ。殊勝なメッセージを残しながらも、夜な夜なゼルダに出勤して多くの奴隷に夢を見せているのだろうか。それとも、南がいないマンションでひとり寂しく膝を抱えているのか。
    「そりゃあり得ないか」
     自嘲気味に笑い、風呂場に向かう。チカと暮らしていたときは、黙っていたって風呂が沸き、旨い食事が食べられたものだったが、ひとりで暮らしているいま、なにもかも自分でやらなければいけない。
     ――あいつ自身が忙しいのに、いつも俺の身の回りをきちんとしてくれていたっけ。ワイシャツだって忘れずにクリーニングに出してくれていたし、ハンカチもしっかり角までアイロンがかかってた。毎日を気持ちよく過ごすためのひとつひとつをあいつは自然とこなしていたから、俺はいつの間にか感謝するってことを忘れていたのかもしれない。些細な出来事に思えることほど、とても手間が掛かるのに。
     バスタブに少しずつ湯が溜まっていくのを眺めながら、明日、勇気を出して電話をしてみようかと思う。ひとりで悩んでいるのも、そろそろ限界だ。
     電話をかける相手はチカではないが、この状況を誰よりも冷静に判断してくれるだろう男であることには間違いない。
     財務省に勤務するエリートにして、クラブ・ゼルダにおいて、あのチカと唯一肩を並べるという凄腕のプレイヤーと称される真柴俊介ならば、かならず的確なアドバイスをくれるはずだ。

    「だからって、どうして俺を呼び出すんだ。このくそ忙しいときに、おまえはほんとうに頭が悪い犬だな」
     のっけから不機嫌に罵られたところで、チカと離ればなれになっているつらさに比べたら屁でもない。仏頂面の真柴に向かってビール瓶を傾け、「そう怒らないでくださいよ」と取りなした。
     思い立ったが吉日ということで、以前彼からもらった名刺を探し出して早速電話をかけてみたところ、こうして直接会うことを了承してくれたわけだが、どうやら虫の居所が悪いらしい。
    「お忙しいところ、ほんとうにすみません。でも、真柴さんぐらいしか話せる相手が見つからなかったんですよ」
     本音を漏らすと真柴も肩をすくめ、口の端にくわえた煙草に火を点ける。顔を傾げ、マッチの火がシャープな頬の線を照らし出す様子は、独特の美形であるチカを見慣れている自分でもちょっと目を瞠るほどの骨っぽさだ。
    「直接連絡を取るのは気が進まないから、俺からチカの様子を聞き出そうってわけか」
    「……まあ、ぶっちゃけて言えばそうです。あいつ、元気ですか。ゼルダには出てるんでしょう?」
     真柴を招いたのは、麻布の広東料理の店だ。
     古びた一軒家を改装し、広い土間に真っ赤なテーブルが並び、連日大勢の客でにぎわっている。ただ、真柴との話は他人に聞かれるとまずい範囲に及びそうだから、二階にある個室に通してもらった。
     大柄で、鋭い目を持つ真柴とふたりきりで狭い部屋に通された直後は多少なりとも緊張したが、それよりもチカがどうしているのか聞きたいという好奇心のほうが勝った。
     怖じけずに、空になった真柴のグラスにビールをついで、「教えてください」と頼む込むと、冷ややかな印象の眼鏡の下の目がふっと可笑しそうに笑う。
    「あいにくだが、最近あいつとはまったく会ってないんだ。ゼルダにも出てきていない。ずいぶん前にしばらく休むと電話があったきりだ」
    「ほんとうですか?」
    「おまえがチカのマンションを出たのはいつだ?」
    「夏、頃です」
     思わぬ話にとまどい、声もつまる。
    「ちょうどその頃からだな、ゼルダを休んでいるのは」
    「なんで。どうしてなんですか。休む理由は?」
    「そいつは俺が聞きたい。この時期はゼルダでもイベントが山ほどあるんだ。クリスマスには毎年恒例の公開調教があるっていうのに、あいつときたら出るか出ないかの返事もしないんだ。まさか失踪したんじゃないだろうな」
    「そんな!」
     目を瞠ったのが可笑しかったのだろう。真柴は「冗談だ」と笑い出し、ついでに、「呑めよ」とビールをついでくれた。
     SMという趣味を抜いて語るなら、彼もそう悪い男ではないようだ。
    「あいつはいまでも六本木のマンションにいるぜ。それは確かだ。ついこのあいだも、ゼルダのボーイが心配して様子を見に行ったばかりだ。そういうおまえは、家を出てから一度も会ってないのか?」
     こくりと頷き、ビールを飲み干した。やけに苦みばかりが際だち、舌を刺す。
    「案外おまえも冷たい奴だな。チカの犬じゃなかったのか」
    「俺は――犬じゃありません。あいつの恋人ですよ」
    「恋人なら、どうして俺と会ってるんだ。どんなふうに過ごしているか、本人に確かめたほうがよほど正確で早いんじゃないのか」
     痛いところを突かれて返す言葉もない。
     畳の部屋で真っ赤な座布団にあぐらをかく真柴はネクタイをゆるめ、柱に寄りかかる。ジャケットとベスト、それにスラックスとそろいの生地を使ったスリーピースはどこかの老舗で誂えたものに違いない。引き締まったダークグレイのスーツは、真柴の端正な相貌に似合っていた。
    「そもそも、あいつが橘くんを引き取るなんて言うから……」
    「なにを言ってるんだ。美散なら俺が監視中だ」
    「え……でも、……だけど、あなたが面倒を見きれないからって、一時的にチカに橘を預けるという話なんじゃなかったですか」
    「なるほど。その一件でおまえらはとっちらかったのか。……それごときでばかばかしい……」
     深くため息をつく男を睨み据えたものの、たいして堪えているふうでもない。ほかほかと湯気を立てて運ばれてきた麻婆豆腐を皿に取り分け、「ほら、冷めないうちに食べろ」と言う男は、思いのほか世話焼きなのかもしれない。
    「確かに美散を預けようかという話は一時的にあった。だけど、直後にチカのほうから断ってきたんだ。どうしてもだめだってな。それで、美散は未だに俺の手元で我が儘を言いたい放題だ。今日もおまえと会うから遅くなると電話をしただけで、散々わめきやがった。あんなに手のかかる奴隷も初めてだ」
     だから今日、ずっと苦い顔をしていたのか。真柴の不機嫌な理由がわかったことで思わず笑い出してしまい、逆に睨まれた。
     橘を引き取る件を断っていたとは知らなかった。きっと、喧嘩別れしたあとに、チカなりにできることをしようとしてくれていたのだろう。
    「橘くんも元気なんですね」
    「元気すぎて困る。俺はこれまでに数えきれないほどの奴隷を躾けて、次の主人へ引き渡すことをしてきたんだがな。今回ばかりは音を上げそうだ」
     苦笑する真柴が新しい煙草に火を点け、「それで」と言い足す。
    「チカについて、俺が知っているのはいま話したことだけだ。ゼルダには出てきていない」
    「そうですか……」
    「ああ、そういえばこのあいだボーイが訪ねたとき、ちょっと様子が変だったと言ってたな。玄関先にいくつも段ボールが積んであったって言ってたっけ」
    「段ボール?」
    「おまえの荷物を処分するのかもな。言うことを聞かない犬の持ち物をいつまでも置いておくような気前のいい主人は、そうそういないぞ」
     笑い混じりの声にからかわれているのだとわかっても、顔が強張ってしまう。
     やはり、真柴は自分とは違う世界に属する人間だ。あくまでも犬は犬として扱うという思考は、主人ならば当たり前なのだろう。
     ――でも、チカは違うはずだ。俺とチカはそういう関係じゃない。
    「どこかに引っ越すつもりなのかな……」
    「そうかもしれんな。でもま、おまえにはいまさらどうでもいいことなんじゃないのか。あいつの性癖が受け入れられないから、同居を解消したんだろう。だったら、早いところべつの男を見つけろよ」
    「俺は根っからのゲイじゃありませんよ」
    「じゃ、適当に女を捕まえればいい」
     退屈そうにあくびをしている真柴に怒ったところで、現状がどうにかなるわけでもない。
     ――いまさらどうでもいいことなんじゃないのか。
     真柴の言葉が胸に突き刺さって離れない。そう思えたら、どんなにいいだろう。
     チカの性癖をわかっていて同居することに頷いたのは、自分だ。なのに、いまになってそれをはねつけるのは、やはり勝手なんだろうか。勢いのありすぎるチカにたまに追いつけないと思ってしまう自分が悪いのだろうか。
    「SMっていうのはな、幅広くある性癖のなかでもかなり極まった部類にあるほうなんだ。おまえも知っているとおり、人間が抱く性癖というのは数かぎりなくある。覗き趣味に女装に男装、獣姦にスワッピングに露出狂」
     健啖家ぶりを見せつけた真柴はどの皿も綺麗に片付けたあと、満足そうな顔で煙草を吸いながら扇情的な言葉をずらずらと並べる。
     聞き慣れない性癖の数々にくらくらと眩暈を覚える南など知ったことかという顔だ。
    「そういう性癖のなかでも、痛みとスリルと羞恥心を同時に味わうSMという性癖が受け入れられるか否かというのは、先天的なものが大きいんだ。もともと素養のない奴が好奇心で試してみたとしても、たいてい途中で我に返ることが多い。おまえもそうなのかもしれないな。チカのことは好きでもSMの世界が理解できないのだとしたら、いまのうちに別れたほうがいい。そうじゃなきゃ、また同じことの繰り返しになる」
    「同じことの、繰り返し……」
    「ああ。あいつや俺にとって、犬を辱めることは呼吸をするのと同じぐらい自然なことだ。もう少しわかりやすく言ってやろうか。べつに俺たちはセックスなんかしなくたっていいんだよ。犬を痛めつけるってこと自体、射精するのと同じぐらいの快感だと言えばおまえにもわかるか」
