世界はセンちゃんでできている

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     うんざりするけれど、じわりと肌を潤す蒸し暑さがどことなく深い官能を感じさせる。
     日中からまったく気温が下がらない都心特有の夏の夜に、南千宗は額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、赤く輝く東京タワーを目指して六本木の坂をゆっくりとのぼっていた。
     今年の暑さといったら凄まじいのひと言に尽きる。夜の六時過ぎ、陽が沈んでもまだほのかに明るい空の下、行き交うひとびとは皆、涼しげな格好をしているが、なかには自分と同じようにネクタイをきっちり締めるサラリーマンも多く、一様に汗を滲ませている。むろん、南も例外ではない。
    「あちー……」
     口を開けば、それしか出ない。薄手のサマーウールでできたジャケットを右手に提げ、ワイシャツの袖も大きく肘までまくりあげているが、背中は汗でぐっしょりだ。
     週末を明日に控えた金曜の晩、めずらしく早めに仕事が終わったのでいそいそと家路についているというわけだ。早いところ坂をのぼりきって、マンションに帰りたい。
     ――まずはビールかな。いやそれともやっぱり風呂が先かな。
     こんなとき、誰でも想像することを楽しく思い浮かべていると、スラックスの尻ポケットに突っ込んである携帯電話が鳴り出す。
    「もしもし」
     少し先で白っぽい光を放つ、夏仕様の東京タワーを見上げながら電話に出ると、『センちゃん?』と張りのある甘い声が聞こえてきた。
    『いま、どこ? まだ会社かな』
    「いや、家に帰る途中。あと五分ほどで着くよ」
    『ほんとう? じゃ、もうすぐセンちゃんの顔が見られるんだね、嬉しいな』
     信号待ちをしている最中に聞こえてきた能天気な言葉に吹き出してしまい、隣に立つ女性のふたり連れが可笑しそうな顔でこちらを見ている。
    「なに言ってんだ。チカは相変わらずだよな。そんなに長く離れてたわけじゃないだろ」
    『センちゃんこそなに言ってんの。僕はね、お昼にきみを送り出してからいまのいままで、ずっときみのことだけを考えて過ごしてたんだよ。ごはんを食べているあいだだって、部屋を掃除しているあいだだって、ベッドのシーツを替えているあいだだって、僕のこころに住んでいるのはきみだけ』
    「おまえなぁ……」
     幼い頃から柔道バカと呼ばれ、高校では主将まで務めた無骨な自分に対して、ここまで言えるのは世界広しといえどひとりしかいないのではないだろうか。
    「暑くなるとチカの言葉も激しくなるんだよなぁ……」
    『なあに、なんか言った?』
     ぽそりとした呟きは通りを走り抜ける車のクラクションでかき消されたと思ったが、羽柴誓史、通称チカの耳は侮れないようだ。しっかりと聞き返されてため息をついたことに気づいたかどうだか知らないが、『ふふ』と楽しげな笑い声が鼓膜に忍び込んでくる。
    『きみってひとは、自分がどれだけ魅力ある男だかわかっていないでしょう。いま、センちゃんが考えていることを当ててみようか? ――柔道部出身の男臭い俺のどこにチカは惚れてるんだろう、華奢というのでもないし、とくべつ綺麗だってわけでもないのに……なんてことを考えてるんじゃないの』
    「そのとおり。いまさらおまえの気持ちを疑うわけじゃないけどさ、どうして俺なんかに惚れたのか不思議でしょうがないよ」
     行き交うひとが振り返るような美形でなし、色気もないことは自分がいちばんよく知っている。だから、チカの言葉に怒るはずもなく、よくわかっているじゃないかと吹き出してしまうぐらいだ。
     すると、電話の向こうのチカは感に堪えