Secret214(「くちびるに銀の弾丸」2006)

0

    「おっ、澤村、呑んでるか」
    「呑んでる呑んでる」
     ノックする音に続いて唐突に開いた扉にぎょっとして振り向くと、案の定、水嶋だ。
     切れ長の目元がいつになく赤らみ、普段なら口を閉ざしていることの多い男が今夜にかぎっては終始笑顔だ。ずかずかと室内に入ってくるなり隣にどかりと腰を下ろし、顔をのぞき込んでくる。
    「よし、じゃあ俺が酌をしてやるからグラスを寄こせ」
    「うわー……なんつう酔っぱらいだよ……」
     見慣れないものを見て、吹きだしていいのか困り果てるべきか。澤村の隣に座った水嶋は勢いよくグラスにビールをそそぎ、盛大に泡をぼたぼたこぼしたまま笑顔で、「ほら」と寄こしてきた。そういう男に、本気で怒れるはずがない。慌てておしぼりで濡れた手やスラックスを拭いてやり、わざとらしくため息をついてみせたのだが、水嶋はにこにこしているばかりだ。
    「しょうがねえな、もう。あんたのグラスもよこしな」
    「うん」
     こくりと頷く男からグラスをひったくってビールをついでやると、水嶋は一気に飲み干す。
     天井のスピーカーからははやりの曲が流れ、フロアのあちこちで笑い声が響いていた。
     ふたりの勤めるゲームメーカー、ナイトシステムが六本木の大規模なクラブを借り切った今夜、恒例の親睦会が開かれていた。毎年二月のバレンタインデーに開催されるパーティはナイトシステムの社員のみならず、つき合いのあるソフトメーカーや出版社、フリーのクリエイターが一挙に集まるため、大層華やかなものになる。つい少し前までは、海外旅行や大型液晶テレビが当たるビンゴ大会が開かれ、今日のために呼ばれたバニーガールたちが笑顔で当たり番号を読み上げるたびに、フロア中がにぎやかに揺れたものだ。
     昨年のナイトシステムは、水嶋が制作した『ぼくらのおやすみ』というソフトでミリオンヒットを飛ばしたおかげで、文句なしの業績だ。パーティも例年より大がかりなものになり、この春にも追加ボーナスが出る勢いだ。誰も彼もがはしゃいだ顔をしているのは当然というところだろう。
     水嶋もそのひとりなのかもしれないが、彼の場合は自身によるヒット作に浮かれているというよりも、今夜ここに集った客に次々に呑まされたせいかもしれない。
    「あー……呑まされた……」
     大きく伸びをする水嶋が身体をもたせかけてきたので、「頭、乗せなよ」と膝を貸してやると素直に寝そべり、気持ちよさそうにため息をつく。ストイックな印象の相貌に映えるシングルスーツに皺が寄るのにも構わず、ソファに乗り切らない片側の靴紐がほどけかかっていた。
     日頃の毅然とした態度はどこへいったのか。大勢のひとを逃れて、フロア三階にあるVIPルームにやっと逃げ込んできた水嶋に苦笑し、ネクタイの綺麗な結び目をゆるめてやっていると、「煙草、吸いたい」と聞こえてきた。
    「なんだよ、今夜はずいぶん甘えっ子じゃねえか」
    「悪いか」
     からかうように笑うと、水嶋も可笑しそうに口元をゆるめる。
    「しょうがないだろ。夕方から延々呑まされっぱなしなんだ。何回も乾杯の音頭を取らされるし、ステージで挨拶させられるし……ああいうの、恥ずかしいからいやなんだよ。……あ、サンキュ」
     くわえ煙草に火を点けてから水嶋のくちびるに挟んでやると、旨そうに深々と吸い込んでいる。
    「挨拶なんて慣れてるんじゃねえの? ゲームショウでもトークショーにはよく出てるじゃん。雑誌インタビューだって似たようなもんだし」
    「そうだけど、あれはなんていうか、あくまでも仕事の一環だろう。今夜みたいに見知った顔を前にした挨拶っていうのは妙に気恥ずかしい」
    「わかる気がするけどね。仲間を前にして改めて挨拶するってのも、ちょっと照れるよな」
    「なのに、おまえときたらさっさとVIPルームに逃げ込みやがって」
     じろりと睨まれ、「いやいやいや」と澤村も大げさに手を振った。
    「俺だってもう散々呑まされてんだよ。あのまま下のフロアに居続けたらそのうち絶対呑みすぎて倒れると思ってさ。あとは瀬木に任せてきた」
    「ずるい奴」
     くすくすと笑う水嶋と自分がいるのは、吹き抜けの円形フロアを見下ろすことができるVIPルームのひとつだ。はめ殺しのガラス窓から下をのぞけば、輝くライトを弾いてはしゃぐひとびとが見える。
     トップクリエイターとして名高い水嶋が次々に酒をつがれる側だとしたら、ナイトシステムのチーフ広報である澤村はやってきた客にどんどん挨拶してどんどん酒をつぐ側だ。広報という仕事柄、顔見知りの数は桁違いに多い。しょっちゅう会う出版社の人間やフリークリエイターなら名前も顔も完全に一致しているが、その連れの友人の知人といったところまで参加している状態では、愛想を振りまくのにも限界がある。それでもパーティ開始から三時間近くは広報としての役目を果たすべく奮闘し、知り合いに酒を呑まされ続けていい加減つらくなってきたところで、「おまえに任せたからな、次代のチーフを狙うんだろ」と瀬木の肩を思いきり叩いてこの部屋に駆け込んだというわけだ。
     部屋の灯りを落としたVIPルームは少人数用で、座り心地のいいゆったりしたソファの前には少し前にボーイに持ってきてもらったミネラルウォーターの入ったピッチャーとグラス、それにビールが並んでいた。
    「酒はもういい……」
     ぐったりした感じで呟く水嶋に、思わず笑い出してしまった。手元にあるリモコンで天井から流れ出す音楽のボリュームを絞ると、遠いところから喧噪が聞こえてくるだけになり、間接照明のやわらかい光で満たされる室内は静けさを取り戻す。
    「疲れただろう。パーティはまだ続きそうだから少し寝ておけば」
    「んー……」
     スーツ姿の水嶋は眠そうに瞼を擦り、澤村の膝に頭を乗せたままごろりと寝返りを打つ。フロアは違えど、仕事関係の人間が大勢いる場所でこんなふうに甘えてくるなんて、初めてじゃないだろうか。澤村の膝枕でうつらうつらしているところを見たら、あの瀬木でさえ腰を抜かすはずだ。
     ――よほど呑まされたんだろう。『ぼくおや』ヒットを祝う酒じゃ、このひとも断れないだろうし。
    『ぼくおや』は発売後、一年経っても未だ売れ続けており、ゲーム業界でも驚異的なロングセラーを放っていた。今日のこのパーティも、水嶋率いる『ぼくおや』チームをねぎらうためという側面がある。
     そういう場所で、水嶋も仏頂面を決め込むわけにはいかないのだろう。まめな対応と愛想の良さがウリの広報ならば、誰かに話しかけられてとっさに笑顔を取りつくろうこともできるが、水嶋にそういう器用さはない。
     広報はあくまでも、相手とのあいだに「仕事の話題」というものが挟まっているが、水嶋に近づくひとびとは皆、彼自身に興味を持っている。
     褒めそやされ、敬われ、注目を浴び続けることがどれほどのプレッシャーを呼ぶか、正直なところ恋人としても計りかねるというのが本音だ。笑顔で近づいてきても、内心は水嶋に対してねじくれた感情を抱いている者もいるだろう。
     ――このひとに近づくひとみんなが味方じゃないしな。
     実際、なかには「水嶋はもう終わった」と言い張る者が業界内外にいるのだ。
     ナイトシステムに来る以前、べつのメーカー在籍中に手がけたゴシックホラー・アクションアドベンチャーで、水嶋は一躍トップに躍り出た。そのときの印象が強いのだろう。『ぼくおや』のようなのんびりした世界観が受け入れられず、知ったような顔で「水嶋も日和見になっちゃって。子ども向けのものをつくり始めたらもうおしまいだよな」と冷笑する奴がいることを、澤村も知っている。
     だけど、あえて抗弁することもない。したり顔でああだこうだと言う奴がいる反面、『ぼくおや』の世界に存分に浸ってくれるユーザーもいるのだ。
     ――いまは大人も子どももゲームで遊ぶ時代だけど、このひとはそのへんの区別を意図的に大きくつけようとしているわけじゃない。誰でも、気に入ったらすぐに手に取れるような敷居の低さを目指しているんだ。楽しい世界を楽しく感じられる、そのことだけを頭に置いているんだ。
     自分の生み出した世界をより多くのひとに触れてもらえるよう、こころを砕く男をそばで見ていて、後押ししてやりたいと思う気持ちはいつの間にか自然とこの胸に根付いていた。
     水嶋とて、つまらないことを言って滅入らせようとするタイプの人間がいることを知らないわけではないだろう。昔、『ぼくおや』にバグを仕込もうとしたプログラマーの木内がいい例だ。かつての同級生に裏切られる気分というのは、どんなものなのか。
     澤村自身、未だなにかの折りに思い出すことがあるが、彼のほうはなにも言わない。
     あのときのことを忘れたわけではないだろうが、いまやるべきことに意識を集中している。そんなふうに感じられるのだ。
    「案外、あんたってしっかりしてるところはしっかりしてるよな」
     笑いながらやさしく髪を撫でると、水嶋は薄目を開けて、「なにが」と呟く。
    「俺がいなくても大丈夫なんじゃねえのって思ってたとこ」
    「当たり前だろ。澤村なんかいなくたって俺はちゃんとやっていける。ばかにするな。こう見えても俺は今年三十三で……」
     言っているそばから、はぁ、と熱っぽい時を漏らしながら腰に顔を押しつけてくる男の言うことなんか説得力ゼロだ。「はいはいわかったわかった」と笑い出すと水嶋はむっとした顔で起き上がり、「あのな」と斜な視線を向けてくる。
    「そうやっていつもからかうけど、俺がどれだけもてるか知らないだろう」
    「知らない。ぜーんぜん知りません」
     恐ろしいほどの酔っぱらいに、笑いを噛み殺すのがどれだけ難しいか。今夜の水嶋はめちゃくちゃだ。話があちこちに飛んでいることすら、自分で気づいていないんじゃないだろうか。
     ――からかったことと、もてるもてないってのがどうしてつながってんだか。
    「今日はバレンタインだっただろう。俺なんか死ぬほどチョコレートをもらった」
    「誰から」
    「パーティに来た女性全員から」
    「へーえ、スゲエな。水嶋さんってもてるんだぁ。ていうか、そんなこと言うなら俺だってめちゃくちゃもてるんだぜ。持って帰れないぐらいのチョコレート、クロークに預けてある」
    「どれぐらい」
    「んー、百個まではいかないかな」
     ばかばかしいやり取りに水嶋はふっと鼻で笑い、「俺なんかそれ以上だ」と胸をそらす。
     いまこの一瞬を携帯カメラで撮ってやれたら、どんなに楽しいだろう。あとで何度も繰り返しそれを本人に見せて、逆上するまでいたぶってやりたい。
     普段の水嶋からはまったくかけ離れた一面が可笑しくて可笑しくて、涙が滲みそうだ。
    「それ以上って、どれぐらい?」
    「段ボールで送られてきた」
    「マジかよ」
    「マジで」
     思わず乗ってしまった澤村に、水嶋は素直に頷く。そういうあたりが、どうにも可愛いと思わされるゆえんだ。膝枕してやっていたときに頭をぐりぐりと擦りつけていたせいか、髪の一部が撥ねているのを見ると撫でつけてやりたくなってしまう。
     どこからどう見ても大人の男が自分の前でだけだらしなくなったり、甘く崩れたりするのだ。そんなことのひとつひとつが最近、前にも増して嬉しく感じられるのだから自分でも困る。
     ――そういう顔を見られるのが恋人の特権だからな。
    「段ボールで送ってきた奴ってどんなのだ」
     訊ねてみると、水嶋の笑顔が本物になった。
    「『ぼくおや』のユーザーだよ。正確に言えば俺宛じゃなくて、『ぼくおや』のキャラクターたちに」
    「ああ、なるほどな」
     互いに吹きだした。あの世界に惚れ込んでくれている子どもたちが送ってきてくれたチョコレートなら、間違いなく純粋な愛情がこもっているはずだ。
    「あとで澤村にも分けてやるよ。食べきれないほどもらったんだ」
    「瀬木や北野たちにも振る舞ってやったら。俺はあんただけでいい」
     ぐっと肩を引き寄せたとたん、水嶋が大きく目を瞠る。澤村の切り込むような目つきに深い艶を見て取ったらしく、いま頃になって顔を引き締めようとしているが、もう遅い。あれだけ煽られて、黙っていられるかという心境だ。
    「待てよ、おまえ……こんなところで……」
    「あ、なに、いまさら酔いが覚めたとかふざけたこと言うんじゃねえだろうな。さっきあれだけ可愛く誘ってきたくせに」
    「誘ってない!」
    「誘っただろ」
     もがく男を押さえ込むのは、思っていた以上にたやすい。酒が浸透した身体で抗うのはつらいらしく、くちびるを重ねた瞬間、水嶋の目がじわっと潤むのがわかった。
    「ばか、まずいって……パーティの途中、だろ……」
    「だからなんなんだよ。俺に触ってきたのはあんたのほうだろ。俺はね、弘貴に触られておとなしくしているような男じゃねえんだよ。……とっくにわかってんだろうが、それぐらい」
    「ん、ん……っ」
     ソファに崩れ込む男に覆い被さり、両手で頭を鷲掴みにしてくちびるを甘く吸ってやった。蕩けてしまいそうに熱い吐息を飲み込み、口蓋をしつこく舐めしゃぶってやると、水嶋の四肢から力が抜けていく。
     ホテルや自宅以外で触れ合うことを頑なに拒む男でも、今夜ばかりは酒のせいで自制がきかないらしい。澤村が試すように舌をきつく吸い上げ、唾液をとろりと伝わせると、そのあとを追うように首に両腕を絡み付けてくる。
    「……朗……」
     せつなく掠れていく声を聞くだけで、こっちがおかしくなりそうだ。薄暗い照明の中、水嶋のシャツを剥ごうとすると思いのほか抵抗された。
    「いやだって、ここじゃ……!」
    「じゃ、どうすんの。いますぐ抜け出してホテルでも行く? でも三十分後にはあんた、もう一度挨拶しなきゃなんないだろ。だからって、このまま放っておいていいとは思えねえけど」
    「っ……」
     互いのスラックスの前を擦れ合わせるように抱き締めると、水嶋がひくんと喉をのけぞらせる。男にしてはきめの整った肌に歯を突き立ててやれば、腕の中の身体が一層火照るようだ。
     きつく閉じた瞼の縁が赤らんでいる。それを見ていたら、もっと強く揺さぶって泣かせてしまいたくなる衝動に駆られるが、ここでむりをしてもしょうがない。
     同じ男で、いまはもう同居もしている間柄だ。なのに、いつまで経っても水嶋の中の羞恥心は薄れず、それが澤村を夢中にさせるのだ。
     どんなに深く交わり合ったとしても、他人だからこそ崩せないものがある。水嶋の場合、それが羞恥心だったり、プライドだったりするのだろう。
     ――それでいいんだ。ずっと変わらないものを持ち続けるあんたは、俺を強く惹きつけるんだ。
     汗ばむ額をやさしく撫でて、澤村は「それじゃ」と彼の前にしゃがみ、大きく開かせた両足のあいだに身体を割り込ませた。
    「口でしてやる。残りは、パーティが終わったらな」
    「え、――……朗、待てよ、……ッあ、……あ!」
     阻まれる前にスラックスのジッパーを引き下ろし、とっくに昂ぶっていた水嶋のそこを下着の縁からのぞかせた。自分のものより少し細めで、先端のくぼみに透明なしずくを滲ませた男の反り返るものを見るだけで、頭の底が熱くなってくる。もう数えきれないぐらい愛撫してやったのに、感じやすい水嶋が必死に快感を堪えようとしている声を聞いただけで興奮してしまう。
    「感じさせてやるよ」
    「あ――……っ」
     細く尖らせた舌先でちろちろと割れ目をくすぐると、我慢できない感じでとろとろと愛液があふれ出す。淫猥な舌遣いに、水嶋は驚愕のあまり目を閉じることも忘れているらしい。頬をかっと赤らめて澤村の頭を押しのけようとして失敗し、掠れた声をあげてのけぞる。
    「っ……よせ……! 誰か、来たら……」
    「余裕あるじゃねえか」
     不敵に笑い、握り込んだそこをねっとりと舐った。とくにくびれのところはしつこく舌を這わせ、水嶋がすすり泣いてもやめなかった。うしろのくぼみにも指を這わせてやさしく擦ると、自然と腰が浮き上がって水嶋みずから口淫を求めているような格好になるのが、またいい。
    「ん、あ……」
     硬く勃起したものは欲情に先端を色濃くし、水嶋の端正に整った相貌とは不釣り合いなほどに淫猥だ。そういうところにも惹かれると言ったら、惚れすぎだと笑われるだろうか。
     シャツが少し乱れていても、ネクタイは締めたまま。だけど、スラックスのジッパーだけ下ろして、剥き出しにさせられたそこをいいように弄られて喘ぐなんて、いつもの水嶋だったら絶対に許していなかったはずだ。とすれば、たまには泥酔してくれるのもいいかもしれない。
     ほんの少し前までは、日めくりカレンダーのように女を取っ替え引っ替えしていたのに、いまじゃたったひとりの男に身もこころも奪われている。
     切れ味のいい仕事ぶりを見せてくれる反面、こんな場では超然と構えていることもできず、自分と同じように昂ぶり、感じることを言葉ではなく、身体そのもので教えてくれる男から一瞬たりとも目が離せない。
    「……い、きそう……朗……もう……」
    「もう少し感じなよ。パーティが終わるのが待ちきれなくなるぐらいにさ」
     言うなり、ぬるっと扱いてやると水嶋が身体を強く震わせた。
    「ん――ン……ッぁあ……っ!」
     口に含んだまま扱いてやると、熱いしずくがびゅくっと喉の奥に引っかかる。硬く脈打つものを澤村は丁寧に舐め回し、しつこくしずくを誘い出すように何度も先端の割れ目を舌先でつついた。
    「――朗、もう、……いい……」
     熱っぽく気怠い声で水嶋が呟くので、下肢を拭いて身なりを整えてやったあと、「満足した?」と顔をのぞき込んだ。
    「……おまえは……」
     乱れた髪を乱暴にかきあげる水嶋の目元は、一方的にいかされたことの悔しさのせいか、場所を選ばずに感じさせられた恥ずかしさのせいか、ひどく潤んでいる。
     その顔を見て、仏頂面でいられるか。
     なにも知らない男ならいまの行為だけで十分満足するだろうが、水嶋も、自分もそうじゃない。もう長いこと、互いの身体にひそむ深い熱の虜になっているのだ。ただ触れ合うだけじゃもの足りない身体になっていることがわかっていれば、こころの底から微笑んで、じわじわと熱く、赤くなっていく耳たぶを噛んでやればいい。
    「あんたがこれぐらいじゃ満足しないってこと、俺にはばれてるんだよ」
    「……それなら」
     欲情冷めやらぬ眼差しで射すくめてくる水嶋が、憤然と立ち上がる。それからおもむろにジャケットの内側から財布を取り出し、クレジットカードを投げつけてきた。
    「俺が挨拶してるあいだ、これで近くのホテルを押さえておけ。スイート以外許さないからな」
    「待てよ、バレンタインの今夜にスイートルームなんかどこも……」
     空いてねえだろ、という反論は、扉に行きかけていた水嶋が足早に戻ってきたことでかき消えた。ソファのうしろに立った男を振り返るや否やいきなり顎を掴まれ、ぐいっとねじられる。
    「弘貴」
    「……もの足りない。もっと朗としたい」
     甘く掠れた声に目を瞠るのが先か、くちびるをふさがれたのが先か。ただくちびるの表面が重なるだけのキスなのに、しっとりと濡れた感触がひどく疼くものをもたらしてくれる。
     水嶋らしからぬ挑発に目を見開いたままなのが、可笑しかったらしい。
     ネクタイを締め直した男が、ふと肩を揺らして笑い出す。しばし呆然としていた澤村も、やがて楽しげな声につられて笑ってしまった。
     これでこそ水嶋だ。やられっぱなしで黙っていないところが、同性ならではの醍醐味だ。つき合いだした当初は自分との恋に臆する面もあったが、いまでは日に日に力を増し、ときおり、こっちがびっくりするようなことをやってくれる。
     たとえば、いまのキスのように。
     軽く触れただけでも甘くみずみずしい熱を残すキスは、水嶋にしかできないものだ。
    「やるじゃねえか、あんたも。いま言ったこと、覚えとけよ。広報の意地に懸けて、東京じゅうのホテルをかっさらってでもスイートを探しておいてやる」
    「だったら、俺も早めに挨拶を終えてくる」
     現金なことを言いながら部屋を出ていこうとする男を捕まえて、澤村はそっと囁いた。
    「どれだけたくさんのひとからチョコレートを贈られても、あんたをいちばん好きなのは俺だよ」
    「……うん」
     いい大人が交わすには甘ったるい言葉だが、水嶋ははにかむように微笑んでいる。その顔にもう一度くちづけると、チョコレートよりも甘い疼きが身体じゅうに広がっていくようだ。
     ひとりきりでいたらけっして味わえなかったもどかしさを、楽しさを、せつなさを意識の隅々まで染み渡らせる今宵、パーティのざわめきが遠ざかったら、今度はふたりで終わらない熱を探しに行くのだ。


    焔は青く(オリジナル2006)

    0

       数年が経ち、あの恋は間違いだった、あのとき別れてよかったのだと思い出すたびに胸のどこかが痛んだかと言えば、まるきり嘘になる。
       だいたい、とうに終わった関係を律儀に覚えておくほど川畑健吾は記憶力がよくない。善人でもない。
      「そんなに変わったかな」
       隣で首を傾げて微笑む昔の男をためつすがめつ眺め、川畑は「そうだな」と素直に相づちを打った。
      「どのへんが? 自分じゃどこが変わったんだかよくわからないよ」
      「顔」
       無遠慮に言い切ると、彼がちょっと目を丸くする。
      「整形なんかしてないって」
      「そうじゃない。なんていうか……ちょっと痩せたな。頬のあたりが」
      「ああ、ここ数年仕事が忙しいからな」
       気安い感じで頷くその仕草も、鋭角的なものを思わせる頬のラインも、昔の彼にはなかったものだ。ただ、表面的なものだけで判断したならば、工藤周一はさほど変わっていなかった。
       年が明けたらますます寒さが厳しくなった一月の半ば、灯りを絞った行きつけの店で川畑が四年ぶりに見たのは、相変わらず神経質そうなものを窺わせる切れ長の目に高い鼻梁。やや突き出た頬骨のせいで、見た者にどこか貴族的な印象を与える。
       もしくは、ある種の近寄りがたさも。それらとは対照的なふっくらした上くちびるを見ると、端々まで揺るぎなく制御されている精緻な機械に異質な官能が混ざっている気分に駆られる。四年前も、川畑は彼の奇妙なバランスを保った顔に強く惹かれていた。
       しかし、以前よりもさらに感情が読みとりにくくなった気がする。男にしては長い睫毛と灯りのせいで、工藤の目はよけいに暗く見えた。
      「それにしても久しぶりだな。三年……四年ぶりか?」
      「四年だよ」
       曖昧な感じで川畑が言ったのに対して、工藤が短くきっぱりと答え、グラスを手にする。
       間隔を空けて設置された天井のライトはちょうど川畑と工藤のそれぞれ端についていて、ふたりのあいだをぼんやりと照らしていた。
       そうだ。あれからもう四年も経ったのだ。忙しない毎日を送っていると、時間の流れがどんなに速いものか、改めて知る機会はあまりない。たとえばこんなふうに、旧知の仲にでも会わないかぎり。
       ――旧知の仲、か。
       ちょっと笑って、川畑は半分ほど残っているグラスを彼に向かって掲げた。
      「乾杯しよう。偶然の再会だよな」
       そう言って、彼の返事を待たずにグラスを触れ合わせると、工藤も口元にそれとない笑みをにじませる。
       こころから笑っているのか、それとも川畑の無神経さを嘲笑っているのか、判別がつかないが、くちびるの端をわずかに持ち上げるという少し崩れた色気を感じさせる笑い方は、四年前にはなかったものだ。
      「乾杯」
       透明で薄いグラスの縁がかちんと綺麗な音をたてて合わさった。

      ***

       同じ年の工藤とは、二十五歳のときに知り合った。場所は四年前と変わらない、行きつけのこの店だ。新宿二丁目の片隅にあるバー・キブラには、同性を愛するという奇妙な性癖を川畑が自認した二十代前半の頃から通っていた。いつ来ても数人の男が客として訪れ、雑然としながらも居心地のいい雰囲気をつくり出している。
       キブラにはただ普通に酒を呑みにやってくる客もいるし、店の耀子ママと他愛ないお喋りを楽しむだけの者もいる。だけど、たいていはなんとなく寂しくて、満たされない欲求をぶつける相手を探しに来る者がほとんどだ。
       川畑はどっちつかずの客だった。学生時代にラグビーをやっていた身体はいまでも硬く引き締まっており、精悍な顔立ちに甘さを併せ持つ顔に生まれついたおかげで、寝る相手に困った覚えがない。大手の証券会社に勤めているというあたりも、周囲からの信頼度を高めている一因だろう。
       ただし、性格は最悪だ。俺ほど冷淡な人間もめったにいないと川畑自身よく思うことがある。性格の悪さというのはもっぱら、個人的なひと付き合いの面だけに出た。仕事の場ではそんなことはない。顧客の資産管理を務めるファイナンシャル・プランナーという職にある以上、笑顔と誠実な対応というのはイコールで結びつけられており、無表情、無口、無愛想であったらサラリーマン稼業が務まるはずがない。
       しかし、個人的につき合った男は皆、川畑がどんなにひとでなしであるかよく知っていた。
       時間を守らない、約束を忘れる、そのうえ平気な顔をしてほかの男と寝る。
       いくらその場かぎりのつき合いになれている男が多くても、ここまで徹底しているのはめずらしいと、いつぞや店の常連客に笑われたことがあったっけ。浅田諒一と名乗るその男はどうかすると工藤に似た芯の硬さを感じさせたが、関係を持てなかったのは彼も川畑同様、タチを好む男だったからだ。
       そういえば、浅田も工藤と同じ、出版社に勤める編集者だった。徹夜仕事の連続で、土日の休日も満足に取れない彼らみたいな人種は、長年不規則な生活を送っているうちに、どこかおかしくなるのだろうか。太陽をまったく浴びない生活は、神経にも悪影響を及ぼすと聞いたことがある。
      「いまでも真っ当じゃない生活してるのか?」
       ジャケットの胸ポケットから取り出した煙草に火を点けながら言うと、低い笑い声が聞こえてくる。
      「変わらないな、川畑は。相変わらず口が悪い。それでよく証券会社に勤めていられるな」
      「外面がいいのが自慢なんだよ。で、どうなんだ。ちょっとは出世したのかよ。まさか二十九にもなってうだつの上がらない編集者のままとか言わねえよな」
      「このあいだデスクに昇格したよ」
       ずけずけ言う川畑に怒るでもなく、工藤のそれは淡々としている。
      「デスクってなんだよ。どういう立場なんだ?」
      「いちばん偉いのが編集長、次が副編集長、デスクはその次だよ」
       子どもに言い聞かせるような丁寧な口調に、川畑はふんと鼻を鳴らす。
      「なんだ、中間管理職ってとこか」
      「うちの雑誌部署は大所帯なんでね。二十九歳でデスクっていうのはこれでもわりと早い出世なんだよ」
      「へえ」
      「川畑は? いまはどうなんだ。仕事はうまくいってるのか?」
      「当たり前だろう」
       ふぅっと煙を細く吐き、川畑は笑った。
      「今年の年収は軽く一千万を超えた」
      「それは凄いな。うまくいってるようで安心したよ」
       穏やかな笑顔で工藤は頷き、銀色の小皿に盛られたナッツをぱりぱりとかじっている。
      「おまえはやり手だったもんな。これからますます忙しくなるんだろうな。もう結婚したのか?」
       なんでもない調子で言われただけに、危うく最後の言葉を聞き落としそうになった。
      「まさか。いまは忙しくてそれどころじゃねえよ。最近、上司から見合いだのなんだの持ち込まれるのがうざくてさ。こっちはそんなつもりねえのに。女も子どもも面倒なだけだろう」
      「でも、いつかは結婚するんだろう」
      「まあ、そのうちはな。うちの仕事はいろいろと体面上に気を遣うんだよ。そのうち、偽装でもなんでも結婚しなきゃいけねえんだろうなあ……。その点、工藤はいいよな。うるさいこと言われるような仕事じゃないんだろ?」
      「個人主義だからね。ちゃんと仕事してりゃ文句を言われることはない」
       グラスの縁をなぞったあと、濡れた指先を軽く口に含む男の横顔は年相応の落ち着きを備えている。
       デスクという、川畑にとってはわけのわからない立場にありながらも、まあそこそこの仕事はこなしているのだろう。前につき合っていたときだったら、さっきのような軽口はただじゃすまされなかった。
       同じ社会人で宮仕えにあっても、証券会社と出版社ではまったく雰囲気が異なる。
       神経質な工藤のほうがよほど、銀行と同じく一円の金にもうるさい証券会社に似合っていると思うのだが、実際には、うさんくさいのと自由なのと紙一重の業界に身を置いている。人間の本質と、その当人が抱く欲望はかならずしも一致するわけではないといういい見本だろう。
       それを言うなら自分だってそうだが、幸いにも川畑は自分のなかにある矛盾というものに頭を痛める悪癖がなかったので、自己嫌悪に陥ることは数少なかった。
      「あれから何人と寝た?」
       振り向いた工藤がぽつりと呟き、「何人?」と川畑も聞き返す。
      「覚えてないな。そんなもんいちいちメモしてるわけじゃないし」
      「おまえはそういう奴だったよなぁ……。よくそれで誰にも刺されないのが不思議だよ」
      「人徳、人徳」
       自分で言っていてもさすがに空々しいなと可笑しくなった。刺されることまではなくても、工藤をはじめ、別れる際に揉めたことは数かぎりない。だけど、工藤はそのなかでもとびきり、もっとも記憶に強く残っている男だ。
      「死んでやるって言われて本気でやられたのはおまえぐらいだよ」
      「そうだろうね。川畑のために死ぬのなんかもったいないっていまじゃそう思うのにな。あのときはどうかしてたんだ」
       思い出し笑いをする工藤は、四年前に睡眠薬を大量に飲み、自殺しかけた過去がある。
       妙に神経質になったり、かと思えばひどく饒舌になったりと、あの頃の工藤はとかく浮き沈みを繰り返していたため、心療内科に通っていた。薬はそこでもらったものをため込んでいたらしい。
       睡眠薬を飲んだからと言って、眠るようにたやすく死ねる幻想は物語のなかだけだ。発見したのは川畑だった。こっちから別れを切り出したその夜、一度は家に帰ったものの嫌な予感がして再度彼の部屋を訪ねたところ、丸く白い錠剤を床にばらまいた工藤を見つけた。幸いにも薬を摂取してからそう時間が経っていなかっただけに症状は軽くすんだが、本人にとって胃洗浄は思いのほか苦しかったらしい。
       自殺未遂の騒ぎを起こしたあと、川畑は一か月近く彼に付き添った。このまま見捨てるのはさすがに鬼畜生だと想ったからだ。しかし、工藤からはひと言の礼も聞かれなかった。
      『死に損なったことさえ恥だ』
       そう言っていた。
      『おまえなんかに付き添ってもらう覚えはない』とまで言われ、川畑も『そうだよな』と頷いたのだが、あのときだけは唯一、自分のなかにある良心が揺り動かされた瞬間だったのだろう。文句を言われながらも毎日見舞いに行き、まったく顔を見せない工藤の家族の代わりに身の回りを世話してやった。工藤の両親は健在のようだったが、自殺未遂で運び込まれたという不甲斐ない場面を見せたくなかったのだろう。『絶対に連絡するな』と言い渡されたので、『わかった』とだけ言った。工藤自身とつき合っていることは了承していたけれど、彼の家族にまで会うつもりは一切なかった。
       言い換えれば、工藤にまつわる過去とか未来とかなんてものに触れる気はしなかった。いつだって川畑の中には、「いま」と「いまつき合っている男」しかなかった。そして、そのときすでに工藤は「過去つき合っていた男」という存在になっていたのだ。
       川畑は自分がろくでもない男だとよくよくわかっていた。そんな自分に自信を持つわけではない。むしろ、この飽きっぽい性格はどうしようもない、手がつけられない、けっして死ぬまで治らない病気みたいなものだと諦めていた。だから、別れるときも素直にそう告げた。
      『工藤が嫌いになったわけじゃない。俺はだめなんだ。誰かひとりとずっとつき合うって考えただけで息が詰まるんだ』
       彼の部屋の玄関先、長い棒を飲んだようにしゃちほこばっていた工藤は、川畑が別れたい旨をつらつら話しているあいだ、ずっと真っ青な顔をしていた。
       彼とつき合った日数を数えてみると、半年にも満たなかったと思う。それでも、自分にしてはよく保ったほうだ。約半年のうち、四か月近くは工藤ひとりに絞っていた。キブラで知り合ったときから、彼の性格の脆さに気づいていたからだ。
       端正な顔立ちをしている工藤に声をかける男は多かった。自分を含め、誰とでも簡単に寝る奴が多いなかで、彼のまとう硬質な雰囲気に惹かれる者は後を絶たなかった。隣り合って座った同士、気さくに喋ったとしても、工藤はなかなか他人行儀な態度を崩さず、キブラの中でもちょっとした存在感を誇っていた。
      『誰かと親しげに喋ってるってとこ、アタシも見たことないのよねえ』
       いつだったか、耀子ママが気遣わしげな顔をして言っていたことがある。
      『うちの店に来てくれるようになってずいぶん経つんだけど……あれだけの顔してんだから、ほかにちゃんとした恋人がいるんじゃないかって話にもなったんだけどね。週に三回もうちに来るところを見ると、どうもそうじゃないらしいのよね』
      『男には興味があるけど、やったことないから怖いってだけじゃねえの』
       川畑がそう言うと、耀子ママはさも可笑しそうに笑っていた。
      『世の中の男みんながみんな、川畑ちゃんみたいに種馬じゃないのよ。やるだけやってハイおしまい、なんて、いつまでもそううまくいかないんだからね』
       さらりと言われた嫌みは、さらりと聞き流すにかぎる。ほんのちょっと体温を分け合い、触れ合って、気持ちよくなって、射精すればどんな関係だって片が付く。川畑はそう信じていたし、いまでもそう思っている。
       気まぐれに工藤とつき合っていたあいだ、彼の神経の細やかさに免じて四か月ほどは彼ひとりを抱いていたが、性格的な欠陥は簡単に直るものではない。五か月目に我慢できず、キブラで知り合った男を抱いたのをきっかけに、自制心はぼろぼろと崩れていった。
       男同士のつき合いでも、ほかの相手にこころを移すことを浮気と言うのだろうか。もしそう言われたとしたら、川畑は失笑していたと思う。
       こころを移した覚えはない。ただ寝ただけだ。誰かを傷つけるつもりはないし、気持ちよくなりたかっただけだ。
       そんな調子でほかの男を抱き、確か四人目あたりで工藤にばれたのだった。その頃にはもう、工藤の思いつめた表情が日に日にこころに負荷をかけていたから、事がこれ以上こじれないうちに「俺たち、別れたほうがいいんじゃないか」と切り出した。
       もちろん、工藤が素直に了承するはずはないと思っていたけれど、まさか自殺未遂を起こすとは思わなかった。
       あのとき彼を助けたことが唯一の良心の働きだというなら、あれだけ動揺したのも生まれて初めてだった。
       もっと簡潔に言えば、工藤が怖いと思ったのだった。たかだか自分と別れるだけだというのに、死にたくなるなんて。そこまで愛されてしあわせだと言える奴は、よほどおめでたい頭をしているとしか言えない。
       他人が生きるも死ぬも、自分の行動ひとつにかかっているとわかったら、誰でも逃げ出したくなるものではないだろうか。
       身体がもとに戻るまでのあいだ、彼のそばにいたときも、ずっとそんなことを考えていた。ここでもし、ずっとおまえについててやると言ってやれたらどんなにいいだろう。悲しませて悪かった、そこまで追いつめてごめんなと言えれば、万事めでたしめでたし。キブラでも話題もちきりになり、窮地を乗り越えたふたりとして語り継がれたかもしれない。
       だけど、やっぱり現実はそんな甘いものではない。しあわせな終わりを迎えたふたりはつかの間どこか誰かの寂しい胸を慰める物語になるけれど、すぐに忘れられる。思わず目をそむけたくなるような局面を経ている者たちほど、周囲は好奇の目をかがやかせ、最後はどうなるかと興味津々に食らいつく。
      『あいつらどうなったんだよ』
      『別れるとか別れないとか、まだごちゃごちゃやってんじゃねえの?』
       これが自分の身に起こっているのじゃなかったら、川畑も話題に乗っていたことだろう。笑い混じりにふたりの行く末を勝手に予想し、案じるふりをして良識派の仮面をかぶってみたり、はたまた毒舌とともに嘲笑してみたり。
       酒の席には欠かせない、他愛ない噂話のひとつとして口をすべらせたとたん、誰も彼もが、自分がいちばんこの件についてよく知っているのだという顔で勝手なことを言いふらす。
       川畑もよくそんな話で楽しんだ。そんなとき、まさか自分がいつか槍玉にあげられるかもしれないなんて想像するはずがない。これは罪のない噂話だ。実際には、自分にはなにひとつ関係のない話だ。知った顔で一席ぶつのは誰だって日常的にやることで、咎められることではない。真剣な顔をしていても本音はそうじゃなく、単なる場つなぎとしての話題。口裏を合わせるだけで明日になったら忘れてしまう、そんな軽さで話し合う。
       だが、いざ話題の中心人物になってしまったら、そんなことはもう言えなくなる。
       他人の恋について好き放題言っていた頃、当人たちもこの噂を耳にしないことはないだろうと不思議に思っていたことがあった。
       勝手なことを言うな、それは事実と違うと、どうして言わないのだろう。でたらめが事実として吹聴されることに、なぜ怒らないのか。そんなふうに考えていたことがある。
       しかし、いまの川畑はあの頃よりも年を重ね、経験も積んでいる。というわけで、抜き差しならない事態に足を踏み込んだとき、口を閉ざすのが賢いのだとわかっていた。
       ほんとうの意味での窮地に立たされた者は、怯えることしかできないのだ。噂話に興じる者など放っておけばいい。いまおまえたちが嬉々として口にしていることはすべてでたらめだ、といちいち指摘してまわる暇はない。ほんとうに恐れなければいけないのは泡のように不確かな存在である彼らではなく、ある日いきなり突拍子もない形で人生に食い込んでくる工藤のような男だ。
      「工藤のほうはどうなんだ。いま誰かとつき合ってるのか?」
       彼が隣に座ってから五本目の煙草を深く吸い込んだ。いつものペースから考えると相当に早いという点では、自分もそれなりに緊張しているのだと認めなければならなかった。
       工藤が退院したあとも彼の部屋に通い、見舞いで持っていった花束を投げつけられて以後、一度も――この店でも顔を合わせなかった男が、今日来てみたら普通の顔をしてスツールに座っていたのだ。驚くのも無理はなかった。
       川畑のほうは以前と変わりなく、ずっとキブラに通っていた。工藤とのあいだのことは常連客にすでに知れ渡っていて、耀子ママでさえ渋面をつくっていた。
       よくある別れ話に逆上した挙げ句、自殺未遂を起こした工藤に皆、恐れをなしただろうけれど、やはりこの場合、責められるべきは川畑であって、しばらくは誰も話しかけてこなかった。
       そこでもまた、川畑は自分の破綻した性格に向き合うことになった。
       工藤のことは確かに予想外の出来事だったが、だからといってキブラに出入りしてはいけないと言われたのではない。あるとき耀子ママにはっきりとそう言ったら、なんとも言えない顔を向けられたっけ。
       ゆるく流れる煙に顔をしかめ、工藤が「……いたり、いなかったり」と呟く。
       つき合う男がいたり、いなかったり。
       そんなふうに言い表す彼の私生活は、どうなっているのだろう。川畑がよく知っていた頃の彼はいまよりもっと硬度なバリアを張り巡らせていたものだ。なにを話すにしても、寝るときでも、こっちのやることなすことをいちいち確かめるような目つきをしていた。
       いまはそのバリアが薄く透けた膜に取って変わったように見える。指先でつつけばぷつんと穴が空き、なんとも言えない艶やかな感情があふれ出しそうな錯覚にとらわれる。
       しかし、その艶は以前にも増して不健康なものだ。エロティックではあるものの、崩れている。
       そんなところにまたも惹かれたといったら、呆れられるだろうか。
      「なあ」
       深く考える前に、川畑は火を点けたばかりの煙草を灰皿に押しつけていた。彼の吐息が感じ取れるほどに顔を近づけ、囁いた。
      「俺とこのあと――」
      「そのつもりだった」
       やんわりと言葉を遮った工藤が微笑む。
      「今日、この店でおまえが隣に腰掛けたときからそのつもりだったよ」
       くどくのにもう少し手こずるかと思っていたから川畑は拍子抜けしてしまい、「……いいのか?」と呟いた。
      「おまえ……」
       四年前のこと。忘れたわけじゃないだろう。あれはもういいのか? もう終わったこととして片づけていいのか?
      「リストカットして傷が残ったわけじゃない。おまえはどうも俺のことを勘違いしているようだから言っておくけど、そんなに繊細にできてるわけじゃないよ。二十九にもなって古傷に泣いてる男なんているはずないだろう」
       肩をすくめて笑う工藤が目くばせしてきたので、「そうだな」と川畑もほっとして笑い返した。
       だが、胃の底に正体のわからないしこりがある。
       どうして今日、ここで会ったのだろう。

       内にこもりやすい性質をのぞけば、工藤は理想的な男だ。それは当時もいまも変わらない。
       今夜の彼の肌は四年ぶりとは思えないほどのなめらかさでなじみ、川畑の強引な要求にもほぼ完璧に応えた。
       均整の取れた身体もあまり変わっておらず、うしろから抱え込んだときに背中に走る深い溝もくっきりしていた。
       ただ、ちょっと変わったなと川畑をおもしろがらせたのは、みずから進んで奉仕する点だ。前は、嫌がる彼を何度もあやさなければ望みどおりのことをしてくれなかったのに、今夜は彼のほうからのしかかってきた。
       苦しげに川畑のそこを咥える昔の工藤も禁欲的でよかったけれど、別れていたあいだになにかを吹っ切ったらしい。熱っぽい息を混じらせて、物欲しげな顔で指を添えてくる男の髪をきつく掴み、川畑は猥雑な舌遣いをこころゆくまで愉しんだ。
       工藤の舌はくねり、ねっとりと這い回る。まるで男のそれをしゃぶるのが好きでたまらないというようなあられもない仕草に興奮させられた。
      「どこでそんなの覚えてきたんだよ」
       馬乗りになった工藤は、先端の割れ目からあふれる先走りを舐め取るのに夢中になっていて答えない。
       キブラを出たあと、これまたよく行くホテルに直行しようとしたが、工藤が「俺の部屋に来ないか」と言ってきたので、そうした。
       タクシーに乗ってわりとすぐの場所にある彼のマンションは別れたときと同じで、室内もたいして変わった様子はなかった。
       川畑が住んでいる部屋と似たような、2DK。そこに工藤はいまもひとりで住んでいるらしい。寝室のカーテンは深い緑で、深夜のいま、きちんと閉じられている。ベッドの片隅には朝脱いだままの形でパジャマが置かれていた。さっき、それを川畑が足の爪先で蹴り落とした。
       いやらしく音をたててしゃぶる工藤の目元が赤いのも、カーテンが緑だとわかるのも、ベッドの脇に置いたフロアライトがほんのり点いているからだ。この点も、前とは違う。以前は、室内が少しでも明るいと嫌だと言っていた。
       ――恥ずかしい。見られたくないから嫌だ。
       拒否されればされるほど、無理をきかせたくなるのだとあの頃の工藤はわかっていたのだろうか。だとしたら、ずいぶんなやり手だったと笑うしかないが、本心から言っていたことは川畑も知っている。
      『おまえの嫌がる顔にそそられるんだよ』
       一度はっきりそう言ってやったら、工藤はほんの一瞬、泣き出しそうな顔をしていた。彼がかならず泣くとわかっていて四つん這いにさせ、奥深くまで犯してやるのも好きだった。工藤はその体位が好きなくせに、いつもいつも抵抗していた。きつく締め付けるところを意地悪く、甘く抉り、どうにもならなくなる頃までゆっくり揺すってやると、最後にはきまって彼のほうが耐えきれずにねだってきた。
       本気で無理強いをしたという覚えはない。いわゆる強姦罪というのが男同士にも適用されるとしても、工藤とのあいだに起こったことはすべて合意の上だ。互いにわかっていて、焦らし焦らされる。それが楽しいからやっているだけだ。
      「川畑……」
       せっぱ詰まった声に瞼を開けると、工藤が口元を拭いながら身体の位置をずらしている。川畑のそこを掴み、自分から受け入れようとしている姿は初めて見るものだった。
       いまどきこんなものはめずらしくない、ありふれた光景だとしても、以前の工藤を覚えている身としてはやはり驚きを感じずにはいられなかった。
       四年前の彼は、とてもこんなことをできるような度胸も欲望も持ち合わせていなかったのだ。川畑のすることにかならず怯み、狭いベッドで逃げまどう素振りさえ見せていた。
      「自分でできるのかよ」
       ちょっとだけ腰を浮かし、猛々しくそそり立ったそれで工藤のそこをつつくと、「――あ」と息を呑む気配に続き、ぐらりと身体が揺れる。
      「……無理するなよ」
       腰を支えて位置を変えようとしたが、止められた。
       汗ばんだ胸を反らし、少しずつ、少しずつ受け入れていく工藤の顔が苦痛で歪んだのは一瞬だ。屹立したものを中ほどまで受け入れたところで動きを止め、かすかに息を漏らて視線をまっすぐ合わせてきたのをきっかけに、頬がさっと染まった。
       川畑が掴んでいる腰も淫らに揺れ始める。肌という肌に継ぎ目がないのは当たり前、だけどまたたく間にこんなにも熱くなるなんて、なんだか魔法にかけられたような気分だ。
      「っ……あ、ぁあ……っあ、っ……」
       のけぞる工藤の喘ぎ声を聞いているだけで、じっとしていられなくなった。
       この男は、自分と離れていたあいだに、どこでなにをしていたのだろう。しなやかな身体をばねのように反り返らせるところを、ほかの男にも見せてやったのだろうか。そうすれば男はもっと感じるのだと教わったのか。乱暴にすればとろけてしまうような場所で締め付けることを、ほかの男にもしてやったのだろうか。
       火照る肌をまさぐり、硬くしこる乳首を思いきりねじったときも、彼は掠れた声で応えた。勃起したそこを扱いてやったときも、わずかに開いたくちびるから熱っぽい吐息を漏らした。
       こんなにも熱くなるなんて。こんなにも感じるなんて。
       四年前の彼が不感症だったとはけっして言わないけれど、見事に騙されたという感触が拭えない。
       それでもいい。諦め悪く抵抗する彼にもそそられたけれど、一線を飛び越えたようないまの工藤の目つきはもっといい。
       川畑の胸を突っぱね、腰を揺らす男は新鮮に見える。ときどき思い出したように汗のにじむ額に触れる髪をかき上げる仕草も、川畑が突き上げてやるとくちびるをきつく噛むのも、次の瞬間にはもっと深く求めてくるところも、なにもかもが前とは違う。
       彼の目のなかに、色とりどりの光の欠片が浮かんでは消える。フロアライトが反射し、色素の薄い工藤の虹彩をよけいにあざやかなものに変えていた。
       虹は彼のなかでかがやき、ほとばしり、跳ね飛ぶ。狂的な光はきらきらしていて、とても綺麗だ。
       光の欠片が川畑の意識にも刷り込まれるようだった。

       工藤とまたつき合うことになったことを最初に知って驚いたのは、当然といえば当然か、バー・キブラの耀子ママだった。
      「ホントなの、その話」
       疑わしげに訊きながらも、ママは手にした薄い布でグラスを拭い続ける。
      「ホントもホント。再会してもう一か月になるかな」
      「焼けぼっくいに火がつくってのはよく聞くけど、アンタたちの場合はねえ……。工藤くんの前のことを思うと、素直に喜べないわよ」
      「どうして?」
       眉尻を下げて笑うと親しみやすさがにじみ出て、とても魅力的に映ることを川畑は自分でよくわかっていた。
      「そりゃまあ、前はいろいろあったけどさ。いまはいまだろ。あいつもとくにつき合ってる奴はいなそうだし、べつにいいんじゃねえの」
      「アンタは相変わらずね。その歪んだ性格、どうにかなんないの」
       店のママという立場にあるなら、たとえ客の事情を聞いても嫌悪感を示すことはタブーだろうに、いまの耀子ママはそれこそ掛け値なし、むっとした顔だった。
      「アンタとも長いつき合いだし、いまさらどうこう言うつもりじゃないけど。工藤くんがどんな子かは嫌ってほどわかってるんでしょう」
      「ああ、知ってるよ。俺が別れるって言ったら、死にそうになった」
      「だったらどうしてまた手を出すの!」
       耀子ママが磨いていたグラスをガンとカウンターに叩きつける。
       平日の夜八時、キブラに来ているのは偶然にも自分だけだった。これでほかの客がいたら、いいからかいの種になっていただろう。
      「四年も経てば人間変わるだろう。あいつも変わったんだよ」
      「アンタはちっとも変わってないじゃない」
      「俺は変わる必要性はないよ。工藤はちょっとばかり神経が細すぎたんだ。いまじゃ俺とのつき合いも楽しんでるみたいだしさ、文句ねえだろうが」
       呆れた、とため息を漏らすなり、耀子ママはふきんをぽいと放り出し、そばにいたボーイを呼びつけ、「アンタが相手しなさい。アタシはこの子の顔を見てるだけで頭きちゃうの」と言い捨てた。
       それでもなお、控え室に姿を消す寸前、耀子ママは険しい顔を向けてきた。
      「今度もし工藤くんになにかあったら、アンタ、この店出入り禁止だからね」
      「なにもないって。心配しすぎだよ」
      「……だったらいいけどさ……、一度ぐらい、あの子をしあわせにしてやんなさいよ」
       ごつい顔を曇らせたまま控え室に引っ込んだママの代わりに、ボーイのヒロシがあやふやな笑顔でカウンター内に立つ。彼も四年前の騒ぎを知っているひとりだ。
      「今日はおひとりなんですか」
      「いや、もう少ししたら周一が来ることになってるんだ」
       くわえた煙草に火を点けてもらい、川畑は「サンキュ」と言い足した。
       今日は校了明けだから、早めにあがれると言っていた。
       周一、と前のように呼ぶようになったのは、再会した晩からだ。彼がそう呼べと言ったのだ。
       川畑の肩を強く掴んで貪欲に求める最中、何度も耳元で言っていた。
      『俺の名前を呼べよ。覚えてるだろう』と。
       そう言われたから呼んでるに過ぎないが、こころのどこかにはあの日以来、ねじくれた快感が巣くっている。透明な糸は日に日に幾重にも川畑のこころに絡みつき、ある種倒錯した楽しさを味わわせてくれた。
       工藤、もとい周一は芯の強い男だが、その反面、脆すぎるところがあったために、全体のバランスが取れていなかった。だから、川畑と別れるときもあれだけの騒ぎを起こしたのだ。一見、冷静に見えても、ひどく動揺させられることがあるとそのことだけに囚われてしまう。よく言えば一途な性格なのだろうが、それも度を越せば鬱陶しい。
       久しぶりに会った彼のバランスは、ますますおかしなことになっていた。男同士ならば力も拮抗しているし、感じるところも分かり合える。とくにうしろめたい理由がないかぎり、どちらかが一方的に弱い立場に追いやられることがない。
       その点、以前の周一は、どんなことにおいても受け身に回るタイプだった。臆病で、胸の奥に多くの望みを抱えていてもたやすく口にすることができない。川畑のような男とつき合えば、間違いなく振り回される側だった。
       だが、いまの彼には臆病なところなど微塵も感じられない。代わりに、奇妙な自信が備わっているようだ。その根拠は四年離れていた川畑にはわからないもので、なにが前とどう違うのか明確に言い表すことはできなかったけれども、なめらかな視線や仕草が以前の彼とは違うことを物語っていた。
       川畑に抱かれながらも、実際のリードは周一が握っている。どんな手順で始めるかも、いついかせてもらえるかも、周一が全部決めていた。
       さまざまなやり方で川畑を感じさせる男は甘く喘ぎながら、「名前を呼べよ」と囁く。「もっとこんなふうに――」と淫猥な目つきで誘い込んでくる。「もっと」に続く行為は、男に慣れた川畑でも目を丸くすることが多かった。
       彼を抑制していたのは、たった一本のねじだったのだろうか。それがなにかの拍子に吹っ飛んでしまい、硬い鋼のうろこがばらばらと剥がれ落ちたから、あんなにもなめらかで凄絶な本性が剥き出しになったのだろうか。
       一昨日は映画館でやった。映画が始まって十分もしないうちに舌なめずりする周一が手を伸ばしてきたので、どんな内容だったかさっぱり覚えていない。
       彼の目に浮かぶとめどない欲望を見ると、こっちも抑えがきかなくなってしまう。男同士がそういう目的で使う専門の映画館ならいざ知らず、一昨日は普通のひとびとが足を運ぶところだ。割合空いていたから、川畑の隣も周一の反対側もひとがいなかったけれど、ぬめった淫らな音に気づくひとがいないとも言えない。
       コートに隠れさせて川畑のものを愛撫する手つきに負け、「おまえもしてほしいか」と訊いた。すると周一は内緒話をするようにくちびるを近づけ、「触りたいんだろう。おまえのここ……凄いじゃないか。ちょっと触っただけでぬるぬるになってる」と笑っていた。
       こんな言い方をする彼も、初めて見た。誰がなにをどう言うか、他人のことはどうでもいい。問題は、周一だ。周一が場所もわきまえずに不埒なことをしでかし、口にするというのがいまもって川畑には信じられない。それでいて、快感のためにかすかにひび割れた声を聞くとどうにもたまらなくなるのだ。
       一昨日は映画館、その前は公園、そしてその前は――思い返せばこの一か月、あまり間を置かずに周一を抱いている気がする。この新鮮味がいつまで続くか、当事者である自分ではなく正真正銘神のみぞ知るというところだが、いまのところ彼以外に興味を惹く者はいなかった。
       離れていたあいだ、彼になにがあったのだろう。前は真っ暗な寝室でしかやらせてくれなかったのに、いまじゃいつでもどこでも彼が「したい」とひと言呟けば、そこが押し殺した喘ぎを漏らす場所になる。
       いったいどこの誰と、どんなことをしてきたのだろう。
       それを考えると、いつだって胸騒ぎがする。どことなく落ち着かない、不安定な感じがする。
       よく知っていた男がまったく知らない男になって戻ってきたというのは、川畑の興味を惹きつけてやまなかった。
       もしかしたら、無理しているんじゃないか。虚勢を張っているんじゃないかと最初は疑いもしたが、一か月も経ったいまとなっては、周一の振る舞いはごく自然なものであると川畑も認めていた。
       いくつもの夜に繰り返された不埒な指先の余韻に浸っていると、キブラの重い扉の開く気配がする。目を転じると、彼だ。外ではいつの間にか雨が降り出したらしい。きらきらしたしずくを散らせた髪を軽く振り、周一は隣に腰掛けてくるなり、カウンターに投げ出していた川畑の手を掴む。
      「出よう」
       飲み物を一杯注文するでもない周一と、ちょっととまどっているボーイのヒロシを交互に見やり、川畑はスツールから降り立った。こういう周一はいまに始まったことじゃない。目が合った瞬間に胸をかき乱すような声でねだる男を前にして、おとなしく酒を呑んでいられるほど川畑は老成していないのだ。

      「この部屋、広いよな。家賃いくらだっけ」
      「十三万ちょっとかな」
       いつものようにタクシーで周一のマンションに行き、すぐにも始めるのかと思っていたが、今夜はちょっと順序が違うらしい。綺麗に片づいたリビングに川畑を通したあと、周一は対面式のキッチンで料理をつくり始めた。
      「腹が減ってるんだ。今日は忙しくてろくに食べる暇がなくて」
      「構わないよ」
       ジャケットを脱いだ川畑はソファに深々と腰掛け、ぐうっと足を伸ばす。
       二月の夜、ワイシャツ一枚でも室内は暖かい。さっき、タクシーで帰ってくるあいだ、雨はみぞれに変わる兆しを見せていた。薄暗い道を寂しげに照らす電灯に、湿ったしずくが慎ましやかなかがやきを放っていたことをなんとなく思い出しながら、「それにしてもおまえ、料理できたのか」と返すと、慣れた手つきでほうれん草を刻んでいた周一が軽く眉をはね上げる。
      「長いことひとりで暮らしてれば、料理のひとつやふたつ覚えるだろう」
      「そうかな。俺は面倒くさくてやらないよ。疲れて帰ってきて、さらに疲れることなんか。だいたい、ひとりで食べるのもつまらないしさ」
      「……前におまえにも何度かつくったんだけど。覚えてないか?」
      「全然」
       ちっとも覚えていなかった。川畑にとって食べることはあまり大切じゃない。最悪にまずくなければ構わないという程度で、おいしかったものに対する記憶も不確かだ。周一に言われてみれば、何度か彼の手料理を食べた気もするけれど、どんなメニューだったか、どんな味だったか思い出せなかった。そして、そのことを正直に告げるのに、いささかのためらいも感じなかった。
      「そうか」
       フライパンに油をひいている周一は気のない返事だ。すぐににぎやかな音が聞こえてきた。
      「なにつくってるんだ?」
       興味を覚えて、川畑はカウンター越しにキッチンをのぞいた。
      「たまごとほうれん草の炒飯。おまえも食べるか?」
      「食べる食べる。ああ、いい匂いだなあ」
       くんくんと犬のように鼻を鳴らす姿に、周一が可笑しそうに笑う。
       できたての炒飯はとてもおいしかった。炒ったたまごが可愛い菜の花のようで、ほうれん草はあざやかな緑のままだ。さくさくした味わいも楽しい。
       綺麗に平らげたあと煙草に火を点けると、周一が皿を片づけ、灰皿を出してくれた。
       そういえば彼は煙草を吸わないのだっけ。この部屋に何度も足を運んでいた四年前も、いつもこうして川畑のためにガラス製の灰皿を置いてくれていた。
      「悪いな」
       周一は微笑んだだけでなにも言わず、渦を巻く煙を追っている。
      「相変わらず綺麗に住んでるんだな」
      「片づいてないと落ち着かないんだよ」
       床に置いたクッションに座り、周一はビールをグラスにそそいでいる。グラスには指紋ひとつついていない。きっと、普通に洗うだけじゃ気がすまず、キブラで使うような特製の布を使って磨いているのだろう。
      「おまえぐらいきれい好きだったら、キブラの耀子ママも喜ぶんじゃねえの? ほら、いま出版業界ってヤバイっていうじゃん。万が一リストラされたら、キブラで雇ってくれるよ」
      「俺にボーイが務まるとは思えないけどね。愛想がないし」
      「そりゃ言えてる。もったいないよなあ、いい顔してんのによ」
       ビールを呑み、煙草を吸い、川畑はとりとめなく喋り続けた。煙草の灰がスラックスにぱらぱらと散り、それを無造作に手で払う。テレビをつけず、音楽も流していないから、室内は静かだ。
      「料理も旨いし、部屋も綺麗。おまえみたいなのと一緒に暮らしたら楽だろうな」
       こういうことがつらっと言えるのも、川畑ならではだった。
       良心が揺り動かされたのは、かたわらで強張った顔を見せている男が死にそうになったあのときだけ。彼が受けた傷の深さも、実際の痛みも、川畑にとってはあくまでも他人事だ。
       煙草の煙がふっと揺れる。周一が立ち上がり、隣に腰掛けてくる。
      「……川畑さえよければ、一緒に暮らさないか? いまのところ俺は決まった相手がいないんだ」
      「え?」
       聞き返した瞬間、周一がにこりと笑う。常日頃の頑なさも嘘のように思える完璧な微笑みに思わず見とれ、最初に彼に声をかけたときのことを思い出した。
       四年前、キブラの片隅でひとり呑んでいた周一に耀子ママがなにごとか話しかけていたのを見たのが、最初だ。ママの言葉に、声をたてずに微笑んだ男を三つ離れた席から見ていた川畑は、彼のくちびるの動きに目を奪われて声をかけたのだった。
       周一が声をたてて笑うことはまれだった。内気な性格らしく、川畑とつき合っていたあいだも、なにか可笑しいことがあったところで静かに微笑むことがほとんどだった。
       ちょっとのあいだ黙ったのを勘違いしたらしい。周一が目にかかる髪をかきあげ、「前のことは忘れてほしいんだ。……ああいうのは、もうしないから」と言う。
       ああいうの、がなにを指しているか、すぐにわかった。死に損なったことだろう。これに対する当てこすりを言うのはさすがに大人げないと思ったので黙っていたが、同居の件についてはどうすべきか。彼のように気の利く男と暮らすのは確かに便利だろうけれど、それはそれでいろいろと問題が出てくるはずだ
       さしあたっては、この四年のあいだに自分がまったく変わっていないということが問題だ。キブラの耀子ママにもそう言ったことは決して自己卑下でもなんでもなく、れっきとした事実を述べたまで。
       ここでもし、「やっぱりおまえが好きなんだよ」とか、「俺は川畑がいなきゃだめなんだ」という言葉が周一の口から出たら、同居の話はなかったことにするつもりだった。
       四年前も、周一は暖かなオレンジ色の灯りがついた玄関先で、小説か映画のなかでしか見られない言葉をいくつも言っていた。
      『俺を捨てないでくれ』
      『川畑がいなかったら生きていけない』
      『おまえと別れたらこの先、どうしていけばいいかわからない』
      『どこにも行かないでくれ。俺から逃げないで』
       顔色は真っ青だったが、泣いていなかったと思う。
       一緒に暮らせば、またもあの凍り付いた顔を拝むことになるのかもしれない。
      「川畑?」
       首を傾げてのぞき込んでくる周一が、くちびるを色っぽくつり上げる。目元も頬のラインも鋭いのに、そこだけがやけに扇情的だ。
      「俺はあの頃と違うよ。そのことはもうわかってるんだろう?」
       鼓膜に忍び込んでくる囁き声に、どうして抗えるのだろう。あのときだって、こんな声で囁いてくれたら別れなかったかもしれない。
       このあいだ、七色が見えた周一の目に今夜は薄い青が浮かんでいた。リビングにかかっているカーテンの濃い青を映す目は、まばたきするたびに深みを増していく。
       頭で考えるのではなく、こころに従え。周一自身が、あの頃と違うと言うなら、そうなのだろう。
       二十九年間ずっとそうしてきた川畑は結局のところ、物事を新しい局面に進ませるときに判断を下すのは冷静な理性ではなく、勢いのある衝動だと知っている。だから、この先どうなるかなんてことも想像せずに頷いた。
      「わかったよ。一緒に暮らそう」

      ***

      「工藤さんとまたつき合ってるってほんとか? 一緒に暮らしてるらしいって聞いたけど」
       キブラで久しぶりに顔を合わせた浅田諒一がグラス片手に話しかけてきたので、川畑も笑顔で「ああ、よく知ってるな」と返事した。周一は今夜、仕事で遅くなると聞いている。家でひとり食事をとるのもいやだし、仕事が終わったあと、近くの店で夕食を食べ、キブラに寄ったのだった。
      「もう店中の噂になってるよ」
      「へえ。暇人が多いんだな」
       川畑の口の悪さにもめげず、浅田はちょっと肩をすくめて笑っている。
      「よく了承したよな。あんなことがあったのに」
      「まったくな。周一もよく俺みたいなひとでなしを選んだもんだよ」
      「違うよ、俺が言ってるのはあんたのこと」
       理知的なメタルフレームの眼鏡を押し上げながら、浅田はひとつため息をつく。
      「工藤さんがどんな男か、あんた知ってるんだろう。それでよくもう一度つき合う気になったよな」
      「どんな男かって、そりゃまあ、いまどきめずらしいぐらいに思いつめるタイプだよな。別れるって言ったぐらいで死にかけるんだから」
      「怖いとか思わねえの」
      「べつに。今度は一緒に暮らしてるんだし、あいつもバカな真似はやらないだろ」
       周一との同居が始まって、すでに二週間が経っていた。彼のマンションに川畑が押しかけた形だが、もともと住んでいたマンションは解約せずにいる。「荷物をいっぺんに運ぶのが大変だろう」と言ったのは、周一のほうだ。
      「……俺は工藤さんとつき合ったわけじゃないから、詳しいところまでは知らないけどね」
       くわえ煙草の浅田は目を細めている。
      「四年前の――自殺未遂は、あのひとにとって初めてのことじゃない。それは知ってたか」
       思いがけない言葉に川畑は目を丸くし、首を振った。
      「だろうね。じつはあのひと、あんたよりもずっと前からこの店に来てるんだ。俺もよく見かけたし、実際に誘われたこともある」
      「おまえが? あいつに?」
      「そう。有名だよ、工藤さんは男を喰うってんでね。あのひとはあんたの前にも二度、自殺未遂を起こしてるんだよ」
       これにはさすがに驚いた。周一が誰かを誘うような度胸を持っているなんて。川畑の知っている彼というのは無口で、塞いだ顔ばかりしている。でもそれだって思い出に過ぎず、いまは自分と一緒に暮らしていることで落ち着いているようだ。
      「陰口をたたくみたいで気が進まないけど、あのひとはちょっとまずい相手だぜ。だから、あんたたちが別れたって聞いたときはほっとしたぐらいだよ」
      「いまは違うだろう。変わったんじゃねえのか」
      「そんなに簡単に変わるもんかな」
       思案顔の浅田にふと思いついて、「そのときの相手は」と聞いてみた。
      「周一がつき合ってた相手は、いまどうしてるんだ?」
      「知らないな」
       浅田はすっと目をそらす。その不自然な仕草に、「嘘言うなよ」と声を荒らげた。少し離れたところで、耀子ママが心配そうな顔でこちらを見ているが、構うものか。
      「悪いことは言わない。いますぐ工藤さんとは別れたほうがいい」
      「どうして。そこまで言うなら、理由を教えろよ」
      「聞かないほうがいいって」
      「キブラのみんなは知ってるのか? 耀子ママも? ボーイも? 客も全員、周一がどんな男かって知ってるのか? それでいま一緒に暮らしてる俺だけが知らないのか? そんな変な話、あるかよ」
       周一がどう言われているのか、ほんとうはどんな男なのか。知らないから怖いのではない。自分の知らないことだから知りたいだけだった。
      「言うまで帰らねえぞ」
       念を押すと、浅田が諦めたようにため息をついた。自分からこの話を切り出したことを後悔しているような面持ちだ。
      「彼がつき合ってた男は、もう……」
       語尾を曖昧にして口を閉ざした男を、川畑は胡乱そうに見つめるだけだった。

      ***

       浅田の不穏な言葉をどう受け取るか、しばし迷ったものの、川畑は結局、いちばん最良だと思われる方法をとった。
       聞かなかったことにする。それでいい。いまのところ周一とはうまくいっているのだし、よけいなことで亀裂を生じさせたくない。
       昔は昔、いまはいま、ときっぱり割り切れる性格だからこそ、周一ともまたつき合うことができたのだ。
       過去の周一になにがあったのか、知りたくないわけではないけれど、どうしても突き止めたいというのでもない。
       いまの彼は、自分と一緒にいることでしあわせそうだ。こっちはこっちで、欠けていたこころの一部を補ってもらえたようで、落ち着く。どこにも問題はない。
       その夜、周一は午前二時を回った頃にようやく帰ってきた。彼はちっちゃなミニ・クーパーを持っていて、あらかじめ帰りが遅くなるとわかっているときは車で会社に向かう。今夜もそうだったのだろう。金属の鍵が擦れる音がベッドの近くで聞こえた。
       先にベッドに入っていた川畑は、冷たい爪先がそっと寄りそってきたことで目を覚まし、無造作に彼を抱き寄せた。
       周一の身体はいつも冷たい。熱くなるのはほんの一瞬で、抱いているあいだだけ。湿った髪から香るシャンプーの匂いは、自分と同じものだ。
      『あのひとはあんたの前にも二度、自殺未遂を起こしてるんだよ』
      『彼がつき合ってた男は、もう……』
       ぼやける意識に、浅田の言葉が煙のようにふっと浮かんで消える。
       そのあとに続く言葉はなんだったのだろう。
       周一が寝返りを打ち、パジャマの襟にしがみついてくる。
      「……起きてるか?」
      「うん……」
       寝ぼけた声で答え、川畑は瞼をこする。いまみたいな掠れた声を聞いたら、寝かせてもらえないのはここ二週間で承知ずみだ。
       襟を掴んでいた指が胸元を這い、そろそろと下半身に下りていく。彼はこんなにセックスが好きだっただろうか。なにをするにも怖じけていた頃とは大違いだ。
       笑い出しえたい気分を抑え、川畑はしだいに熱くなっていく身体を強く抱き締めた。