    「わ、わ、わかりましたから、もういいです」
     平然とした顔でとんでもないことを滔々と喋り倒すあたり、チカとそっくりだ。
     個室を押さえておいて、ほんとうによかった。チカと正面から張り合うだけあって、真柴も凄まじいことこのうえない。
     そういえば、前に橘も似たようなことを言っていたっけ。
     ――チカは直接的な行為を好まないと言っていた。だから、奴隷をいたぶるのも言葉主体だと。でも、俺に触れているときのあいつがむりをしていたはずはない。本気で触りたくないと思っていたら、俺でもわかったはずだ。本気で嫌だったら――俺に触れるのが嫌で嫌でしょうがなかったら。
     そこまで考えて、いかに自分が鬱屈しているかよくよく悟り、ため息しか出てこなかった。
     いったい、いつから暗いことばかり考えるようになったのだろう。自分の取り柄と言ったら、前向きでへこたれないことぐらいではないか。
     高校時代に柔道で鍛えた身体は、いまでも隅々まで引き締まっているが、チカや真柴のように人目を惹きつけるような容姿ではないし、頭の中身だってまあまあ社会に適応しているという程度だ。
     ――そういう俺から前向きさを抜いたら、なにがあとに残るんだ。ガタイばかりよくて気の弱い男なんか、俺だって嫌だ。
     チカは、こんな自分をどう思っているのだろう。ほんとうに真柴の言うとおり、同居させてもらっている恩も忘れて飛び出してしまった自分の荷物をまとめて、処分しようとしているのだろうか。
     洋服や本は、捨てられてもいい。もったいないけれど、諦めようと思えば諦められる。 だけど、チカ自身には捨てられたくない。絶対に。
    「どうするか、決まったか」
     勘がいいらしい真柴に水を向けられ、しばしためらったあと頷いた。
     彼の言うように、SMという性癖は後天的に養えるものではないのだろう。それでも、相手がチカなら理解したいと思ったことは嘘じゃない。
    「……とにかく、もう一度会って、ちゃんと話してみます。チカからSMを取り上げたらチカじゃなくなる気がしますよ」
    「確かにな。銀色の頭をした、普通のいい男ってだけだ」
     遠慮のない真柴に、「そんなことはありませんよ」と南は笑いながら頭を振る。
    「俺にとっては、やっぱり誰よりも大事な男です。でも、こっちにも譲れない線があるんですよ。あいつがどんなにSM好きでも、家に持ち込まれるのはごめんです。橘くんを引き取るのは言語道断。ほかの奴隷についても、俺以上に大切にするのは許せません」
    「わかったわかった。そいつは俺じゃなくて、チカに言えよ。まったく、最近の犬ときたらどうなってんだ。たとえほかの主人相手でも、口のききかたには十分注意するってのが犬として最低限の礼儀だと思うんだが」
    「だから、俺は犬じゃありませんってば」
     ぶつぶつ言う真柴に負けじと言い返すついでに、暗い窓の外を見た。
     いまごろ、チカはなにをしているのだろう。この夜空の下、どこかで自分のことを思い出してくれているだろうか。
     二十六近くにもなれば、さまざまな困難に立ち向かったときの対処法がそれなりに身に付いているものだ。
     だが、チカにかぎってはどう頑張っても意地を張ることができない。
     どれだけ真柴と話したところで、胸に空いた穴を埋めることはできない。この寂しさをわかってくれるのは、チカだけなのだ。

     真柴との会食後、すぐにもチカに連絡をしようと思っていたが、あいにく時期が悪かった。
     出版業界に属する者なら、誰もが息つく暇もなく馬車馬のように働く年末時期だ。
     南ももれなく年末進行の波に飲み込まれ、会社に泊まり込んでの仕事を必死にこなすうちに一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、あっという間にクリスマス・イブを迎えてしまった。
     十代の頃ならいざ知らず、二十代も後半に差し掛かろうとしているいま、クリスマスだなんだと騒ぐつもりはこれっぽっちもない。
     だけど、今年のクリスマスはチカとふたりで食事をしようと夏前から約束していたのだ。
     ――あんなふうに喧嘩さえしてなかったら、いまごろ楽しく過ごしていたのに。わざわざレストランで食事をしなくてもいい。チカといられれば、それでよかったんだ。
     男の恋人とクリスマスに食事することを楽しみにしていたなんて、誰にも言えない。
     黙々と仕事に専念したおかげで、クリスマス・イブ当日には年内に片付けなければいけない作業もほとんど終わっていた。
    「クリスマスだってのに、なーにシケた顔してんだ。今夜は可愛い彼女と食事でも行くんじゃないのか」
     しばらく前から南に女の恋人がいると勘違いしているらしい先輩の吉田が声をかけてきて、帰り支度を調えていた南は「いや、まあ」と曖昧に笑う。
     どんなに仕事が忙しくても、電話の一本ぐらい入れることはできたはずだと自分でもわかっていた。なぜ、そうしなかったのかということもよくわかっている。
     ――電話をかけて会いたいと言っても、『いまさらどういうつもり』と返されたらと思うと、怖くてかけられなかったんだ。
     真柴と会った直後の勢いは仕事に忙殺される日々のなかで少しずつ衰え、気づけばまたも自分のしたことを悔やんでいる始末だ。
     チカがどう思っているのか、会って話してみないことにはわからない。だが、はねつけられるのも怖いときたら、もうお手上げだ。
     ここまできたら、どういう結末になろうが会うしかない。チカが怒っていようがどうしようが、納得するまで話すべきだ。
    「俺、帰りますね」
    「お疲れ。彼女と喧嘩してるなら、今夜中に仲直りしろよ」
     年上らしい吉田の気遣いに片手を挙げて応え、会社を出たあとはまっすぐ六本木へと向かった。
     クリスマス・イブだけあって、六本木の大通りは多くのひとでごった返していた。正面に見える東京タワーも凍える夜気の中で真っ赤だ。
     あのふもとを目指していけば、チカの住むマンションはすぐそばだ。
     しばらくぶりの坂道をゆっくりとのぼっていく途中、すれ違うひとびとは皆、笑顔だ。
     これから、どこかのパーティに向かうらしい女性は右手にちいさな紙袋を提げている。きっと、中に誰かへのプレゼントが入っているのだろう。そのうしろからやってくるカップルは、買ったばかりらしい明るい色彩の花束を手にしていた。
     ビルというビルのネオンは冴え冴えと輝き、吐く息は白かった。だけど、両手だけはチカが贈ってくれた手袋で暖かい。
     鼻の頭が赤くなる頃、やっと東京タワーに着いた。いつもならもっと早くにたどり着くのだが、今夜はひとの出が多いこともあって時間がかかってしまった。
     マンションはもう目と鼻の先だが、東京タワーの真下で少し休んでいくことにした。チカに会う前に、もう一度こころを落ち着けておきたかったのだ。
     周りはカップルだらけで、男の独り身はかなり浮く気がするが、そこはあえて鈍感になってベンチに堂々と腰を下ろしてしまえばいい。
     ――家にいるかどうか確認していないけれど、きっといるはずだ。
     ゼルダには出ていないと真柴も言っていたし、もともとチカはひとりでふらふらと呑みに出るほうではない。慣れ親しんだバー・鍵も、最近では縁遠くなっていた。
     ――チカが変わっていなければ。俺と暮らしていた頃のチカのままなら、きっといまも家にいるはずだ。
     ふわりと息を吐き出しながら見上げるタワーは、東京全体を美しく照らし出すクリスマスツリーみたいだ。
     深紅に光り輝くおもちゃのような鉄塔に、――チカも部屋からこの景色を見ているだろうかと微笑んだときだった。
     キィッと車のタイヤが派手に鳴る音にはっと振り向くと、ちょうど正面の道路にばかでかいリムジンが停まったところだ。
     ごちゃごちゃした東京の景色にまったく似つかわしくない車をそこらの通りで見かけただけなら、――こんなデカイ車に乗っているのはいったいどんな奴だと好奇心をそそられただろうが、まるで自分を狙うように明るいライトが照らしていることに鼓動が駆け出す。
    、まさか、と腰を浮かしたのと同時に車の扉が開き、中からタキシードに身を包んだ男が颯爽と現れた。
     襟元は艶のあるシルク、ベストとシャツは輝く白で統一し、足元の黒のエナメル靴にも一点の曇りもない。
     どこの絵本から飛び出してきたのかというようないでたちに、目の覚めるような銀髪と右耳を飾る一カラットのダイヤモンドが似合う男ときたら、世界中でただひとりだ。
    「――チカ!」
    「センちゃん!」
     度肝を抜くような登場を果たした男の足元に、セレブの証であるレッドカーペットが敷かれていないのが不思議でしょうがない。
     まばゆいばかりのネオンを弾く黒のタキシードと、根元まで綺麗に染まった銀髪という取り合わせは久しぶりに見ても腰が抜けそうなほどに派手だ。
     足早に近づいてくるチカは以前と変わらぬ笑顔で、だけど、少し頬が痩せていた。
    「……久しぶりだね。今夜、かならずここで会えると信じていたよ」
     どうしてここにいることがわかったのだろう。チカにはもしや超能力でもあるのだろうか。
     ――それとも、俺の知らないあいだに身体に発信機でも埋め込まれてたのか?
     超能力よりもそっちのほうがよほど現実味があるが、両手を包み込むチカの目には自分しか映っていないようだ。突然の出来事に目を剥いている周りのひとびとは、彼にしてみたら背景の一部なのだろう。まるっきり動じることなく、南の頬にやさしくキスをして、「おいで」と囁いてくる。
    「きみのために今夜は腕をふるったんだ」
     呆気に取られる南をリムジンに誘い、好奇の視線を遮断してぱたんと静かに扉が閉まり、「出していいよ」というチカの声とともに車が滑るように走り出す。
    「元気、だったか」
     掠れた声に、三か月ぶりに顔を合わせたチカは「どんなふうに見える?」と笑いながら首を傾げる。
     その表情には、前にはなかった落ち着きとある種の寂しさが感じ取れて、真横に座った南は穴が空くほどにまじまじと見つめた。
    「痩せたみたいだな」
    「ちょっとだけね。きみと別れて暮らしているあいだ、なにを食べてもおいしくなくて」
     小声で言いながら、チカがそっと身体をすり寄せてくる。どことなく遠慮の残る仕草も、前にはなかったものだ。
    「そういうきみは? 元気にしてた?」
    「いや」
     嘘はつけない。見栄を張ることもできない。離れて寂しかったのは、こっちも同じだ。
    「……俺も、寂しかったよ。ごめんな、あんなふうに飛び出して」
     ぽつりとした声でそう告げると、チカは切れ長の目元をほんの一瞬潤ませ、急いで肩口に額を押しつけてくる。
    「ずっと会いたかったよ。会いたくて会いたくて、気が狂うかと思った。でも、むりをしたら、また同じことの繰り返しになる気がしたんだ。きみはやさしいから、きっと僕に合わせてくれてしまうでしょう。それがどうしてもこころ苦しい。……でも、きみと別れるなんて僕にはとても考えられない。そんなことになったら死んでしまうよ」
    「バカ……、俺なんかのためにそこまで思いつめることないだろ」
    「ううん。ほんとうだよ。センちゃんだからこそ、なんだよ。僕にとってきみは命よりも大事な存在。この先も、僕はセンちゃんと暮らしていきたい。だから、ライフスタイルもSMという趣味も、ここで一度考え直してみることにしたんだ。橘くんを引き取る話は、センちゃんが出ていってすぐに断った。ゼルダにもずっと出てないし、毎日家でひとりでおとなしくしてたよ。……奴隷なんかよりも、きみのほうがずっと大事なんだよ」
     真面目な声音を聞いていると、高校時代の頃に戻ったような気がする。
     いまでこそベリーショートの頭がプラチナシルバーに染まり、恐ろしく金のかかったマンションで金色ライオンの口からざばざばと湯があふれる薔薇風呂に浸かるという暮らしを楽しむチカではあるが、出会った当初は隣町の大病院の跡取り息子にふさわしい礼儀正しさを持ち、柔道部の主将だった南の信頼できる右腕として、つねにそばに控えていてくれたものだ。
    「毎日毎日、センちゃんに会えることだけを考えていたよ……。ほんとうはね、どこに住んでいるかも知ってた。会社に訪ねていこうと思えばそれもできたけど、やっぱり、きみの意志を無視しちゃいけないと思ったから、今日まで我慢したんだ」
    「どうして今日なんだ」
    「だって、僕らは約束したでしょう?クリスマス・イブに綺麗にライトアップされた東京タワーをふたりで見たら、とっておきのレストランに行こうねって。あの約束をセンちゃんが覚えていてくれていることを信じて、ひたすら今日を待ち焦がれたよ。クリスマスなら、神さまもきっと僕の願いを叶えてくれるだろうと思った。きっときみが戻ってきてくれるって、信じてたよ」
    「チカ……」
     見た目は激変しても、チカのまごころは昔のままだ。
     感傷的な気分に背を押されて、熱くなる目頭を押さえようとした瞬間、ふいに車が停まる。とたんにチカが笑顔でのぞき込んできた。
    「さあ、着いたよ。センちゃん、降りて」
    「え? ここ、どこなんだ。前のマンションか?」
    「神田だよ」
    「神田ァ? なんでまたそんなところ……うわっさみィ!」
     慌てて車から降り、冷たい横風にぶるっと背中を震わせた。
     確かに、神田に来たらしい。目の前に神田川が暗く流れるこの一帯には古くからの建物が並び、どれもちらちらとした灯りを川面に投げかけている。
     ここから勤め先のメディアフロントはそう離れていない。とはいうものの、チカは会社に用があるのではないらしい。
     リムジンが停まったのは、ぼろけた木造アパートの前だった。
     戦前に建てられたんじゃないかという古びた建物はいまにも崩れ落ちそうで、窓から漏れる数少ない灯りはほかの建物のものと比べていかにも弱々しい。
    「こっちこっち」
     手招きするチカがタキシードの裾をはためかせ、ボロアパートに入っていく。
     いったい、ここでなにをしようというのか。季節はずれの肝試しでもやるつもりなのか。おそるおそるあとをついていくと、少し先を行くチカは二階に通じる階段をぎしぎし軋ませながらのぼっていく。
    「なんなんだよ。こんなボロいところでなにするつもりなんだ」
     事情がさっぱり掴めない南に、角部屋の前に立ったチカが「ふふ」と笑い、内緒話をするように人差し指をくちびるの前に立てる。
    「今日からここで、僕らは新しい生活をスタートさせるんだよ」
    「はあ?」
    「さ、どうぞ」
     ギーッとものものしい音を立てて開いた扉は、一発蹴ればがたがたになりそうなほどに薄い。
     中をのぞいてみて、これまた驚いた。いまどき、こんな狭い部屋が都心にあろうとは。畳が三枚並んだ部屋には丸いちゃぶ台と水仙が飾られた一輪挿しに、二枚の座布団が置かれているほかには、なにもない。
    「なんだ、この部屋……」
    「すごいね、三畳ってこれだけしかないんだね」
     目を丸くする南とは正反対に、早々に靴を脱いで部屋にあがるチカはにこにこしている。窓の桟は使い込まれて黒光りし、付け足し程度にある流しも水道の蛇口しかついていない。
    「トイレと台所は共同なんだよ。でもほら見て、一応押し入れはついてるんだ」
     わびしい部屋にまったく似合わないタキシード姿のチカががらりと襖を開けると、真新しい布団が積んである。
    「お布団と畳だけは新しいから安心して」
    「は……」
     窓を閉めていてもすきま風が入るらしい。かたかたと薄いガラス窓が鳴る音にチカがくすりと笑い、「それじゃ次は」と再び押し入れを開ける。狭い部屋に箪笥など置いたら圧迫されるだけだから、どうやら押し入れにあれこれしまい込んでいるらしい。
     そこから出した水色の洗面器を南の前に置き、もうひとつ黄色の洗面器を自分の前に置いてチカが立ち上がりながらコートの袖を落とした。
    「センちゃんも着替えて。早く行こうよ」
    「どこにだよ」
     まだ呆けている南に、チカが楽しげにウィンクしてくる。
    「銭湯に行くんだよ」
     それでわかった。
     豪奢な生活を捨て去る決意をしたチカは、かの名曲『神田川』を地でいこうとしているのだ。

    「あなたはもう、忘れたかしら……」
     低く、甘い歌声を探してのれんをかき分けると、銭湯を出たすぐ右の柱に、チカが寄りかかっていた。
     ボロアパートを出る前に着替えた、南とそろいの紺のフリースジャケットとジーンズという格好は、しなやかなシルクと贅を尽くした皮革製品をこよなく愛する彼にしてはめずらしいシンプルさだ。
     その首に、赤い手ぬぐいをマフラー代わりに巻いているのを見ると、可笑しくて可笑しくてたまらず吹き出した。
    「あ、センちゃん。待ってたよ」
    「寒いんだから中で待ってればよかったのに」
    「だめだめ。寒さを堪えてきみを待つのが楽しいんだって」