      ***

       前につき合ったときは四か月保った。それじゃ今回はどうなのだろうと、解けないクイズをひねくり回すような日々は、同居二か月を過ぎたあたりであっさり終わった。
       周一の仕事が忙しいことを理由に、性懲りもなくキブラに通っていた川畑は、たまたまその晩店に来ていた新顔と気が合い、目くばせひとつでホテルに向かった。
       名前も覚えていない男と忙しなく抱き合ったあと、周一のところとは違うシャンプーを使って髪を洗い、マンションに帰ったのは午前一時過ぎだった。
       自分のマンションと、周一の部屋。両方の鍵がついたキーリングをコートのポケットから取り出し、扉の鍵穴に差し込んだところで首をひねった。
       鍵が開いている。周一が先に帰ってきていたのだろうか。
       さして深くも考えずに扉を開き、「ただい――」と言いかけたところで、川畑はぎくりとして立ちすくんだ。
      「どこに行ってた?」
       灯りも点けずに、真っ暗な玄関に周一が立っている。川畑の背後、廊下から差し込む灯りで、彼がコートを着たままだとわかった。
      「周一? おまえ、帰ってたのか」
      「どこに行ってたんだ」
      「どこって……」
      「ほかの男と寝たのか」
      「なんでわかるんだよ」
       隠すこともせず、言いつくろうこともしない川畑に、周一はしばらく黙り込んでいた。だが、見ているあいだにも無表情だったのがゆるゆる崩れ、くっと肩を揺らしたのをきっかけに大声で笑い出した。
       その笑い声はしだいに大きくなり、壁に、天井に跳ね返り、川畑をぎょっとさせるのに十分だった。可笑しくてたまらないといった笑い声は、砲弾がばらばらとあたりに散っていくのにも似ていた。
      「――おまえは変わらないな、川畑。前は四か月保ったのに、今度はたった二か月か。おまえの下半身のモラルってやつはどうなってるんだよ。最悪だ」
      「しょうがねえだろう。俺は前にも言ったとおり……」
      「そう、ひとりに絞ることができない性格だったよな。それはわかってる」
       よくわかってるよ、と繰り返す周一がまっすぐ見つめてくる。
      「……ずっと考えてた。おまえみたいに、罪の意識を欠片も感じずにいられたらどんなにいいだろうって。俺はおまえになりたかったよ、川畑。誰にも頼らずに、その場かぎりの快感を追えたら楽だろうな」
      「周一」
      「たぶん今回もおまえがこうなることは予想してたよ。どうせいつかはみんな俺に飽きる。また離れていく。いつもその繰り返しだ」
       いま耳にした言葉が引っかかって、川畑は「みんな?」と眉をひそめた。どこからか、鼻を刺すツンとした匂いが漂ってくるが、いま気にかけなければいけないのは、笑いながらも尖った犬歯をのぞかせている男のことだ。
      「おまえが初めてじゃない。おまえの前に二回ある」
       周一の声は感情を欠いており、棒読みもいいところだ。
       浅田から話を聞いていなかったら、周一がなにを言っているのか、まるきりわからなかっただろう。でも、知っている。彼が言いたいことを川畑は知っている。
       ――俺の前にも二回。おまえは死にかけたんだ。
      「どうしてなんだ。どうして俺はおまえみたいな馬鹿ばかり好きになる? ろくでもない男ばかり好きになるんだ?」
       みるみるうちに周一の目に透明な涙が盛り上がり、頬にこぼれ落ちていった。
      「……俺の前につき合ってた男ってどんな奴なんだ」
      「おまえとそっくりだよ。自分のことしか頭にない、俺のことなんかちっとも考えてくれない、すぐに浮気して平気な顔してる奴ばっかりだ」
      「どうしてそういう奴を選ぶんだよ」
      「さあな。自分と違うからだろう」
       鼻をすすり、乱暴に瞼をこする男がぐらりと身体をふらつかせ、壁にもたれる。その拍子に、彼の足下でゴツンとなにかが倒れる音がした。
       川畑がうしろ手にゆっくり扉を閉めかけようとすると、「早く閉めろ」と周一が鋭く言った。それから二度、三度荒く息を吸って吐き、言葉を続けた。
      「……おまえが変わってくれるかもしれないなんて、期待したわけじゃない。俺ひとりを愛してくれるなんて夢見たわけじゃない。だから、俺のほうで変わることにしたんだ」
      「どんなふうに」
      「もう少し前向きになろうかって、思ってさ」
       彼とまともにつき合ったのは四か月と今回の二か月、合計半年。でも、泣くところを見たのは今日が初めてだ。別れると言ったときでさえ、彼は泣かなかった。顔色を変えていただけだ。それでいまは、泣きながらも笑っている。
       おまけに、自分の言ったことに噴き出すことまでしたから、川畑もこんな状況にありながら、つられて笑い声をあげた。
       ほんとうに変なことを言う。鬱屈した周一が前向きになるなんて、あり得ない。だけど、セックスの面でいえば確かに変わったと思う。場所を選ばずに求められるやり方には、確かに興奮させられた。
       思ったままを口にすると、周一も「そうだな」と頷く。
      「俺もこの二か月は生まれ変わったみたいに楽しかったよ。……俺はひとりじゃいられない性格なのに、どうしてだかいつもろくでもない奴を好きになるんだ。おまえみたいに、誰にも気兼ねしないでいられたらどんなにいいかって、何度も考えた。……おまえとつき合う前に二度、俺は死にかけてるんだ。理由はだいたい同じだ。俺がしつこいから、相手はいつも逃げる。馬鹿だよな、俺も。そういう相手ばかり選んでた」
      「やさしい奴はいくらでもいただろうが」
      「ああ。いたよ。絶対に俺を泣かせたりしない、大事にするって約束してくれる奴は数え切れないぐらいいたよ。でも、結局俺が惹かれるのはだめな男ばかりなんだよ。俺を愛してくれない奴ばっかり」
       ハイカラーの黒いコートをはおったままの周一は暖かそうな生地を身体に巻き付け、ちょっとうつむいている。
       どうして俺のような男を選ぶんだろう。前からそう思っていたが、その理由がなんとなくわかった。
       ある種の病気みたいなものだ。
       愛されないとわかっている相手を好きになり、こころを痛めることを、彼はひょっとしたら楽しんでいるんじゃないだろうか。
       とすれば、自分たちのようなひとでなしは、可哀相な工藤周一が思う存分憐憫に浸るための引き立て役。ついていない彼の人生を飾るための小道具だ。
      「……おまえさ、自分で望んで傷ついてるんだろう。わざと俺みたいな男を選んで、楽しんでるんだよな。こっちから別れを切り出すのだって計算に入ってるんじゃないのか?」
      「そうかもな。……違うと思いたいけど、もうよくわからないんだ」
       周一はまだ泣いていた。だけど、口元だけはどうにか微笑もうとしている。
       彼が足を組み替えた拍子に、またコツンと音がして、空のガラス瓶が転がってきた。それに目をやる川畑の耳に、続いて、シュッと擦る音が聞こえてきた。
      「周一」
       匂いと、いま耳にした音に、弾かれたように顔をあげた。
       ちいさな炎が周一の指の先に灯っている。
       マッチの火は扉を閉めていてもゆらゆらと頼りなく揺れ、すぐにも消えそうだ。
      「前の男は俺の嫉妬深さに耐えきれなかった。俺が自殺未遂を起こしたのは、興味を惹きたかっただけなんだ。なのに、あっちのほうが勝手に先に死んだ」
       低く呟き、周一がマッチを吹き消す。
       彼の言ったことを、どう理解すればいいのだろう。
       ――興味を惹きたかっただけ。
       狂言だったのか。俺のときも、芝居だったのか。ほんとうに死んでしまわないよう、薬の量を調節したとでもいうのだろうか。
       白い錠剤を床にばらまき、うつぶせに倒れていた男が目に浮かんでくる。
       ――なのに、あっちのほうが勝手に先に死んだ。
       そこでふいに、浅田の言葉がよみがえってくる。
      『彼がつき合ってた男は、もう……』
       あれは、こういう意味だったのか。底知れぬ周一の執心に相手の男が追いつめられたというわけか。
       まるで安っぽいドラマのようだ。いまどき、こんな展開ははやらない。信じられない。
       笑い飛ばすことは簡単だが、川畑はできなかった。
       室内であるにもかかわらず、周一の足下には水たまりが広がっている。それは川畑のところまで届き、独特の尖った臭気を放っている。
      「川畑は、ひとりで食事するのが嫌だって言ってたな……。俺もひとりは嫌なんだよ。もう絶対に嫌なんだ。だから、四年ぶりにあの店で会ったとき、決めたんだ。もし、おまえとまたつき合ったとして、またほかの男を抱くようなことがあったら――いや、それは嘘だ。キブラにおまえが通ってるのは知ってた。再会したのは偶然じゃない……。何か月も前からおまえが俺の隣に座るのをずっと待ってたんだ……狙っていたんだ……」
       そこで再び、マッチに火が灯る。暗闇のなか、どこからともなく生まれる炎は、周一の胸からこぼれ出てくるように思えた。
       揺れる先端は赤く見えるけれど、周一の指を焦がしそうな細い木の軸の根本で炎は青く見える。それに照らされる彼の顔も、微妙な陰影を刻んでいる。
       ――それじゃ俺は、まんまと引っかかったわけか。虫をも殺さぬ顔をして、危害を加えるのはいつだって俺のような奴らだと周囲の同情をひくおまえが張りめぐらせていた罠に。
       周一がくるりと指を回すと、赤い軌跡に従って彼の切れ長の目、鼻筋がぼんやり浮かぶ。それが、なんだかとても綺麗に見えた。暗がりにくるりと尾を引く赤い線。ふわりと跳ね飛ぶちいさな炎。翳る周一が少しだけくちびるを尖らせると、炎は左にふっと揺れて消える。
      「ごめんな、川畑。たぶん、俺のほうがおまえなんかよりずっとおかしいんだ。でも、これで終わりにするから」
       周一の正気を疑っている余裕はない。彼がこれまでにどんな恋をしてきて、傷を受けたのか、四か月と二か月のつき合いしかない川畑にはわかりかねた。
       だが、最後の相手になれという言葉は気に入った。いや、正確には「これで終わりにするから」というものだが、たいして変わりはないだろう。
       いま、初めて見るような目つきで周一の顔をまじまじと眺め回した。これだけ目鼻立ちが整っている男もめずらしい。強固な意志を思わせる目元と鼻筋。だけどそれを裏切るようなエロティックなくちびる。
       バランスの悪い男。
       彼という人間が、少しだけわかったような気がする。自分などよりもずっと冷酷にできているのだ、工藤周一という男は。愛されるために不実な男を追いつめ、そいつが神経を病もうとも手をゆるめず、死と引き替えに永遠を誓わせたところで、こころに刻みつけるのではない。さっさと忘れ、次の男、次の男――そして自分へと乗り換えてきたのだ。
       なぜ周一がそんなことをしたのか、聞いても仕方がないだろう。でも、ひとつだけは確かだ。
      「欲が深すぎるんだよ、周一は」
       遠慮のない言葉に周一が目を瞠る。
      「……そう言ったのはおまえが初めてだ。誰もそんなこと、言わなかった……」
      「言う暇も知恵もなかったんだろ、たぶん。おまえは男を喰うんだって、浅田が言ってたよ。そのとおりだな。前の奴も、その前の奴も食い散らかすだけ食い散らかして、綺麗さっぱり忘れたんだろう。おまえは誰かに大事にされたいんじゃなんだよ。俺みたいな屑をわざわざ選ぶのは、しあわせになりたいからじゃない。可哀相な自分に酔ってるんだろう? 俺がいつほかの男に目を移すか、待ち構えてたんじゃないのか。俺が浮気をすれば、なんで自分は愛してもらえないんだって堂々と胸を張れるもんな」
      「……そうだったのかもしれないな」
       周一はちいさく笑う。その声がまたも奇妙な具合に震えだしている。
      「でも、寂しかったのはほんとうなんだ。ひとりじゃ嫌だったんだ。なのに、みんな俺と一緒にいるのを拒んだ」
       三本目のマッチに火がついたとき、川畑は決定的な言葉がいともするりと自分の口をついて出ることに、いささかの動揺も感じずにいられた。
      「いまは俺がいるじゃないか」
       誰でもひとりは寂しい。だから、ほんの少しでもいい、温もりを分け与えてくれる誰かを必死に探す。
       目の前でちいさな火に手をかざす男もそうで、自分もそうだ。いびつな欲望を抱えた者同士、暗闇のなかで死を呼ぶ水たまりに足を突っ込んでいる。
       車を乗り回す彼ならば、容易に準備できたのだろう。ふたりの足下には揮発性の高い液体が広がり、扉を閉めていることで胸苦しくなるような匂いを充満させていた。
       ひたひたと忍び寄る水のような液体。ガソリン。
       周一が手にしているマッチの火で、透明な液体は禍々しい虹色を描き出している。
       これが彼なりの、「前向き」ということなのだろう。ひとりがいやなら、ふたりで。川畑はその相手に選ばれたということだ。
       一緒に死ねというのかと激昂することはもちろんできる。いますぐここを逃げ出すことだってできる。だけど、そうしないのは、周一の目にある虹を刷り込まれてしまったから。彼が見せてくれる青い火に魅入られてしまったせいだ。
       ――一度ぐらい、あの子をしあわせにしてやんなさいよ。
       そう言っていたキブラの耀子ママに、いまなら笑ってやれる。
       周一が欲したしあわせは、永遠の終わりだ。
       かつては死と引き替えに愛情を求められたことが苦痛でたまらなかったけれど、あれから四年が過ぎ、不埒な遊びも十分過ぎるほどに楽しんだ。だから、もういい。どの男を相手にしても得られなかった極度の興奮を、周一はもたらしてくれる。
       ――俺を巻き添えにすることで。
      「……俺に会ったことを後悔してるか?」
       そう聞かれて、川畑は微笑んだ。いままでに、誰にも一度も見せたことのない穏やかな笑顔は、周一の視線を釘付けにさせるのに成功したらしい。
       よもや、ここまでやる男にはお目にかかったことがない。自分の願いを叶えるためなら他人を道連れにしても構わないという、恐ろしいまでの利己的な考えは、単に相手を取っ替え引っ替えして楽しんでいた自分を遥かに上回る。
      「おまえみたいな男は見たことがねえよ」
       こころから微笑んだ。
       四年前、彼を怖いと思ったのが嘘みたいだ。こんなに可愛い男もめったにいない。自分自身を愛しすぎるあまり死にたくなるなんて、どうしようもない。
       炎の向こうで周一の顔が揺れる。なにかが焦げる匂いがする。マッチの火が彼の指を焼いているのかもしれない。息詰まるような匂いもする。
       これでなにもかも終わる。ひとでなしだと散々言われた自分も、綺麗な顔をして灰色のこころを抱え続けてきた周一も、あっという間に、この火が消えればまるで魔法のように、なにもかもなくなる。
      「俺がいる」
       もう一度言った。移り気な自分が永遠を約束することはできないけれども、まばたきに匹敵する一瞬だったらそれも可能かもしれない。
       周一が泣き出しそうな顔で腕を伸ばしてきたのと同時に、燃え尽きる寸前のマッチが落ちた。


      アフタヌーンティーでした

      0

        漫画家の村上左知さんと、京王プラザホテルの47階でハロウィンアフタヌーンティーでしたにじ

        京プラ、美味しくて好きなんですよね。いつも地上階の「樹林」に行くのですが、

        昨日は初めての47階。

        (写真がなくてすみません!)

         

        お茶も飲み放題で、やっぱり美味しくて可愛かったです。

        アフタヌーンティーってそれなりにするので、美味しいのって大事ですよね。

        たくさんお話して、夜景にも盛り上がって、帰りはマグロ丼も食べてきました笑

         

        今週は、細かい仕事がたくさんあります。

        毎日違う原稿を書くので、ちょっとあわあわ汗

        でも、せっかくなので、楽しいものをお届けできるように頑張ります。

         

        サイン会の追加枠応募は、もうすぐ締め切り……だったかな?

        22日の日曜日23:59まででした。

         

        応募ページはぴのこ:)こちらぴのこ:)です!

         

        コミコミさんのご厚意、とても嬉しく思っております。

        ひとりでも多くの方とお会いできたらいいなあきらきら

        お話する時間がわりとありそうなので、サイコロトークができるアプリを仕込んでみましたにた

        へへ、盛り上がりましょうね!

         

        明日、いや今日か、今日は「アウトレイジ最終章」を観てくる予定です。

        ああ〜〜〜終わってしまうの寂しいです。これ大好きなシリーズだったので。

         

        大きな山を抜けたら外出しまくりです。わかりやすいですよね笑

         

        いまは雨宮兄弟に夢中です……:)


        日常的なもろもろ

        0

          眠れないのでこれを書いています。

          今日はアフタヌーンティーなので寝たい。

           

          さてさて、いくつかSSをアップしました。どちらもなつい!

          お時間のあるときにでもどうぞハート

           

          また、ご感想をお聞かせ頂けるとめちゃ嬉しいです。

          Twitterのリプ、ブログのコメント欄、拍手(匿名可)、お題箱(匿名可)もありますよ〜。

          読者さんのご感想をなによりものエネルギーにしていきたいので、ぜひともゆう★

           

          頂いた拍手にお返事です苺

           

          10/07 09:02→新刊楽しみにしていま...さんェックしてくださいね。
           

          10/13 13:51→私もニキビに悩まされ...さん

          おおおありがとうございます!でしたら、このあとはオルビスのホワイトニングケアを使ってみます。ファンケルもいいですよねー。サプリメントでお世話になってます♪

           

          10/15 17:56→有難うございます(^...さん

          どういたしましてです!(´ ◡ `三´ ◡ `) ♡ 

           

          10/16 02:06→私も重度の睡眠障害で...さん
          重度だと結構大変ですよね。でも、たいていのことはなんとかなるので、一緒に頑張りましょう♡

           


          求めたら最後(「愛執の鎖」原型2006)

          0

             固く引き締めていたはずの意識がぐらりときたのは、呑んでいる最中だった。
             周りの目を盗んで膝頭をゆっくりとまさぐる大きな手をまじまじと見つめた次に、三浦浩一は隣に座る部下の顔に視線を移した。
             大石祐は、笑っていた。普段と変わらぬ親しみやすい笑顔で、向かい合わせに座る同僚の行員たちと客の話で盛り上がっている。
             金曜の夜十時、三浦は部下を連れて勤め先の銀行からほど近い中華料理店でささやかな打ち上げを行っていた。
             ずいぶん前から手がけていた企業への大型融資が今日ようやく決まったため、中心となって動いてくれた大石をはじめとした部下たちをねぎらっていたのだが、そろそろ食事も終わろうとする頃に、不埒な悪戯が始まったのだった。
             左に座る大石が、テーブル下の三浦の膝を掴んで撫で回している。スラックス越しに膝をじわじわと触れ、たまに冗談っぽくジッパーのほうに向かって、指が這い上がってきた。だが、それで三浦がぎょっとした顔をすると、指はすぐに膝へと下りていく。
             大石も自分も、男なのに。しかも、同じ銀行に勤める上司と部下だ。いくら呑んでいるからといって、こんな悪ふざけが許されるのか。
             ――あのときもそうだ。こいつの口車に乗ったせいで、散々な目に遭ったんだ。
             一か月前、十歳も年下の大石によって身体の奥に刻まれた熱は未だはっきりとした痕跡を残し、日々、三浦を悩ませ続けていた。夢に見ることもある。三十九歳になったいま、夢精にはもう縁がないと思っていたのに、大石に触られたあの場所や、大石が深く挿ってきたあの場所が無意識の世界では淫らに疼いてどうしようもなくて、はっと気がつけば下着を汚している朝が何度かあった。
             そうしたときの自分がどれほど情けない顔をしているか、ふたつ年上の妻である亜紀にはけっして見せられなかった。
             下着は、洗濯すればいい。それが面倒なら過去の女同様、片っ端から捨てて買い換えればいい。それと一緒に、この身体のあちこちに残る大石の感触も消し去ることができればいいのに。
             ――ああそうだ。ほんとうにそうできるなら、肌をこそぎ落としてもいい。醜い傷が残っても、こいつに挿り込まれた場所に残る熱さえ消えてくれるなら、なにをしてもいい。大金を払ってもいい。
             酔った頭で考えたが、実際にそんなうまい話があるはずもない。
            「課長、どうしたんですか。しかめ面してますけど、また頭でも痛いんですか?」
             ビールが半分ほど残ったグラスを握り締めてくちびるを噛む三浦に、正面に座る部下の山下由美が心配そうな顔でのぞき込んでくる。
            「わたし、頭痛薬なら持ってますけど。飲みます?」
            「あ……うん、ありがとう」
             偏頭痛持ちの三浦は、特定のメーカーの鎮痛剤しか飲まなかった。痛みがひどくなるとそれしか効かないので、いつも鞄の中に常備していた。もちろん、いまも足下の鞄に薬が入っている。だが、山下のやさしい気持ちを無下にすることはできない。
             そもそものことを言えば、とくべつ頭が痛いわけではなかった。ただ、隣の男から逃れたいだけだ。
             笑顔の山下が差し出す丸い錠剤を受け取るとき、かすかに手が触れた。今年で三十一歳になる山下がわずかに頬を染めたのを、隣の大石が見逃すはずがない。ひとのよさそうな顔で煙草を吸い、「山下さん、顔が赤いですよ」と笑い混じりにからかう。
             今日の大石は白いワイシャツに甘めのピンクのネクタイを締めている。軽いくせ毛が似合い、笑うと無邪気な男だが、口を閉ざしていると妙な威圧感があった。そのことを本人も知っているのかもしれない。黄色やピンクといった華やかな色合いのネクタイで雰囲気をやわらげているみたいだ。
            「ホント、山下さんって三浦課長にお熱ですよね。なにかっていうと課長の手に触ってませんか」
            「そんなこと、ないわよ。ちょっともう、大石くんったらみんなの前で変なこと言わないでよ」
             山下の頬がますます赤くなっていく。彼女の両隣に座る男性行員も、女性行員もいっせいにくすくすと笑い出した。これはいわゆる、酒の席での冗談というやつだ。三浦も、独身の山下が自分に対してほのかな好意を抱いていることは当然気づいていたが、むろん応えるはずもない。
             学生時代から妙に女にもてたので、それとなくはぐらかす術は身につけていた。
             見た目は悪くないと自分でも思う。若い頃はきつい感じが勝っていた整った顔立ちも、年を経るとともに相応の落ち着きとやわらかさを備えて、三十後半になってからはよけいに女から誘われる機会が増えた。
             ――でも、俺はだめだ。もうだめだ。
             鎮痛剤を水で飲み下したときだった。
            「でも、だめですよ」
             三浦の胸の裡を見透かしたように、そして山下に釘を刺すように、大石がにこりと笑う。
            「三浦さんは――」
             そこで言葉を切り、ちらりと視線を向けてくる男の目の中に浮かぶ獰猛さに背筋がぞくぞくする。
             なにを言うつもりなんだ、おまえは。やめろ、言うな。俺たちのことをもしもひと言でも漏らそうなら、俺もおまえもおしまいだ。
             みるみるうちに真っ青になっていく三浦だけに通じる目くばせをして、大石は笑顔のまま続けた。
            「三浦さんには可愛い奥さんがいるんだから、冗談でも手を出しちゃだめですよ」
            「……わかってるわよ、そんなのいちいち言われなくたって」
             三浦より十も下、山下自身から見てもふたつ下の男にひとくさりやられておもしろくないのだろう。それまでの笑顔をさっと消して眉をひそめる女性行員に、周囲の行員たちが慌てて機嫌を取り始めた。大手都市銀行の九段下支店、渉外課のエキスパートを怒らせると、自分たちにも災難が降りかかることを、みな賢明にも知っているのだ。
            「ねえねえ、山下さん。なにかデザートでも食べません? わたし、甘いもの食べたくなっちゃった」
            「僕も。あ、そうだ、よかったらこのあと、おいしいケーキの店にでも行きましょうか」
            「こんな遅くにやってるの? だってもう十時じゃない」
            「大丈夫。駅前に新しい店ができたんだよ。そこなら終電近くまでゆっくりできるし……」
             山下を取り囲む部下たちがにぎやかに喋りたてるなか、大石と言えば平然と煙草を吸っているだけだ。
             堂々とした態度にやりきれなさを覚え、トイレに行こうと立ち上がると、大石が伏し目がちに視線を動かす。その確信めいたなめらかな仕草を見ただけで、指先がじわっと熱く痺れていく。
            「……ちょっとトイレに行ってくるよ」
            「はい、どうぞー。課長が戻ってくるまでに、次のお店決めておきますね」
             気のいい女性行員が手を振り、隣で大石が「俺もちょっと」と席を立つ。
             うしろを振り返ることなく、逃げるようにしてトイレに向かった。すぐうしろから大石も追ってくる。
             大股気味に近づいてきて、もはや駆け足状態の三浦の肘を強く掴み、「ちょっと」と低い声で言って、ふたり足下をもつれさせながらトイレの個室に入った。
             バタンと扉が閉まる大きな音を耳にするのが早いか、それともついさっきまで見ていた笑顔をなくして、険しい目をする大石にくちびるをふさがれるのが早かったか。
            「ん――……ッ!」
             自分よりも頭半分ほど身長の高い大石に抱きすくめられて、強引に舌を絡めさせられた。たっぷりとした唾液を伝わせる長い舌で口内をいいように犯されるかたわら、背中から尻へとまさぐる手つきに声が漏れ出てしまいそうだ。
            「んぅっ……ん――ふ……」
             ろくに息継ぎもさせてもらえないことに涙がじわりと浮かぶ。激しくもがいても、大石のほうがつねに一歩早い。壁に三浦を押しつけて舌をうずうずと擦り合わせ、急速に昂ぶる下肢にも手を伸ばす。
             下から揉み込むような手つきがいやらしい。陰嚢を手の中に収めて、竿ごとゆっくりと揉みしだくおぞましい快感にびくんとのけぞると、濡れたくちびるを離して、大石が笑いかけてきた。
            「……覚えてるんですね。俺がここを可愛がったこと」
            「おまえ……」
             やめろよ、と言おうとしたのを察したのだろう。またも大石の目に鋭い感情が浮かび、左手をねじりあげられた。
            「……ッい、た……っ大石……っ!」
             ワイシャツを透かして、大石の熱い体温が伝わってくる。二十九歳になっても大石の身体は引き締まっており、学生時代にずっと剣道をやっていたというのも頷ける逞しさだ。ぱっと見ただけではそのことがよくわからないが、彼のシャツの下に隠された衝動を三浦は一か月前に知ってしまった。
            「覚えてるんでしょう。三浦さん。俺と寝たこと、覚えてるでしょう?」
             左手をねじりあげるほうとは別の手で、ジリジリと音を立ててジッパーを下ろしていく大石が目と鼻の先で笑う。
             あれ以後、彼が正面切ってこの話を持ち出してきたのは、今日が初めてだ。いつなにを言われるかと毎日怯えていた自分を、きっと嘲笑っていたのだろう。
             微笑んでいるのに、凶暴なものを感じさせる男に頷いてしまったら、この先もずっと言いなりだ。
            「三浦さんのここ、……あの日もこんなふうにして触ってあげたこと、覚えてませんか」
            「――お、覚えてるわけ、ないだろう!」
             全身を揺らすような快感から必死に意識を立て直してちいさく怒鳴ると、ほんの一瞬、三浦がまったくの無表情になった。それがやけに恐ろしい。なにも言わない、眉ひとつ動かさない大石の中で、唐突に電池が切れてしまったみたいだ。
             日頃は朗らかな男が黙り込むととたんに落ち着かなくなり、せっかく振り切ったことも忘れて、「大石……」と囁くと、のろのろと視線が絡み付く。
            「どうしてそんな意地悪を言うんですか」
             掠れた声に答えられなかった。
             一か月前の夜、やはり酒に酔っていた三浦は、途中から隣に座る大石に半分身体を預け、ふわふわした気分に包まれていたものだ。確かそのときも、比較的大きな仕事に決着がついて祝杯をあげていたのだった。
             三浦が二年前に課長に昇進したのを機に融資課から異動してきた大石は、人懐こい性格と機転が利く性格で、渉外課にもすぐに馴染んだ。十歳も年上の三浦に対して臆することなく、それでいて礼を失さずに接してくれて、いつの間にか誰よりも頼れる懐刀となっていたのだ。
             その刀がどうして自分を斬りつけようと考えたのか。いまもって、三浦にはよくわからない。
            『三浦課長、呑みすぎですよ』という年下の男のやさしい声も、支えてくれる手のひらも、いままでに味わったことがないもので心地よかった。
             昔から、三浦は酒にだらしなかった。ある一定量を呑むととたんに自制心が崩れ、ふと気づくと見知らぬ女と寝ていることが数え切れないほどあった。
             だが、あの日隣に座っていたのは男だ。同性の大石だ。仕事の話をする名目で部下たちと飲み歩き、最後に残った大石とふたりでそれからも店をはしごして、しまいには完全に泥酔した三浦の耳に、あの蠱惑的な声が聞こえてきたのだ。
            『課長は、男に興味があるんですか』
             あのときの自分はなんと応えたのだろう。『なに言ってんだよ』と目を丸くしたか。『ばかなこと言うな』と吹き出したか。いずれにせよ、大石から身体を離さなかったのは確かだ。
             ――あなたって、酔うと他人の体温を欲しがるのよね。そこに、わたしも負けちゃった感じ。
             三浦の中にひそむ荒淫さを、妻の亜紀はそんなふうにたとえた。けっして自分から強く求めた覚えはないのに、ふっと気づくと彼女たちが自分の上に乗っかっていたり、胸の下で喘いで積極的に腰を動かしていたりするのだ。
             男に興味があるか、と聞いてきた部下に、自分がなんと答えたのかはいまでもはっきり思い出せない。
             だけど、その後のことならよく覚えている。熱くてたまらない頬をシーツに擦り付け、迫る大石の手から逃れようとして笑いながら身体をよじらせたのだ。
             ――そうだ、俺は笑っていた。こいつに抱かれるとわかっても笑っていたんだ。
             自分よりも若い男を惑わせるように肢体をくねらせ、徹底的に焦れさせたあげく、いよいよ硬い熱を受け入れる段になってもさして暴れなかった。
             ――まあいいか。そう思ったんだ。こういうことが一度ぐらいあっても、べつにいいじゃないかと思ったんだ。
             だが、正気に戻れば自分の乱れた思考に頭を抱えるほかなかった。あの晩、一杯でも酒を少なくしていれば、こんなことにはならなかったのに。
            「あのとき、三浦さんは男に抱かれるのが初めてだったんですよね」
             ひとり勝手に想いふける三浦を引き戻すように、大石が呟く。
            「俺が誘っても、一度も拒まなかった。いやじゃなかったんでしょう? 男に興味があったってことでしょう? 俺のことだって」
            「違う、あのときは……ほんとうに酔ってたんだ。いまでもどうしてあんなことをしたか、わからない」
             頭を強く振り、部下の言葉を最後まで聞かずに遮った。
             酒にだらしなければセックスにも節操のない自分から、目をそらしたい。忘れてしまいたい。渉外課の課長として仕事はできるかもしれないが、それ以外の点ではまるでだめな人間だ。
             家庭のことも亜紀に任せっぱなしだ。まだ子どもはいらないと気ままな暮らしを楽しむなか、連日したたか酔って帰る三浦に、『もう、いつまで経っても手を焼かせるんだから』と苦笑しながら靴下を脱がせてくれる亜紀と寝る回数は年々減ってきているが、大切な存在なのに変わりはない。
            「頼むから、おまえも忘れてくれ。あれは間違いだったんだ。あんなことは二度としちゃいけない」
            「どうしてですか」
            「どうしてって……」
             おうむ返しに問うてくる男は少し傷ついた顔をし、再び、「どうしてですか」と言った。
            「誰にも言いませんよ。たまに、こんなふうに触らせてくれれば……」
            「――それが迷惑だと言ってるんだろう!男同士でこんなことをするなんて変だと言ってるんだよ。わかれよ、それぐらい!」
             触らせてくれればなんて、ひとのことをダッチワイフみたいに言いやがって。
             瞬時に顔を引きつらせた三浦に、大石も眉をつりあげた。
            「そんなのわかりませんよ。だったらどうして一か月前、俺の前であんなに簡単に足を開いたんですか。俺は無理強いしませんでしたよ? 何度も確認しましたよ? ……でも、最終的にいいって言ったのはあなたのほうじゃないですか」
            「だからって、俺には妻がいるんだ」
            「ああ、そうですよね。いますよね、なんか面倒なのが」
             あんまりな言いようにきつく睨み据え、「……いい加減にしろよ」と唸った。
            「毎日うちに無言電話をかけてくるのも、おまえなんだろう。亜紀だって参ってるんだよ」
             一か月前に関係を持ってしまってから、自宅に名前を名乗らない電話が何度もあるのだ。「気味が悪い」と眉をひそめる亜紀に、「気にするなよ」と適当なことを言った自分自身がいちばん気に懸けていたなんてみっともないことは、絶対に口にできない。
             大石は「……へえ、そう」と言っただけだ。視線をそらしているあたりを見るに、痛いところを突かれてまともに反論できないのだろう。
            「俺とおまえは同じ課にいるんだし、こんなことをしていたら……」
            「わかりましたよ、そう何度も同じこと言わなくても」
             にやりと笑う男は、前触れもなしに耳をきつく噛んできた。
            「やめろ……離せよ……!」
            「大声を出したら誰か飛んできますよ」
             大石の冷ややかな声が合図になったかどうかは知らないが、そのときほんとうにトイレの扉が開く気配がし、誰かが入ってきた。
            「……ッ!」
             扉一枚向こうに誰かがいるとわかっているのに、大石がシャツの上から乳首をゆるく擦ってくる。ちいさくて、肌に埋もれてしまいそうな肉芽を執拗に弄られることで、もどかしい快感が腰のあたりにまとわりつく。
            「気持ちいいんでしょう」
            「そんな、わけない……」
            「だめ、我慢してください」
             声を漏らさないために大石の手できつく口をふさがれたが、それがなんだというのだ。そんなことをするなら、いますぐ胸から手を離せと言いたかったのに、親指と人差し指のあいだで硬い芯を孕ませられていくそこから意識が離れない。
             気づけば、自分から物欲しげに胸を突き出してしまっていた。
            「……あっ……ん……」
             どんなに必死に声を押し殺しても、声が揺れてしまうことに大石が目を細める。
             こりこりとねじったり、丸く円を描いてみたり、つまんで軽く揺らしてみたり。他愛ない愛撫なのに、頼りにしていた部下に淫らなことをされていると思うと信じられないぐらいに感じてしまう。
             ――男の乳首なんか弄ってなにが楽しいんだ。女と違うのに。
             だったら、どうしてそこを弄られて下半身を熱くさせるのだろう。自分でもうまい理由が見つけられずに、混乱するばかりだ。
             外から、鼻歌が聞こえてきた。声を聞くに部下のひとりだ。それが大石にもわかったのだろう。小声で囁いてきた。
            「今夜だけでいい。もう一度だけ、俺と寝てください。そうしたら、もうなにも言わない。しつこくつきまとったりしないから」
            「いや、だ……、いやだ……」
             胸の尖りに与えられる愛撫が、しだいに本格的になっていく。そんなところへの刺激に慣れていない身としては、つらすぎて涙が滲んでしまう。もともと、快感に流されやすいたちなのだ。膝ががくがく震えてきて、無意識に大石の首にしがみついてしまった。
            「いやだ……」
            「いやじゃなくて、いいって言ってください。今夜だけ。もう一度だけ抱かせてくれたら、無言電話もしない」
             冗談じゃない。誰がこんな確証のない約束を信じるか。
             けれど、あの晩と同じ、甘く低い声で囁かれると意識は端からゆるくとけだしてしまう。胸も弄られっぱなしで、男の愛撫に応えて痺れるように疼いていた。
            「ほら、三浦さんの身体も俺を欲しがってる」
            「あぁ……」
             シャツをせり上げる硬い尖りを指摘され、ほんとうに涙がこぼれた。甘い毒を含んだ大石の言葉を笑い飛ばす余裕など、これっぽっちもなかった。
             浅ましい自分をこれほど嫌悪したことがあっただろうか。
             どうしていつもこうなんだろう。だめだとわかっているのに、体温に惹かれてしまう。肌を熱く燃やしてくれる手を求めてしまうのだ。それで、過去どれだけもめ事を起こしたことか。妻の亜紀と知り合う四年前まで、三浦は女と女のあいだに挟まれてつねに困惑し、けっして自分から別れを切り出そうとはしなかった。
             ――ただ、気持ちいいことがしたかっただけだ。温めてほしかっただけなんだ。
             不遇な幼少時代を送ってきたわけでもないのにと、自分でも失笑することがある。だけど、いつも誰かの体温を欲していた三浦は、押しの強い亜紀に出会ったことで、このへんで諦めるかと長い長い爛れた遍歴に蹴りをつけたのだった。
             それ以後、亜紀以外には手を出していない。年齢に比例して地位もあがったのだから、些細な不祥事で足下をすくわれることは絶対に避けるべきだ。そうでなくとも、銀行というところはモラルにとかくやかましい。
             なのに、このざまだ。そんなに体温が欲しけりゃ風俗にでも行けばよかったのだが、金を払ってシステマティックにいかされるのはつまらなかった。
             ――できれば相手は普通でいてほしい。俺と同じように朝起きて、夜に寝る健康的な生活を送っていて、友だちもいる、家族もいる、だけどとりあえず恋人はいなくて、なんとなく寂しい同士ならちょうどいい。
             そんなふうに考える自分がどれだけひとでなしか、幸か不幸か、三浦はいままでに誰にもなじられたことがなかった。「あたしとあの女と、どっちを取るの」と詰め寄られたら「いまはきみだけだと思っている」と言い、「ほかに女はいるの」と聞かれたら「いたり、いなかったり」と笑ってみせることで、たいていの局面は切り抜けてこられたのだ。
            「いまは」きみだけだ、と、時間を限定させてしまえば、昨日や明日に違う女と寝ても構わないと本気で考えていた。
             いたりいなかったり、と言うときにちょっと寂しい顔をすれば、誰もきつい言葉を口にすることなく、逆にとらえどころのない男として夢中になってくれた。
             そして、そんな女たちが求めるままに寝ることが、誠実な男のすることだと信じて疑わなかった。
             ――でも、こいつだけは無理だ。いままでのやり方が通用しない。
            「三浦さん?」
             人前では「課長」と呼ぶくせに、ふたりきりになったとたん、親しげに名前を呼ぶ男をぼやける視界に映し、それでもまだ三浦は頷かなかった。一度頷いてしまえば、二度目も三度目もなし崩しになってしまうことは自分がいちばんよくわかっている。
             頬を撫でる男はベッドの中で豹変する。女のやわらかな感触しか知らない三浦の奥の奥まで探って硬い楔を打ち込み、摩擦に慣れていない粘膜を擦ってとろけさせ、泣かせ、求めさせて、喘がせたのだ。
             身体はとっくに倒れかかっているのに頑固に口を結ぶ三浦にくすりと笑い、「うんって言わないなら」と大石が歌うように囁く。
            「無言電話じゃなくて、声、出しますよ。奥さんに俺とあなたのことを言いますよ。ほかの行員にも、ばらします」
             やさしい声に顔を強張らせたが、大石も引くつもりはないらしい。視線を合わせながら、三浦の左手の薬指を掴んで、そこにはまる銀色の指輪をそっと舐めていく。
             濡れた舌先に魅入られて、「あ……」と漏らした声の弱々しさに三浦自身が瞠目する思いだった。大石の温かい口の中で泳ぐ指に、血が伝ってくるような錯覚を感じる。
             なにかを期待する声は、ほんとうに自分のものか。この一か月、同じ職場の部下と寝たことを何度も何度も否定してきたくせに、こころの底では、またあの夜と同じことをしたいと願っていたのか。浅ましいにもほどがある。だらしないどころの話じゃない。
            「……だから、言うことを聞いてください。今夜だけ」
             くちゅりと音を立てて指を舐める男と視線を絡めてしまえば、頷くほかない。
             脅されているのだから、仕方がないではないか。このあと彼に連れられていくだろうホテルの一室で、はしたなく乱れてしまっても、しょうがない。
             寝なければ関係をばらすと強要されているのだ。自分はなにも悪くない。酔ったところをつけ込まれたにすぎないのだ。
            「誰にも言わないって……約束するか」
             絞り出した声に大石は「はい」と言う。
            「……ほかの奴にも、亜紀にも……」
            「言いません」
             念を押すあいだにも、大石の手がスラックスの上から尻をやわやわと揉み、くぼみに指をすべらせて、くっと押してくる。そのちょっとした刺激に押されて、とうとう頷いてしまった。
            「……このあいだみたいに、縛らないって約束しろよ。タオルでも手が痛かった。跡も残って亜紀に変な顔をされて……」
            「あれはあなたがしろって言ったんですよ。一度でいいから、こんなふうにしてみたかったって」
            「嘘だ」
            「嘘じゃありません。……べつにいいですけどね、信じなくても。俺のせいにすることで気が楽になるなら、それでいいですよ」
             大石の声にうっすらした痛みが混じっていることに、三浦は気づけなかった。年下の男の胸の下で暴かれていく凄まじい本性に、眩暈を覚えていたのだ。
             自分の中に、違う性を見出してしまったような心境は最悪だ。男の身体を持ち、男としての意識もちゃんとあるのに、中に挿れて欲しくてよがり狂うなんて正気の沙汰じゃない。
             だけど、それも今夜かぎりだ。
             ――この一か月、何度も忘れようとして忘れられなかったことを、こいつがまたしてくれる。気が狂いそうだ。したくてしたくて――大石が欲しくておかしくなりそうだ。
            「山下さんやほかの奴らには俺がうまく言いますから、心配しないでいいですよ。このまま行きましょう。いま、あなたの鞄を取ってくるから……三浦さん?」
            「早く」
             すると決まったら、もう待てない。一分一秒だって待てなかった。ここへきて都合よく酒が一気に回ったらしく、驚く部下にすがりつくのも簡単だった。ついでに、「早く」とうわずった声でせがんだ。自分のくちびるがどんな言葉を吐き出すか、いまこの場では知ったことか。
             傷つくなら傷つけばいい。三浦自身、抱かれるまで気づくことがなかった、身体の中にひそむとろりとした熱にくちづけた男がすべて悪いのだ。
            「おまえとアレがしたい。亜紀にばれないように――したい。でも、今夜かぎりなんだろ。だったら、前のときよりも激しくしていいから……言うことを聞かなきゃばらすんだろ、俺はいやなのに……でもいい、おまえの好きにしろよ……」
             扇情的な言葉のひとつひとつは鋭い弾丸となって、男の胸を確かに撃ち抜いたようだった。
             大石はつかの間呆然としていたが、やがてじわじわと顔を歪め、「……ずるいよ」と呟いた。
            「どうしてそんなこと言うんだよ……」
             後ろ髪を掴まれて強く強く抱きすくめられる三浦の胸に、けれどその言葉は正しい意味を持って届くことはなかった。その頃にはもう、大石がもたらす熱に神経がとろけていた。
             いずれこの男によって滅ぼされるとわかっていてもなお、我慢することができない。自分はそういうふうにできている。
             彼という男が、怖い。
             そして、たまらなく魅力的だ。


            炎は青く(オリジナル2006)

            0

               数年が経ち、あの恋は間違いだった、あのとき別れてよかったのだと思い出すたびに胸のどこかが痛んだかと言えば、まるきり嘘になる。
               だいたい、とうに終わった関係を律儀に覚えておくほど川畑健吾は記憶力がよくない。善人でもない。
              「そんなに変わったかな」
               隣で首を傾げて微笑む昔の男をためつすがめつ眺め、川畑は「そうだな」と素直に相づちを打った。
              「どのへんが? 自分じゃどこが変わったんだかよくわからないよ」
              「顔」
               無遠慮に言い切ると、彼がちょっと目を丸くする。
              「整形なんかしてないって」
              「そうじゃない。なんていうか……ちょっと痩せたな。頬のあたりが」
              「ああ、ここ数年仕事が忙しいからな」
               気安い感じで頷くその仕草も、鋭角的なものを思わせる頬のラインも、昔の彼にはなかったものだ。ただ、表面的なものだけで判断したならば、工藤周一はさほど変わっていなかった。
               年が明けたらますます寒さが厳しくなった一月の半ば、灯りを絞った行きつけの店で川畑が四年ぶりに見たのは、相変わらず神経質そうなものを窺わせる切れ長の目に高い鼻梁。やや突き出た頬骨のせいで、見た者にどこか貴族的な印象を与える。
               もしくは、ある種の近寄りがたさも。それらとは対照的なふっくらした上くちびるを見ると、端々まで揺るぎなく制御されている精緻な機械に異質な官能が混ざっている気分に駆られる。四年前も、川畑は彼の奇妙なバランスを保った顔に強く惹かれていた。
               しかし、以前よりもさらに感情が読みとりにくくなった気がする。男にしては長い睫毛と灯りのせいで、工藤の目はよけいに暗く見えた。
              「それにしても久しぶりだな。三年……四年ぶりか?」
              「四年だよ」
               曖昧な感じで川畑が言ったのに対して、工藤が短くきっぱりと答え、グラスを手にする。
               間隔を空けて設置された天井のライトはちょうど川畑と工藤のそれぞれ端についていて、ふたりのあいだをぼんやりと照らしていた。
               そうだ。あれからもう四年も経ったのだ。忙しない毎日を送っていると、時間の流れがどんなに速いものか、改めて知る機会はあまりない。たとえばこんなふうに、旧知の仲にでも会わないかぎり。
               ――旧知の仲、か。
               ちょっと笑って、川畑は半分ほど残っているグラスを彼に向かって掲げた。
              「乾杯しよう。偶然の再会だよな」
               そう言って、彼の返事を待たずにグラスを触れ合わせると、工藤も口元にそれとない笑みをにじませる。
               こころから笑っているのか、それとも川畑の無神経さを嘲笑っているのか、判別がつかないが、くちびるの端をわずかに持ち上げるという少し崩れた色気を感じさせる笑い方は、四年前にはなかったものだ。
              「乾杯」
               透明で薄いグラスの縁がかちんと綺麗な音をたてて合わさった。

              ***

               同じ年の工藤とは、二十五歳のときに知り合った。場所は四年前と変わらない、行きつけのこの店だ。新宿二丁目の片隅にあるバー・キブラには、同性を愛するという奇妙な性癖を川畑が自認した二十代前半の頃から通っていた。いつ来ても数人の男が客として訪れ、雑然としながらも居心地のいい雰囲気をつくり出している。
               キブラにはただ普通に酒を呑みにやってくる客もいるし、店の耀子ママと他愛ないお喋りを楽しむだけの者もいる。だけど、たいていはなんとなく寂しくて、満たされない欲求をぶつける相手を探しに来る者がほとんどだ。
               川畑はどっちつかずの客だった。学生時代にラグビーをやっていた身体はいまでも硬く引き締まっており、精悍な顔立ちに甘さを併せ持つ顔に生まれついたおかげで、寝る相手に困った覚えがない。大手の証券会社に勤めているというあたりも、周囲からの信頼度を高めている一因だろう。
               ただし、性格は最悪だ。俺ほど冷淡な人間もめったにいないと川畑自身よく思うことがある。性格の悪さというのはもっぱら、個人的なひと付き合いの面だけに出た。仕事の場ではそんなことはない。顧客の資産管理を務めるファイナンシャル・プランナーという職にある以上、笑顔と誠実な対応というのはイコールで結びつけられており、無表情、無口、無愛想であったらサラリーマン稼業が務まるはずがない。
               しかし、個人的につき合った男は皆、川畑がどんなにひとでなしであるかよく知っていた。
               時間を守らない、約束を忘れる、そのうえ平気な顔をしてほかの男と寝る。
               いくらその場かぎりのつき合いになれている男が多くても、ここまで徹底しているのはめずらしいと、いつぞや店の常連客に笑われたことがあったっけ。浅田諒一と名乗るその男はどうかすると工藤に似た芯の硬さを感じさせたが、関係を持てなかったのは彼も川畑同様、タチを好む男だったからだ。
               そういえば、浅田も工藤と同じ、出版社に勤める編集者だった。徹夜仕事の連続で、土日の休日も満足に取れない彼らみたいな人種は、長年不規則な生活を送っているうちに、どこかおかしくなるのだろうか。太陽をまったく浴びない生活は、神経にも悪影響を及ぼすと聞いたことがある。
              「いまでも真っ当じゃない生活してるのか?」
               ジャケットの胸ポケットから取り出した煙草に火を点けながら言うと、低い笑い声が聞こえてくる。
              「変わらないな、川畑は。相変わらず口が悪い。それでよく証券会社に勤めていられるな」
              「外面がいいのが自慢なんだよ。で、どうなんだ。ちょっとは出世したのかよ。まさか二十九にもなってうだつの上がらない編集者のままとか言わねえよな」
              「このあいだデスクに昇格したよ」
               ずけずけ言う川畑に怒るでもなく、工藤のそれは淡々としている。
              「デスクってなんだよ。どういう立場なんだ?」
              「いちばん偉いのが編集長、次が副編集長、デスクはその次だよ」
               子どもに言い聞かせるような丁寧な口調に、川畑はふんと鼻を鳴らす。
              「なんだ、中間管理職ってとこか」
              「うちの雑誌部署は大所帯なんでね。二十九歳でデスクっていうのはこれでもわりと早い出世なんだよ」
              「へえ」
              「川畑は? いまはどうなんだ。仕事はうまくいってるのか?」
              「当たり前だろう」
               ふぅっと煙を細く吐き、川畑は笑った。
              「今年の年収は軽く一千万を超えた」
              「それは凄いな。うまくいってるようで安心したよ」
               穏やかな笑顔で工藤は頷き、銀色の小皿に盛られたナッツをぱりぱりとかじっている。
              「おまえはやり手だったもんな。これからますます忙しくなるんだろうな。もう結婚したのか?」
               なんでもない調子で言われただけに、危うく最後の言葉を聞き落としそうになった。
              「まさか。いまは忙しくてそれどころじゃねえよ。最近、上司から見合いだのなんだの持ち込まれるのがうざくてさ。こっちはそんなつもりねえのに。女も子どもも面倒なだけだろう」
              「でも、いつかは結婚するんだろう」
              「まあ、そのうちはな。うちの仕事はいろいろと体面上に気を遣うんだよ。そのうち、偽装でもなんでも結婚しなきゃいけねえんだろうなあ……。その点、工藤はいいよな。うるさいこと言われるような仕事じゃないんだろ?」
              「個人主義だからね。ちゃんと仕事してりゃ文句を言われることはない」
               グラスの縁をなぞったあと、濡れた指先を軽く口に含む男の横顔は年相応の落ち着きを備えている。
               デスクという、川畑にとってはわけのわからない立場にありながらも、まあそこそこの仕事はこなしているのだろう。前につき合っていたときだったら、さっきのような軽口はただじゃすまされなかった。
               同じ社会人で宮仕えにあっても、証券会社と出版社ではまったく雰囲気が異なる。
               神経質な工藤のほうがよほど、銀行と同じく一円の金にもうるさい証券会社に似合っていると思うのだが、実際には、うさんくさいのと自由なのと紙一重の業界に身を置いている。人間の本質と、その当人が抱く欲望はかならずしも一致するわけではないといういい見本だろう。
               それを言うなら自分だってそうだが、幸いにも川畑は自分のなかにある矛盾というものに頭を痛める悪癖がなかったので、自己嫌悪に陥ることは数少なかった。
              「あれから何人と寝た?」
               振り向いた工藤がぽつりと呟き、「何人?」と川畑も聞き返す。
              「覚えてないな。そんなもんいちいちメモしてるわけじゃないし」
              「おまえはそういう奴だったよなぁ……。よくそれで誰にも刺されないのが不思議だよ」
              「人徳、人徳」
               自分で言っていてもさすがに空々しいなと可笑しくなった。刺されることまではなくても、工藤をはじめ、別れる際に揉めたことは数かぎりない。だけど、工藤はそのなかでもとびきり、もっとも記憶に強く残っている男だ。
              「死んでやるって言われて本気でやられたのはおまえぐらいだよ」
              「そうだろうね。川畑のために死ぬのなんかもったいないっていまじゃそう思うのにな。あのときはどうかしてたんだ」
               思い出し笑いをする工藤は、四年前に睡眠薬を大量に飲み、自殺しかけた過去がある。
               妙に神経質になったり、かと思えばひどく饒舌になったりと、あの頃の工藤はとかく浮き沈みを繰り返していたため、心療内科に通っていた。薬はそこでもらったものをため込んでいたらしい。
               睡眠薬を飲んだからと言って、眠るようにたやすく死ねる幻想は物語のなかだけだ。発見したのは川畑だった。こっちから別れを切り出したその夜、一度は家に帰ったものの嫌な予感がして再度彼の部屋を訪ねたところ、丸く白い錠剤を床にばらまいた工藤を見つけた。幸いにも薬を摂取してからそう時間が経っていなかっただけに症状は軽くすんだが、本人にとって胃洗浄は思いのほか苦しかったらしい。
               自殺未遂の騒ぎを起こしたあと、川畑は一か月近く彼に付き添った。このまま見捨てるのはさすがに鬼畜生だと想ったからだ。しかし、工藤からはひと言の礼も聞かれなかった。
              『死に損なったことさえ恥だ』
               そう言っていた。
              『おまえなんかに付き添ってもらう覚えはない』とまで言われ、川畑も『そうだよな』と頷いたのだが、あのときだけは唯一、自分のなかにある良心が揺り動かされた瞬間だったのだろう。文句を言われながらも毎日見舞いに行き、まったく顔を見せない工藤の家族の代わりに身の回りを世話してやった。工藤の両親は健在のようだったが、自殺未遂で運び込まれたという不甲斐ない場面を見せたくなかったのだろう。『絶対に連絡するな』と言い渡されたので、『わかった』とだけ言った。工藤自身とつき合っていることは了承していたけれど、彼の家族にまで会うつもりは一切なかった。
               言い換えれば、工藤にまつわる過去とか未来とかなんてものに触れる気はしなかった。いつだって川畑の中には、「いま」と「いまつき合っている男」しかなかった。そして、そのときすでに工藤は「過去つき合っていた男」という存在になっていたのだ。
               川畑は自分がろくでもない男だとよくよくわかっていた。そんな自分に自信を持つわけではない。むしろ、この飽きっぽい性格はどうしようもない、手がつけられない、けっして死ぬまで治らない病気みたいなものだと諦めていた。だから、別れるときも素直にそう告げた。
              『工藤が嫌いになったわけじゃない。俺はだめなんだ。誰かひとりとずっとつき合うって考えただけで息が詰まるんだ』
               彼の部屋の玄関先、長い棒を飲んだようにしゃちほこばっていた工藤は、川畑が別れたい旨をつらつら話しているあいだ、ずっと真っ青な顔をしていた。
               彼とつき合った日数を数えてみると、半年にも満たなかったと思う。それでも、自分にしてはよく保ったほうだ。約半年のうち、四か月近くは工藤ひとりに絞っていた。キブラで知り合ったときから、彼の性格の脆さに気づいていたからだ。
               端正な顔立ちをしている工藤に声をかける男は多かった。自分を含め、誰とでも簡単に寝る奴が多いなかで、彼のまとう硬質な雰囲気に惹かれる者は後を絶たなかった。隣り合って座った同士、気さくに喋ったとしても、工藤はなかなか他人行儀な態度を崩さず、キブラの中でもちょっとした存在感を誇っていた。
              『誰かと親しげに喋ってるってとこ、アタシも見たことないのよねえ』
               いつだったか、耀子ママが気遣わしげな顔をして言っていたことがある。
              『うちの店に来てくれるようになってずいぶん経つんだけど……あれだけの顔してんだから、ほかにちゃんとした恋人がいるんじゃないかって話にもなったんだけどね。週に三回もうちに来るところを見ると、どうもそうじゃないらしいのよね』
              『男には興味があるけど、やったことないから怖いってだけじゃねえの』
               川畑がそう言うと、耀子ママはさも可笑しそうに笑っていた。
              『世の中の男みんながみんな、川畑ちゃんみたいに種馬じゃないのよ。やるだけやってハイおしまい、なんて、いつまでもそううまくいかないんだからね』
               さらりと言われた嫌みは、さらりと聞き流すにかぎる。ほんのちょっと体温を分け合い、触れ合って、気持ちよくなって、射精すればどんな関係だって片が付く。川畑はそう信じていたし、いまでもそう思っている。
               気まぐれに工藤とつき合っていたあいだ、彼の神経の細やかさに免じて四か月ほどは彼ひとりを抱いていたが、性格的な欠陥は簡単に直るものではない。五か月目に我慢できず、キブラで知り合った男を抱いたのをきっかけに、自制心はぼろぼろと崩れていった。
               男同士のつき合いでも、ほかの相手にこころを移すことを浮気と言うのだろうか。もしそう言われたとしたら、川畑は失笑していたと思う。
               こころを移した覚えはない。ただ寝ただけだ。誰かを傷つけるつもりはないし、気持ちよくなりたかっただけだ。
               そんな調子でほかの男を抱き、確か四人目あたりで工藤にばれたのだった。その頃にはもう、工藤の思いつめた表情が日に日にこころに負荷をかけていたから、事がこれ以上こじれないうちに「俺たち、別れたほうがいいんじゃないか」と切り出した。
               もちろん、工藤が素直に了承するはずはないと思っていたけれど、まさか自殺未遂を起こすとは思わなかった。
               あのとき彼を助けたことが唯一の良心の働きだというなら、あれだけ動揺したのも生まれて初めてだった。
               もっと簡潔に言えば、工藤が怖いと思ったのだった。たかだか自分と別れるだけだというのに、死にたくなるなんて。そこまで愛されてしあわせだと言える奴は、よほどおめでたい頭をしているとしか言えない。
               他人が生きるも死ぬも、自分の行動ひとつにかかっているとわかったら、誰でも逃げ出したくなるものではないだろうか。
               身体がもとに戻るまでのあいだ、彼のそばにいたときも、ずっとそんなことを考えていた。ここでもし、ずっとおまえについててやると言ってやれたらどんなにいいだろう。悲しませて悪かった、そこまで追いつめてごめんなと言えれば、万事めでたしめでたし。キブラでも話題もちきりになり、窮地を乗り越えたふたりとして語り継がれたかもしれない。
               だけど、やっぱり現実はそんな甘いものではない。しあわせな終わりを迎えたふたりはつかの間どこか誰かの寂しい胸を慰める物語になるけれど、すぐに忘れられる。思わず目をそむけたくなるような局面を経ている者たちほど、周囲は好奇の目をかがやかせ、最後はどうなるかと興味津々に食らいつく。
              『あいつらどうなったんだよ』
              『別れるとか別れないとか、まだごちゃごちゃやってんじゃねえの?』
               これが自分の身に起こっているのじゃなかったら、川畑も話題に乗っていたことだろう。笑い混じりにふたりの行く末を勝手に予想し、案じるふりをして良識派の仮面をかぶってみたり、はたまた毒舌とともに嘲笑してみたり。
               酒の席には欠かせない、他愛ない噂話のひとつとして口をすべらせたとたん、誰も彼もが、自分がいちばんこの件についてよく知っているのだという顔で勝手なことを言いふらす。
               川畑もよくそんな話で楽しんだ。そんなとき、まさか自分がいつか槍玉にあげられるかもしれないなんて想像するはずがない。これは罪のない噂話だ。実際には、自分にはなにひとつ関係のない話だ。知った顔で一席ぶつのは誰だって日常的にやることで、咎められることではない。真剣な顔をしていても本音はそうじゃなく、単なる場つなぎとしての話題。口裏を合わせるだけで明日になったら忘れてしまう、そんな軽さで話し合う。
               だが、いざ話題の中心人物になってしまったら、そんなことはもう言えなくなる。
               他人の恋について好き放題言っていた頃、当人たちもこの噂を耳にしないことはないだろうと不思議に思っていたことがあった。
               勝手なことを言うな、それは事実と違うと、どうして言わないのだろう。でたらめが事実として吹聴されることに、なぜ怒らないのか。そんなふうに考えていたことがある。
               しかし、いまの川畑はあの頃よりも年を重ね、経験も積んでいる。というわけで、抜き差しならない事態に足を踏み込んだとき、口を閉ざすのが賢いのだとわかっていた。
               ほんとうの意味での窮地に立たされた者は、怯えることしかできないのだ。噂話に興じる者など放っておけばいい。いまおまえたちが嬉々として口にしていることはすべてでたらめだ、といちいち指摘してまわる暇はない。ほんとうに恐れなければいけないのは泡のように不確かな存在である彼らではなく、ある日いきなり突拍子もない形で人生に食い込んでくる工藤のような男だ。
              「工藤のほうはどうなんだ。いま誰かとつき合ってるのか?」
               彼が隣に座ってから五本目の煙草を深く吸い込んだ。いつものペースから考えると相当に早いという点では、自分もそれなりに緊張しているのだと認めなければならなかった。
               工藤が退院したあとも彼の部屋に通い、見舞いで持っていった花束を投げつけられて以後、一度も――この店でも顔を合わせなかった男が、今日来てみたら普通の顔をしてスツールに座っていたのだ。驚くのも無理はなかった。
               川畑のほうは以前と変わりなく、ずっとキブラに通っていた。工藤とのあいだのことは常連客にすでに知れ渡っていて、耀子ママでさえ渋面をつくっていた。
               よくある別れ話に逆上した挙げ句、自殺未遂を起こした工藤に皆、恐れをなしただろうけれど、やはりこの場合、責められるべきは川畑であって、しばらくは誰も話しかけてこなかった。
               そこでもまた、川畑は自分の破綻した性格に向き合うことになった。
               工藤のことは確かに予想外の出来事だったが、だからといってキブラに出入りしてはいけないと言われたのではない。あるとき耀子ママにはっきりとそう言ったら、なんとも言えない顔を向けられたっけ。
               ゆるく流れる煙に顔をしかめ、工藤が「……いたり、いなかったり」と呟く。
               つき合う男がいたり、いなかったり。
               そんなふうに言い表す彼の私生活は、どうなっているのだろう。川畑がよく知っていた頃の彼はいまよりもっと硬度なバリアを張り巡らせていたものだ。なにを話すにしても、寝るときでも、こっちのやることなすことをいちいち確かめるような目つきをしていた。
               いまはそのバリアが薄く透けた膜に取って変わったように見える。指先でつつけばぷつんと穴が空き、なんとも言えない艶やかな感情があふれ出しそうな錯覚にとらわれる。
               しかし、その艶は以前にも増して不健康なものだ。エロティックではあるものの、崩れている。
               そんなところにまたも惹かれたといったら、呆れられるだろうか。
              「なあ」
               深く考える前に、川畑は火を点けたばかりの煙草を灰皿に押しつけていた。彼の吐息が感じ取れるほどに顔を近づけ、囁いた。
              「俺とこのあと――」
              「そのつもりだった」
               やんわりと言葉を遮った工藤が微笑む。
              「今日、この店でおまえが隣に腰掛けたときからそのつもりだったよ」
               くどくのにもう少し手こずるかと思っていたから川畑は拍子抜けしてしまい、「……いいのか?」と呟いた。
              「おまえ……」
               四年前のこと。忘れたわけじゃないだろう。あれはもういいのか? もう終わったこととして片づけていいのか?
              「リストカットして傷が残ったわけじゃない。おまえはどうも俺のことを勘違いしているようだから言っておくけど、そんなに繊細にできてるわけじゃないよ。二十九にもなって古傷に泣いてる男なんているはずないだろう」
               肩をすくめて笑う工藤が目くばせしてきたので、「そうだな」と川畑もほっとして笑い返した。
               だが、胃の底に正体のわからないしこりがある。
               どうして今日、ここで会ったのだろう。

               内にこもりやすい性質をのぞけば、工藤は理想的な男だ。それは当時もいまも変わらない。
               今夜の彼の肌は四年ぶりとは思えないほどのなめらかさでなじみ、川畑の強引な要求にもほぼ完璧に応えた。
               均整の取れた身体もあまり変わっておらず、うしろから抱え込んだときに背中に走る深い溝もくっきりしていた。
               ただ、ちょっと変わったなと川畑をおもしろがらせたのは、みずから進んで奉仕する点だ。前は、嫌がる彼を何度もあやさなければ望みどおりのことをしてくれなかったのに、今夜は彼のほうからのしかかってきた。
               苦しげに川畑のそこを咥える昔の工藤も禁欲的でよかったけれど、別れていたあいだになにかを吹っ切ったらしい。熱っぽい息を混じらせて、物欲しげな顔で指を添えてくる男の髪をきつく掴み、川畑は猥雑な舌遣いをこころゆくまで愉しんだ。
               工藤の舌はくねり、ねっとりと這い回る。まるで男のそれをしゃぶるのが好きでたまらないというようなあられもない仕草に興奮させられた。
              「どこでそんなの覚えてきたんだよ」
               馬乗りになった工藤は、先端の割れ目からあふれる先走りを舐め取るのに夢中になっていて答えない。
               キブラを出たあと、これまたよく行くホテルに直行しようとしたが、工藤が「俺の部屋に来ないか」と言ってきたので、そうした。
               タクシーに乗ってわりとすぐの場所にある彼のマンションは別れたときと同じで、室内もたいして変わった様子はなかった。
               川畑が住んでいる部屋と似たような、2DK。そこに工藤はいまもひとりで住んでいるらしい。寝室のカーテンは深い緑で、深夜のいま、きちんと閉じられている。ベッドの片隅には朝脱いだままの形でパジャマが置かれていた。さっき、それを川畑が足の爪先で蹴り落とした。
               いやらしく音をたててしゃぶる工藤の目元が赤いのも、カーテンが緑だとわかるのも、ベッドの脇に置いたフロアライトがほんのり点いているからだ。この点も、前とは違う。以前は、室内が少しでも明るいと嫌だと言っていた。
               ――恥ずかしい。見られたくないから嫌だ。
               拒否されればされるほど、無理をきかせたくなるのだとあの頃の工藤はわかっていたのだろうか。だとしたら、ずいぶんなやり手だったと笑うしかないが、本心から言っていたことは川畑も知っている。
              『おまえの嫌がる顔にそそられるんだよ』
               一度はっきりそう言ってやったら、工藤はほんの一瞬、泣き出しそうな顔をしていた。彼がかならず泣くとわかっていて四つん這いにさせ、奥深くまで犯してやるのも好きだった。工藤はその体位が好きなくせに、いつもいつも抵抗していた。きつく締め付けるところを意地悪く、甘く抉り、どうにもならなくなる頃までゆっくり揺すってやると、最後にはきまって彼のほうが耐えきれずにねだってきた。
               本気で無理強いをしたという覚えはない。いわゆる強姦罪というのが男同士にも適用されるとしても、工藤とのあいだに起こったことはすべて合意の上だ。互いにわかっていて、焦らし焦らされる。それが楽しいからやっているだけだ。
              「川畑……」
               せっぱ詰まった声に瞼を開けると、工藤が口元を拭いながら身体の位置をずらしている。川畑のそこを掴み、自分から受け入れようとしている姿は初めて見るものだった。
               いまどきこんなものはめずらしくない、ありふれた光景だとしても、以前の工藤を覚えている身としてはやはり驚きを感じずにはいられなかった。
               四年前の彼は、とてもこんなことをできるような度胸も欲望も持ち合わせていなかったのだ。川畑のすることにかならず怯み、狭いベッドで逃げまどう素振りさえ見せていた。
              「自分でできるのかよ」
               ちょっとだけ腰を浮かし、猛々しくそそり立ったそれで工藤のそこをつつくと、「――あ」と息を呑む気配に続き、ぐらりと身体が揺れる。
              「……無理するなよ」
               腰を支えて位置を変えようとしたが、止められた。
               汗ばんだ胸を反らし、少しずつ、少しずつ受け入れていく工藤の顔が苦痛で歪んだのは一瞬だ。屹立したものを中ほどまで受け入れたところで動きを止め、かすかに息を漏らて視線をまっすぐ合わせてきたのをきっかけに、頬がさっと染まった。
               川畑が掴んでいる腰も淫らに揺れ始める。肌という肌に継ぎ目がないのは当たり前、だけどまたたく間にこんなにも熱くなるなんて、なんだか魔法にかけられたような気分だ。
              「っ……あ、ぁあ……っあ、っ……」
               のけぞる工藤の喘ぎ声を聞いているだけで、じっとしていられなくなった。
               この男は、自分と離れていたあいだに、どこでなにをしていたのだろう。しなやかな身体をばねのように反り返らせるところを、ほかの男にも見せてやったのだろうか。そうすれば男はもっと感じるのだと教わったのか。乱暴にすればとろけてしまうような場所で締め付けることを、ほかの男にもしてやったのだろうか。
               火照る肌をまさぐり、硬くしこる乳首を思いきりねじったときも、彼は掠れた声で応えた。勃起したそこを扱いてやったときも、わずかに開いたくちびるから熱っぽい吐息を漏らした。
               こんなにも熱くなるなんて。こんなにも感じるなんて。
               四年前の彼が不感症だったとはけっして言わないけれど、見事に騙されたという感触が拭えない。
               それでもいい。諦め悪く抵抗する彼にもそそられたけれど、一線を飛び越えたようないまの工藤の目つきはもっといい。
               川畑の胸を突っぱね、腰を揺らす男は新鮮に見える。ときどき思い出したように汗のにじむ額に触れる髪をかき上げる仕草も、川畑が突き上げてやるとくちびるをきつく噛むのも、次の瞬間にはもっと深く求めてくるところも、なにもかもが前とは違う。
               彼の目のなかに、色とりどりの光の欠片が浮かんでは消える。フロアライトが反射し、色素の薄い工藤の虹彩をよけいにあざやかなものに変えていた。
               虹は彼のなかでかがやき、ほとばしり、跳ね飛ぶ。狂的な光はきらきらしていて、とても綺麗だ。
               光の欠片が川畑の意識にも刷り込まれるようだった。

               工藤とまたつき合うことになったことを最初に知って驚いたのは、当然といえば当然か、バー・キブラの耀子ママだった。
              「ホントなの、その話」
               疑わしげに訊きながらも、ママは手にした薄い布でグラスを拭い続ける。
              「ホントもホント。再会してもう一か月になるかな」
              「焼けぼっくいに火がつくってのはよく聞くけど、アンタたちの場合はねえ……。工藤くんの前のことを思うと、素直に喜べないわよ」
              「どうして?」
               眉尻を下げて笑うと親しみやすさがにじみ出て、とても魅力的に映ることを川畑は自分でよくわかっていた。
              「そりゃまあ、前はいろいろあったけどさ。いまはいまだろ。あいつもとくにつき合ってる奴はいなそうだし、べつにいいんじゃねえの」
              「アンタは相変わらずね。その歪んだ性格、どうにかなんないの」
               店のママという立場にあるなら、たとえ客の事情を聞いても嫌悪感を示すことはタブーだろうに、いまの耀子ママはそれこそ掛け値なし、むっとした顔だった。
              「アンタとも長いつき合いだし、いまさらどうこう言うつもりじゃないけど。工藤くんがどんな子かは嫌ってほどわかってるんでしょう」
              「ああ、知ってるよ。俺が別れるって言ったら、死にそうになった」
              「だったらどうしてまた手を出すの!」
               耀子ママが磨いていたグラスをガンとカウンターに叩きつける。
               平日の夜八時、キブラに来ているのは偶然にも自分だけだった。これでほかの客がいたら、いいからかいの種になっていただろう。
              「四年も経てば人間変わるだろう。あいつも変わったんだよ」
              「アンタはちっとも変わってないじゃない」
              「俺は変わる必要性はないよ。工藤はちょっとばかり神経が細すぎたんだ。いまじゃ俺とのつき合いも楽しんでるみたいだしさ、文句ねえだろうが」
               呆れた、とため息を漏らすなり、耀子ママはふきんをぽいと放り出し、そばにいたボーイを呼びつけ、「アンタが相手しなさい。アタシはこの子の顔を見てるだけで頭きちゃうの」と言い捨てた。
               それでもなお、控え室に姿を消す寸前、耀子ママは険しい顔を向けてきた。
              「今度もし工藤くんになにかあったら、アンタ、この店出入り禁止だからね」
              「なにもないって。心配しすぎだよ」
              「……だったらいいけどさ……、一度ぐらい、あの子をしあわせにしてやんなさいよ」
               ごつい顔を曇らせたまま控え室に引っ込んだママの代わりに、ボーイのヒロシがあやふやな笑顔でカウンター内に立つ。彼も四年前の騒ぎを知っているひとりだ。
              「今日はおひとりなんですか」
              「いや、もう少ししたら周一が来ることになってるんだ」
               くわえた煙草に火を点けてもらい、川畑は「サンキュ」と言い足した。
               今日は校了明けだから、早めにあがれると言っていた。
               周一、と前のように呼ぶようになったのは、再会した晩からだ。彼がそう呼べと言ったのだ。
               川畑の肩を強く掴んで貪欲に求める最中、何度も耳元で言っていた。
              『俺の名前を呼べよ。覚えてるだろう』と。
               そう言われたから呼んでるに過ぎないが、こころのどこかにはあの日以来、ねじくれた快感が巣くっている。透明な糸は日に日に幾重にも川畑のこころに絡みつき、ある種倒錯した楽しさを味わわせてくれた。
               工藤、もとい周一は芯の強い男だが、その反面、脆すぎるところがあったために、全体のバランスが取れていなかった。だから、川畑と別れるときもあれだけの騒ぎを起こしたのだ。一見、冷静に見えても、ひどく動揺させられることがあるとそのことだけに囚われてしまう。よく言えば一途な性格なのだろうが、それも度を越せば鬱陶しい。
               久しぶりに会った彼のバランスは、ますますおかしなことになっていた。男同士ならば力も拮抗しているし、感じるところも分かり合える。とくにうしろめたい理由がないかぎり、どちらかが一方的に弱い立場に追いやられることがない。
               その点、以前の周一は、どんなことにおいても受け身に回るタイプだった。臆病で、胸の奥に多くの望みを抱えていてもたやすく口にすることができない。川畑のような男とつき合えば、間違いなく振り回される側だった。
               だが、いまの彼には臆病なところなど微塵も感じられない。代わりに、奇妙な自信が備わっているようだ。その根拠は四年離れていた川畑にはわからないもので、なにが前とどう違うのか明確に言い表すことはできなかったけれども、なめらかな視線や仕草が以前の彼とは違うことを物語っていた。
               川畑に抱かれながらも、実際のリードは周一が握っている。どんな手順で始めるかも、いついかせてもらえるかも、周一が全部決めていた。
               さまざまなやり方で川畑を感じさせる男は甘く喘ぎながら、「名前を呼べよ」と囁く。「もっとこんなふうに――」と淫猥な目つきで誘い込んでくる。「もっと」に続く行為は、男に慣れた川畑でも目を丸くすることが多かった。
               彼を抑制していたのは、たった一本のねじだったのだろうか。それがなにかの拍子に吹っ飛んでしまい、硬い鋼のうろこがばらばらと剥がれ落ちたから、あんなにもなめらかで凄絶な本性が剥き出しになったのだろうか。
               一昨日は映画館でやった。映画が始まって十分もしないうちに舌なめずりする周一が手を伸ばしてきたので、どんな内容だったかさっぱり覚えていない。
               彼の目に浮かぶとめどない欲望を見ると、こっちも抑えがきかなくなってしまう。男同士がそういう目的で使う専門の映画館ならいざ知らず、一昨日は普通のひとびとが足を運ぶところだ。割合空いていたから、川畑の隣も周一の反対側もひとがいなかったけれど、ぬめった淫らな音に気づくひとがいないとも言えない。
               コートに隠れさせて川畑のものを愛撫する手つきに負け、「おまえもしてほしいか」と訊いた。すると周一は内緒話をするようにくちびるを近づけ、「触りたいんだろう。おまえのここ……凄いじゃないか。ちょっと触っただけでぬるぬるになってる」と笑っていた。
               こんな言い方をする彼も、初めて見た。誰がなにをどう言うか、他人のことはどうでもいい。問題は、周一だ。周一が場所もわきまえずに不埒なことをしでかし、口にするというのがいまもって川畑には信じられない。それでいて、快感のためにかすかにひび割れた声を聞くとどうにもたまらなくなるのだ。
               一昨日は映画館、その前は公園、そしてその前は――思い返せばこの一か月、あまり間を置かずに周一を抱いている気がする。この新鮮味がいつまで続くか、当事者である自分ではなく正真正銘神のみぞ知るというところだが、いまのところ彼以外に興味を惹く者はいなかった。
               離れていたあいだ、彼になにがあったのだろう。前は真っ暗な寝室でしかやらせてくれなかったのに、いまじゃいつでもどこでも彼が「したい」とひと言呟けば、そこが押し殺した喘ぎを漏らす場所になる。
               いったいどこの誰と、どんなことをしてきたのだろう。
               それを考えると、いつだって胸騒ぎがする。どことなく落ち着かない、不安定な感じがする。
               よく知っていた男がまったく知らない男になって戻ってきたというのは、川畑の興味を惹きつけてやまなかった。
               もしかしたら、無理しているんじゃないか。虚勢を張っているんじゃないかと最初は疑いもしたが、一か月も経ったいまとなっては、周一の振る舞いはごく自然なものであると川畑も認めていた。
               いくつもの夜に繰り返された不埒な指先の余韻に浸っていると、キブラの重い扉の開く気配がする。目を転じると、彼だ。外ではいつの間にか雨が降り出したらしい。きらきらしたしずくを散らせた髪を軽く振り、周一は隣に腰掛けてくるなり、カウンターに投げ出していた川畑の手を掴む。
              「出よう」
               飲み物を一杯注文するでもない周一と、ちょっととまどっているボーイのヒロシを交互に見やり、川畑はスツールから降り立った。こういう周一はいまに始まったことじゃない。目が合った瞬間に胸をかき乱すような声でねだる男を前にして、おとなしく酒を呑んでいられるほど川畑は老成していないのだ。