     そういうことだったのか、と南は苦笑いする。
     白い息を吐き出して笑うチカと一緒に銭湯の男湯に入り、三か月離れていた寂しさを埋めるようにあれこれと話したついでに、背中の流しっこまでしてしまった。
     いまどきの銭湯と言えばジャグジーにサウナ、岩盤浴にマッサージ付きとメニューがてんこ盛りの「スーパー銭湯」が幅をきかせているが、今夜ふたりで入ったのは昔なじみの富士山に帆掛け船が描かれたペンキ画が壁を飾る風呂だ。
     客として来ているのも近所に住んでいるご老人ばかりらしく、皆、一様にチカの銀髪にびっくりした様子を見せていたのが可笑しかった。
     熱めの湯にしっかり浸かり、髪と身体を洗い、もう一度湯に浸かったところで彼のほうが「先に出てるね」と慌ただしく出ていってしまったので、湯あたりをしたのかと心配していたのだが、どうやら『神田川』の歌詞をきちんとなぞりたいらしい。
     彼の短い髪に触ると、冷たい。
    「おまえってホント、変なところで凝る性格だよな」
    「そうだよ。だからセンちゃんのことも隅々まで知りたくて困る。出会ってもうずいぶん経つのにね。未だにきみには惹かれっぱなしで、毎日どきどきさせられるよ」
     肩をぶつけてくるチカと笑い合い、ちいさな石けんを洗面器の中でかたかた鳴らしながらアパートに戻った。この石けんだって新品ではなく、わざわざ使いかけのものを用意していたのだから、チカの用意周到ぶりには恐れ入る。
     貧しくても南との暮らしを徹底的に楽しむために、ボロアパートも探しに探したのだろう。いまどき、三畳一間を見つけるほうが大変だ。
     部屋に戻ると、ぼんやりした電球と電気ストーブを点けた。
     この光景をもしもあの真柴が見たら、クリスマス・イブなのになにをやっているんだと笑うかもしれない。だが、南には誰が笑おうともどうでもよかった。チカと狭い部屋にふたりきりでいられるのだ。
     男ふたりに三畳というのはさすがに窮屈だが、しばらくぶりに顔を合わせたのだと思うと胸が高鳴り、肩が触れ合うほどの狭さが逆に嬉しい。
    「テレビ、ないのか」
    「ラジオならあるよ。点けようか」
     どこかの質屋で買ってきたのだろうか。古ぼけたラジオのスイッチを入れると、クリスマスらしく「きよしこの夜」が流れ出す。
    「ケーキもあるんだ。食べよう」とチカが部屋の隅に置いていた箱を出し、ちいさなショートケーキを皿に載せてくれた。ついでに、急須と湯飲みを使って紅茶を入れてくれる。
     なにからなにまで質素にする徹底ぶりに、自然と笑い声が漏れていたのだろう。
    「なに笑ってるの」
    「いや、ついこのあいだまでは薔薇風呂に浸かってたのにな。まさか、クリスマスにおまえとふたりでこんな場所でケーキを食べられるとは思わなかった。ん、旨いよ、これ」
    「よかった。安くておいしい店を必死に探したんだよ」
     チカは風呂上がりで艶めかしいくちびるについたクリームをぺろりと舐めている。
    「あのマンション、どうしたんだ。……真柴さんにちょっと聞いたんだけどさ、荷物をまとめてるんだってな。もしかして、俺の荷物? あのマンションを引き払うのか?」
    「まさか、違う違う。きみの了承なしに勝手にいじらないよ。でも、マンションは処分するかも。……きみがいなくなってさぁ、僕はなにもかもが虚しくなったんだよ」
     寂しげに笑い、チカは湯飲みに口をつける。
    「センちゃんの笑顔がなかったら、どんなに綺麗で広い部屋に住んでいてもつまらないんだよ。よくよく考えてみると、僕はこれまで結構恵まれてきたんだよね。だから、金銭感覚が鈍っているところもあって……きみに嫌な思いをさせたかもしれない。ごめんね」
    「そんなことない。俺だって、チカに会わなきゃライオン風呂なんか一生入れなかったんだ。天蓋付きベッドもそうだよ。いまだから言うけどさ、俺、あのベッドが結構気に入ってたかも。シルクを下げてただろ。綺麗だったよな」
    「だったら、ここで蚊帳でも釣ってあげようか?」
    「バーカ」
     ふたりして吹き出した。すきま風が入り込んでも、身体を寄せ合っていれば暖かい。ふと窓の外を見ると、ちらちらと白いものが降っていた。
    「あ、雪だ」
    「ほんとう? ホワイトクリスマスになるなんて思わなかったよ。一生の記念になるね」
     顔に似合わずロマンティックなことが好きなチカがはしゃぐ横顔に微笑み、「チカ」と囁くと、「うん」と彼も振り向く。
     その首の傾げ方がちょうどいい角度だったので、そっと顔を近づけると、チカも瞼を閉じる。
     触れ合ったくちびるから、ほんのりとした熱が伝わってくる。どうしてこの男と三か月も離れていて平気だったのか、自分でもわからないほどのせつなさがこみ上げてきて、チカにすがりついてしまった。
    「ん……」
     くちびるを重ね、頬を擦りつけ、たまらずに舌を搦めると、チカがうなじを支えてくれた。
     くちゅりと音のするキスを飽きずに繰り返し、ふいにチカが顔を離すと、つうっと銀色のしずくがふたりのくちびるを伝う。
    「チカ……ヤバい、俺……なんか止まらなくなりそ……」
    「ん、僕も。三か月もきみとしてなかったなんて信じられない。ほら、触ってみて」
     右手を掴まれ、ジーンズの上から硬く盛り上がったそこに触れさせられて、びくりとおののいたのがわかったのだろう。
    「さっき一緒にお風呂に入ってるとき、あともう少しで勃つところだったよ。頭の中で念仏を唱えてなんとか我慢してたけど」
     うわずった声に南も笑い、手を伸ばして電球のスイッチを引っ張った。カチリと音がしてちいさな豆電球だけが灯るなか、チカが素早く立ち上がって押し入れから布団を取り出す。
     無言でシーツを整え、枕を並べたところで視線が合った。
     熱っぽい目が全身を舐めるように絡みついてくる。これだけ強い情欲を目の当たりにしたのは、いつ以来だろう。
    「千宗……千宗……」
     頭をかき抱いてくるチカに押し倒され、そこから先は無我夢中で互いに服を脱がせ合った。チカのシャツのボタンをはずそうとしても、指が汗で濡れてうまくいかない。
     普段、もっとソフトな抱き方をしてくれるチカも、今夜は本能が剥き出しだ。頭でなにか考えるよりも先に手が出るらしく、力ずくでシャツを引き剥がされ、ボタンがひとつ弾け飛んだ。
     逞しい胸板を押しつけ、少しの抵抗も封じる乱暴な仕草に、ぞくぞくするような快感がこみ上げてくる。奴隷を相手にしているときは、もっと洗練された態度だ。ならば、この荒々しい行為は情欲が抑えきれない証拠で、恋人にしか見せないものなのだろう。そう思うと、胸の奥が甘く痺れていく。チカの凄味ある本性を見た気がして、触られていないうちからどこもかしこも鋭敏になっていくようだ。
    「千宗の乳首、ずっと触りたかったよ……。ここ、どうしてた? 僕と離れているあいだ、自分で触った?ほかの男に触らせたりしてない?」
    「し、……てない、……そんなこと、――ぁ……」
     引き締まった胸でいやらしく尖る乳首を、長い指がきゅっとつまんでくる。チカの指はいつ見ても綺麗に整っている。女の指のようななよやかさはなくても、爪のカーブはオーバル型だし、それなりにはっきりした節も男らしい。そういう指に執拗に胸を弄られるのが、どれだけ感じるか直接言ってやれたら。
     感覚だけじゃない。視覚的にも、快感を与えることをチカは自然なまでにやってのけるのだ。
     指の腹で痛いほどによじられ、こねられて、赤くふくらんだ先端をチカが大きくのぞかせた舌でつついてきて、ひくんと身体がのけぞった。
    「あ……あぁ……」
     たったそれだけの愛撫でも涙が滲むほどに感じてしまう。渇いた身体はチカの愛撫のひとつひとつを貪欲に吸い込み、南でさえ触れないずっと奥のほうを潤ませる。