              「この部屋、広いよな。家賃いくらだっけ」
              「十三万ちょっとかな」
               いつものようにタクシーで周一のマンションに行き、すぐにも始めるのかと思っていたが、今夜はちょっと順序が違うらしい。綺麗に片づいたリビングに川畑を通したあと、周一は対面式のキッチンで料理をつくり始めた。
              「腹が減ってるんだ。今日は忙しくてろくに食べる暇がなくて」
              「構わないよ」
               ジャケットを脱いだ川畑はソファに深々と腰掛け、ぐうっと足を伸ばす。
               二月の夜、ワイシャツ一枚でも室内は暖かい。さっき、タクシーで帰ってくるあいだ、雨はみぞれに変わる兆しを見せていた。薄暗い道を寂しげに照らす電灯に、湿ったしずくが慎ましやかなかがやきを放っていたことをなんとなく思い出しながら、「それにしてもおまえ、料理できたのか」と返すと、慣れた手つきでほうれん草を刻んでいた周一が軽く眉をはね上げる。
              「長いことひとりで暮らしてれば、料理のひとつやふたつ覚えるだろう」
              「そうかな。俺は面倒くさくてやらないよ。疲れて帰ってきて、さらに疲れることなんか。だいたい、ひとりで食べるのもつまらないしさ」
              「……前におまえにも何度かつくったんだけど。覚えてないか?」
              「全然」
               ちっとも覚えていなかった。川畑にとって食べることはあまり大切じゃない。最悪にまずくなければ構わないという程度で、おいしかったものに対する記憶も不確かだ。周一に言われてみれば、何度か彼の手料理を食べた気もするけれど、どんなメニューだったか、どんな味だったか思い出せなかった。そして、そのことを正直に告げるのに、いささかのためらいも感じなかった。
              「そうか」
               フライパンに油をひいている周一は気のない返事だ。すぐににぎやかな音が聞こえてきた。
              「なにつくってるんだ?」
               興味を覚えて、川畑はカウンター越しにキッチンをのぞいた。
              「たまごとほうれん草の炒飯。おまえも食べるか?」
              「食べる食べる。ああ、いい匂いだなあ」
               くんくんと犬のように鼻を鳴らす姿に、周一が可笑しそうに笑う。
               できたての炒飯はとてもおいしかった。炒ったたまごが可愛い菜の花のようで、ほうれん草はあざやかな緑のままだ。さくさくした味わいも楽しい。
               綺麗に平らげたあと煙草に火を点けると、周一が皿を片づけ、灰皿を出してくれた。
               そういえば彼は煙草を吸わないのだっけ。この部屋に何度も足を運んでいた四年前も、いつもこうして川畑のためにガラス製の灰皿を置いてくれていた。
              「悪いな」
               周一は微笑んだだけでなにも言わず、渦を巻く煙を追っている。
              「相変わらず綺麗に住んでるんだな」
              「片づいてないと落ち着かないんだよ」
               床に置いたクッションに座り、周一はビールをグラスにそそいでいる。グラスには指紋ひとつついていない。きっと、普通に洗うだけじゃ気がすまず、キブラで使うような特製の布を使って磨いているのだろう。
              「おまえぐらいきれい好きだったら、キブラの耀子ママも喜ぶんじゃねえの? ほら、いま出版業界ってヤバイっていうじゃん。万が一リストラされたら、キブラで雇ってくれるよ」
              「俺にボーイが務まるとは思えないけどね。愛想がないし」
              「そりゃ言えてる。もったいないよなあ、いい顔してんのによ」
               ビールを呑み、煙草を吸い、川畑はとりとめなく喋り続けた。煙草の灰がスラックスにぱらぱらと散り、それを無造作に手で払う。テレビをつけず、音楽も流していないから、室内は静かだ。
              「料理も旨いし、部屋も綺麗。おまえみたいなのと一緒に暮らしたら楽だろうな」
               こういうことがつらっと言えるのも、川畑ならではだった。
               良心が揺り動かされたのは、かたわらで強張った顔を見せている男が死にそうになったあのときだけ。彼が受けた傷の深さも、実際の痛みも、川畑にとってはあくまでも他人事だ。
               煙草の煙がふっと揺れる。周一が立ち上がり、隣に腰掛けてくる。
              「……川畑さえよければ、一緒に暮らさないか? いまのところ俺は決まった相手がいないんだ」
              「え?」
               聞き返した瞬間、周一がにこりと笑う。常日頃の頑なさも嘘のように思える完璧な微笑みに思わず見とれ、最初に彼に声をかけたときのことを思い出した。
               四年前、キブラの片隅でひとり呑んでいた周一に耀子ママがなにごとか話しかけていたのを見たのが、最初だ。ママの言葉に、声をたてずに微笑んだ男を三つ離れた席から見ていた川畑は、彼のくちびるの動きに目を奪われて声をかけたのだった。
               周一が声をたてて笑うことはまれだった。内気な性格らしく、川畑とつき合っていたあいだも、なにか可笑しいことがあったところで静かに微笑むことがほとんどだった。
               ちょっとのあいだ黙ったのを勘違いしたらしい。周一が目にかかる髪をかきあげ、「前のことは忘れてほしいんだ。……ああいうのは、もうしないから」と言う。
               ああいうの、がなにを指しているか、すぐにわかった。死に損なったことだろう。これに対する当てこすりを言うのはさすがに大人げないと思ったので黙っていたが、同居の件についてはどうすべきか。彼のように気の利く男と暮らすのは確かに便利だろうけれど、それはそれでいろいろと問題が出てくるはずだ
               さしあたっては、この四年のあいだに自分がまったく変わっていないということが問題だ。キブラの耀子ママにもそう言ったことは決して自己卑下でもなんでもなく、れっきとした事実を述べたまで。
               ここでもし、「やっぱりおまえが好きなんだよ」とか、「俺は川畑がいなきゃだめなんだ」という言葉が周一の口から出たら、同居の話はなかったことにするつもりだった。
               四年前も、周一は暖かなオレンジ色の灯りがついた玄関先で、小説か映画のなかでしか見られない言葉をいくつも言っていた。
              『俺を捨てないでくれ』
              『川畑がいなかったら生きていけない』
              『おまえと別れたらこの先、どうしていけばいいかわからない』
              『どこにも行かないでくれ。俺から逃げないで』
               顔色は真っ青だったが、泣いていなかったと思う。
               一緒に暮らせば、またもあの凍り付いた顔を拝むことになるのかもしれない。
              「川畑?」
               首を傾げてのぞき込んでくる周一が、くちびるを色っぽくつり上げる。目元も頬のラインも鋭いのに、そこだけがやけに扇情的だ。
              「俺はあの頃と違うよ。そのことはもうわかってるんだろう?」
               鼓膜に忍び込んでくる囁き声に、どうして抗えるのだろう。あのときだって、こんな声で囁いてくれたら別れなかったかもしれない。
               このあいだ、七色が見えた周一の目に今夜は薄い青が浮かんでいた。リビングにかかっているカーテンの濃い青を映す目は、まばたきするたびに深みを増していく。
               頭で考えるのではなく、こころに従え。周一自身が、あの頃と違うと言うなら、そうなのだろう。
               二十九年間ずっとそうしてきた川畑は結局のところ、物事を新しい局面に進ませるときに判断を下すのは冷静な理性ではなく、勢いのある衝動だと知っている。だから、この先どうなるかなんてことも想像せずに頷いた。
              「わかったよ。一緒に暮らそう」

              ***

              「工藤さんとまたつき合ってるってほんとか? 一緒に暮らしてるらしいって聞いたけど」
               キブラで久しぶりに顔を合わせた浅田諒一がグラス片手に話しかけてきたので、川畑も笑顔で「ああ、よく知ってるな」と返事した。周一は今夜、仕事で遅くなると聞いている。家でひとり食事をとるのもいやだし、仕事が終わったあと、近くの店で夕食を食べ、キブラに寄ったのだった。
              「もう店中の噂になってるよ」
              「へえ。暇人が多いんだな」
               川畑の口の悪さにもめげず、浅田はちょっと肩をすくめて笑っている。
              「よく了承したよな。あんなことがあったのに」
              「まったくな。周一もよく俺みたいなひとでなしを選んだもんだよ」
              「違うよ、俺が言ってるのはあんたのこと」
               理知的なメタルフレームの眼鏡を押し上げながら、浅田はひとつため息をつく。
              「工藤さんがどんな男か、あんた知ってるんだろう。それでよくもう一度つき合う気になったよな」
              「どんな男かって、そりゃまあ、いまどきめずらしいぐらいに思いつめるタイプだよな。別れるって言ったぐらいで死にかけるんだから」
              「怖いとか思わねえの」
              「べつに。今度は一緒に暮らしてるんだし、あいつもバカな真似はやらないだろ」
               周一との同居が始まって、すでに二週間が経っていた。彼のマンションに川畑が押しかけた形だが、もともと住んでいたマンションは解約せずにいる。「荷物をいっぺんに運ぶのが大変だろう」と言ったのは、周一のほうだ。
              「……俺は工藤さんとつき合ったわけじゃないから、詳しいところまでは知らないけどね」
               くわえ煙草の浅田は目を細めている。
              「四年前の――自殺未遂は、あのひとにとって初めてのことじゃない。それは知ってたか」
               思いがけない言葉に川畑は目を丸くし、首を振った。
              「だろうね。じつはあのひと、あんたよりもずっと前からこの店に来てるんだ。俺もよく見かけたし、実際に誘われたこともある」
              「おまえが? あいつに?」
              「そう。有名だよ、工藤さんは男を喰うってんでね。あのひとはあんたの前にも二度、自殺未遂を起こしてるんだよ」
               これにはさすがに驚いた。周一が誰かを誘うような度胸を持っているなんて。川畑の知っている彼というのは無口で、塞いだ顔ばかりしている。でもそれだって思い出に過ぎず、いまは自分と一緒に暮らしていることで落ち着いているようだ。
              「陰口をたたくみたいで気が進まないけど、あのひとはちょっとまずい相手だぜ。だから、あんたたちが別れたって聞いたときはほっとしたぐらいだよ」
              「いまは違うだろう。変わったんじゃねえのか」
              「そんなに簡単に変わるもんかな」
               思案顔の浅田にふと思いついて、「そのときの相手は」と聞いてみた。
              「周一がつき合ってた相手は、いまどうしてるんだ?」
              「知らないな」
               浅田はすっと目をそらす。その不自然な仕草に、「嘘言うなよ」と声を荒らげた。少し離れたところで、耀子ママが心配そうな顔でこちらを見ているが、構うものか。
              「悪いことは言わない。いますぐ工藤さんとは別れたほうがいい」
              「どうして。そこまで言うなら、理由を教えろよ」
              「聞かないほうがいいって」
              「キブラのみんなは知ってるのか? 耀子ママも? ボーイも? 客も全員、周一がどんな男かって知ってるのか? それでいま一緒に暮らしてる俺だけが知らないのか? そんな変な話、あるかよ」
               周一がどう言われているのか、ほんとうはどんな男なのか。知らないから怖いのではない。自分の知らないことだから知りたいだけだった。
              「言うまで帰らねえぞ」
               念を押すと、浅田が諦めたようにため息をついた。自分からこの話を切り出したことを後悔しているような面持ちだ。
              「彼がつき合ってた男は、もう……」
               語尾を曖昧にして口を閉ざした男を、川畑は胡乱そうに見つめるだけだった。

              ***

               浅田の不穏な言葉をどう受け取るか、しばし迷ったものの、川畑は結局、いちばん最良だと思われる方法をとった。
               聞かなかったことにする。それでいい。いまのところ周一とはうまくいっているのだし、よけいなことで亀裂を生じさせたくない。
               昔は昔、いまはいま、ときっぱり割り切れる性格だからこそ、周一ともまたつき合うことができたのだ。
               過去の周一になにがあったのか、知りたくないわけではないけれど、どうしても突き止めたいというのでもない。
               いまの彼は、自分と一緒にいることでしあわせそうだ。こっちはこっちで、欠けていたこころの一部を補ってもらえたようで、落ち着く。どこにも問題はない。
               その夜、周一は午前二時を回った頃にようやく帰ってきた。彼はちっちゃなミニ・クーパーを持っていて、あらかじめ帰りが遅くなるとわかっているときは車で会社に向かう。今夜もそうだったのだろう。金属の鍵が擦れる音がベッドの近くで聞こえた。
               先にベッドに入っていた川畑は、冷たい爪先がそっと寄りそってきたことで目を覚まし、無造作に彼を抱き寄せた。
               周一の身体はいつも冷たい。熱くなるのはほんの一瞬で、抱いているあいだだけ。湿った髪から香るシャンプーの匂いは、自分と同じものだ。
              『あのひとはあんたの前にも二度、自殺未遂を起こしてるんだよ』
              『彼がつき合ってた男は、もう……』
               ぼやける意識に、浅田の言葉が煙のようにふっと浮かんで消える。
               そのあとに続く言葉はなんだったのだろう。
               周一が寝返りを打ち、パジャマの襟にしがみついてくる。
              「……起きてるか?」
              「うん……」
               寝ぼけた声で答え、川畑は瞼をこする。いまみたいな掠れた声を聞いたら、寝かせてもらえないのはここ二週間で承知ずみだ。
               襟を掴んでいた指が胸元を這い、そろそろと下半身に下りていく。彼はこんなにセックスが好きだっただろうか。なにをするにも怖じけていた頃とは大違いだ。
               笑い出しえたい気分を抑え、川畑はしだいに熱くなっていく身体を強く抱き締めた。

              ***

               前につき合ったときは四か月保った。それじゃ今回はどうなのだろうと、解けないクイズをひねくり回すような日々は、同居二か月を過ぎたあたりであっさり終わった。
               周一の仕事が忙しいことを理由に、性懲りもなくキブラに通っていた川畑は、たまたまその晩店に来ていた新顔と気が合い、目くばせひとつでホテルに向かった。
               名前も覚えていない男と忙しなく抱き合ったあと、周一のところとは違うシャンプーを使って髪を洗い、マンションに帰ったのは午前一時過ぎだった。
               自分のマンションと、周一の部屋。両方の鍵がついたキーリングをコートのポケットから取り出し、扉の鍵穴に差し込んだところで首をひねった。
               鍵が開いている。周一が先に帰ってきていたのだろうか。
               さして深くも考えずに扉を開き、「ただい――」と言いかけたところで、川畑はぎくりとして立ちすくんだ。
              「どこに行ってた?」
               灯りも点けずに、真っ暗な玄関に周一が立っている。川畑の背後、廊下から差し込む灯りで、彼がコートを着たままだとわかった。
              「周一? おまえ、帰ってたのか」
              「どこに行ってたんだ」
              「どこって……」
              「ほかの男と寝たのか」
              「なんでわかるんだよ」
               隠すこともせず、言いつくろうこともしない川畑に、周一はしばらく黙り込んでいた。だが、見ているあいだにも無表情だったのがゆるゆる崩れ、くっと肩を揺らしたのをきっかけに大声で笑い出した。
               その笑い声はしだいに大きくなり、壁に、天井に跳ね返り、川畑をぎょっとさせるのに十分だった。可笑しくてたまらないといった笑い声は、砲弾がばらばらとあたりに散っていくのにも似ていた。
              「――おまえは変わらないな、川畑。前は四か月保ったのに、今度はたった二か月か。おまえの下半身のモラルってやつはどうなってるんだよ。最悪だ」
              「しょうがねえだろう。俺は前にも言ったとおり……」
              「そう、ひとりに絞ることができない性格だったよな。それはわかってる」
               よくわかってるよ、と繰り返す周一がまっすぐ見つめてくる。
              「……ずっと考えてた。おまえみたいに、罪の意識を欠片も感じずにいられたらどんなにいいだろうって。俺はおまえになりたかったよ、川畑。誰にも頼らずに、その場かぎりの快感を追えたら楽だろうな」
              「周一」
              「たぶん今回もおまえがこうなることは予想してたよ。どうせいつかはみんな俺に飽きる。また離れていく。いつもその繰り返しだ」
               いま耳にした言葉が引っかかって、川畑は「みんな?」と眉をひそめた。どこからか、鼻を刺すツンとした匂いが漂ってくるが、いま気にかけなければいけないのは、笑いながらも尖った犬歯をのぞかせている男のことだ。
              「おまえが初めてじゃない。おまえの前に二回ある」
               周一の声は感情を欠いており、棒読みもいいところだ。
               浅田から話を聞いていなかったら、周一がなにを言っているのか、まるきりわからなかっただろう。でも、知っている。彼が言いたいことを川畑は知っている。
               ――俺の前にも二回。おまえは死にかけたんだ。
              「どうしてなんだ。どうして俺はおまえみたいな馬鹿ばかり好きになる? ろくでもない男ばかり好きになるんだ?」
               みるみるうちに周一の目に透明な涙が盛り上がり、頬にこぼれ落ちていった。
              「……俺の前につき合ってた男ってどんな奴なんだ」
              「おまえとそっくりだよ。自分のことしか頭にない、俺のことなんかちっとも考えてくれない、すぐに浮気して平気な顔してる奴ばっかりだ」
              「どうしてそういう奴を選ぶんだよ」
              「さあな。自分と違うからだろう」
               鼻をすすり、乱暴に瞼をこする男がぐらりと身体をふらつかせ、壁にもたれる。その拍子に、彼の足下でゴツンとなにかが倒れる音がした。
               川畑がうしろ手にゆっくり扉を閉めかけようとすると、「早く閉めろ」と周一が鋭く言った。それから二度、三度荒く息を吸って吐き、言葉を続けた。
              「……おまえが変わってくれるかもしれないなんて、期待したわけじゃない。俺ひとりを愛してくれるなんて夢見たわけじゃない。だから、俺のほうで変わることにしたんだ」
              「どんなふうに」
              「もう少し前向きになろうかって、思ってさ」
               彼とまともにつき合ったのは四か月と今回の二か月、合計半年。でも、泣くところを見たのは今日が初めてだ。別れると言ったときでさえ、彼は泣かなかった。顔色を変えていただけだ。それでいまは、泣きながらも笑っている。
               おまけに、自分の言ったことに噴き出すことまでしたから、川畑もこんな状況にありながら、つられて笑い声をあげた。
               ほんとうに変なことを言う。鬱屈した周一が前向きになるなんて、あり得ない。だけど、セックスの面でいえば確かに変わったと思う。場所を選ばずに求められるやり方には、確かに興奮させられた。
               思ったままを口にすると、周一も「そうだな」と頷く。
              「俺もこの二か月は生まれ変わったみたいに楽しかったよ。……俺はひとりじゃいられない性格なのに、どうしてだかいつもろくでもない奴を好きになるんだ。おまえみたいに、誰にも気兼ねしないでいられたらどんなにいいかって、何度も考えた。……おまえとつき合う前に二度、俺は死にかけてるんだ。理由はだいたい同じだ。俺がしつこいから、相手はいつも逃げる。馬鹿だよな、俺も。そういう相手ばかり選んでた」
              「やさしい奴はいくらでもいただろうが」
              「ああ。いたよ。絶対に俺を泣かせたりしない、大事にするって約束してくれる奴は数え切れないぐらいいたよ。でも、結局俺が惹かれるのはだめな男ばかりなんだよ。俺を愛してくれない奴ばっかり」
               ハイカラーの黒いコートをはおったままの周一は暖かそうな生地を身体に巻き付け、ちょっとうつむいている。
               どうして俺のような男を選ぶんだろう。前からそう思っていたが、その理由がなんとなくわかった。
               ある種の病気みたいなものだ。
               愛されないとわかっている相手を好きになり、こころを痛めることを、彼はひょっとしたら楽しんでいるんじゃないだろうか。
               とすれば、自分たちのようなひとでなしは、可哀相な工藤周一が思う存分憐憫に浸るための引き立て役。ついていない彼の人生を飾るための小道具だ。
              「……おまえさ、自分で望んで傷ついてるんだろう。わざと俺みたいな男を選んで、楽しんでるんだよな。こっちから別れを切り出すのだって計算に入ってるんじゃないのか?」
              「そうかもな。……違うと思いたいけど、もうよくわからないんだ」
               周一はまだ泣いていた。だけど、口元だけはどうにか微笑もうとしている。
               彼が足を組み替えた拍子に、またコツンと音がして、空のガラス瓶が転がってきた。それに目をやる川畑の耳に、続いて、シュッと擦る音が聞こえてきた。
              「周一」
               匂いと、いま耳にした音に、弾かれたように顔をあげた。
               ちいさな炎が周一の指の先に灯っている。
               マッチの火は扉を閉めていてもゆらゆらと頼りなく揺れ、すぐにも消えそうだ。
              「前の男は俺の嫉妬深さに耐えきれなかった。俺が自殺未遂を起こしたのは、興味を惹きたかっただけなんだ。なのに、あっちのほうが勝手に先に死んだ」
               低く呟き、周一がマッチを吹き消す。
               彼の言ったことを、どう理解すればいいのだろう。
               ――興味を惹きたかっただけ。
               狂言だったのか。俺のときも、芝居だったのか。ほんとうに死んでしまわないよう、薬の量を調節したとでもいうのだろうか。
               白い錠剤を床にばらまき、うつぶせに倒れていた男が目に浮かんでくる。
               ――なのに、あっちのほうが勝手に先に死んだ。
               そこでふいに、浅田の言葉がよみがえってくる。
              『彼がつき合ってた男は、もう……』
               あれは、こういう意味だったのか。底知れぬ周一の執心に相手の男が追いつめられたというわけか。
               まるで安っぽいドラマのようだ。いまどき、こんな展開ははやらない。信じられない。
               笑い飛ばすことは簡単だが、川畑はできなかった。
               室内であるにもかかわらず、周一の足下には水たまりが広がっている。それは川畑のところまで届き、独特の尖った臭気を放っている。
              「川畑は、ひとりで食事するのが嫌だって言ってたな……。俺もひとりは嫌なんだよ。もう絶対に嫌なんだ。だから、四年ぶりにあの店で会ったとき、決めたんだ。もし、おまえとまたつき合ったとして、またほかの男を抱くようなことがあったら――いや、それは嘘だ。キブラにおまえが通ってるのは知ってた。再会したのは偶然じゃない……。何か月も前からおまえが俺の隣に座るのをずっと待ってたんだ……狙っていたんだ……」
               そこで再び、マッチに火が灯る。暗闇のなか、どこからともなく生まれる炎は、周一の胸からこぼれ出てくるように思えた。
               揺れる先端は赤く見えるけれど、周一の指を焦がしそうな細い木の軸の根本で炎は青く見える。それに照らされる彼の顔も、微妙な陰影を刻んでいる。
               ――それじゃ俺は、まんまと引っかかったわけか。虫をも殺さぬ顔をして、危害を加えるのはいつだって俺のような奴らだと周囲の同情をひくおまえが張りめぐらせていた罠に。
               周一がくるりと指を回すと、赤い軌跡に従って彼の切れ長の目、鼻筋がぼんやり浮かぶ。それが、なんだかとても綺麗に見えた。暗がりにくるりと尾を引く赤い線。ふわりと跳ね飛ぶちいさな炎。翳る周一が少しだけくちびるを尖らせると、炎は左にふっと揺れて消える。
              「ごめんな、川畑。たぶん、俺のほうがおまえなんかよりずっとおかしいんだ。でも、これで終わりにするから」
               周一の正気を疑っている余裕はない。彼がこれまでにどんな恋をしてきて、傷を受けたのか、四か月と二か月のつき合いしかない川畑にはわかりかねた。
               だが、最後の相手になれという言葉は気に入った。いや、正確には「これで終わりにするから」というものだが、たいして変わりはないだろう。
               いま、初めて見るような目つきで周一の顔をまじまじと眺め回した。これだけ目鼻立ちが整っている男もめずらしい。強固な意志を思わせる目元と鼻筋。だけどそれを裏切るようなエロティックなくちびる。
               バランスの悪い男。
               彼という人間が、少しだけわかったような気がする。自分などよりもずっと冷酷にできているのだ、工藤周一という男は。愛されるために不実な男を追いつめ、そいつが神経を病もうとも手をゆるめず、死と引き替えに永遠を誓わせたところで、こころに刻みつけるのではない。さっさと忘れ、次の男、次の男――そして自分へと乗り換えてきたのだ。
               なぜ周一がそんなことをしたのか、聞いても仕方がないだろう。でも、ひとつだけは確かだ。
              「欲が深すぎるんだよ、周一は」
               遠慮のない言葉に周一が目を瞠る。
              「……そう言ったのはおまえが初めてだ。誰もそんなこと、言わなかった……」
              「言う暇も知恵もなかったんだろ、たぶん。おまえは男を喰うんだって、浅田が言ってたよ。そのとおりだな。前の奴も、その前の奴も食い散らかすだけ食い散らかして、綺麗さっぱり忘れたんだろう。おまえは誰かに大事にされたいんじゃなんだよ。俺みたいな屑をわざわざ選ぶのは、しあわせになりたいからじゃない。可哀相な自分に酔ってるんだろう? 俺がいつほかの男に目を移すか、待ち構えてたんじゃないのか。俺が浮気をすれば、なんで自分は愛してもらえないんだって堂々と胸を張れるもんな」
              「……そうだったのかもしれないな」
               周一はちいさく笑う。その声がまたも奇妙な具合に震えだしている。
              「でも、寂しかったのはほんとうなんだ。ひとりじゃ嫌だったんだ。なのに、みんな俺と一緒にいるのを拒んだ」
               三本目のマッチに火がついたとき、川畑は決定的な言葉がいともするりと自分の口をついて出ることに、いささかの動揺も感じずにいられた。
              「いまは俺がいるじゃないか」
               誰でもひとりは寂しい。だから、ほんの少しでもいい、温もりを分け与えてくれる誰かを必死に探す。
               目の前でちいさな火に手をかざす男もそうで、自分もそうだ。いびつな欲望を抱えた者同士、暗闇のなかで死を呼ぶ水たまりに足を突っ込んでいる。
               車を乗り回す彼ならば、容易に準備できたのだろう。ふたりの足下には揮発性の高い液体が広がり、扉を閉めていることで胸苦しくなるような匂いを充満させていた。
               ひたひたと忍び寄る水のような液体。ガソリン。
               周一が手にしているマッチの火で、透明な液体は禍々しい虹色を描き出している。
               これが彼なりの、「前向き」ということなのだろう。ひとりがいやなら、ふたりで。川畑はその相手に選ばれたということだ。
               一緒に死ねというのかと激昂することはもちろんできる。いますぐここを逃げ出すことだってできる。だけど、そうしないのは、周一の目にある虹を刷り込まれてしまったから。彼が見せてくれる青い火に魅入られてしまったせいだ。
               ――一度ぐらい、あの子をしあわせにしてやんなさいよ。
               そう言っていたキブラの耀子ママに、いまなら笑ってやれる。
               周一が欲したしあわせは、永遠の終わりだ。
               かつては死と引き替えに愛情を求められたことが苦痛でたまらなかったけれど、あれから四年が過ぎ、不埒な遊びも十分過ぎるほどに楽しんだ。だから、もういい。どの男を相手にしても得られなかった極度の興奮を、周一はもたらしてくれる。
               ――俺を巻き添えにすることで。
              「……俺に会ったことを後悔してるか?」
               そう聞かれて、川畑は微笑んだ。いままでに、誰にも一度も見せたことのない穏やかな笑顔は、周一の視線を釘付けにさせるのに成功したらしい。
               よもや、ここまでやる男にはお目にかかったことがない。自分の願いを叶えるためなら他人を道連れにしても構わないという、恐ろしいまでの利己的な考えは、単に相手を取っ替え引っ替えして楽しんでいた自分を遥かに上回る。
              「おまえみたいな男は見たことがねえよ」
               こころから微笑んだ。
               四年前、彼を怖いと思ったのが嘘みたいだ。こんなに可愛い男もめったにいない。自分自身を愛しすぎるあまり死にたくなるなんて、どうしようもない。
               炎の向こうで周一の顔が揺れる。なにかが焦げる匂いがする。マッチの火が彼の指を焼いているのかもしれない。息詰まるような匂いもする。
               これでなにもかも終わる。ひとでなしだと散々言われた自分も、綺麗な顔をして灰色のこころを抱え続けてきた周一も、あっという間に、この火が消えればまるで魔法のように、なにもかもなくなる。
              「俺がいる」
               もう一度言った。移り気な自分が永遠を約束することはできないけれども、まばたきに匹敵する一瞬だったらそれも可能かもしれない。
               周一が泣き出しそうな顔で腕を伸ばしてきたのと同時に、燃え尽きる寸前のマッチが落ちた。
               


              ボタンをはずして(「黒い愛情」番外編 2006)

              0

                「先月行った外貨運営部の意識調査をまとめてみましたが、三十代から四十代にかけて仕事に対する不安を抱えている方が多いようですね」
                「やっぱりそうか……。最近、どうも彼らの士気が下がっている気がしてね。こういうのは早めに手を打ったほうがいいと前に聞いたもんだから、あなたたちにお願いしたわけです」
                「適切な処置だと思われます」
                 手元の書類をぱらぱらとめくる加藤は冷静そのもので、五十代後半と思しき上司を前にしてもまったく動じない。
                「私と伏見さんとで個人面談も行ってみましたが、二十人のうち、五人がちゃんと眠れていなかったり、食欲の減退を訴えていました」
                「四分の一が危険信号を出しているとなると、相当のものです」
                 伏見があとを引き取り、きちんと結んだネクタイの結び目に手をやる。
                「いま、進めてらっしゃるプランを一時中止するか、部員を入れ替えるというのは難しいですか?」
                「うーん、そうだねぇ……」
                 しかめっ面をしている数人の男たちは、大手外資系の投資会社の役員だ。有能な部下をひとり失うことで、どれだけの損失が出るか頭を痛めているのだろう。
                 精神科医の免許を持つ加藤と伏見は、週に三日という約束でここの社員たちのカウンセリングを行っていた。
                 一日中、刻々と変わる数字とつき合うために、三十代なかばで疲弊してしまい、鬱に陥るどころか、そのまま会社を辞めてしまう者が年々増えているという。
                「三十代から四十代といえば、サラリーマンとしても伸び盛りですから、多少の無理はしてでも……、っく……っ」
                 ふいに言葉を途切れさせた伏見に、部長は不思議そうな顔だ。だが、伏見はすぐに、「なんでもありません」と笑顔を取りつくろった。
                「汗をかいているようだが、空調がおかしいかな? 暑いようなら室温を下げさせるが」
                「いえ、ほんとうに気になさらないでください。大丈夫です」
                 そうは言ったものの、ほんとうは大丈夫どころではない。
                 役員たちにばれないよう、隣の加藤を睨み据えた。それが彼の気に障ったらしい。ぶるっ、と内側で硬いものが振動し、濡れて潤む肉襞を疼かせる感覚がまたやってきて、脂汗が浮かんでくる。
                 ――頼むから、ここではこれ以上しないでくれ。
                 やめてほしいと必死に目で訴えたけれど、加藤は見て見ぬふりだ。スラックスのポケットの中に隠したスイッチで振動を微弱にセットしたまま、疲れきった社員たちをどうするかお偉方と話し続けた。
                「プランの休止が難しいとしても、このまま続けていればいつかひとりずつ倒れていきます。そうなる前に、いまより少しだけでも仕事のペースを落として、よほど疲れている者にはきちんと事の次第を説明したうえで、一週間程度の休暇を与えればいい。ろくな説明もなく、『休んでいい』と言われるほうがよけいに不安を募らせますからね」
                「まあ、そうだろうな……。どうする、ペースを落としてプランを続けられそうか?」
                「そうですね。いますぐには答えられませんが、加藤さんたちが『疲労している』と判断された者たちはとくに優秀ですから、ここらで少し休ませたほうが、長い目で見た場合得策かもしれませんね」
                 役員たちが話し合っているあいだ、加藤と伏見は互いの身体で通じ合っていた。
                 冷ややかな感じのする眼鏡越しにこちらの様子を窺う加藤が、おもむろに振動の強度を高めた。
                「……ッ……!」
                 無機質な物体にぐねぐねと敏感な襞をこねられ、声を押し殺すのも必死だ。
                 ――どうして、加藤はこんなことを……!
                 同じ場所を何度も何度も単調な動きで擦られ続けた。それも当然だ。ちいさなローター自体には意思がなく、伏見の窮屈な窄まりのちょうど真ん中あたりでびくびくと震え、加藤の忠実なしもべとして快感のしるしを刻んでいく。
                 ――もっと奥まで擦ってほしい。突いてほしい。こんなちいさなものじゃなくて、加藤のものを思いきり感じたいのに。
                 じりじりと焦げるような快感に、目元まで潤んでくる。それを役員たちに不審がられないよう、伏見はうつむき、書類を意味もなくめくった。多くの難しい言葉が目に入ってくるが、まるで意味をなさない。感じるのは機械的な快感だけ。熱くもなく、冷たくもない。だが、不用意に動くと中の異物までこりっと動き、いちばん感じるあの部分をかすめていくのがたまらない。
                「……加藤……!」
                 小声でなじると、ようやく加藤は振動を弱めてくれた。
                「それでは、具体的な対応についてこれから伏見と話し合いますので、三十分ほどお待ちいただけますか。終わりしだい、ご報告に参ります」
                「わかった。私たちは隣の部屋で打ち合わせをしているから、なにか不明な点があったらいつでも来てくれ」
                 びしりと肩のラインが決まった役員たちが足早に出ていったあと、ようやく加藤が本性を剥き出しにして笑いかけてきた。
                「伏見さん、ボタンをはずしてください」
                「……そんな、……こと……」
                「できない、っていうせりふを言えば言うほどつらい目に遭いますよ」
                 たったいま、隣室に役員たちが入ったばかりなのに、加藤はここでシャツのボタンをはずし、淫猥な快感を愉しもうとしているのだ。
                 そうだろうということは、なかばむりやりローターを挿れられて会議室に入ったときからわかっていた。
                「俺が弄ってなくても、伏見さんの乳首はきっと真っ赤だよ。シャツから透けて見えるぐらいにね。……だって、伏見さんは俺の望んだとおりの淫乱なんだから」
                 低く囁く声が悪い夢のようだ。いくらこころを通じ合わせたといっても、こういう行為には慣れていない。それに、加藤の扇情的な言葉にも、いつまで経っても慣れられないだろう。
                「で、で、きな……っ、あ、あ……っ!」
                 悲鳴のような喘ぎをあげて、伏見は思わず目の前に立つ男の腰にしがみついてしまった。
                 また、内側でローターがぐちゅぐちゅと動き出したのだ。振動するだけでなく、軽くくねったり、ねじれたりするそれが実際の男のものを連想させるようで、「亮……」と涙混じりに見上げた。
                「ボタンをはずして、乳首を自分で弄ってみせてください。俺が欲しいんでしょう?」
                「ん、ん……」
                 昂ぶる塊をスラックス越しに感じて、ああ、とため息を漏らしてしまえば、彼の言い付けに従うほかない。
                 焦れったく、汗ばむ指でなんとかシャツのボタンをはずし、裸の胸をさらすあいだ、どうしても羞恥心が優ってしまい、加藤から顔をそらした。
                 ――自分で見なくてもわかる。俺のここは……身体すべてを亮に変えられてしまった。
                「……やっぱりね。乳首がいやらしく勃起してる。さっきまで仕事してたくせに、なんでこんなに感じまくってるんですか」
                 赤くふくれた先端をきゅっとねじられ、伏見は喘ぎながらソファの背にぐったりともたれた。そこへ加藤が腰を押しつけてきて、「しゃぶって」と囁く。
                「俺ね、伏見さんのフェラチオする顔が好きなんですよ。俺のものを最初は苦しそうに頬張ってるのに、そのうち、おいしそうなものを食べてるみたいに舌なめずりまでするんだ」
                「……して、ない、そんなこと――亮がしてほしいって、言うから……」
                 口では散々抵抗したが、身体はまるっきり逆のことをしていた。
                 上質の生地でつくられたスーツを身につけた加藤は傲然としていて、震える指でジッパーを引き下ろす伏見をおもしろそうな目つきでじっと見つめている。
                 その仕草、その視線に少しずつ淫らな炎が宿っていくのを確かめるように。
                 ジッパーを下ろしたとたん、ぶるん、と飛び出した肉棒は最初から先端が濡れていて、赤黒くめくれたエラを見ただけで身体中が火照り出す。
                 理知的な眼鏡とスーツをまとう男に、淫猥な口淫を要求されている。そう考えただけで、頭の中まで熱くなり、伏見はぼうっとした意識のまま筋の浮き立つ男根にそっと触れた。
                「……そう、最初はそういう感じがいいかな。あなたの中にあるたどたどしさは、いつまで経っても消えないんだろうね」
                「ん、――く……」
                 先端の小孔から滲み出す加藤の先走りが、いつもより濃い。亀頭は凶悪なほどにふくれていて、竿も長く太い。これをいまから受け入れるのかと思うと、何度も情を交わした仲だが、やはり身体が強張る。
                 それに、ここは取引先のひとつだ。隣室には会社の役員たちがいて、どうすれば社員の士気を高められるか真面目に話し合っているというのに、壁一枚隔てたこっちでは、ローターで苛め抜かれ、フェラチオを強要されている。
                 口の中で感じる加藤のそれが上顎を強く擦り、伏見はくぐもった声で喘いだ。口内の上顎を擦られるとくすぐったいだけだったのが、いつの間にかどうしようもなく感じる場所になっていた。
                 右手で加藤のものを握り締め、亀頭から根元に向けてちらちらと舌を這わせていく。そのあいだ、俺を見て、と前に言われたことを思いだし、羞恥に顔を赤らめながらも懸命に加藤と視線を絡めた。
                「いやらしい顔してる、伏見さん。俺のがそんなにおいしい?」
                「ん――んっ……ふ……っ」
                 ぐっぐっと腰を突き出してくる男のものを口いっぱいに頬張り、答えようにも答えられなかった。けれど、自然ともう片方の手が乳首をつねり、――ああ、こんなのじゃない、加藤が触ってくれるほうがずっと気持ちいいと蕩けた意識で考え、次には自分のスラックスのジッパーを下ろしていた。
                 もう、ずっときつくて、役員たちと話しているあいだもどうにかなりそうで、自分で触っただけでもいけそうだ。
                 にちゃにちゃとしたしずくを垂らすペニスを剥き出しにして扱き、加藤のものも夢中になって奉仕した。先端からこぼれるとろみは、やっぱり加藤と同じように濃いのだろうか。
                 くく、と低く喉奥で笑う男の声が身体中に染み渡る。
                「俺のを舐め回すだけじゃ満足できない? ここまで感じてるなら、ローターでいけるでしょう」
                 急に加藤が腰を引いたことで、はちきれそうなほどに勃ちきった男根もずるりと口内から抜け出ていく。
                「いや……いやだ……加藤の、じゃなきゃ……」
                 それが欲しくてここまでしているのに、お預けを食らってしまった伏見は懸命にせがんだ。
                 意識の片隅では、いけないことをしているとわかっている。取引先の会社でこんなことをしているとばれたら、どれだけの大事になるか。それでも、加藤が欲しいという気持ちを抑えきれず、「なんでも、する、から……」と息を途切れさせた。
                「お願いだから、このままにしないでくれ……もう、ずっとおかしくなりそうなんだ……」
                「だったら、うしろを向いて。自分でローターを抜いてください」
                「加藤……っ」
                 そんなことをしたら、淫らに熟れた場所を加藤に見られてしまう。加藤以外のもの――それがたとえばかげたおもちゃでも、中にもぐり込み、自分を狂わせてしまいそうなほどに感じさせていたローターを引き抜いてみせるなんて、到底できるはずがない。
                 頭を強く振り、「いやだ、できない」と言ったが、加藤も硬い肉棒で孔の周囲を擦ってくるからたちが悪い。
                「挿れてほしいんでしょう? 奥まで挿れて、擦ってあげられるのは、俺だけですよ」
                「あ、う……ぅ……」
                「簡単なことだから、やってみて。自分の指でかき出せばいいだけですよ」
                 それを見られたくないのだ。きっと、自分のそこは縁が赤くふっくらと腫れ、ローターを抜く際に濡れた粘膜まで見せることになってしまう。男を受け入れるつらさと快感に悶えるその場所を、加藤に間近で見られるなんて絶対にいやだ――そう思うのに、ペニスは伏見の意思に反してぐんと勃ちあがり、いまにもぽたぽたとしずくをこぼしてソファを汚しそうだ。
                 慌ててジャケットを広げようとするよりも先に、加藤がジャケットをソファに広げてくれた。
                「ほら、俺はこんなにやさしいでしょう? だから、言うことを聞いて」
                 やさしくなんかない、こんなのはやさしさじゃない。
                 だが、自分でローターを抜かないかぎり、加藤はなにもしてくれないようだ。しまいにはそのまま、衣服を調えて「帰りましょうか」とでも言いかねない。
                 いったん火の点いた身体を止めることなんかできないから、伏見はじっとりとした汗をこめかみに感じ、ソファの縁をきつく掴んだ。
                「抜くから、見るな、……見ないでくれ……」
                 返ってきたのは笑い声だけだ。
                 中ほどまで挿っているローターを抜くにはスラックスを膝まで下ろして腰を突き出し、指で孔を拡げなければいけない。それがどんなにつらく、恥ずかしいものか、加藤にはわかっているのだろうか。
                 ――わかっているから、強要するんだ。俺がこんなことをされても感じてしまうと知っているから。
                「ん……」
                 熱っぽい吐息とともに、伏見はゆっくりと自分の中へと指を挿れていった。
                 こんなことをするのは初めてだ。思っていた以上に中は熱く潤んでいて、自分の指にさえも淫らにまとわりつく。
                 ――いつも、こんなふうに加藤に絡みつくのか……。
                「あぁ……っ」
                「ひとりで勝手に感じてないで、早くローターを抜いてくださいよ」
                 そう言われても、つるつると滑るローターを指でつまむのは難しい。悔しいのか恥ずかしいのか、もうわからない。涙を浮かべて指を二本挿し込み、ローターの先端をつまんだと思ったら、突然ちいさな機械がぶるっと大きく震え、「――あ」と背筋をのけぞらせた。
                「あ、う、加藤……!」
                 せっかく引き抜こうとしたところで、加藤が振動を強めたのだ。
                「だめだ、もう、こんなの……っ、できない……っ」
                「あともう少しですよ。ほら、もう半分出かかってる」
                 ぬるぬるに濡れたローターをつまむ伏見の顎を掴み、加藤が視線を合わせたままくちづけてくる。たっぷりとした唾液を交わし、伏見がこくりと喉を鳴らして飲み込むまで許してくれない深いくちづけこそ、加藤の執着の強さをよく表している。
                 何度かしくじったあと、ようやく抜けたローターが糸を引いてぽとりと加藤のジャケットに落ちた。その頃にはもう、身体中で熱が暴れ、加藤を求めることしか頭に浮かばない。
                 たったいままでローターを咥え込んでいたそこが加藤の指をたやすく飲み込み、もっときつく、もっと激しく絡みついてしまう。
                「ひくひくしてる……智紀のここ、ローターが抜けたままの形でひくついてるよ。真っ赤だ」
                「あ――……亮、りょう……、おねがい、だから……っも、はやく……!」
                「しー、……あまり大きな声を出すと、隣に聞こえますよ。俺たちの信頼を落とす気ですか」
                 むちゃなことを強いてくるのは加藤のほうなのに。
                 目だけで反論すると、相手も相手で、「へえ」と笑う。
                「そういう芯の強さが俺をいつまでも惹きつけるゆえんですよ。……それじゃ、もっと恥ずかしい思いをさせてやるよ」
                 がらりと声音の変わった男が身体をぐるっと返してきて、向かい合わせの形で伏見の両手を自分のネクタイで縛り上げたあと、両足を大きく広げさせた。
                「……智紀のいやらしいあそこに挿れてあげるよ。前は触ってやらない。うしろだけでイくんだ」
                「え……、あ――亮、亮……っ、あぁ……っ!」
                 煌々と点いた灯りのもとでシャツを半端に脱がされ、両足首を掴んだ加藤がぬるぅっとねじ込んできた。
                「……ッく……っ!
                 加藤のそれはいつも大きくて、いくらほぐされていても張り出した亀頭を飲み込むまでが大変だ。だが、その先はもっとつらくて、気が狂うほどに気持ちいい。ずちゅずちゅと太竿が音を立てて引き抜かれ、伏見も無我夢中で腰を振った。
                「あっ、あぁっ、いい、亮……っもっと、奥まで、いれて……っ」
                「どうして奥まで欲しいんですか。俺の大きさだと、結構つらいと思うけど」
                「だって……」
                 声につまる伏見の乳首をやさしく吸いながら、加藤が「それで?」と目顔で訊ねてくる。
                「そのほうが……おまえのことを、もっと強く感じられる、気がするから……」
                「ふぅん……なるほどね」
                 精一杯の言葉に、加藤は満足したようだ。
                「じゃ、中に出していい?」
                「ここで……か?」
                「そう。智紀は中で出すとすごくいい顔をするから。大丈夫、汚れるのは俺のジャケットだけ」
                 なんとか声をひそめようとしても、危うい雰囲気が隣室に伝わらないとはかぎらない。
                 ――ばれるかもしれない。男同士でいやらしいことをしている場面を見られたら、いままで築き上げてきたすべてが終わりだ。
                 後ろめたい感覚は、終わりのない快感に繋がっている。
                 挿れっぱなしでゆるゆると焦らされ、散々悩み抜いたあげくに、伏見はこくりと頷いた。
                「出して……いい」
                「ほんとうに?」
                「中に、出して……亮のアレを、いっぱい出してほしい」
                 一度声に出して言ったら、もう後戻りはできない。ぐりっと腰を巧みにひねって押し挿ってくる男に身体だけではなく、頭の中、こころの中まで犯されそうだ。熱く脈打つ肉棒が出たり挿ったりする光景を目の当たりにし、悶えよがる伏見はさまざまなことを口走った。
                「亮、や、ん、――いやだ、……前も、触って……!」
                「だめだよ。言ったでしょう。今日はうしろだけでいくって。乳首だったら触ってあげるよ」
                「あっ……ぅ……うっ……さわ、って……」
                「どんなふうに? やさしくされたい?」
                「きつく、してほしい……さっきみたいに……ねじって……あ、――……っ!」
                 加藤が乳首を噛みまくり、ずるっと男根が抜けそうになるのを伏見は必死に追い求めた。
                「あぁっ、――んっ、っも、いく……っ!」
                 ぎりぎりまで両足を広げさせられ、同じ男に尻の奥を犯されて悦ぶ自分の浅ましさを悔いている暇があったら、もっと深く、貪欲に加藤を求めたい。
                 望んでもいないのに、うしろだけでいかされてしまう。加藤に抱かれるまでは単なる排泄器官でしかなかったそこが、いまでは指を挿れられただけで蕩けた淫らな肉洞になったのだ。肌も以前より熱く湿り、身体全体で加藤を求めている。
                「いく……っ」
                 限界まで昂ぶった孔がきゅうっと締まり、加藤に眉をひそめさせた。だが、それも一瞬だ。素早く彼はジャケットの胸ポケットから取り出した真鍮の輪っかで伏見のペニスのくびれにぎゅっとはめ込んだ。
                「……ッぁ――……!」
                 目の前が真っ赤になる。それと同時に、こころから待ち望んでいた熱いものがたっぷりと奥へ放たれた。
                 達する寸前の新たな戒めによって、どっと噴きこぼれるはずだった精液がとろとろとしたしずくにしかならず、苦しくてたまらない。
                「あ、あ……っぁ……っは……っ」
                「どうですか? 乳首はクリップでずいぶん感じるようになったけど、智紀のここはまだちゃんと手を入れてなかったからね」
                 加藤の声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
                 身体の奥から押し出ようとする精液が、頑丈な輪っかで締められて真っ赤に充血した小孔からだらだらとこぼれ続け、伏見ははあはあと息を切らしながら、延々と続く絶頂に浸っていた。
                 その苦しさと快感は、いままで知らなかったものだ。
                 ――こんな快感があるなんて。苦しいはずなのに、痛いはずなのに、どうして感じてしまうんだ?
                「感じた? やっぱりいいね、智紀は。ここぞというときの顔がほんとうにいい」
                 初めての快感に溺れる伏見に、加藤が笑いかけてくる。
                 まだ息が整わない伏見の衣服を直し、窓を開けて空気を入れ換えたあと、「それじゃ、簡単に打ち合わせして、隣室の面々に報告したら帰りましょうか」と加藤が言う。
                「……わかった。でも……」
                 なにが言いたいか、加藤にはすべてお見通しのようだ。
                 快感の名残でふらつく伏見を支え、「大丈夫」と、あの悪辣で甘い声で囁く。
                 精神科医として、有能なキャリアカウンセラーとして社会的信用を得る反面、伏見ひとりを裸にして徹底的にいたぶることを望む男の声には、ほんとうの魔力がひそんでいるのだ。
                「うちに帰ったら、輪っかをはずしてあげるよ。智紀が悦ぶことをもっとしてやる。その前に、どこか途中で――そうだな、人目のあるところで智紀を感じさせようか。輪っかをはめたままでね」
                「……加藤……」
                 胸が高鳴るのは、不安のせいか。期待のせいだろうか。
                 知らずと胸を押さえ、伏見は加藤と肩を並べて歩き出した。ずきずきと痛むあの場所を意識すまいとしても、難しい。
                 きつく締め付けてくる輪の中に、自分という存在までもが入り込んでしまった気がする。
                 それなら、それでもいい。
                 行き着くところまで行けばいいという言葉は、加藤には当てはまらない。いまはただ望むままに――感じるままに。
                 加藤亮という輪の中に、終わりはないと知っているのだから、溺れてしまえばいい。 