     指できつく揉み込まれた乳首を今度は舌で舐られ、たっぷりと吸われた。チカのくちびるから響く音が部屋中に跳ね返るようで、腰が疼くほどに恥ずかしい。ちいさなそこをしつこく舐め回されると、じんとした甘い痺れが腰のあたりに広がる。
    「ああ、もうこんなに赤くなっちゃった。いやらしくていいよ、千宗はほんとうに。僕が毎日可愛がって開発してあげたんだもんね。ほら、自分でも触ってごらん。きみが気持ちいい触り方をしていいから」
    「そんなの……わからないって……」
     チカが自慰めいたことを強制してくるのは、これが初めてじゃない。つねに恥ずかしさが勝ってしまい、そのたび「嫌だ」と断っているのだが、「してよ」と甘く囁かれると理性がもろく崩れてしまうのが自分でも情けない。
    「大丈夫。僕しか見てない」
     こう言うのもチカの常だ。
     ――おまえが見ているから恥ずかしいんだろうが。
     そう言おうとした矢先に、腿のあたりにチカの硬い熱がもったいぶるように押しつけられ、つい胸に手が伸びてしまった。
    「そう、千宗は自分の乳首をそんなふうに触るんだ?」
    「ッん――ぁ、あ」
     楽しげな笑い声を鼓膜に染み込ませ、ぎこちなく乳首を弄った。自分で触るのと、チカにしてもらうのとではやはり違う。同じようにしているつもりでも、力加減が違うのだろうか。
     こうじゃない、ああじゃないと恍惚の表情で弄り回す様子がチカをおもしろがらせたようだ。
    「自分でするのがそんなにいい?」
    「ちが、う……おまえにしてもらえるほうが、ずっといい……」
    「どうして。僕はまあ、男の抱き方はうまいほうだからね。たとえばの話、きみじゃなくてもいかせられる自信はあるよ」
     こんなときに、なんてことを言うのだろう。胸を弄る指の上からチカの指が重なり、微妙な具合で力を加えてくるから甘ったるい声が次々に漏れてしまう。
    「教えて、千宗。きみはもともと乳首を弄られるのが好きなの? 生まれつきの淫乱? 僕に会う前からきみには男と寝る素質があったってことかな。もしかしたら、誰を相手にしても感じられる?」
    「バカ、違う、……おまえがこうしてくれた、んだろ……たくさん弄ったのは、おまえじゃないか」
    「じゃあ、僕に出会って変わったのかな」
    「――そうだよ……あ……っん……!」
    「嬉しいよ。その言葉が聞きたかったんだ。きみは虐げられる才能が先天的にあったわけじゃない。僕に出会ったことで、淫らになったんだよ。それがどんなに嬉しいか、わかる?」
     戒めみたいにぎゅっと乳首をひねられた。鋭い痛みの裏側にひそむ快感に、背筋が震える。
     薄暗がりの中、チカが舌なめずりして引き起こしてきた。
    「僕に寄りかかってごらん」
     開いた彼の両足のあいだに抱き込まれると、硬い熱が尾骨にあたり、どうにも落ち着かない。
     羽交い締めにされた状態で、両腿を大きく割られた。そうすると、いやでも自分のそこをまともに見ることになってしまう。オレンジ色の豆電球の下で、ぬらぬらと先端を光らせた性器がたまらなく淫らだ。
    「ここ、こんなに大きくしてたんだ。もうびしょびしょだ。ね、触りながら楽しい話をしてあげるよ」
    「ん――ッ、は、……」
     そそり立つ性器に指の輪っかを通し、ゆっくりと上下させていくチカが耳たぶをやわらかに噛んでくる。
    「きみと離れているあいだ、僕がどうしていたか聞きたいでしょう。教えてあげるよ。最初の一、二週間は気が狂うかと思った。夜も眠れなくて、一日中部屋の中でずっとぼうっとしてたよ。きみの着ていたパジャマにくるまっても落ち着けなかった。ほんとうにもう二度と会えなかったらどうしようかって……そればかり考えてた。次の一週間は、次にもし、きみと会えたら、なにを話そうかと考えたよ。僕のSMという性癖をなんとか理解してくれようとしているきみに、むりはさせたくない。だけど、SMをやめろと言われたら僕はやめられるのか、真剣に考えてみた。……どうにもね、困ったことに答えが出ないんだよ」
    「……チカ……やだ、そこ、やめろって……」
    「ああ、ここ? 好きだよね、千宗ここを弄られるの」
     ペニスの先端の割れ目はひくひくとうごめき、透明な蜜をあふれさせてチカの指をも濡らしていく。
     そこに爪を立てて開かれると、ふつりと染み出すしずくがこぼれ落ち、全身がよじれるような快感にいまにも射精してしまいそうだ。
     抱き合っているとき、チカが滔々とまくし立てるのは毎度のことだ。しかし、三か月離れていたあいだに、彼の中でなにかが変わったらしい。以前と比べ、落ち着いた口調になったと言えば聞こえはいいが、より凄味を増したような気もする。
     潤滑剤も使っていないのに、ぬちゅぬちゅと音を立てて扱かれた。聞こえる音といったらそれぐらいだ。知らないあいだにラジオのスイッチも切られており、身体じゅうをまさぐる手だけではなく、吐息や温度といったものすべてでチカを感じた。
    「答えが出ないまま、きみと無事に会えたらどう抱こうかなと考えたよ。いままでの僕は際限なく喋り散らすばかりで、少し考えなしだったよね。その点は反省してる」
    「……な、ッに、……あ……」
     チカが声を落としたとたん、すうっとすぼまりに指が這い、先走りのぬるみを使って少しずつ侵入してきた。じわじわと意識を浸食するようなやり方が、いままでのチカと違う。
     言葉が少なめになったぶん、すぼまりを押し拡げたり、硬くしこる乳首の先端をこりこりとねじる指先にこれまでになかった強引さが加わった気がしてしょうがない。
     確かにチカは前から押しが強かったが、南の反応を試しつつさまざまなことを仕掛けている節があった。しかし、今夜の愛撫はそういったものが感じられない。愛情をなくして冷たくなったかと言えば違う。
    「……いろいろ考えた結果、僕はね、やっぱり僕のままであるべきかなと思うんだよ」
    「え……? あ……チカ……っ!」
     敏感なくびれをきゅうっと締め付けられるのと同時に、チカの中のスイッチというスイッチがいっぺんに入ったようだ。
    「千宗に会ったら、徹底的に犯そうと思ったよ。二度と僕のもとを離れようなんて思わないように、首輪をつけるか鎖で縛り付けておくか。大丈夫、僕もきみ相手に痛いことはしない。絶対にしないよ。でも、三か月離れてよくわかったんだよ。僕のここをこんなに硬くさせるのはきみしかいないでしょう」
     ぐっとうしろから押しつけられる熱の塊に、ぶるっと大きな震えが走る。
    「千宗に会うまで、僕は誰かと交わるのが好きじゃなかったんだよ。ほんとうのことを言うと、ちゃんとしたつながりを持ったのはきみが初めてなのかも。他人の身体に触れて、挿れるってことがいとわしく思えた時期もあったんだけどね。きみと会ったことですべてが変わったんだよ。僕のここを一日中触らせたくなる。喉の奥まで咥えさせて、顔面に射精してやりたくなるよ。僕の精液でべたべたになったきみが涙ぐむところを想像したら、一日じゅう勃ちっぱなしだよ。ほら、こっち向いて」
    「んぁ、ッ」
     指を咥え込まされたまま身体の向きを変えられ、深い快感が突き抜ける。向かい合ったチカの顔はいままでに見たどれよりも熱っぽく、目には淫靡な輝きが灯っていた。
     三か月離れていたことが、彼の本気に火を点けてしまったらしいと気づいたところで、いまさらどうなるのだろう。
    「僕の濃いアレを飲みたいって言わせたいね、このやらしいくちびるで。なんでそんなに真っ赤に濡らしてるの。キスしてほしい? それとも、ここに挿れてほしい? ねえ千宗、僕はきみに触っていたいんだよ。こうしてずっとくっついていたい。朝から晩まで乳首を弄ってあげたいよ。仕事していても僕の感触を思い出すぐらいにしつこくいたぶってやる。なにをしていても僕が欲しくなるぐらいにしてやりたい。ああそうだ、今度はここの毛も剃ろうか」