                3アタック(「3シェイク」番外編 2008)

                0

                   いざホン読みの時期に入ると、それまで無作法、無遠慮、ついでに無気力だった幸村京はひとが変わったように役作りに没頭した。
                   ――いい兆候じゃないか。
                   彼の変わりようを目の当たりにして、マネージャーである岡崎遼一は薄く笑いながら煙草に火を点ける。
                   少し前まで、幸村は岡崎の所属する芸能事務所「ロスタ・プロダクション」内で、『骨のある新人のひとり』でしかなかったが、いまは違う。業界内外でも名を知られる、気鋭の映画監督、佐野雅仁に見出され、一躍、主役としてスクリーンデビューを飾ることになったのだ。
                   撮りに入るのは冬以降。『霧の中に』と題した作品で、初めての主役を務める幸村にとって、佐野の生み出すキャラクターや世界観を飲み込むにはかなりの時間を要するかもしれないと案じていたが、大学のテキストを放り出す勢いで脚本に顔を突っ込んでいる姿を見て、一安心した。
                   今日も、幸村は大学帰りに事務所に寄り、岡崎の部屋で脚本をずっと読んでいる。彼が部屋にいつくようになったのは、昨日今日に始まったことではない。隙あらば岡崎の身体を食い尽くそうとする年若の男は、一回りも上の佐野に対して並々ならぬ敵愾心を持っており、つねにこうして犬のようにそばについて回っているのだ。
                   だが、岡崎はけっして隙を見せなかったし、幸村を煽るような媚態を示したことは一度もない。
                   ――俺の身体が彼らのいい餌になるなら、与えるチャンスを見極めないと、アンバランスなこの関係はすぐにも壊れる。
                   幸村と佐野。異なった魅力に、異なった容姿を持つふたりから激しく求められるようになって、岡崎はますます物事に冷静に取り組むようになった。
                   三人で絡み合うのは、二週間に一度ぐらいの頻度だ。一度それが始まると、長時間に及んで幸村と佐野に交互に徹底的にむさぼられ、翌日は立ち上がれないほどに体力を使い果たす。
                   もちろん、若い幸村は十四日間じっとひたすら待つようなタイプではない。だが、そうそう簡単に寝てやったら、いくら自分に固執する幸村とて興味を失うだろう。その点、佐野も似ている。二十八歳の岡崎よりも六つ上で、独特の思考回路を持った男は恐ろしくタフで、がむしゃらに快感を得る幸村とはまた違い、ねじくれたセックスを好む。
                   ――そう、かなりねじくれたやり方だ。このあいだだって、俺が幸村に奉仕している場面を小型ビデオで撮っているだけで、ひどく愉しそうだった。
                   元モデルだけあって、容姿が洗練されていることは岡崎自身、よく知っている。だが、この身体を武器にしようとは思っていなかった。いわゆる「枕営業」は、長続きしない。なりふり構わず身体を差し出し、一時はおいしい仕事にありつけても、大きくブレイクできるわけではなく、すぐに消えていく同業者たちを多く見てきたためか、セックスを駆け引きの材料にはしないと固く決めていたのだ。
                   だが、その誓いを幸村と佐野に破られた。代わる代わるに、潔癖さと羞恥を失わないこの身体をしゃぶり尽くすことを望む男たちに、岡崎はとまどい、怒り、だが最後にはどうにもならない快感に追いやられて涙をこぼした。
                   とはいえ、そうしたことはあくまでもベッドの中だけで、二週間にいっぺんの割合でしか行われない。表向き、自分というのは裏方で、幸村という鮮度の高い商品をどう売り出していくかということに精力を傾けている。
                   その姿勢は嘘偽りなく真摯で、幸村が役作りに没頭するならばどんな要求でも受け入れたし、こんなふうに自分のオフィスで脚本を読むことも許している。
                   ぱらりとページをめくる幸村はソファに深く腰掛け、たまに左手に持った赤ペンで線を入れていく。佐野の書いた脚本を岡崎も読んでいるが、主役を含め、どのキャラクターもせりふ数はさほど多くない。だが、そのぶん深い意味を持ったせりふばかりで、声のトーンや表情、仕草を突き詰めないと、浅い演技になってしまう。
                   一読しただけで、相当難度の高い演技力が求められていることは、岡崎にもよくわかった。せりふが多ければ多いで記憶するのも大変だが、かぎられたせりふだけで勝負しなければいけない「キョウ」という主人公は、日頃から生意気な口をたたいてばかりの幸村を黙らせるほどの圧倒的な存在感を持っている。
                   ありふれた日常から、ひとり、またひとりと見知ったひとたちが消えていき、最後に取り残された幸村演じるところの「キョウ」は錯乱一歩手前まで追い詰められる。狂気と正気の綱渡りにどう挑めばいいのか、幸村も連日、頭を悩ませているのだろう。かすかにその口元が動き、せりふを言っているらしい。
                   それからふいに目を上げ、妙に思いつめたような顔で「腹、減った」と脚本を放り出したので、笑ってしまった。
                   午後の三時過ぎにオフィスに来て二時間以上、ほとんどなにも話さず脚本と向き合っていたのだから、腹も減るはずだ。
                  「なにか食いに行くか。なにがいい?」
                  「んー、外食は飽きた。なぁ、岡崎さん、なんかつくれねえ?」
                  「俺が?」
                   驚いて聞き返すと、幸村はアッシュブロンドの短い髪を軽く撫で上げながら、「簡単なモノでいいからさ」と言う。
                  「あんたの手料理、食いたい。お茶漬けでもいいしさ」
                   奔放な振る舞いを当たり前とする男にしては可愛らしすぎる言葉に、失笑してしまう。
                   セックスの次は飯炊きか、と思うと、さすがにため息のひとつもつきたくなるが、幸村の複雑な育ち方を考えると、手料理を食べたい、という言葉もそれなりの重みを持つ。
                   ひとり暮らしの岡崎は芸能マネージャーという仕事柄、外食が多いが、たまの休みにはごくごく簡単な料理をすることがある。オムレツだったり、野菜炒めだったり、ものの数分でできあがるものばかりだが、外食ばかり続けていると、シンプルなものが食べたくなるのだ。幸村も、きっとそうなのだろう。
                   夏の盛りを迎えた八月、さっぱりしたものが食べたい。
                  「素麺でいいか。冷や奴もつけてやる」
                  「うん、それでいい」
                   嬉しそうに立ち上がり、帰り支度を調えた幸村が扉を開く前に言った。
                  「もちろん、あんたの部屋で食わせてくれるんだよな?」
                   その言葉に、一瞬だけ扉を開くのをためらった。当然、幸村のマンションに行くと思っていたからだ。
                   彼はもとより、佐野も招き入れたことのない自分だけの部屋。2DKのマンションは、四六時中、担当モデルに気を配り、関係者たちともうまくやっていけるように神経を張りめぐらせている一日の疲れを癒す部屋、唯一、誰にも気兼ねすることなくくつろげる空間だ。
                   そこに、幸村を入らせてもいいのかどうか、迷ってしまう。
                   身体の最奥を暴かれるのと同じく、プライベートな場所を知られることで、またひとつ、弱みを握られる気がすると言ったら、穿ちすぎだろうか。
                   ちらりと幸村を見ると、楽しげに笑う目とぶつかった。
                   ――べつに、部屋のどこを見られても恥ずかしいわけじゃない。先日、風呂もトイレも掃除したばかりだし、こいつには食事をさせてやるだけだ。俺はただ、いつもどおりの態度でいればいい。隙をつくらなければいい話だ。
                   つかの間のとまどいを上手に隠し、岡崎は平静を装って扉を開いた。
                  「おまえのところほどいいマンションじゃないが、来たいなら来い」
                   幸村がくくっと笑いながらあとを追ってきた。

                   

                   


                  「へえ、岡崎さんってこういう部屋に住んでるんだ」
                   マンションに入るなり、興味津々な顔つきで幸村が部屋のあちこちに首を突っ込んでいる。
                  「うろちょろするな。そこのソファにでも座ってろ」
                   寝室をのぞき込んでいる幸村の襟首を力任せに引っ張り、リビングのソファに突き飛ばした。幸村は気を悪くしたふうでもなく、ひたすら楽しげだ。
                  「想像したとおり、あんたらしい部屋だね」
                  「どういう意味だ」
                  「他の野郎の匂いがしねえ。あいつも、まだここには来たことがねえんだろ?」
                   幸村の言う『あいつ』というのが佐野を指していることはすぐにもわかったが、「まあな」とさりげなく聞き流した。ここで強く反応しても、弱く反応してもだめだ。まだ年若の幸村は、ちょっとしたことで感情を大きく揺らす。
                   ――そのネタが、俺自身というところが問題だが。
                   表向き、澄ました顔で素麺を茹でるあいだ、冷え切った缶ビールで乾杯した。
                  「お疲れ。ここ最近は真面目に仕事してくれていて助かる」
                  「いつまで続くかわかんねえぜ? あんたがもし、俺の目を盗んで佐野と会ってたら、その場で映画の主役なんか降りてやる」
                   強気な発言に、カウンターにもたれた岡崎は微笑んだ。
                   自分の目に狂いはない。彼らに身体を奪われても、快感の行く先を握られているとしても、鮮度のいい素材を見抜き、信じる目までもが曇ったわけではない。
                  「おまえはあの役を降りない。キョウを絶対にやり遂げる」
                  「……ずいぶん自信たっぷりに言うじゃん。自分のことでもねえのによ」
                   見透かした言葉に、幸村がむっとした顔を向けてくる。
                   確かに幸村の言うとおり、現実において役を務めるのは自分自身ではないが、彼の胸の裡のことはまるで自分のことのようにわかる。
                   自分がモデルを務めていた頃、体裁は整っていたと思うが、幸村のような荒削りな魅力は持っていなかった。そのぶん、他人の頭のてっぺんから足の爪先までチェックし、どこをどう弄ればもっとよくなるか、という目には恵まれていた。そのおかげでモデルを引退したいま、幸村をマネージメントする立場にあるのだ。
                   ――おまえは、一度火が点いたら止まらないタイプだ。ハードルが高ければ高いほどやる気を出す。無敵になれる。それだけの才能を持っている。
                   だが、正直に言えば幸村は思わぬ方向に増長し、手に負えなくなる場面も出てくるだろう。だから上手に微笑で隠し、さっと茹でた素麺を氷水にさらして、ついでに冷や奴もつけて簡単な夕食を整えてやった。
                  「さっさと食べろ」
                   素っ気ない言い方だが、空腹には勝てなかったのか、幸村はにやりと笑い、黙って食べ始めた。
                   しばらくそうしてふたりで黙々と食べ、腹が一杯になったところで幸村が立ち上がり、「もう一本、ビールもらう」と勝手に冷蔵庫を開ける。
                  「へぇ、ほとんどなにも入ってないじゃん。岡崎さん、いつも食事はどうしてるんだよ」
                  「外ですませることが多い。おまえもわかってるだろ。マネージャーは待ちの時間が多いんだ」
                  「俺以外にも面倒を見てるモデルやタレントがいるんだよな。そいつらと俺と、比べてみたことはあるか?」
                   好戦的とも言える口調で、缶ビールを片手に提げた幸村が背後に回るのを感じていたが、ソファに座った岡崎は微動だにせず、「いや」と言って煙草に火を点けた。
                  「どのタレントにも、平等に接しているつもりだ」
                  「言っとくけどよ。俺は、あんたが抱えてるどのタレントよりも金のたまごだぜ」
                  「自分で言うか」
                   大見得を切った男に思わず吹き出すと、左後ろから鋭いまなざしがのぞき込んでくる。そのまま顎を持ち上げられ、熱っぽい吐息がかかる距離で幸村が囁いた。
                  「いい加減、俺だけのモノになれよ。あんたが他の奴に時間を割いてるって考えただけで、腹が立つんだよ」
                  「まだ佐野作品の撮りにも入ってないのに、口だけはでかいな。おまえこそいい加減にしろ」
                   顎を掴む手を一度は振り払ったが、幸村はなおもしつこく、耳たぶを咬んでくる。そこが岡崎の弱いところだと知っているから、遠慮もなにもあったものではない。ちりっと焼け付くような痛みを覚えて身体を離そうとしたが、すかさず前に回り込んだ幸村がしゃがみ、両足を大きく割って入ってくる。
                  「幸村!」
                  「あんたが誰のモノか、直接教えてやる」
                   獰猛な情欲を孕んだ声に身を翻すこともできず、大きな体躯と熱に押されるようにして岡崎は顔を強張らせながらずり上がった。食欲を満たした次は性欲。幸村の単純な思考パターンがすっかり読めるようになったいまでも、毎回、ぎらりとした犬歯を見ると屈辱と羞恥――それから、抑えきれない興奮がこみ上げてくる。だが、自分から求めようなどとはちらりも思わない。幸村が与えてくる荒っぽい快感に従順になるつもりは、まるでなかった。
                   ――そんなことをすれば、こいつはすぐに俺に飽きる。他に目を移す。あのひとも、そうだ。
                   幸村の短い髪を掴んで懸命に押し返そうとしたが、鍛え抜いた身体はびくともしない。やや細めの岡崎に覆い被さり、スラックスのジッパーの上からゆるく円を描くように擦ってきた。
                  「前にあんたとしてから、もう一週間以上経ってんだぜ。溜まってんだろ?」
                  「ばか、……やめろ……!」
                   形ばかりの抵抗をすると、幸村の手つきがよけいにきわどいものになる。わざとかちゃかちゃと音を立ててベルトを引き抜き、ジッパーを下ろして半勃ちになっている岡崎のそこを下着越しにぐっと握り込んできた。
                  「……ッ!」
                   苦痛が混ざる鋭い快感に眉根をぎゅっとひそめたのが気に入ったらしい。下着の縁からはみ出させた亀頭を親指でくりくりと弄り回す幸村が、鼻先で剣呑とした笑いを見せる。
                  「イイ顔してんじゃん。あんた、ちょっとばかり痛くされたほうが感じるんだろ?」
                  「そんな、――わけ……ない、……っ」
                   だが、先端の割れ目をくちくちと弄られているうちに、そこからたまらないほどのねっとりした熱い潤みがこぼれ出してしまう。
                   多くの経験を積み、冷ややかな目を持つ佐野とはまったく違う幸村の愛撫はなかば暴力的で、その気になっていないはずの岡崎の身体をいいようにもてあそぶ。
                   言葉を交わすよりも、身体を深く繋げることが、彼にとっての愛情表現だとわかっていても、岡崎は屈することができなかった。
                   佐野と、幸村と、そして自分。危うい均衡を保ちながら続いている関係を壊したくないと、こころのどこかでは認めている。幸村はあくまでも一対一の関係を望んでいるが、そこに佐野という不確定要素が加わることで、ますます執心を極め、躍起になって自分を求めてくるのだ。それこそ、動物的といってもいいほどの勢いで。
                   ジッパーを完全に下ろされ、ぶるっと跳ね出るペニスを乱暴に扱かれて、涙が滲んだ。
                  「っつ……ぅ……」
                   我慢できずに幸村の広い肩にしがみつくと、満足そうな顔の男がくちびるをきつく吸い取ってくる。
                  「……っン……ぁ……」
                   生温かい唾液をたっぷりと流し込まれ、飲みきれないしずくが口の端からこぼれ落ちていく。舌をもつれ合わせて搦め取る仕草は傲慢だが、どこかまだ若々しい。言葉にはできない感情を持て余し、荒々しい愛撫をぶつけてくるしかない男に負けて、息苦しさを感じつつ幸村の髪を撫でてやると、痛いぐらいに性器を掴んでいた手の力もようやくゆるくなり、敏感なくびれ部分を意地悪くこね回してくる。
                   やっと、好みの快感がやってきて、掠れ声にまぎれもない情欲が混じってしまうのが止められない。
                  「あ、……あぁ……」
                  「岡崎さん……、俺のモノしゃぶって」
                   喘ぎ声に挑発された幸村が手を掴んできて、猛ったそこをジーンズ越しに触らせられた。
                   太く、長い幸村の男根は固いジーンズ生地をきつく押し上げ、ジッパーを下ろすのも一苦労だ。自分のものより一回りも大きな性器を目の前に突き出され、大きな亀頭が「咥えろ」とばかりに閉じたくちびるをぬるぬると犯していく。濃い匂いと、垂れ落ちるしずくのねばつきで、幸村もまた、前に抱き合って以来ずっと我慢していたのだと知った。
                  「ほら、口、開けろよ」
                   髪を掴まれ、岡崎は仕方なくくちびるをかすかに開いた。そのとたん、太いものが一気に奥深くまで押し込まれ、吐き気を催すと同時に咳き込んでしまいそうだ。
                  「やっぱ、あんた……イイよ。俺のチンポ咥えてるときがいちばんイイ顔してる」
                  「……っ……ぅ……ッ」
                   じゅぽっと音を立てて抜き、また押し込んでくる幸村は生え際にうっすらとした汗を浮かべ、年上のマネージャーの口淫を思うさま楽しんでいるようだった。上向きの亀頭がぐっぐっと口蓋を擦って濃い味を舌に残していくと同時に、得も言われぬ疼きを岡崎にもたらす。
                   いつからだろう。フェラチオを強要されて、感じるようになったのは。上顎のやわらかな部分を存分に擦ってくれる男ののペニスを口いっぱいに頬張っているうちに、じわじわとした快感が全身を締め上げていくような感覚に、頭の中が真っ白になっていく。
                  「ん……っ」
                   ぐちゅ、ぬちゅりと舌を遣って幸村のそれを舐った。男のものを亀頭を舌でくるみ込み、竿をちらちらと舐め回すようになったのは、断じて自分の意思からではない。
                   ――脅されたからだ。彼らに身体を差し出さないと、仕事がうまく進まないからだ。
                   甘く蕩けていく意識の片隅でそんなことを考えてみるが、身体が熱くなっていくことについては岡崎自身、反論できない。
                   自分からは絶対に求めないが、「彼ら」が好きなとき、好きなやり方で求めてくることにどうしても止めようがなかった。いつだって、幸村や佐野はこっちの意表を突いてくるから、どう構えても、最後には苦しさと隣り合わせの快感に追い詰められ、喘いでしまう。
                  「――ん……ふ……っ」
                   精一杯の奉仕を続ける岡崎の髪をくしゃくしゃとかき回す幸村は楽しげに笑い、シャツの棟ポケットに入れていた携帯電話を取り出す。
                   カシャリとちいさく響く音にぎょっとして顔を離すと、「やめるなよ」と再び強引に口に含まされた。
                  「ん、ん……っ!」
                  「あんたがフェラしてるとこ、佐野にも見せてやろうと思ってさ。あいつ、まだ仕事中だろうしな。あんたと俺がこうしてること知ったら、機嫌悪くするだろうな」
                   笑いながら腰を突き出してくる男のものに、思いきり歯を立ててやりたくなる。ときおり、彼らを本気で殺してやりたくなる。明確すぎる殺意を抑えるのは、とてもつらい。それまで知らなかったねじれた快感を叩き込んできた彼らを一息に始末できたら、どんなにすっきりすることだろう。
                   ――でも、そんなことをすれば、こんなふうに身体を熱くさせることも二度とない。
                   朦朧としながらフェラチオを続けさせられた。すぐに達してくれると思ったが、幸村も自分の中にある衝動を操る術を覚えたらしい。昂ぶった男根を岡崎の顔に押しつけたり、先端のところだけを含ませたりして快楽の時間を引き延ばしている。そうこうしているうちに、岡崎のほうが我慢できなくなってきた。勃ちっぱなしの性器からとろっとしたしずくがずっとこぼれ続けているのに、少しも触ってもらえない。シャツに触れて擦れる胸の尖りが痛い。
                   楽しげに目を光らせている幸村は、なにかを待っているようだった。耳をそばだて、通常の人間には聞こえない音を聞き分ける獣のようだった。
                   その目がひときわ深い輝きを見せたときだった。部屋のチャイムが鳴り、びくりと身体を震わせる岡崎の手首を素早くネクタイ縛り上げた幸村が、ジーンズを引っ張り上げながら階下の自動扉のロックを解除する。少ししてから、誰かが入ってきた。
                   佐野だ。乱れた姿の岡崎を見るなり、口角をゆるく吊り上げた。
                  「な……っ!」
                   慌てて下肢を隠そうとしたが、すんでで幸村に手を掴まれ、佐野に顎を押し上げられた。
                  「相変わらず、そそる顔をするね、きみは。ついさっきまで幸村くんのものをおしゃぶりしてたんだよね?」
                   つうっと濡れたくちびるに指を這わせてくる佐野はスーツ姿で、ネクタイの結び目もしっかり整っている。その隣で、幸村が昂ぶりの収まらない肉棒を露出させ、岡崎の頭を掴んできた。
                  「写真で見るより、やっぱりナマで見たほうがイイだろ?」
                  「そりゃもちろん。岡崎くんのよがり狂う顔に、取材を途中で切り上げてきたんだ。ほら」
                   慣れた仕草で佐野はみずからベルトをゆるめ、驚愕する岡崎の前でスラックスのジッパーを下ろし、そそり立つ男根を剥き出しにする。赤黒く怒張したものはすでに濡れていた。
                   彼らを心底恐れるのは、こんなときだ。煌々と灯りが点いた部屋で男同士でのセックスを当たり前のように捉え、しかも三人で交わることを愉しむ表情は、岡崎には一生得られないものだ。
                  「我慢できなくてね、車の中でずっと弄ってたんだよ」
                  「あんたもいい歳してエロいよなぁ……。岡崎さんを犯すことしか頭にねえんだろ」
                  「きみこそ、そうだろう。写真をわざわざ僕に送りつけて挑発するなんて百年早いんだよ。ねえ、岡崎くん。幸村くんはきみの感じやすい乳首を弄ってくれた? まだだろう。彼はまだ若いからね、自分の欲望を満たすので精一杯だ」
                   不敵に笑う佐野の手でシャツをむりやり剥がされた。勢いでボタンのひとつが弾け飛んだあたり、笑っている佐野の興奮もピークに達しているらしい。骨張った手が首筋を這い、鎖骨をするっと撫でたあと、ツキツキと疼く乳首をつまんできたことで、岡崎は思わず背をのけぞらせた。
                  「……っぁ……っ!」
                   佐野の長い指で挟まれた乳首がくりくりと揉み転がされるたびに、ぞくっと背筋を鋭い快感が突き抜ける。彼独特の指遣いを覚えている乳首はすぐに赤く腫れぼったくなり、ただ揉まれるよりも、もっと強い快感を欲していた。
                   ――だけど、絶対に俺は屈しない。これ以上おかしくなりたくない。
                   ぐっと腹の底に力を込めて佐野を睨み返すと、軽い笑い声があがった。
                  「そういう顔が僕たちをどこまでも煽るって、きみもほんとうはわかってるんだろう」
                  「わか……らな……っ」
                   答え終わる前に乳首をぎりっと噛み潰され、語尾が悲鳴混じりになった。ふっくらと熟した実を噛み潰すような佐野の頑丈な歯に岡崎は悶え狂い、全身に汗を滲ませた。
                  「あ――……ぅ、……あぁ……っ!」
                   新鮮な酸素を求めて大きく開けたくちびるに、幸村が再び肉棒を押し込んでくる。ぐちゅっと唾液のしたたる音が鼓膜に響き、欠片ばかり残っていた理性までも叩き壊してしまうようだった。
                   ――それでも、絶対に――なにがあっても、俺からは求めない。
                   屈しないことだけが、彼らと張り合う唯一の武器だ。リビングで淫猥な格好を取らされ、性器を弄られ、胸を舐め回されても、こころだけは譲らない。
                   強固な意志が通じたかどうか知らないが、佐野と幸村、ふたりがかりで寝室のベッドに運ばれ、そこですべてを脱がされた。暗闇の中、熱い舌と吐息が誰のものかもわからずに、窮屈に締まる窄まりを濡れた指でぬくぬくと拡げられ、岡崎はくちびるをきつく噛み締めた。
                   誰かの手と手、足と足が複雑に絡み合う闇の中なら、涙をこぼすことぐらい、感じすぎて達することぐらい自分に許してやりたい。
                  「……っも……っイく……っ」
                   ペニスを執拗に舐られながら窄まりを指で犯され、岡崎は誰かの手を必死に掴んでせがんだ。
                  「イ、きたい……」
                  「まだ、だめだ。あんたを後ろでイける身体にするのが、俺たちの役目なんだ」
                   くくっと笑う声ともに、ずくんと身体を真っ二つに裂くような肉棒が後ろから深く押し挿ってきた。
                  「あ――……ッ!」
                  「……いいね、いつも以上にひくひくしてる。岡崎くんの中は熱くてたまらないよ。男殺しの身体になってきてるよ」
                  「あ、あっ、あぁっ」
                   思いきり揺さぶられ、長い肉棒が最奥を突いてくることで、岡崎は頭を強く振って声をあげた。硬くみっしりとした感触が潤んでたまらない肉襞をずりゅっと擦り、長い時間をかけて意地悪く抜け出ていく。
                  「いや、だ……っ」
                   狂ったように声を振り絞ると、次の感触がやってくる。熱く、太い男根が頭の中まで一気に犯し抜くように貫いてきて、岡崎の声が嗄れても構わずにずくずくと突き上げてきた。
                  「……はっ……ぁ……っは……ッ」
                   四つん這いの格好で、膝がシーツに擦れて痛い。けれど、それすらも快感に変わる時間がすぐそこまで来ている。身体の位置を変えられ、誰かのものを下から挿れられて突き動かされた。騎乗位は、彼らがいちばん好む体位だ。なにもかもが無防備になってしまう岡崎の身体を弄り回し、くちびるやペニス、アナルにまで指や性器を押し込み、その熱と感触を愉しむのだ。
                   ひくっとしなる性器を根元から擦りあげられ、窄まりも男のものでみっちりと埋め尽くされている。
                   身体の真ん中が、どうしようもなく熱い。蠢いている。搦み付いている。男に犯されて悦ぶ本能が、もっと強烈で、もっと赤裸々な快感を欲していた。
                  「……ぁ……あぁ……っ!」
                   びゅるっと白濁が飛び出したのとほぼ同時に、最奥をしつこく突いていた男根もぐっとふくらみ、大量の精液をそそぎ込んでくる。
                   我慢に我慢を重ねただけあって、どくどくと脈打つ性器を触られるたびに全身がわなないた。
                  「も……う……だめ、だ……」
                   倒れ込みそうな身体を、誰かが支えてくれた。腕の太さからして、きっと幸村だろう。甘く耳たぶを噛んできて、「冗談じゃねえよ」と囁く声が悪い夢のようだ。
                  「まだまだこれからだろ。今度は俺があんたの中にたっぷりザーメンを出してやる……」
                   痺れる腰をぎっちりと掴まれ、さっきよりも逞しい肉棒がねじ込まれて、岡崎は声を失った。
                  「この前は幸村くんが先に挿れただろう。最初の奴の精液で熱くぬかるんでるきみの中の気持ちよさを、幸村くんにも味わわせてあげないと。ね? きみがどれだけ男を悦ばせる身体か、わかってるかな? 今夜はもっともっときみをおかしくしてあげよう。時間をかけて念入りに――僕たちの好みの身体に仕立ててあげよう」
                   顎を持ち上げられ、くちびるがかすかに触れた。それから、そっとくちびるが触れた。まるで、なにかを誓うかのようなキスは、乱れた吐息で支配されたこの場にはふさわしくないやさしさに満ちている。
                   その笑い声が誰のものであろうとも、断じて喜んで答えてはならない。
                   若く、野性味の強い幸村にとって、洗練され才気走った佐野はまたとない好敵手なのだろう。
                   ――そして、俺は? 俺はこれからどうなる?
                   ずぶっ、と深く穿たれ、乳首をきつく揉み潰される岡崎は熱く湿っていく闇の中で、否定も肯定とも取れない喘ぎを漏らした。涙も汗も、彼らのためにあるような気がした。
                   これから先、こんな場面は何度もあるだろう。何度も羞恥心と屈辱に苛まれ、涙を滲ませることになるのだろう。
                   ――いつまでも、俺は彼らに犯され続けるる。
                   それでも、たったひとつの事実がおのれを強く支えてくれる。その芯の強さが幸村や佐野を永遠に惹きつけてやまないことを知らずに、岡崎は無意識のうちに淫らにくねる身体を恥じ、感じ、彼らの感触を貪欲に受け入れた。
                   まだだ。
                   まだ、いまは狂うときじゃない。


                  やばいのです……

                  0

                    原稿アップまであともう少し……!

                    というところに来て、疲れています。

                    が、頑張らねばァンパンマン

                     

                    絶対にこの週末で上げるので見ていてください……!(なにをだ)

                    結構頑張って体調調整をしているのに、

                    くちびるにニキビができました……ガーン。

                     

                    というわけで、引き続き頑張ります。

                     

                    そうそう! 11/12サイン会ですが、たくさんのお申し込み、

                    ほんとうにありがとうございます!

                    コミコミスタジオさんのご厚意で、なんと追加枠が出ます。

                    募集は今日の10:30からです。バラお申し込みはこちら!バラ

                     

                    また、イベント終了後には、豪華景品が当たるプチイベントも開催されます。

                    (サイン会参加者様が対象です)。

                    サイン会の前日に発売する新刊「子育てしたいと言われても」関連の

                    なにかが出るかも……!

                    というわけで、ぜひよければ上記リンク先をチェックしてくださいね。

                    元気に皆さんとお会いできるよう、頑張っていきますリボン


                    チカ☆チカ☆エスカレーション!!(「誓約の移り香」番外編2006.5)

                    0

                       その手紙が届いたのは、風薫る爽やかな五月のある日のことだった。
                      「ふーん……管理組合かぁ……」
                       ポストに届いていた郵便物をあれこれ見ていた羽沢誓史、通称チカが一通の手紙の封を切り、かさかさと便せんをめくっている。
                       彼の足下に座り、手の爪を切っていた南千宗はその呟きを耳にして、「なに、どうしたんだ」と顔をあげた。
                      「管理組合って、このマンションのか?」
                      「いや、うん……違う……」
                       まるで要領を得ない言葉を返すチカが真面目な顔で手紙を読んでいることに、南は肩をすくめて再び爪を切り出した。
                       土曜の今日、校了を終えたばかりの身だけに昼過ぎにゆっくり起きて、ついさっきチカ特製のシーフードリゾットを食べさせてもらったところだ。
                       昼からリゾットとはまた豪華な、とびっくりすると、長身に黒のカフェエプロンを巻いたチカはにこにこと笑っていたっけ。
                      『僕の料理の腕って結構いいと思うんだけど、腕をふるう機会が案外少ないからね。きみが眠っているあいだにつくってみたんだよ。それに最近のセンちゃん、いつにも増して忙しいでしょう。おいしいものを食べて、しっかり体力つけて』
                       涙が出るほど愛情深い言葉をしりぞける南ではない。ここ数日、多忙続きでまともなものが食べられなかっただけに、チカの手料理は五臓六腑に染み渡る旨さだ。
                       銀色のベリーショートが似合う男が目を瞠るほどの旺盛な食欲で、深皿に盛ったリゾットを二杯平らげた。新鮮な魚介類を贅沢に使ったリゾットは味もやさしく、起き抜けの胃にもたれない。ついでに、最近チカがこっているという塩味のドレッシングで調えたサラダもボウル一杯に食べた。
                       それでいまは満たされきった気分で鼻歌を歌いつつ、手と足の爪を切っているというわけだ。
                       休日の午後、大きな窓から初夏の陽が射し込む部屋で恋人とのんびり過ごす時間は、なにものにも代え難い。
                       ボリュームを絞ったピアノ曲に合わせてぱちぱちと爪を切っていると、「あ」とチカがかたわらからのぞき込んできた。
                      「だめだよセンちゃん、あんまり深爪しちゃ。やすりで磨いたほうがいいよ。爪切りだと割れちゃう」
                      「面倒だからいいよ、これで。また伸びるんだし」
                      「だーめ。前にも言ったよね、センちゃんの手も足も爪も髪の毛一本も僕のものなんだから、もっと大切に扱ってよ。待ってて、いまやすりを持ってくるから。僕が整えてあげるよ」
                       そう言ってソファを立ち上がり、すたすたとリビングを出て行くパーカー姿のチカの背中に、南は苦笑いしか出てこない。
                       チカの愛の深さに対抗できるのは、きっとマリアナ海溝ぐらいのものだ。底が見えない愛情はときに、SMというけったいな趣味で威力を発揮して南を閉口させるが、たいていの場合は純粋で微笑ましい。
                       ――あいつみたいに人前に出るのが仕事じゃないんだから、俺の爪や髪なんて適当でいいのに。シャンプーやボディシャンプーの品質チェックまで厳しいんだよな。
                       毎日着る服もそうだ。デザインは南にも好みがあるから口を挟まないが、肌に直接あたるものに関するチカのチェックはとにかく厳しい。
                       そんなに気を遣うのはなぜかと以前聞いたら、『だってきみは僕のものだし』とまこと理由になっていない答えが満面の笑顔つきで返ってきて、おおいに脱力させられたものだ。
                       むろんそのあとには、いかにもチカらしいせりふがついていた。
                      『それに、やっぱり触り心地がいいほうがいいし。肌はね、一日手入れを怠っただけで感触が変わるんだよ。僕は毎日きみを触ってるから、よくわかる。つきあい始めた頃は肌理が整っていない部分もあったけど、いまじゃすっかり気持ちいい身体になったよね?』
                       気恥ずかしい言葉に、どこがだよ、と思わず問い返してしまったのがまずかった。長いこと柔道部で鍛えてきた身体のどこがいったい気持ちいいのかと、本気で疑問に思ったのだ。
                       すると、チカは切れ長の目をきらっと輝かせ、いやにわくわくした顔で言ったものだ。
                      『あのね、まずは内腿』
                      『う、……うちもも……』
                      『そう。僕の腰に絡み付いてくるときの筋肉がしっかりしているのは言わずもがなだけど、イキそうになる寸前のセンちゃんの内腿ってしっとり湿って気持ちいいんだよね……なんだろうあれ、びっくりするぐらいやわらかい部分もあるみたいなんだよね。あんな太腿に挟まれてごらんよ、僕じゃなくても昇天するって。ああそうだ、今度よかったらきみの太腿に挟ませてもらえないかな。ほら、女のひとがサービスしてくれる店にそういうのがあるじゃない。太腿に挟んで擦らせてもらうんだよね。きみの身体であれをするんだったら、どういう体位がいいかな。やっぱり正面かな……でもちょっと難しそうだよね? 挿れずに擦るんだもんね……うしろがいいかな。それならきみのあそこも擦ってあげられて、お互いに気持ちいいかも。ね、ローションを使えばぬるぬるするし、あともうちょっとで挿れてもらえそうなところをわざとそらされて、意地悪く犯される感覚って味わいたいでしょう。……うん、いいね、今度しようね。ああそうだ、肌の気持ちよさについて話していたんだっけ。内腿のほかは、やっぱりお尻かな。あそこも僕が毎日触ってあげているせいか、指が吸い付くようになったもん。ねえ、今度は叩いてあげようか。あ、もちろん叩くと言ってもソフトな感じから始めるとして……』
                       ひとつの話題から千も万もの方向に飛び散っていくのが、チカという男だ。
                       その頭の中身がどうなっているのか、いかに恋人といえどあまり知りたくない気がする。
                       このときだって、長々と続く露骨な話の途中から南が首筋まで赤くしてうなだれていたというのに、チカはいかにも楽しげだった。
                       ――おまけに場所を選ばないもんだから、なにかの罰ゲームをやらされているんじゃないかと思ったぐらいだ。
                       南の身体のどこが気持ちいいか、という話題にチカがのめり込んだのは、ふたりで買い物をしている最中のことだった。ちょうど切れていたボディミルクを買いに行った先で、ばらの香りがいいかバニラの香りがいいか悩んでいたチカに、『なんでもいいって、俺は』と言ったところ、『だめ。きみは僕のものなんだから、ちゃんと手入れしたい』と返ってきて、悪夢のような言葉に続くというわけだった。
                       店中だったから、周囲にはもちろん多くの客がいた。店員もいた。どちらかというと女性が多い店だっただけに、チカも気を遣ってごくちいさな声で囁いてきたが、それがなんだというのだ。聞いているのが自分だけだとしてもあんまりな内容に、頭がくらくらして目が回るかと思った。
                       チカの長広舌は毎度のことだが、未だまったく慣れられない。せめてベッドの中だけにしてくれればこっちも覚悟ができるのだが、ふとした拍子に、品のある深い声でつらつらと激しいことを言われるから、いたたまれない。
                       チカの中には、彼自身でさえも制御できないスイッチがあるんじゃないだろうか。ひとたびそのスイッチが入れば、南にまつわるありとあらゆる妄想のかぎりをつくした言葉が飛び出すのだ。もちろん、抑えきれずに手が出ることもままある。
                       それに、柔道部出身の現在二十五歳、職業はスポーツ雑誌の編集者という男がばらの香りを漂わせているのは自分でもどうかと思う。先日など、隣席に座る先輩の吉田にとうとう、『なんだァ南、最近いい香りさせてるよなあ。可愛いお姉ちゃんの趣味か?』とからかわれてしまったぐらいだ。
                       ――可愛いお姉ちゃんの正体が、身長百八十センチの銀髪、一粒ダイヤのピアスが憎たらしいぐらいにはまる男だって知ったら、吉田さんもびっくりするだろうな。おまけに、黒帯保持者だ。でも、あいつがばらの香りを漂わせていても、全然変じゃないんだよな。
                      「お待たせ。手を見せてごらん」
                       爪専用のケア用品一式を収めた箱を手にしたチカが戻ってきて、南の前に腰を下ろす。仕方なく右手を差し出し、任せてしまうことにした。
                       いつもはシャツにパンツといったスタイリッシュな格好の多いチカだが、今日は南のパーカーとスエットパンツを借りてラフな装いだ。
                       互いに似たような体格をしているから、サイズも問題ない。だけど、着古していい感じにくたくたになった自分の服を着たいと言ってくれるのは、きっとチカぐらいのものだ。そう思うと、突拍子もないことを口にするところはともかくとして、なんだか胸が温かくなる。
                       ――ちょっとばかり頭の回路がいかれているけど、俺を想ってくれるこころは純粋なんだよな。
                      「はい、じゃ左手も」
                      「うん」
                       慣れた手つきで爪を磨くチカがプラチナシルバーの頭をうつむかせ、南の左手の親指から順に形を整えていく。
                       丁寧なその仕草に、俺も愛されているんだよな、と南が口元をほころばせたときだった。
                      「……ねえ、センちゃん。お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
                      「なんだ。言ってみろよ」
                       手から伝わる体温にこころもほぐれ、鷹揚な気分で頷く南に、だがしかしチカのほうが一枚も二枚も上手だった。
                      「あのね、真柴さんから手紙が来たんだよね。僕たち、最近、独自に管理組合を設立してね。会員はまだ三名しかいないんだけど」
                      「真柴……」
                       記憶に薄い名前に思惟をめぐらせ、――ああ、あの眼鏡かと五秒後に思い出して顔をしかめた。
                      「真柴から手紙?」
                      「そうだよ。あのひと、電子メールがあんまり好きじゃなくて、大事な用件はすべて手紙で送ってくるんだよ。いまどきめずらしいよね。でも、僕は結構いいと思うんだよね。メールよりもこころが伝わるし、真柴さんの文字って綺麗なんだよ」
                      「おまえも綺麗な字を書くじゃないか。だいたい書道教室を開けるぐらいの腕前なんだし」
                      「まあね」
                       微笑むチカにつられて南も笑い返し、いいやそうじゃない、いまは笑うところじゃなかったと慌てて顔を引き締めた。チカにつき合っていると、どうも話が脱線してしまうことが多くて困る。
                       ――真柴って言えば、クラブ・ゼルダのプレイヤーじゃないか。そんな奴とどういう組合をつくったっていうんだ。
                       あまたの店がひしめく東京・六本木にその名を轟かせる、SMクラブ・ゼルダのスタープレイヤーというのが、チカの職業だ。
                       黙って立っていれば、威力のあるきわどい目元に色気が滲むふっくらしたくちびる、長い手足にちいさめの頭という恵まれた容姿で、トップモデルと間違われることも多いのだが、彼のほんとうの姿は、多くの奴隷を従えるご主人様だ。
                       その手の店として老舗のゼルダには、ほかにも個性的なプレイヤーがいると聞いている。そのひとりが、真柴俊介という男だ。財務省国際局に勤めるエリート中のエリートながらも、週に一度はゼルダで奴隷を鍛えているというのだから、人間というのは見た目だけじゃ判断できないものだ。
                      「……あの真柴とどういう組合をつくったんだよ。SMプレイヤーの雇用について真面目に考えてるとか?」
                      「ハハ、まさか」
                       南の疑問を可笑しそうに打ち消したチカが、左手の中指を削ってふっと息を吹きかける。
                      「はい、じゃあ今度は薬指だよ。……いや、労働組合じゃなくて、管理組合。僕らは奴隷の調教を仕事としているでしょう。奴隷の忠誠心を高めるためのより効果的な方法を日夜研究しているわけだけど、自分ひとりでやるのも限界があるんだよね。それで、やっぱりこういうことにも活発な意見交換が必要かなと思って、少し前に真柴さんと僕とあともうひとり、加藤さんってプレイヤーと三人で組合をつくったんだ。……でね、第一回目の議題が『射精管理』なんだよね。それぞれ奴隷の性欲をいかにコントロールできるか、実地で確かめつつ、競い合おうってことになっていてさ……あれ? どうしたのセンちゃん、ぐったりしちゃって。疲れた?」
                       疲れたどころの話じゃなかった。
                       聞いている最中から身体中の力が抜けてしまい、真面目に聞く気も失せた。
                       この広い世界のいったいどこに、射精を管理する組合をつくろうと考えるバカがいるのか。
                       ――俺の目の前にいるじゃないか。
                       力なくソファにもたれてため息をつく以外にすべきことがあるというなら、誰か教えてほしい。
                       空恐ろしいことを淡々と口にする恋人の頭の中身を、いまこそ真面目に疑うべきなんじゃないかと思ったが、いいやもう遅いという気もする。
                      「で……そのアホな管理組合がなんだっていうんだよ……」
                      「うん、……あのね、僕はきみを奴隷だとは思ってない。思ってないよ、ほんとうだよ。前世でもきみとしあわせな一生を終えたと思うし、来世でもかならずセンちゃんを見つけ出して恋人になる覚悟があるよ」
                       どういう覚悟なのだと問い返す前に、妙に思いつめた顔をするチカが、手入れをしていた薬指をぎゅっと掴んで身体を寄せてくる。
                      「お願いです、センちゃん。僕の言うことを聞いてください」
                      「な、なんだそれ、ちょっと待ておまえなにを言おうとし……っ」
                      「僕に、きみの射精を管理させてください」
                       秀麗な顔は真剣そのものだが、南は呆気に取られて声も出なかった。
                       彼が自分と同じ日本語を喋っているとは、到底信じられない。
                       ドイツの大学へ留学していたぐらいだから、ひょっとしていまのはドイツ語で喋られたのだろうか。だったら、理解できないのも無理はない。自慢ではないが、編集者として、日々、正しい日本語をきっちり操るのだって大変なのだ。
                       額に浮かんだ汗を袖で拭い、南は弱々しく笑う。頑丈な身体だけが取り柄の自分としたことが、初夏の陽気にやられてしまったのだろう。
                      「な、なんか俺、いま耳が一瞬おかしくなったんだよな。ふふ、そうだよな、チカが俺のしゃ、しゃ……しゃ……」
                      「射精管理をさせてって言ったんだよ」
                       艶っぽい声にある種の凄みを交えたチカが、いきなり薬指をきつく噛んできた。
                      「……つッ……」
                      「ねえ、一度でいい。きみの性欲を僕に管理させて。センちゃんにとってもいい体験になると思うんだよ。性欲をコントロールすると、快感の幅が前よりもっと広く、深くなる。こんなふうに指を噛んだだけでもいけるようになると思うし、……きみの好きなここも」
                      「……おまえ……ぁッ」
                       Tシャツの上から胸をまさぐられ、思わず声が掠れてしまった。
                       長い指が、胸の尖りを浮き立たせるようにゆっくりと這い回る。弱めの愛撫が、逆に焦れったい快感を呼ぶようだ。敏感な先端が淫らな芯を孕んでTシャツを押し上げる頃には、南の目も潤んでいた。
                      「……ばか、なに、……すんだよ……」
                      「気持ちいい?」
                      「ん……」
                      「可愛い、センちゃん……。きみってほんとうに乳首を弄られるのが好きだよね」
                       くすりと笑うチカの色っぽいくちびるに、とっさに「そんなこと、ない」と羞恥心に身体をよじらせた。
                       そこが弱いのは事実だけれど、生まれつきというわけじゃない。
                       服を着替えるときや風呂で身体を洗うときに、なにげなく触れてしまうことは何度となくあった。だが、淫靡な意味で触ったことは一度もない。それをチカに開発され、男の指で感じるようにされてしまったのだ。
                       感じやすいと自分でわかっていても、正面きって同意を求められると恥ずかしくてしょうがないし、「……俺の、せいじゃないし」と反発心も湧き上がってくる。
                      「チカが、変な意味で……触らなければ……」
                      「変な意味って、どんなの?」
                       不思議そうな顔のチカが腹立たしいかぎりだ。まさか、いちいち説明しなければわからないわけではないだろうが、演技なのかそうじゃないのか。朦朧とする意識では判別できず、明るい部屋の中でTシャツをたくし上げられながら南は身悶えるだけだ。
                      「そういうふうに、指で、こねたり、……つまんだり、するのって……変だって……ッぁあっ、噛むな、バカ……!」
                       ちゅくちゅくと音を立ててそこに吸い付くチカが、「ん?」と目だけで笑う。もう片方の乳首も、尖る先端に触れるか触れないかというところで指が動き、微妙な感じがたまらない。
                      「……あ、あ……」
                      「もう噛んでないってば。……ね? 指で可愛がってるだけだよ。こうして毎日揉んであげることで、きみのここは感度がもっとよくなるんだよ。最近、シャツに擦れただけでも感じるようになったでしょう。電車の中で誰かに触れて、思わずイキそうになったりしてない? 大丈夫?」
                       まともに答えることもできなかった。
                       チカの言うとおり、自分のそこが以前のように身体のなんでもない一部ではなく、性感帯のひとつになってしまったのだと思い知らされることが日常で多々ある。
                       風呂にひとりで入っているとき、ふと思いついて触ってしまうことがある。最初はもちろん、冗談だ。こんなの、自分でやっても感じるはずがないと思っているのに、いつの間にかチカの指で弄られる夜を脳裏に描いて、きつく、弱くこね回し、鼻から抜ける甘い喘ぎ声に自分でびっくりしてしまう始末だ。
                       いまも、そう。チカの綺麗な指でもてあそばれる赤く淫らな肉芽はふっくら腫れ、きゅっと押し潰されるたびに下腹を疼かせるような快感をもたらす。
                      「いやだ……もう、いやだ、……」
                       そこだけの執拗な愛撫にすすり泣く南の顎を強く押し上げ、チカがそっとくちびるをふさいできた。
                      「ん……ッ」
                       長く温かい舌がぬるりと挿り込んできて、たっぷりとした唾液を伝わせてくる。
                       飲んで、と目顔で言われ、ごくりと喉を鳴らした。もう一度。もう一度。チカのキスは長く淫蕩で、舌をうずうずと擦り合わせるあいだも視線は合わせたまま。飲みきれない唾液がくちびるからあふれ、顎を伝っていく。
                      「……ん、んん……」
                       涙混じりにくぐもった声で応え、引き締まった身体にしがみつく以外なにができるというのだろう。
                       ――俺だって、男だぞ。柔道部の主将だったのに、どうしていまはチカの言いなりになってしまうんだ。そりゃ確かに気持ちいいし、いつもいかされてしまうけれど、一方的なのは悔しい。
                      「……千宗のここ、もうびしょびしょになってる。すごいね、どうしたの。乳首だけでイケちゃいそう?」
                       互いに座ったまま、正面から抱き締め合うような格好で、右手で乳首を弄り回され、左手がスエットパンツの中にもぐり込んできて、ぬちゃぬちゃと音をたてている。
                       グレイのスエットパンツの中で、チカの指に握り締められていると考えただけであふれ出してしまいそうだ。ゆっくりと扱かれ、たまにスエットパンツの穿き口から濡れた亀頭が見え隠れするのがどうしようもなく恥ずかしい。こんなのだったら、いっそ、全部脱がしてくれたほうがいいのに、いやらしく濡れるそこが見えたり見えなくなったりという視覚効果で南が感じ入ることもすべてお見通しなのだろう。いやに時間をかけて愛撫され、気が狂いそうだ。
                      「ね、千宗、……射精管理しようよ。大丈夫、痛いことはなにもしないし、一週間だけだから」
                      「ッや、だって……そんなの、しなくても、……俺は……っ」
                      「あのね、じつはもう約束しちゃったんだよ。真柴さんたちと、自分の奴隷を管理しあおうって……あ、違う違う、きみは僕の恋人。いまのは言葉のあやだから怒らないで。でね、きちんと一週間管理してレポートを出さないと怒られるんだよ」
                      「おこ、られるって、なに、……どんな……ッあ……やめ、ッ……そこ、そんなに……」
                      「もしもレポートを提出できなかったら、僕が真柴さんと加藤さんに管理されちゃうんだよ」
                      「え、……なに……なっ、……」
                      「僕があのひとたちの言うことを聞かなきゃいけなくなるんだよ。そんなの、千宗もいやでしょう? 僕だっていやだよ。だって真柴さんはゼルダきっての武闘派だし、加藤さんは……ああ、今度紹介するね。一見普通のサラリーマンに見えるんだけど、スパンキングとアナル調教じゃ加藤さんの右に出る者はいないと言われているんだよ。二十七歳で、最近、会社の三つ上の先輩を奴隷にしたんだって。僕もこのあいだひと目見せてもらったけど、やらしいことなんかひとつも知らないって顔の可愛い大人の男だったなぁ……。でもね、マゾの素質が大ありなんだって。加藤さんがプレイヤーだって知らずに、ゼルダのショウをこっそり見に来たのが互いの性癖を知るきっかけだったんだよ。いいよね、なんだか運命的だよね。そのひと、いまじゃ加藤さんに毎日苛められて泣いてるらしいよ」
                       いまこそ声を大にして言わねばなるまい。
                       チカの頭はどうかしている、おまえの周りの奴らももれなくそうだ、――と怒鳴れたら、いまのような関係は築いていなかったはずだ。
                      「お願いだよ、千宗。一生に一度のお願い。一週間だけでいいからきみの射精管理をさせて。そうでないと、僕があのひとたちに管理されちゃうんだよ。それ、いやでしょう? 困るでしょう?だから、ね? 言うことを聞いてくれたら、いまからほら、……きみの好きな太くて硬い僕のこれでうんと可愛がってあげるから。お尻の奥まで突いてあげる。カリで擦ってあげるから、僕の言うこと聞いて。あ、……こら、触るならもっとやさしくしてよ。だめだって、そんなにきつくしたら。ね、いいよね? 中にいっぱい出してほしいでしょう? ね? ほら、うんって言って、千宗……――いい? ホント? ほんとうにいいの? ……ありがとう、嬉しいよ。じゃあ、早速月曜日から始めようね。その代わり、今日はいっぱい絞ってあげる。うしろを向いてごらん。ソファに手をついて、……そう、お尻を高くあげて、ひくひくしてるところを僕に見せて。……頭がおかしくなっちゃうぐらい、してあげるよ」
                       衰えることを知らぬチカの魔法の言葉が頭の中でぶんぶんと唸るなか、なかば呆然としながらソファに手をつき、スエットパンツも下着も脱がされた下肢をおずおずと掲げる自分というのは、いったいなんなのか。
                       快感から逃れられずに、射精管理などという恐ろしいアイデアに頷いてしまい、背筋がぞくぞくしてくるが、万が一にもチカが真柴たちに組み敷かれることを想像したら、いやだと突っぱねることはできなかったのだ。
                       昼間だろうがリビングだろうが、チカに触れられたらそこが彼とのベッドになる。
                       ――ほんとうにバカだ、俺は……。
                       じわっと涙が浮かんだ瞬間、チカが背後から容赦なく突き挿れてきた。

                       

                       

                       

                       翌日から地獄の日々が始まった。
                       以前、一週間のお試し奴隷期間があったが、あのときはチカも主人の立場に徹したせいで、口調そのものが変化し、冷酷な態度に自分としたことが内心怯えたものだ。
                       けれど、今回そういったことはなく、恋人の甘い態度を崩さずに接してくれているのはありがたい。
                       ありがたいのだが、起き抜けに自慰をさせられるとは思わなかった。
                      「はい、じゃ、パンツ脱いで」
                      「おまえな……」
                       週明けの月曜、仕事に行くために寝ぼけ眼を擦って起き出した南の寝癖のついた頭をくしゃくしゃと撫で、チカが笑いかけてくる。
                      「射精管理は始まってるんだよ。今日から一週間、よろしくお願いします」
                      「は……こちら、こそ……」
                       深々と頭を下げられたので、つられて天蓋付きベッドの上でお辞儀をしてしまった。だが、その直後に股間をぎゅっと掴まれ、顔が強張ってしまう。
                      「なっ、なに……」
                      「オナニーして」
                       問答無用でパジャマのズボンを引きずり下ろされた。
                      「……バカ、おまえ朝からなにやってんだよ!」
                       あんまりな事態に必死にもがいたが、こういうとき、チカの底力というのは遺憾なく発揮されるようだ。目と鼻の先でにこりと笑い、「朝勃ちしてるみたいだから、大丈夫。気持ちいいよ」とまるでひとの言い分を無視したことを言う。
                      「射精管理の基本は、当たり前なんだけど射精を我慢することから始まるんだよ。これから毎日、きみにはオナニーをしてもらいます。でもね、いっちゃだめ。出しちゃだめ。ぎりぎりまで我慢して、出すことを堪えて」
                       まったくもって気が狂っている。反論しようとしても、口がぱくぱくと虚しく開いたり閉じたりするだけで、文句は一向に出てこない。そうこうしているあいだにも、チカはベッドそばにいつも置いているローションを手に取って温めてから、南のそこに触れてくる。
                      「……ぁ……っ」
                      「起き抜けに触られるのって、妙に気持ちいいよね。でも、こうしてローションで濡らしてあげるのは今日だけだよ。僕が触れるのは七日後、そのあいだはきみ自身がやらないと、ほんとうの意味での管理にならないから。……射精を管理されるっていうのはつまり、きみの身体ばかりか精神的にも僕の支配下にあるってことなんだよ。いつでも感じることはできるけれど、決定打を与えるのは僕だけ。イクって感覚を、きみはよく知っているでしょう? 普段はあの感覚に手綱を付けないで、僕に抱かれているときもイキたいときイッてると思うんだけど、今日から七日間はそれさえも僕が決めるんだと覚悟して。もちろん、きみを奴隷扱いしているわけじゃないことはよく覚えていてね。これは単なる実験のひとつに過ぎないんだよ」
                       わかったようなわからないような理屈を並べたてられるあいだも、ぬるぬるした手で巧みに扱かれて腰に火が点きそうだ。
                      「はい、じゃ、ここからはきみがやってみて」
                       チカが手を離してしまったことで、南は恨めしげな目つきで自分のそこを見下ろす。
                       いまや臍につくぐらい反り返ってしまったそこはローションのぬめりもあるせいか、先端から根元の茂みまで濡れていて、正視できないいやらしさだ。
                      「……ん……」
                       仕方なく、言われたとおりに自分のそこを握ってたどたどしく指を動かした。全身にチカの視線を感じて、汗が噴き出す。瞼をぎゅっと閉じて、感覚だけに頼った。
                      「あっ……あっ……」
                      「ふふ、昨日あれだけ絞ったのに、濃いのが出てる」
                       根元から先端に向かって両手で擦り上げると、ぎゅうっと絞られるような快感が脳天を突き抜ける。くびれに指を絡み付け、そこから何度も揺さぶった。
                       土曜と日曜、チカに散々抱かれて、身体のあちこちにはいまも噛み跡が残っているはずだ。最近のチカは感極まると、きつく歯を立てることがよくある。それで感じてしまう自分も自分だと内心なじり、先端の割れ目に指を埋めて小刻みに扱いた。それから、重たい熱を持ってしこる陰嚢も軽く撫で回す。
                       目を閉じていると、嗅覚や聴覚が敏感になるようだ。チカがいつも使っている甘く深いフレグランスが鼻をくすぐり、自分の手の中でぬちゅぬちゅいう音もやけに大きく聞こえる。仕方なしにやっているというには、硬く昂まるペニスから指が離せなかった。
                       ――チカに、見られている。俺がやらしく扱いているところを、全部。
                       背骨の下をつうっと這い上がる強烈な快感に昂ぶり、ああ、と喘ぎを漏らしたときだった。
                      「……いき、そう……」
                      「だめ。いかないで、我慢して」
                      「っァ――でも……でも、……っ」
                      「だめだよ、センちゃん。ここで我慢しないと管理にならないんだよ」
                       ぴしゃりと優しく腿を叩かれ、慌てて瞼を開いた。自慰にふける南の姿を一部始終見守っていたらしいチカは微笑みながらも、ひどく真剣なまなざしを向けてくる。
                      「我慢して、センちゃん」
                      「……ん、……は、……ッは……」
                       急速に高みに昇ろうとしたところを引き戻されるのが、どれだけつらいか。
                       目頭が熱く潤み、息も荒い。頭の中なんか、真っ白だ。せっかくあともう少しでいけそうだったのに。
                       全身に汗をかき、はあはあと息を途切れさせて突っ伏す南の両手をそっとそこからはずし、チカがやさしく背中を撫でてくる。
                      「きみの痴態を見守ることが僕に課せられた使命なんだよね。……ああもう、僕も勃ってきた……ううん、でも、我慢するから……これから一週間、頑張ろうね」
                       本気で死にたくなってきた。

                       

                       


                       日中、チカの目が届かない場所にいるあいだは、貞操帯代わりのサポーターをつけられることを命じられた。少しサイズがきつめのそれは、朝の半端な自慰で昂ぶった性器をほどよく締め付け、始終甘い疼きをもたらす役目を果たす。
                       本格的な貞操帯もあるにはあるが、鍵付きになってしまうという。それだと、日常生活に支障をきたすからサポーターにしようというチカが言ってくれたのだが、そのやさしさからして、なんだか間違っていないだろうか。
                       ともあれ、怪我もしていないのにサポーターをつけて会社に行くことになってしまった。
                       総合出版社・メディアフロントの月刊スポーツ誌「月刊プレイヤーズ」編集部が、南の勤め先だ。
                       こうなったら仕事にのめり込むしかないとばかり、全精力を傾けて原稿を書き、チェックし、資料をさらった。
                       だが、ふと気がゆるむと、もやもやした快感が身体の奥のほうに溜まっていることに意識が流れてしまう。それも時間を増していくたびに、ひどくなっていく。
                      「おい南、ちょっと悪いんだけどよ、これコピーしてきてくれねえか。次号の付録台割、俺とおまえの割り振りをしてみたからさ」
                      「あっ、はい、はい」
                       夕方過ぎ、隣席の先輩編集者である吉田に書類を渡されて立ち上がった拍子に、サポーターに締め付けられている場所からとろっとなにかが染み出す感覚に襲われて、びくんとのけぞった。
                       その様子に気づいたのだろう。吉田が不審そうな顔で見上げてくる。
                      「どうした、顔赤いぞ?」
                      「いえ、あの、……いえ……なんでも、ありませんアハハハハハいやもうホントに……」
                       うろたえながら後じさりし、膝をがくがくさせながらコピー機で付録の台割をコピーし、「吉田さん、おま、お待たせしまし、した」と舌を思いきり噛んだあとは、トイレにいちもくさんだ。とはいっても、走ると変に股間に刺激を与えてしまうので、すり足で行くしかない。
                       情けない姿に、どこぞの泥棒かと涙が出そうだ。
                      「どうしたよ、南。へっぴり腰で。ヘルニアか? 気をつけろよ。編集者は腰がイカレやすいからな」
                       他部署の先輩にも奇妙な顔をされながらトイレに入り、個室の鍵を閉めたところでやっとひと息ついた。
                       ――こんなのが一週間も続くのか。
                       焦れったくベルトを抜いてジッパーを下ろし、思いきってスラックスもサポーターもまとめて、膝まで脱ぎ落とした。
                       不用意に触らないほうがいいとチカに言われたが、『射精しなければ、どんなことをしてもいいよ』とも言っていた。窮屈なサポーターで数時間締め付けられたそこがどうなっているか、目で確かめるぶんには問題ないはずだ。
                       しかし、サポーターを脱いだとたん、ぶるっと飛び出る感触とともに視界に入ってきたいやらしい光景に、腰が抜けそうになってしまった。
                       ずるずると壁にもたれながら便座に腰を下ろし、そそり立つ自分のそこに思わず顔がかあっと熱くなる。
                       完全に勃起した状態の竿はいつもより太く、赤く充血し、触ってもいないのに割れ目が物欲しげにひくひくとうごめいて淫らなしずくを垂らしている。おそるおそる前屈みになってその下をのぞきこんでみると、陰嚢もぱんぱんに腫れ上がっていた。
                       泣きたい。許されるなら、いまここで大声をあげて泣いてしまいたい。
                       仕事しているあいだ中、ずっと勃起していたのだと思うと、どういう変態だ俺は、と歯ぎしりしたくなってくる。
                       触りたい。チカの言いつけなんか破ってしまって、思いきり扱いてイキたい。
                       ――いいじゃないか、べつに。会社にいるあいだにやってしまえば、ばれない。……でも、もしばれたら。俺を管理できないとわかったら、あいつは真柴たちの管理下に置かれてしまうんだ。
                       ゼルダが誇る武闘派プレイヤーの真柴の支配下に置かれたら、どんな目に遭うか。上質の筋肉を全身に張りめぐらせたチカをむりやりねじ伏せる冷酷な男の横顔を思い浮かべ、知らずとシャツの上から胸をまさぐってしまった。
                      「……あ……」
                       びりっと痺れるような刺激に驚いて見下ろすと、乳首がうっすらと透けてシャツをせり上げている。慌ててネクタイを首のうしろに投げて、ボタンをはずした。
                       ――真っ赤だ。なにもしてないのに。
                       空気にさらされてひりひりする突起はいつにも増して赤く、熟れた実のようにぷくりとしている。
                       その色に魅入られて指でそっとつまんだ瞬間、身体の真ん中をずんっと突き上げるような快感に襲われて、「ッあ……!」と甘く掠れた声をあげてしまった。
                       直後に目を見開き、口を両手でふさいだ。たった一瞬でも、会社のトイレにいたことを失念してしまった。
                       いったい、いまのはなんだ。知らない快感だった。
                       ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ触ったに過ぎないのに、燃えるような火箸をあてられたような官能だった。
                       信じられない。
                       たった数時間で、こんなに感じる身体になってしまっている。
                       涙目で無惨な身体を見下ろし、のろのろと乱れた衣服を調えようとしたが、一度意識してしまうともうだめだ。
                       ――射精しなければ、なにをしてもいいって言ってた。触るだけなら……ちょっとだけだから、……ほんとうにちょっとしか触らないから……。
                       今度は絶対に声を漏らすまいとくちびるを強く噛み、南はゆっくりと乳首を擦り、濡れて勃起する性器をゆるゆると扱いた。
                       ――チカ、チカ、だめだ、――俺、イッちゃいそうだ、出しちゃいたい。
                       だけど、だめだ。チカを真柴たちにいいように扱われてなるものか。
                       深く息を吸い込んでふうっと吐き出すと、涙がこぼれそうなほど目が潤み、息も火が点いたみたいに熱い。
                      「チカ……」
                       ちいさく呟いて、南はぼうっとした意識で壁にもたれた。イキたいのにイケない苦しみが頭を締め付ける。
                       いまはまだ性器と乳首を弄ることでなんとかしのいでいるが、もう少ししたら、いつもチカが深く押し挿ってくるあの部分までむずむずしてしまいそうで、自分で自分が怖い。
                       実験はまだ始まったばかりなのに、ほんとうに耐えきれるのだろうか。