    「そ、るって……ッあぁ、やめろ、噛むなバカ……!」
     ぞっとするほど淫猥な笑みを浮かべたチカが無防備な胸の尖りをきつく噛み潰し、痛みと快感に泣きじゃくった。ついさっきまでの穏やかさが嘘のような展開に、胸が激しく波打つ。
    「覚えてる? 前にきみにぴったりなディルドーをつくってあげたでしょう。あれをね、持ち歩けるサイズにしたらどうかなと思うんだよ。もちろん、僕のサイズだからまともに咥え込んだら、とてもじゃないけど歩けないぐらいに感じると思うよ。でも、それがいいと思わない? スーツの前を濡らしてしまうぐらいに感じるきみが見てみたいよ……ねえ、想像してごらんよ。たとえば会社で会議に出ていても、きみのあそこには僕の形が入ってて、ちょっと身動きしただけで奥に突き刺さるんだよ。ほかのひとは真面目なきみがそんないやらしいことをしているなんてちっとも知らないわけだよ。秘密を知っているのは僕だけ。スーツを脱がせたらきみの身体がどうなってるか、知っているのは僕だけなんだよね。そうそう、せっかくだから乳首の感度をもっとよくしてあげる。綺麗な細工がされたねじ式のクリップがあるから、今度それをはめてみようよ。きみの乳首って弄っているうちに熱くなって、やわらかくなって……ちっちゃなぐみみたいになって噛みたくなるんだよね。噛まれるのが好きでしょう? 噛んであげるともっと濡れるもんね。お尻、振っちゃうぐらい好きなんでしょう。あ、もうほら、いまも揺れてるよ。ねえ、ほんとうに可愛い……きみってなんて感じやすくて可愛いんだろう。僕がはめたら、気持ちよくてそれだけで射精しちゃうんじゃないかな。でも、すぐにはいかせてあげない。ディルドーはあくまでもディルドーでしかないもんね。仕事の途中だろうがなんだろうが、最後には僕のここが欲しいって言わせたい。言ってごらん千宗、僕を」
    「欲しいよ、……チカ、挿れてほしい、だめなんだ、もう我慢でき、ない……」
     甘く蕩けてしまいそうな粘膜を何度も指で擦られ、限界だ。涙声でせがむと、尻がぐっと持ち上げられ、力の加減なしにチカが下から突き挿れてきた。
    「く……――ッ!」
    「あぁ……やっぱりきみの身体がいちばんいい……」
     うっとりとした声で囁く男の太い肉棒が身体の奥までずぷりと貫き、少し動いただけで涙があふれ出すほどの快感が走り抜ける。
     つながったあとのチカは、いつになく濃厚に腰を遣う。焦れったい動きでとろとろになった粘膜を擦り立てて南を泣かせ、張り出した亀頭で過敏すぎる入口を執拗に抉ることまでした。
     熱く湿る襞はチカに淫らに吸い付き、まとわりつき、南自身をも身悶えさせる。
     無意識に自分から腰を引き、息を吐いてゆっくりとチカの勃ちきったそれを再び飲み込んでいった。
     大きくふくらんだ亀頭からくびれまでを収めるのが、つらい。だけど、この形にくり抜かれてしまいそうだと思えば思うほど、ずしりと重みのある深い官能が身体じゅうを包み込んでいく。ペニスははち切れそうなほどに硬く勃ち、チカを受けいれるたびにひくんひくんと先端を物欲しげに揺らして透明なしずくを肌にこぼした。チカがそれをいたずらっぽく弾いて、指に移ったしずくを舐め取る。
    「……ぅん……っチカ……、いい、すごく……」
    「いいよ、……僕もすごく感じる。きみのあそこが熱すぎてとけちゃいそうだよ。今度は外でしようか。公園でする? 海を見ながらでもいいよね。とにかく誰かが周りにいるところがいいな。恥ずかしがるきみにぴったりうしろからくっついてさ、腰を突き出してもらって……こんなふうにゆっくり挿れてあげるよ。夜なら大丈夫、男同士でくっついてても怪しくないよ。大きく動いたらばれちゃうから、少しだけ動かすのはどう? 僕はほら、鍛えているから我慢できるけど、きみはどうだろうね。ぐちゅぐちゅって音が周りに聞こえちゃうほど、お尻を振っちゃうかもね。そういう千宗もいつか絶対に見たいな。想像しただけで、可愛くて可愛くて頭がおかしくなりそうだよ。ねえ、僕のがきみの中で大きくなってるの、わかるでしょう? わかるよね?」
     言っているそばから頭の中で妄想のかぎりを繰り広げているのだろう。チカが身体の位置を変えて、背後から抱え込んでくる。
     それから、じりじりと埋め尽くすように挿入された。焦らすように先端を引っかからせ、深いところまでずくりと埋め込まれていくあいだ、頭の中は真っ白だった。
     やわらかに潤む内側を熱い肉棒がせり上げていく感覚が久しぶりすぎて、どこまで感じるのか自分でも怖くなるほどだ。火が点いたような熱い吐息や、口の端からしたたり落ちる唾液がまるで犬みたいだった。
     背後から突かれるのと同じタイミングで腰をうねらせてシーツをかきむしり、甘いすすり泣きがこぼれた。
    「あ……ん……んぅ……」
    「夜景を見ているきみのうしろから、たっぷり犯してあげるよ。そういう場合、やっぱり下着はもともと穿かないのがいいよね。途中で何度もいたずらしてあげられるし。海には電車で行こうよ。そうしたら、景色を見るふりしてきみのここを触ってあげられる。声を出したら勘づかれるから気をつけなきゃね。お望みならシャツの上から乳首も擦ってあげるよ。でも、やっぱりアンダーシャツは着せられないな。きみのここがつんと尖るところがわかるぐらいじゃないとね。そうやって散々焦らして……我慢できないってきみが泣いたら、うしろから抱きついてひくひくしっぱなしのここにねじ込んで……」
     言葉が途切れた。チカがぐっと背中を丸め、精力的に突いてくることで声が止まらなくなってしまった。
     むず痒いような痺れがそこから全身に広がり、気が狂いそうなほどよがってしまう。こうなったら、壁が薄いことなど気にしていられるか。
    「い、く……――ッん、っく、もう、あっ、あぁっ」
    「隣に聞こえるよ、千宗。ここはボロいんだから、壁が薄いんだよ。きみがいやらしくおねだりする声がアパートじゅうに響いちゃう」
     くすくすと笑う声も熱に浮かされている。尻の狭間に重たい陰嚢を擦りつけるチカは太棹の根元まできつく咥え込ませ、南が羞恥を押し殺してせがむまで、浅い挿入できつい締まりを楽しんでいた。
     狭い部屋はふたりの熱っぽい吐息でむせ返るようだった。煤けた天井も、ざらざらした壁も、チカのマンションとは違いすぎるけれど、抱きすくめてくる腕の強さは以前となにも変わらない。
     尻を高々と抱え上げられる姿勢で、胸の尖りがシーツに擦れてひりひりする。そこに自然と指が伸びたのをチカも見逃さなかったらしい。いきなり手を振り払われたと思ったら、力強くリズミカルに揉み込まれ、蜜が漏れる感じがひときわ強くなっていく。
    「もう、いきそう?」
    「ん、ぅ、ん」
     せっぱ詰まった感じで頷くと、つながったままチカが正面から覆い被さってきた。
    「いくときの顔が見たい。僕の顔を見ながらいって。たくさん出してごらん」
     間近で笑う端正な男の額が汗ばんでいるのを見ると、言葉にできないいとおしさが胸に満ちていく。
     やっぱり、チカはチカだ。
     言葉数が減ったかと思ったのはつかの間だったし、どうあってもSMという性癖を諦めることはできないのだろう。そのことに、どこかほっとしてしまう自分がおかしいのかもしれないけれど、こうでなきゃチカじゃない。
     胸の裡が伝わったのだろうか。眉を跳ね上げてチカが微笑み、ひとつ息をついたあと、大きく揺すり立ててきた。
    「だめだ、……ってそれ以上、もう、チカ、あ、あぁっ……んー……っ!」
    「千宗、愛してる。きみさえいれば、僕はなにもいらないんだよ。ほんとうだよ」
    「あ……ぁぁ……」
     熱のこもる奥を突き上げられ、すすり泣く南のそこからびゅくっと白濁した精液が飛び散った。痛いぐらいに張りつめた下肢がチカの手の中でひくひくと引きつれてしなる。すぐにチカも何度か激しく腰を押し込み、低い呻きを漏らしながらくちづけてくる。夢中で舌を搦めると、甘く淫猥に吸われて、意識までどろどろに蕩けていく。
    「ん――ふ……」
     熱くしたたる感覚を身体の奥に感じて無意識に締め付けると、尻の奥深くまでねじ込まれたチカの巨根がびくんと反応し、敏感になりすぎている肉襞を擦り、たっぷりとした精液を吐き出しながらゆるやかに動く。
     三か月ぶりだからか、思いのほかチカの射精は長く、息も荒い。飽きたらずに何度もくちづけ、汗で濡れた頬や額にもくちびるが押し当てられた。ちゅっ、と可愛らしい音がくすぐったくて首を竦め、南も彼の首に手を回して同じことをしてやった。
    「……すごく熱くて湿ってる、千宗の中、気持ちいいよ」
    「おまえの、せいだろ……途中からいきなり激しくするから……」
     熱い額をぶつけて笑い合った。狭い部屋が幸いして、布団が必要ないほどの暖かさだ。
     しっとりと汗ばんだ肌を押しつけ合っていると、胸に巣くっていた寂しさはゆっくりととけていき、代わりに安堵と、いとおしさと、終わらない渇きがやってくる。
     濡れそぼる南の中が荒々しい行為の余韻でひくつき続けるのを楽しむみたいに、チカは呼吸を整えながらゆるゆると出し挿れしていた。彼ほどの巨根は一度達したところで、そう簡単に硬さを失わない。多少やわらかくなっても、返ってリアルな肉感に南が胸を波立たせると、チカが微笑み、残滓を絡ませながらぬぷりと押し込んでくる。
     ちょっとした動きひとつで、とろっとした感触が腿のあたりまで伝ってくるのがなんとも恥ずかしい。男の自分が同性のチカに中で出されるという事実は、何度体験しても耳が赤らむほどの羞恥に襲われるのだ。
    「今日はこのまま朝までしちゃおうかなぁ。だって、クリスマスだもんね。サンタさんからのプレゼントを味わい尽くさなきゃ」
    「プレゼントって……俺のことか」
    「そうだよ。きみの身体、きみの顔、声、性格。きみの存在そのものが、僕の人生における最大のプレゼントだよ」
     相変わらずとち狂ったことを真面目に言うチカの正気を疑っていたら、今日という日はなかったように思う。そもそも、あのバー・鍵で運命的な再会を果たした直後に、彼の驚くべき性癖を知ったのだから、もしも自分に勇気というものがなかったらとっくに逃げ出していたはずだ。
     ――勇気、か。そうだ、もしも神さまがほんとうにいるとしたら、俺がもらったプレゼントは勇気かもしれない。ずば抜けた容姿と、突飛な性癖を持っているチカを愛するための勇気だ。
     ふいに笑うと、チカが「なぁに」と耳たぶを噛んでくる。「重いって」と言いながらも、抱き締められるしあわせを感じて南も笑顔だ。
    「……俺はたぶん、どう頑張ってもおまえの望むような犬にはなれないけど、どんなことがあってもおまえのそばを離れないって誓うよ。おまえを愛することで、俺は強くなれるような気がするんだ。チカ、俺はもう絶対に迷わない。おまえのこの先になにがあろうと全力で守ってやる」
     確かな力がこもる言葉に、チカがはっと目を瞠る。
     思えば、自分の気持ちをきちんと打ち明けたことはいままでになかったんじゃないだろうか。それからふいに、とろけるような笑顔を見せて、チカが抱きついてきた。
    「千宗が好きだよ。こころから大好きだよ。僕がどんなに嬉しいかわかる? これから先、きみとしたいことがたくさんあるんだ。でも、嬉しくて嬉しくてなにをしたらいいかわからないよ」
     無邪気な言葉に、声をあげて笑ってしまった。
     これが、チカのよさだ。どこか憎めない純粋なこころが残っているからこそ、SMという極まった性癖を持っていても惹かれ続けてしまうのだ。そうとわかっているなら、まだ熱の引かない身体を押しつけて微笑めばいい。
    「じゃ、俺がなにをすればいいか、教えてやろうか」
    「教えてよ。きみの言うことなら、どんなことでも僕はしあわせ」
     甘く囁くくちびるは色っぽく、キスできそうな近さにある。
    「それじゃまず、俺にキスしてくれ」
     低く掠れた声にチカが笑いながら頷き、顔を近づけてきた。

     

     クリスマスの朝が訪れる頃には、腰ががくがくしていた。
    「あー、まともに歩ける、かな……」
     壁にすがりながらよろよろと立ち上がるうしろで、チカが喉奥で笑いながら布団を畳んでいる。
    「お腹空いちゃったね。共同台所でなにかつくろうか。簡単だけど、おみそ汁とごはんとお漬け物でどうかな。あ、たまごもあるよ」
    「そうだな、うん」
     三畳一間の窓をからりと開けると、冬のまぶしい陽射しがきらきらと降り注ぐ。神田川も朝陽に美しく照らされ、身体が引き締まるような冷たい風が気持ちいい。
     しあわせというのは、まさしくこんなことを言うのだろう。清貧な暮らしは気持ちまでも引き締めるようだ。たとえ貧しい暮らしでも、チカとふたりならばどこででもやっていけそうだ。
     だが、ぐうっと鳴る腹の音が清い決心を鈍らせる。いましがた、粗食は精神を美しく鍛えるものだと考えたばかりだが、眩暈がしそうな空腹には勝てない。
    「漬け物とたまごもいいけど、もうちょっとガツンと力の入るものを食べないか」
    「ガツンと?」
     言うなり、チカの目がきらっと輝いたように見えたのはけっして気のせいじゃない。
     即座に立ち上がって携帯電話でどこかに短い電話をしたあと、「僕も、そう思う」とこくこく頷くチカが昨日の銭湯で使ったタオルを取り出し、細くよじり合わせる。それを見たら、無意識に顔が強張り、後ずさってしまってしまうのも致し方ないことだろう。
    「なにすんだ、おまえ……またなんかやろうってんじゃ……」
    「ううん、さすがに僕もちょっといますぐはむりだよ。そうだな、きみのご所望とあればお昼ぐらいにはなんとか復活……」
    「いやいやいや今日一日ぐらい休め。な? いくらなんでも腰をおかしくするだろ」
     慌てて押しとどめた隙に、くるりとタオルが目のあたりに巻かれてぎょっとしてしまった。
    「チカ! おい!」
    「大丈夫、安心して。きみに変なことは絶対にしないって誓う」
     彼の名前こそ、「誓」の文字が入っているのだが、こういう点においてはまったくもって信じられない。
     それでも、チカがやさしく手を掴んでくれたことでなんとか落ち着きを取り戻し、彼に従うことにした。
    「危ないから、気をつけて階段を下りてね」
    「どこに行くん、だ……うわっ、ちょっと待て、ここの階段、急で怖いって」
     タオルで目隠しされている状態ではボロアパートの階段がとんでもなく幅の狭いものに思えて、一段降りるのだけでも腰が引ける。
     チカにリードされ、冷え込む外に出た。すぐにもキィッとタイヤの軋む音が響き、「乗って乗って」と車に押し込まれた。
     しっとりしたシートは革でできているらしい。覚えのある感触を指に残し、隣に座っているだろうチカを振り向いたが、当然なにも見えない。
    「お、おい……これ、もしかして昨日も乗ったリムジンじゃ」
    「ごめん、いまは話している暇がないんだ。とにかく着替えよう。シャツ脱いで、こっちを着て。ネクタイは合うかな、……うん、ぴったりだ。やっぱりきみの男らしい顔にはネイビーがよく似合うよね。次はスラックス。どうするセンちゃん、自分で脱ぐ?」
    「脱ぐ脱ぐ。そんぐらい自分で穿くったら穿く」
     チカの中にもしも速度計があったとしたら、恐ろしい勢いでメーターが上がっているはずだ。