                       日が経つにつれて、南の感じる苦悶は大きく、深みを増していく。
                       毎朝のオナニーは射精寸前で止められ、出したい欲求が募りに募って、まるで身体中が火にくるまれてしまったみたいだった。
                       そんなとき、チカはきまって労しげな目で見つめてきて、滲み出した精液で汚れた南の手を綺麗に拭き、「よく頑張ったね」とキスしてくれる。それ以上のことをすると刺激が強すぎるから、と彼もあえて手を出してこなかったが、たまに我慢がきかず、南が朦朧とした意識で乳首を弄る手を払いのけ、気がすむまで強く強く揉み込んでくることがあった。
                      「あぁ、チカ……――ッだめだ、も、う……っもう今度は、いきた、い……いかせろ……っ」
                       すすり泣いて喘ぐ南がシーツを蹴っ飛ばしてせがむところを、額に汗を浮かべるチカが「だめ、絶対にだめだよ」と言いながらのしかかり、疼いてどうしようもない乳首をねちねちとこね回してくるのだからたちが悪い。
                       南が必死ならば、チカも同じく必死だったようだ。半狂乱になって悶える南を放っておくことができず、普段はけっして見られないような痴態にもともと少ない理性が吹っ飛ぶらしい。
                       全力で覆い被さってくるチカのそこが硬く盛り上がっているのを感じ取ると、もうなんでもいいからしてほしい、どろどろにとけ合いたいという鋭い欲求が何度もふくれあがった。
                       たった数日で、身体が変わっていくことを南は実感していた。サポーターで締め付けられたペニスはつねに勃起し、漏らしたみたいに濡れっぱなしだった。おかげで、何度もトイレに通ってはそこを拭い、痺れるような刺激に息を殺さなければならなかった。
                       もちろん、乳首もいつも感じやすくなっていた。シャツに擦れてやわらかな粘膜がひりつき、少しでも痛みを薄くしようとうっかり触ってしまって喘ぎが漏れ、――そうか、痛いんじゃなくて感じすぎているんだと気づいて愕然とした。
                       長い絶頂がずっと続いているような感覚に終日包まれ、よく夢の中で射精せずにすんでいるよなとばかげたことにほっとした金曜の夜だった。
                       明日でこのつらい苦行も終わるという日の九時過ぎに、南を訪ねてきた人物がいた。
                      「南さぁん、お客様がいらしてます。A会議室にお通ししてあります」
                       アルバイトの小林の朗らかな声に、入稿作業に没頭していた南は、「……あ」と振り向く。それでぎょっとするのは、小林のほうだ。
                      「南さん、なに、どうしたんですか。そんなに赤い顔しちゃって……熱でもあるんですか?」
                       情けないかぎりなのだが、もう限界寸前だった。健全な二十五歳の男子たるもの、性欲をコントロールされ、射精を寸止めされる日々に頭がおかしくなりそうだ。終始、霞を帯びたみたいに頭はぼうっとして、熱い。手も足も、熱っぽい。目も潤みっぱなしだし、喘ぐのを堪えようとひっきりなしにくちびるを噛むから、そこも熱を持って腫れぼったくなってしまった。
                      「平気……平気、A会議室な……」
                       席を立ってふらふらと歩き出す南に、ちょうどトイレから戻ってきた吉田が「お、おい」と目を丸くしている。
                      「大丈夫かよ、あいつ……身体揺れてるぜ」
                      「なんか今週ずっと変でしたよね。いまごろ風邪ひいたのかな」
                       同僚たちの心配する声をよそに、フロアの片隅にもうけられた会議室に近づき、「し、失礼、します……プレイヤーズの……南で、す……」と息も絶え絶えに扉を開けた直後だった。
                      「き、きみは!」
                       室内で待っていた客の姿に南は目を瞠る。以前もこれと似たような光景があったっけ。
                       だが、『チカ様を諦めないなら、この会社を潰してやる』と豪語したときとはうって変わって、品のいいスーツに身を固めた若い男は南と同じように、ぼうっと上気した顔だ。
                       その欲情に濡れた目に、思わず胸がどきりとしてしまった。
                      「橘くん……」
                      「久しぶり……」
                       言ったきり、ぐったりとテーブルに突っ伏す橘美散は喋るのも億劫らしい。出された茶はとっくに飲んでしまったらしく、湯飲みが空だ。薄い肩をはあはあと上下させているところから、まだ喉が渇いているのか、と聞くと、ううん、とちいさな頭が揺れる。
                      「違う……」
                       彼らしくもなく弱々しい声に、「どしたんだよ」と隣に座って顔をのぞき込むと、はあ、と艶っぽいため息と一緒に彼がこっちを向いた。
                      「……管理、されてる?」
                      「え……?」
                      「射精、管理……」
                       ひとつ喋るのも大儀そうな橘は深呼吸をして、もぞもぞと椅子に座り直す。
                      「チカ様に、管理されているんでしょう……。僕も、なんだ」
                      「おまえが、チカに?」
                      「違う、……真柴、……さんに……」
                       ほんとうは真柴、と呼び捨てたかったようだが、言いにくそうな表情で「さん」とつけたあたり、彼らの関係はなにやら新しいステップに進んだらしい。
                       人目を惹く整った橘の顔立ちは甘く、猫みたいにつり上がった目がきらきらして魅力的だ。
                       以前は、チカを挟んで揉めたこともあったけれど、その後、そういえば真柴に引き取られたのだったと思い出し、「おまえも……されているのか」と聞くと、「うん」と頭が斜めに傾ぐ。
                      「こんなにつらいとは思わなかった」
                      「俺もだよ。今週は全然仕事にならなかった。毎日毎日、寸止めを食らってさ……気が狂いそう」
                      「だよね」
                       同病相憐れむ、とはまさしくこのことだ。顔を見合わせて力なく笑った。
                      「僕さ、いままでこんなふうにされたことないんだよ。チカ様の奴隷だった頃は、言葉で苛めていただいていたけれど、真柴――さんは、ほんとうに身体に触ってくるんだよ……それが、怖くて……」
                      「怖い?」
                       目元を赤く潤ませる橘から漂う色香といったら、ただごとじゃない。真柴がどんな手段を使っているか知らないが、こんな状態でひとり外に出していいのだろうかと南が不安になってしまうぐらいだ。
                      「……いまだから言うけど、僕ね……最後までしたこと、ないんだよね。でも、今回の射精管理が無事終わったら、ま、しば、……さんが、するって……」
                      「するって、なにを……」
                      「……言ってもいい?」
                      「いいよ、言えよ」
                       すくあいげるような目つきに負けた。弱っている橘を冷たく突き放すことはできない。
                      「だ……、だんこ、ん、ちょうきょう……するって言うんだよ……」
                      「はあ? だんこん? ……だんこん……? 男、根……ああ……ッ!」
                       意味がわかったとたん、頭の中に聞いたこともないファンファーレが鳴り響くようだった。心臓が激しく脈打ち、口元をわななかせる南のそばで、しかし橘は憎まれ口をたたく気力もないらしく、身体をぐらぐらと揺らしている。
                       この会議室が編集部と離れていてよかった。ほんとうによかった。
                      「なんだ、その……男根調教って……響きからして怖いじゃないか……」
                      「怖いよ。……いや、でも、あんたはもうチカ様にしてもらってるんじゃないのかな」
                      「お、俺が?」
                      「まあ、ぶっちゃけアナルセックスのことだよ。フェラチオから始まって、ご主人様のペニスをいついかなるときでも愛せるように仕込むものでね……。最後は全身でご主人様を悦ばせるんだよ。お尻はもちろん、太腿のあいだで擦られることもあるし、手でいかせて差し上げるのなんか基本中の基本だよ」
                       言われて、納得した。確かにそれはすでにチカとのあいだでは何度も何度も経験している。
                       ――そう、一週間前だって。
                       可愛がってもらった身体を疼かせたのがわかったのかどうか知らないが、橘がふっと笑い、「思い出し笑いなんかしないでよ、気味悪い」と呟く。
                       だが、その声にもやっぱりいつもの気迫はない。
                      「……で、なんだ。おまえ、その……うしろで、したこと、ないんだ」
                      「うん。ない。なんとなく怖くて、チカ様もそういうのは無理強いしない方だったから……でも、真柴さんはかならずやるんだよね。いままでもどの奴隷にもそうしてきたって言ってた。『最初の主人の感触を、次の主人に存分に可愛がってもらうことで打ち消してもらうのが正しい調教だ』っていうのが彼の持論なんだよ。この場合、最初の主人っていうのは真柴さんのことね。僕の次のご主人様はまだ決まってないけど……そのひとをちゃんと悦ばせる身体に仕上げることが、バイヤーの使命なんだって」
                      「そりゃまた大変な……」
                      「でね、いまも……射精管理を兼ねて、男根調教の下地を始めているんだよ。一日中、ローターを入れっぱなし……」
                      「えっ」
                       最後の言葉にびくりと振り返ると、橘は額にじっとり浮かんだ汗を拭っていたところだった。
                      「大丈夫。いまここでイかないから。ローターも動きっぱなしじゃないんだけど、あそこにモノがずっと挟まってる感覚っていうのになかなか慣れられなくてさ……」
                      「そんなもの、慣れなくたっていいだろ。むしろ慣れるな」
                       思わず本音を漏らすと、橘はちょっと目を瞠り、可笑しそうに笑う。
                      「相変わらず変なこと言うんだね、あんたは。全然奴隷らしくない」
                      「当たり前だろ、俺はチカの恋人だよ。奴隷じゃない」
                      「そう、……うん、でも僕は奴隷として生きるのが正しいと思ってるから。真柴さん本人はともかく、ご主人様に従うのが奴隷の使命だと思うから……頑張る」
                       健気な言葉にほろりとくるのだが、ご主人様だの奴隷だのという扇情的すぎる言葉がぼこぼこと挟まることで、感動的な気分も台無しだ。
                      「もしここで僕がイッちゃったら、真柴さんがチカ様や加藤さんの管理下に置かれるんだもん。なんとしてでも乗り切るよ」
                      「それ、やっぱりほんとうの話なのか」
                       誰が脱落しても、管理される結果に変わりないらしいことにげっそりと肩を落とす南に、橘が微笑みかけてくる。
                      「僕は負けないからね。奴隷の意地を懸けて絶対に残ってみせる。……あんたもさ、僕のチカ様を奪った以上せいぜい頑張りな」
                       いつのも橘らしい生意気な言葉がようやく聞けたことで、南も身体に渦巻く熱を一時忘れて、「ああ」と口元をほころばせた。
                      「お互い脱落しないように、健闘を祈ろう。おまえ、俺より華奢なんだから、あんまり無茶すんなよ」
                      「うん、そっちもね。チカ様の巨根に耐えられるのって、よくよく考えるとすごいと思うよ」
                       虐げられる同士で励まし合う日が来るとは思わなかったが、悪い気分じゃなかった。交わしている言葉がどれだけ凄まじいかは、この際、脇に置いておこう。
                       だが、久しぶりに上向きになった気分がぶち壊しになったのは、わずか二時間後のことだ。

                       



                       仕事を終え、自宅に戻る最中だった。夜十一時過ぎの混雑した地下鉄に乗り込み、南は扉付近で全身を強張らせていた。
                       勘違いじゃなければ、少し前からどうも背後に立つ人物に身体を触られている気がするのだ。
                      「……ぁ……っ!」
                       驚愕のあまり目を瞠った。
                       勘違いじゃない、絶対にそうじゃない。だっていま、前に回った手がジッパーの上からそこを指でなぞっている。
                       愕然と顔をあげると、暗い窓ガラスにぼんやりと自分の顔が映っている。
                       背後には、男が立っていた。
                       つうっと思わせぶりに動く手が、盛り上がったそこの形を確かめるようにゆるゆると動いたことで、我慢できずに振り返った。真柴と同じような三十代の男がにやりと笑い、ジッパーにかけていた指を一気に引き下ろした。
                       ――なんだこいつ……俺の身体を勝手に触りやがって!
                       立錐の余地もない車内でもがいたのも虚しく、男は昂ぶる自分のそこをうしろから押しつけながら、南の股間を好き勝手に探り回す。だが、いくらもたたないうちにサポーターをつけていることに気づいたらしい。
                      「へえ、もしかしてそっちの趣味? この中、ぐちゅぐちゅになってるんじゃないのか。……なあ、次の駅で降りろよ。トイレで可愛がってやる」
                       危なげな響きを交えた声が鼓膜に忍び込み、ますます淫猥に揉み込まれた。
                       冗談じゃない。この身体を誰のものだと思っているのだ。
                       腰が砕けそうな快感はおぞましいだけで、背筋が震える。
                       まさか、男の自分が痴漢に遭うとは思わなかった。
                       そういえばチカも心配していたっけ。
                      『射精管理をしているあいだはフェロモンが垂れ流しになると思って、十分気をつけて。いい匂いがするきみに男が群がってくるからね』
                       そう言われたときは、なにをばかなと思ったものだが、毎日ばらの香りのボディミルクを擦り込んだ肌からは、確かにふわりといい匂いがする。
                       おまけに、とろ火の快感で焦らされて焦らされてどうしようもないところまで追いつめられているせいで、いかにも物欲しげな顔になっていることは、今夜会った橘を見ていてもわかった。きっと、自分もあんな顔をしていて、背後のような男を惹きつけてしまっているのだ。
                       ――早く早く、駅に着け。もうだめだ。これ以上、我慢したらほんとうにおかしくなる。
                       祈るような心境で強引な指遣いに、必死に耐えた。
                       電車がホームに入り、扉が開いた瞬間を狙って振り向きざまに男の股間を思いきりねじ掴んだ。
                       柔道部時代にぎっちり鍛えた握力は、いまでも自信がある。
                       とたんにあがる男の悲鳴や周囲の乗客の驚く様子をものともせずダッシュし、途中であっと気づいてジッパーをあげつつ、駅を出てすぐにタクシーを捕まえて六本木へと向けてもらった。
                       熱病のように震えが止まらない身体は、明日になれば解放されるが、もう一時間だって一分だって我慢できるものか。チカ以外に触らせたことのない場所を見知らぬ男に触れられた恐怖感や嫌悪感に押し潰されそうで、車窓の向こうに見える夜景も涙に滲む。
                       店のあるビル前で車を降ろしてもらい、開店前のクラブ・ゼルダへと続く長い階段を駆け下りた。幸いにも、扉に鍵はかかっていなかった。
                       いつも多くの客で熱気に包まれるフロアはまだ客が入っていないせいか広々と感じられ、とても静かだ。その中央で、椅子に腰掛けたチカがくつろいだ様子で、見知らぬ男と談笑しているのが視界に入ったとたん、ぷつんと緊張の糸が途切れた。
                      「チカ!」
                      「……センちゃん、どうしたの!」
                       びっくりした顔で立ち上がるチカに駆け寄ってむしゃぶりつき、「いやだ、もう、……こんなのいやだ!」と感情を爆発させた。
                      「どうしたの……」
                      「でっ、電車のなかで、しらない男に……」
                       泣きじゃくりながらひくっと喉が鳴ってしまうのは、敏感な場所をくすぐるいやらしい手つきを思い出したからだ。チカにも散々触られてきたけど、こっちの意思をまるで無視したやり方はされたことがない。
                      「知らない男がどうしたの? センちゃん、落ち着いて、僕に話してみて」
                       あやしてくれるチカの声はどこまでもやさしい。ハイカラーの白いシャツをとおして感じられる逞しい胸に熱い頬を擦り付け、南は「いやだいやだ」と涙声で繰り返した。
                       普段だったら、男子たるもの人前で涙を見せるなど言語同断と思うのだが、つらい射精管理と初めての痴漢に遭ってしまった衝撃で、理性がものの見事に吹っ飛んだ。それに、チカの前ではもう散々泣いていて、いまさらという気もする。
                       そばにいる眼鏡の男が興味深げな視線を投げてくることなど、どうでもいい。いまは、チカに慰めてもらい、彼の体温を感じるほうが大事だ。
                       馴染み深い、甘くてきりっとした芯を感じる匂いを胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ平常心が戻ってくるようだった。
                      「お、俺、さっき家に帰ろうと思って、でん、電車に乗って、たら……」
                       言いかけたときだった。すぐそばで、「……ああ」と声があがる。はっと振り向くとついさっきまでチカと話していた男が立ち上がり、戸口のほうに顔を向けていた。
                      「伏見先輩、待ってましたよ」
                       独特の掠れ声に興味を惹かれて首をめぐらせると、スーツ姿の男がうつむきがちに歩いてくる。
                      「約束の時間よりもずいぶん遅れましたね」
                       丁寧だが、どことなく傲慢さが感じられる物言いをするのは、ワイシャツにネクタイ姿の男だ。細身ながらも鍛え抜いた身体らしく、敏捷性が感じられる。あの真柴と似たようなメタルフレームのスクエア眼鏡をかけた理知的な顔は冷ややかで、目の前に立つ男をじろじろと眺め回している。一見、普通のサラリーマンに見えるが、身体から発する威圧感は相当のものだ。
                      「どうして遅れましたか。今日はあなたの部署、早めに引けたでしょう。九時には終わっていたはずだけど、どうしていままで来なかったんですか」
                      「電車が……遅れた、から」
                      「またそれ?」
                       眼鏡の男はくっと笑い出し、シャツの袖をまくり上げる。そうした仕草ひとつも妙に研ぎ澄まされた印象があって、南は目が離せなかった。
                      「何度同じような言い訳を聞かされるのかなぁ、まったく……。ふざけるのもいい加減にしろよ、俺はね、あんたが思うほど気が長くねえんだよ」
                       言葉の途中からがらりと声音が変わる恫喝に、スーツの男も、南も同時に身体を強張らせた。
                      「前に言ったはずだよな。もう一度時間に遅れたら、あんたは俺の管理下からはずすって。今日かぎりで俺はあんたの主人を降りる」
                      「ごめん、加藤……俺が悪かった」
                      「謝るのも何度目なんだよ。俺はつき合いきれない」
                      「いやだ、おまえじゃなきゃ……」
                      「それもあんたが決めることじゃない。その身体、ほかの誰かに可愛がってもらったら」
                       鋭い言葉に、スーツ姿の男が弾かれたように顔をあげる。髪を綺麗に整え、やさしい感じの目元は潤み、くちびるも濡れて妙に色っぽい。けれど、普通にしていたら可愛い感じのする大人の男だ。なにを間違ってこんなところにいるんだか、と思わされるような清潔な印象だ。
                      「いや……、いやだいやだ! 俺はおまえじゃなきゃ感じない……!」
                      「だったらなんで最初から強情張るんだよ、ああ?」
                       ぱしんと軽く響いた音に、伏見が「あ……」と目を瞠って頬を押さえる。
                       思わぬ光景に、南もチカにすがりついてしまった。
                      「あれが、このあいだ話した加藤誠司さんだよ」
                       両手でしっかりと抱き留めてくれている男が、耳朶を噛むような感じで囁いてくる。
                      「一年前からうちでプレイヤーとして活躍するようになったんだけど、高度なアナル調教とスパンキングで一躍人気になったんだ。奴隷志願もあとを絶たなくてねえ……。でも、いまのいちばんのお気に入りはあの会社の先輩、伏見さんみたいだね」
                       叩かれて呆然としている伏見に近づき、加藤がその後ろ髪をぐっと引っ張る。どうやらさっきのは本気で叩いたのではなく、ぼんやりしている伏見の意識をはっきりさせるのが目的だったようだ。
                       のけぞらされ、苦しげな顔をする男の喉元が晒されたことで、南は「――あ」と息を呑んだ。
                       かちりとしたスーツの下に、伏見は革の首輪をつけていたのだ。加藤がネクタイを乱暴にむしり取り、シャツのボタンをはずさせたことですっかりあらわになる首輪は、伏見の清純そうな顔とは裏腹に、強烈な服従の精神を滲ませている。
                      「こんなものつけてよ、外をうろついている自分がどれだけ変態か、いい加減認めろよ」
                      「加藤……」
                       自分よりも年下の男に髪を掴まれ、変態呼ばわりされている伏見はいまにも泣き出しそうだ。
                      「泣くぐらいなら、ほら、あんたがどれだけいやらしいか、ほかのひとにも見てもらえ」
                      「……え……あっ……、いや、いやだ、……加藤……ッ!」
                       もがく男のシャツをむりやり最後まで開き、加藤がくすりと笑う。それから、伏見の胸の中央に垂れ下がる銀の鎖を引っ張り、こっちに向かって顎をしゃくった。
                      「チカさん、どう。これ、かなりいい感じに育ってると思わない」
                      「どれ?」
                       チカに抱き締められたままだったので、南もその衝撃的な光景を目の当たりにしてしまった。
                       無惨にもボタンが飛んでしまったシャツがだらしなく開いた伏見の両の乳首を、黒のクリップが挟みあげている。ねじ式できつく締め上げることができるらしいそれは根元に深く食い込み、まるで乳首を赤いぐみのように括りだしていた。
                      「ニップルクリップを最近つけるようになってね。会社でも休み時間を利用して弄ってやってるんだけど、このひともなかなか強情で。そろそろ分銅をつけてやろうと思ってるんだけど、見てのとおり、俺との待ち合わせに遅刻したりなんだりで手を焼かせるばっかりなんだよ」
                       加藤が真っ赤な乳首をぴんと弾いたことで、伏見がすすり泣くような喘ぎを漏らして顔をそむけた。白い肌に黒いクリップが鮮烈な色合いで、彼が身をよじるたびに胸の真ん中で揺れる鎖が澄んだ音をたてる。
                      「へえ、加藤さんって乳首開発にも手を出すようになったの? あなたはお尻に愛情を抱くひとで、乳首にはあまり興味を示さなかったのに。だからスパンキングとアナル調教をメインにしていたんじゃないの」
                      「もちろんそれも忘れてないよ。でも、この貴映はちょっと特別かな。とにかく苛め抜きたいんだ。……なあ、貴映。今日もこれ、自分でつけてきたんだろう? 気持ちよかった? 感じちゃった? あんた、どうしようもない淫乱だもんな。職場じゃみんなに好かれる先輩のくせして……頭の中じゃエロいことばかり考えて、毎日ここ、硬くしてさ。ゼルダに来たのだって、誰かに苛めてほしかったからだろう」
                      「ん、――ん……」
                       はしたない格好をチカと南の前に晒す伏見の目から、ぼろっと涙がこぼれ落ちた。
                       可哀想で、とてもじゃないが見ていられない。そう思うのに、伏見のけなげな顔が羞恥に染まって絶妙な色気をかもし出し、ほかに目をそらそうにも無理だった。
                       なめらかな首筋まで赤くして涙している男の背を押し出し、加藤が眼鏡を押し上げる。
                      「よかったらチカさん、触ってやってよ。こいつ、まだほかの男の指を知らないんだ。スタープレイヤーのチカさんに触ってもらえば、いい経験になると思うんだ。あなた、乳首の開発うまいもんね」
                      「……え、チカ……」
                       待てよ、と南が言う前に、チカは婉然とした微笑みを浮かべ、「じゃ、ちょっとだけ」と右手を伸ばす。そのあいだ、左手は南の腰に回したままだ。
                       ステンレスの頑丈なクリップに挟まれて充血した先端を、チカの指がきゅっとひねる。
                      「ああ、うん……いい触り心地だ。加藤さん、いい鍛え方してるね」
                      「ひっ……、ああっ、いや、やめて、離して……っ」
                       ぐりぐりときつく乳首を揉み込まれる伏見は、狂ったように頭を振った。彼を羽交い締めにする加藤が手際よくスラックスのジッパーを下ろし、白いサポーターが巻き付く股間を乱暴に揉みしだく。
                       彼も、射精管理をされているのだ。加藤の支配下に置かれて、つらい仕打ちを受けているのだ。
                      「やめて、いや、いやだ……」
                      「いやじゃねえだろ。ここをこんなにしておいて……あんたね、いま、俺以外の男に触られて感じてるんだよ。ほら、聞こえるだろ。こっちもぐちょぐちょだ。昼間にサポーターを替えてやったのに台無しにしやがって。信じられない淫乱だよ」
                       残忍で冷静な声に、喉がからからに干上がっていた。
                       見上げたチカの目も落ち着いていて、伏見の痴態をくまなく観察している。
                       自分を抱くときとはまったく違う仕事用の冷淡な視線に、ぞっと背筋を震わせた。
                      「……やめろよ、チカ! 俺は、――俺はもう帰る!」
                      「あ……、センちゃん、……待ってよ!」
                       あんまりな光景に頭に血がのぼり、腰に回る手を力ずくで引き剥がして、足早に歩き出した。
                      「待ってよ、待ってったら!」
                       店を出たところでうしろから肘を掴まれたが、振り返るものか。堂々とほかの男に触るチカなんか見たくない。
                      「離せよ! ほかの男を触りたきゃ触ってればいいだろ!」
                      「違う、あれは仕事上のことで――お願い、怒らないで。僕が悪かったよ。ほんとうにごめん」
                       薄暗い階段を駆け上がる途中で強く腕を引っ張られて、足を止めざるを得なかった。
                       どうしてこんなことになっているのだろう。
                       チカとつき合っていると、普通じゃあり得ないことで感情を爆発させていることがよくある。
                      「ごめん、……きみを怒らせるつもりはなかったんだよ。ねえ、こっちを向いてよ。きみにそっぽを向かれたら、僕はどうしていいかわからないよ」
                       壁に押しつけられ、温かい両手で頬を包み込まれた。だけど、南は顔をあげなかった。なだめるようにそっと頬を撫でられても、そう簡単に機嫌を直してやるものか。
                      「ごめんね、……ほんとうにごめん」
                       続いてくちびるをそっとふさがれて、なんだかすべてがうやむやになってしまう。形ばかりに抵抗して胸を押しやろうとしても、そのぶん腰に回された腕に力がこもり、強く引きつけられてしまう。
                      「……ッん……」
                       舌を深く絡み合わせ、甘く感じられる唾液を伝い合わせた。南が好きなやり方で何度もくちびるを吸われて、再び頭の中がぼうっとしてくる。
                       チカの仕事が性的なものだということはよくわかっているのだが、あんなふうに見せつけられてしまうと、やはりつらい。
                      「さっき、なにか言いかけてたよね。あの話を聞きたいからホテルに行こう」
                      「でも、……おまえ……ショウがあるんじゃないのか……」
                      「今日ぐらいきみのために休みます。それに、今夜のメインはあの加藤さんだから」
                       調子いいことを言う男に手を引かれ、ゼルダから歩いてそう遠くないラブホテルに入った。
                       そういえば、ふたりでラブホテルに来たのは今日が初めてなんじゃないだろうか。それも当たり前だ。男同士の性行為をオーケーとするホテルは、そうそうあるもんじゃない。
                      「大丈夫、ここは男女でも男同士でもいけるところだから。センちゃん、どの部屋にする?」
                      「どの部屋って」
                       無人のフロントで各部屋の写真付きパネルをざっと見ても、どこがいいなんてわからない。金曜の晩だけに結構な数の部屋が埋まっているようで、空き室を示すランプはまばらだ。
                      「じゃ、ここにしようか。ハート型のお風呂があるんだって」
                       ハート型だろうがスペード型だろうがどうでもいいのだが、うきうきした声のチカはカードキーを受け取り、南の手をしっかりと掴んで部屋に向かう。
                      「先にお風呂に入る? それとも、なにかして遊ぼうか。こんなホテルに来るのって初めてだよね」
                       どぎつい色合いの部屋で浮ついた恋人の姿を忌々しげに見つめ、南は真っ赤なサテンの上掛けとピンクのシーツで調えられたまこと悪趣味な丸いベッドにどすんと腰を下ろし、「チカ」と鋭い声で呼んだ。
                      「ん? やっぱりお風呂に先に入る?洗いっこしながら話そうか」
                      「……いいから、ここに座れ!」
                       癇癪を起こす南に、チカも不穏なものを感じ取ったらしい。部屋のあちこちを見回るのをやめて、「……はい」といつになく殊勝な態度で隣に腰を下ろした。
                      「ゼルダに来る前……、俺、電車の中でさ」
                       息苦しさにネクタイを引っ張り、苛々と呟いた。
                      「俺……、知らない男に、触られたんだぞ」
                      「え、……えっ! ちょっと待って、ど、どこ、どこ触られたって……いうの……」
                      「……下」
                       チカの顔からみるみるうちに血の気が引いていく。その勢いたるや、南でさえも「大丈夫か、おまえ……」と呟いたぐらいだが、本人はショックのさなかにあって顔色など気にしている場合じゃないらしい。
                      「痴漢、だったんだ。三十代ぐらいの男で、俺のあそこ……サポーターの上から触ってきて……ってうわ、おい、チカ!」
                       最後まで言い終えないうちに、チカががばっと覆い被さってきた。
                      「ごめん、ごめん……! センちゃんがそんな目に遭っていたなんて知らなくて、……ほんとうにごめん……」
                       首筋にしがみついて謝罪を繰り返す銀色頭を見ていると、ため息しか出てこない。
                       言えばショックを受けるだろうなと思っていたが、こんなにも強く反応するとは思わなかった。
                       それよりも、しつこく身体に残っている不快感をどうにかしたい。チカの逞しい身体を重ねられていることによる、熱も。
                       彼の背中に手を回し、「……まだ、感触が残ってるんだ」と呟くと、びくりと身体を震わせたチカが、いやに強張った顔を寄せてくる。
                      「僕はどうすればいい? 教えて、千宗の言うとおりにするから」
                      「……おまえが……触ってくれよ。あの男が触ったとこ」
                       自分にしては思いきった発言だった。だけど、きついサポーターで締め付けられている下肢も、チカが触れている胸も、さっきキスしてもらったばかりのくちびるも、どこもかしこも疼いてしょうがない。
                      「チカは俺の恋人なんだろう。だったら……俺の身体からあの男の感触を消して、感じさせろよ……」
                      「千宗……」
                       いつになく強気な発言に、チカも魅入られたらしい。
                       しばらくそうして南の顔を見つめていたが、やがて、「……うん、わかった」とこくりと頷き、もどかしい感じでくちびるをふさいできた。
                       思えば、ゼルダのプレイヤーという後ろ盾をなくしてチカが触れてきたのは、今夜が初めてかもしれない。
                       一分の隙もないほどに身体をぴたりとくっつけ合い、南から呼気を奪うようにくちびるを重ねてくる。
                      「千宗……」
                       両手を頭上で拘束された。馬乗りになったチカがくちびるが強く強く、押し当ててくる。いつもは余裕が感じられるキスも、今夜はいっぱいいっぱいらしい。息苦しさに南が喘いでも長い舌で口内をまさぐってきて、口蓋や歯列を執拗に舐めて唾液をあふれさせていく。
                      「その男に、キス、されなかった? 大丈夫だった?」
                      「……うん……」
                       早くもとろけてしまう意識で頷くと、目と鼻の先でチカがほっとしたように笑う。
                      「よかった……このくちびるをほかの誰かに奪われたら、僕は到底生きていけないよ」
                      「ん――ッ……」
                       髪をきつく掴まれて、深くむさぼられた。口内を犯されるだけではなく、くちびるの表面も丁寧に舐められるのがたまらなく気持ちいい。
                      「……あぁ……チカ……」
                       サポーターにくるまれた陰嚢がずきずきと痛み、脂汗が浮かんできた。一刻も早くどうにかしてほしい。この熱を、解放してほしい。
                       忙しない手つきで服を脱がしてくれたチカが、おもむろに自分のシャツに手をかける。
                       その手を押さえると、「え」とチカが驚いた顔を向けてきた。
                      「たまには俺にさせろ」
                      「……うん、じゃあ」
                       はにかみながら、お願い、という男のシャツのボタンをはずして、革の黒いパンツを脱がそうとしたときだった。
                       思ってもみないものを目にして、「どうしたんだ、これ」と声をあげてしまった。
                       チカのそこが、自分と同じようなサポーターで覆われているのだ。
                      「なんでおまえまで……」
                      「だってきみと僕は一蓮托生だから。きみがどんなにつらいか、自分の身をもって知らないとだめだと思ったんだよね。……あー、この一週間は地獄だったよ……。千宗のそこも、腫れ上がるぐらいに勃起してるでしょう。あのね、僕も」
                       ふふ、と悪戯っぽく笑う男の無駄のない身体に見とれた次に、うっすら割れた腹筋からやや下に、白いサポーターがぎっちり巻き付いていることに目を奪われた。収縮力が相当強いらしく、表からは彼の巨根っぷりがよくわからないが、サポーターを引きずり下ろした瞬間、涙目になってしまった。
                       先端をぬらぬらと光らせた肉棒が濃い茂みを押しのけて、ぐんと反り返っている。チカ自身も射精を我慢していたらしく、触ってもいないのに南が見ている前で、つぅっと透明なしずくが割れ目から垂れ落ちて糸を引く。
                       赤黒く充血し、太く浮いた血管を走らせる男のそれを見ていると、喉がごくりと鳴ってしまう。チカの見た目は誰よりも研ぎ澄まされているのに、こんないやらしいものを持っているのかと思うと、知らずと腰が揺れる。
                      「すご……いつもより、大きい……」
                      「ん、……きみの中に挿りたくて挿りたくてしょうがなくて、毎日勃ちっぱなしだったよ。もともと自慰はそんなにするほうじゃないけど、あんなに乱れる千宗を見せられたんじゃね。ほんとに気が狂うかと思った」
                      「……俺だってそうだよ……」
                       ベッドサイドに置かれたローションを手を濡らし、尻の狭間を探ってくるチカに、南は身悶えながらも彼の胸にあるちいさな尖りをつまんでみた。
                       色素も薄く、つんと尖っているだけのそこを見ていると、なんだか変な気分になってくる。
                      「な、なに、ちょっと千宗……っ」
                       突然のことにびっくりしているチカが可愛い。反応のよさからして、ひょっとして、誰にも触らせたことがないんじゃないだろうか。
                      「おまえでも、ここって感じるの?」
                      「いや、あの……なに、もう……射精管理するときみって人格変わるの?」
                       男らしいのに艶めかしい吐息を漏らすチカが苦笑しながら、「仕返しだよ」とローションで濡れた指でぬちぬちと孔を拡げてくる。「すごいね、僕の指に粘りつくよ」という声に、全身が赤くなるほど感じてしまった。
                       油断すると、とめどなく達してしまいそうで怖い。チカの胸をまさぐり、自分と同じように感じさせることに躍起になった。
                      「あっ……ぅ……ん、な、……なあ、さっき、伏見って男の、ここ、……こんなふうに触ってただろ……」
                      「してない、そんなふうにいやらしく触ってないよ。あれはもっと実験的な意味合いだったんだってば。信じて。……ねえ、千宗……意地悪しないで、もう挿れさせてよ……」
                       せつなげな顔で求められるのが嬉しい。たいていの場合はチカが主導権を握っているだけに、こんなふうに頼み込まれるなんて、いままでになかったんじゃないだろうか。そういう南も、せっぱ詰まっていた。チカを欲してひくつくそこが信じられないぐらいに、熱くてとけてしまいそうだ。
                       物欲しげにうごめく粘膜を長い指でやさしく探られ、擦られることで奥へ奥へと浅ましく飲み込んでしまう淫らな収縮に顔を赤くし、南は、「だったら」と言い募る。
                      「俺には、いつも、……どんなふうに触ってるんだよ……」
                      「知りたい?」
                       こくりと頷くと、チカの両手が腰に回った。
                      「それじゃ、教えてあげるから上に乗って。……ごめん、今日はもう限界」
                       待てない、と掠れた声が、彼らしくない獣っぽさを交えていて、たまらなかった。
                       身体の位置を変えてチカにまたがり、猛るそれを掴んでそろそろと腰を下ろしていく。騎乗位はあまり得意じゃない。下から挿し貫かれるのは刺激が強すぎるし、よがり狂う様をすべてあますところなく見られるのかと思うと、恥ずかしくてしょうがないのだ。
                       それでも、今日は四の五の言っている余裕はなかった。愛撫されて、とろけそうになっている窄まりをきつく押し開きながら、笠の張った亀頭がぬぷりと挿ってくる。
                      「あ――あ、あ……ッ!」
                      「うわ……すっごい……熱い……」
                       いちばんきつい場所を擦られて、ひとたまりもなかった。
                       この六日間、我慢に我慢を重ねた自分のそこがびくびくと跳ねたのだが、いつものような勢いのある感覚ではない。細い管が焼け付くような、どろっとした濃い蜜がそこから少しずつ漏れ出るような狭くて深い射精感に、ほんとうに涙があふれた。
                      「ッん……ぁ、あぁ……なんだ、これ……やだ、……いやだ、おかしくなる……っ」
                      「……気持ちいいでしょう。射精管理をすると、感覚が鋭くなるんだよ。射精感だけじゃなくて、こっちももっと感じるようになっているはずだよ。千宗のここ、すっごい気持ちいい……いつもより熱くてやわらかい。とけちゃいそうだよ。これなら絞め殺されてもいいな」
                       汗ばむ胸を反らして笑うチカが尻にぎゅっと指を食い込ませて寄せてくることで、内を抉る男根の逞しさがよりリアルに伝わってくる。
                       ほんの少し腰を揺らされただけで、脳髄が痺れるような凄まじい快感が走り抜けた。
                       それをきっかけに、止まれなくなった。痴態を見られることに気を配ることもできない。
                       おかしくなるぐらいに腰を振って、チカを最奥まで感じることで精一杯だ。
                      「い、いやだ、ああっ、もっと……もっと奥、チカ、……んっ、やだ……」
                       ねだったそばから自分のはしたなさに悶えて泣きじゃくる南が胸をのけぞらせると、長い腕が伸びてきて、乳首をつままれた。腫れて尖る肉芽をくりくりと転がし、揉み込む仕草が快感を増幅させていく。
                      「……ちがう、ちがう……」
                      「なにが違うの? 千宗?」
                       狭い感覚に顔をしかめるチカの首にしがみつくと、ぴたりと重なる身体の奥に感じる律動がさらにはっきりするみたいだ。
                      「さっきの、男に、してやったのとは、違う……よ、な……ッあぁバカ……そんなに、強くしたら、出る……っ」
                       絶対に違う、という声と一緒に敏感になりすぎている乳首を押し潰されて、またあの感覚が襲ってきた。熱くてどうしようもない体液が絞り出されていく快感に眩暈を覚え、チカの肌を汚す精液を見て、また泣いた。
                      「ごめん……、俺、ばっかり……」
                      「大丈夫、……僕もいきたい。きみとどろどろになっちゃいたい。ね、出していい? きみの中に出してもいい?」
                      「ん……っ出して、いい、……いいから……」
                       身体をつなげたまま、ぐるっと上に乗ってくるチカに顔中キスされて涙を吸い取られ、いやだと言えるバカがいたらお目にかかりたいものだ。
                       今日のチカが、いつになく身近に感じられるのは気のせいだろうか。
                       南の感じるところを攻めながらも、「僕だって我慢できない」と鋭い目元を赤くするところは、ゼルダ至上における伝説のプレイヤーのイメージとかけ離れている。おなじみの長い長い言葉で南を悶絶させることもない。
                       ――こいつも、こういう顔をするのか。
                       さざ波のように胸を満たしていく愛情に南が涙混じりに微笑むと、チカも嬉しそうにくちびるをほころばせる。それから、ふいにちいさな声で、「ごめん」と呟く。
                      「ごめん、……手加減できない。めちゃくちゃにするから」
                       欲情で掠れた声にぞくっと身体を震わせたのを機に、太い楔でひと息に貫かれた。
                      「んん……っ!」

                      続きを読む >>


                      profile

                      書いた記事数:63 最後に更新した日:2018/05/30

                      calendar

                      S M T W T F S
                           12
                      3456789
                      10111213141516
                      17181920212223
                      24252627282930
                      << June 2018 >>

                      selected entries

                      categories

                      archives

                      recent comment

                      • 11/11お茶会レポ
                        marilyn
                      • 11/11お茶会レポ
                        のぼりん
                      • ドキドキです
                      • ドキドキです
                        のぼりん
                      • 水嶋/澤村(オリジナル2008)
                      • 水嶋/澤村(オリジナル2008)
                        さえめい
                      • もうすぐお茶会
                      • もうすぐお茶会
                        のぼりん
                      • 求めたら最後(「愛執の鎖」原型2006)
                      • 求めたら最後(「愛執の鎖」原型2006)
                        のぼりん

                      links

                      search this site.

                      others

                      mobile

                      qrcode

                      powered

                      無料ブログ作成サービス JUGEM