     南にはまったく追いつかないほどのスピードでジーンズを引っぱがし、スラックスを押しつけてきたあとは、チカ自身も広々とした車内で着替え出す。
     とはいっても、こっちは未だなにも見えない状態だ。
    「最後はネクタイを締めて、僕とおそろいのカフリンクをつけて……はい、できあがり」
     頬に軽くくちびるが触れたと思ったら、タイミングよく車が停まった。
    「まだだよ、まだもうちょっとだけ我慢してね」
     チカに手を引っ張られ、よろけながら車を降りた。なにやら靴の裏にふかふかしたものを感じる。厚手の絨毯の上を歩いているんだろうか。それから、どこか狭い場所に押し込まれた。どうやらエレベーターに乗っているらしく、身体が浮き上がる感覚がする。
    「……はい、どうぞ。ゆっくり前に進んで……そう、そのへんで止まろうか」
     言われたとおり、おぼつかない足取りで前に進み、「チカ?」と首を傾げた。
    「ここ、どこなんだ……」
    「いま教えてあげるよ」
     視界を覆っていたタオルがはらりとはずされ、眼前に広がる光景に思わず絶句してしまった。
    「な、なんだ、ここ……チカ、おまえ……どういうことなんだ!」
     目の前の大きな窓の向こうにはくっきりとそびえ立つ六本木ヒルズに多くの森ビル、そして数えきれないほどの大小のビルに家々。寺も見えるし、広々とした庭園の緑も見える。
    「あっちには富士山が見えるよ。向こうは秋葉原。うしろのほうに行くと、お台場の景色が見えるから、あとで一緒に見よう。だけどいまはほら、朝食の時間」
     朝の爽やかな光の中で、すっきりしたチャコールグレイのスーツに身を包んだチカがさっと右手を挙げると、クラリネットのなんとも美しいのびやかな音色が聞こえてくる。
     はっと振り向けば、八人のクラリネット奏者が、朝に似合うしらべを奏で始めたところだった。
    「モーツァルトのクラリネット協奏曲が、僕はとくに好きでね。ドイツに留学していた頃もよく聴いていたよ。この曲を聴きながらクリスマスの朝食をきみと食べられるなんて、夢のようだよ、ほんとうに」
     ――俺のほうが悪い夢を見ているんじゃないのか。
     真っ青な南の手を取り、チカは迫力のある眺望が楽しめる窓際にセッティングしたテーブルへと誘う。白いクロスには染みひとつなく、銀の一輪挿しに生けられた深紅の薔薇も鮮やかだ。
    「それでは、朝食をご用意させていただきます」
     そばに控えていた黒スーツの男が深々と一礼する。丁寧な物腰は昨日今日の付け焼き刃ではなく、長いことどこかの老舗レストランで鍛えてきたことを窺わせるものだ。
    「チカ、いったいこれはどういうことなんだ。こんなところを独占していいのか?」
    「いいんだよ。だって今日はきみと僕の新しい関係を始める日でもあるんだよ。とびきり特別な日には、東京全体を見下ろす場所がふさわしいと思うんだよ。ねえ、センちゃん」
     ふっくらとしたくちびるに抜群の色気を乗せて、頭のてっぺんから爪先までびしりと決めたチカが甘やかに笑う。
    「『ティファニーで朝食を』って映画があったけど、僕らの場合は」
    「『東京タワーで朝食を』か……」
     呆然と呟き、南は東京の広い空を視界に映した。
     チカのスケールが大きいことはわかっていたつもりなのだが、まだまだ自分も修行が足りない。
     まさか、クリスマスの朝食を東京タワーで食べることになろうとは。
     しかもうっとりするようなクラリネットのしらべをバックミュージックに、どこかの一流ホテルから引っ張ってきたのだろう名シェフが腕をふるうふんわりオムレツにこんがり焼けたトースト、新鮮なサラダにとろりと熱いスープと、至れり尽くせりだ。
    「きみが清貧を望むなら、いますぐにもあのアパートに戻るよ。ほんとうに。でもね、とりあえずはこの朝食を食べてからにしよう。やっぱり、朝はおいしいごはんで始めたいよね。そのあとはいったん元のマンションに戻って、お風呂に入りたいな。薔薇の花びらをたくさん浮かべて、きみと洗いっこがしたい。泡だらけになって綺麗になったらふかふかしたタオルで身体を拭いてあげる。ああ、そうしたらやっぱりあのベッドでちょっと寝ていこうかな……あの天蓋付きベッド、きみも好きだって言ってたもんね? 寝るっていっても、ちょっとだけだから。ちゃんと起きて、あのアパートに戻るから。あ、そういえばクリスマスの今夜はゼルダで大がかりなショウがあるんだよね。どうするセンちゃん、興味があるならちょっとだけ見てみる? 今夜は確か真柴さんの特別公開調教で、橘くんも出るはずだよ。いやもちろんきみにショウに出ろなんて言わないし、僕だってステージにはあがらないよ。ほんとうだって、約束する」
     そわそわした口調で朝からシャンパンのボトルを開けているチカに、呆れて言葉も出ない。
     やっぱりゼルダの魅力が忘れられないのか、アパートに戻る気もまったくないだろと言う代わりに、ふつふつと笑いがこみ上げてきてどうにも我慢できなかった。
     東京タワーを貸し切りにするなんて、チカというのはほんとうにどうなっているのだろう。しかもこの高さでは火気厳禁のはずなのに、シェフはすました顔でできたてのオムレツを運んでくる。
     そういえば、アパートを出る前どこかに電話をかけていたっけ。あれはきっと、この指示を出すためだったのだろう。だが、あそこで自分が「ガツンとした食事をしたい」と言わなければ、せっかくの計画もふいになってしまったはずだ。
     ――ほかの奴だったらそうかもしれないけれど。でも、チカにかぎっては絶対にぬかりないんだよな。どんなときでも俺を喜ばせようとしてくれている。奴隷がいても、SMの世界から離れられなくても、俺をいちばんに考えてくれる男ならそれでいいじゃないか。
    「負けたよ、おまえには」
     大笑いする南にチカも楽しげに笑い、きめ細やかな泡をたてたシャンパングラスを傾けてきた。
    「きみの瞳に乾杯」
    「ぶっ飛ばすぞ」
     そこでまたふたりして吹き出した。笑っても笑ってもしあわせな気分があふれて、胸を満たしていく。以前よりもチカと深く結びついた結末を、もしも今夜会えるなら真柴に話してやりたいと思う。きっと、うんざりした顔をした次には、堪えきれずに一緒になって笑い出すはずだ。その場に、橘もいると楽しいんじゃないだろうか。彼にも久しぶりに会って、真柴との暮らしがどんなものか聞いてみたい。落ち込んでいるんだったら慰めてやるし、めいっぱい励ましてもやる。こんな素敵な朝にはどんなこともうまくいくように思えて、調子がいいよなと可笑しくて仕方がない。いざその場になったら、チカも真柴も主人としての顔を素早く取り戻すのかもしれないが、それはそれ、いまはいまだ。
     リムジンに乗って東京タワーに乗り付けた銀色の髪の男は夜になったら魔法がとけて、髪の色はそのままに普通の男になった。そして、神田川のそばに建つボロアパートで情熱的に愛し合い、夜が明けたらまたもや薔薇とシャンパンが待つ光り輝く世界に戻ってきた。もちろん、そのあいだ片時も南の手を離すことなく。『神田川』の歌詞を地でいくならば、この場合はやはり、チカの底なしのやさしさが怖いと言うべきところだが、そこもまた惹かれるゆえんなのだから、もう文句はない。魔法がとけたのか、それともまだかかっている最中なのか判別がつかないけれど、この際どうだって構わないではないか。なにをしたって、どうしたって離れられないのだ。何度喧嘩をしても、最後には磁石のSとNのようにぴたりと近づくその答えは、互いに微笑む目のの中にある。チカにとっては南がすべて、南にとってはチカがすべてであって、たったいま、世界はふたりのためにあるのだ。



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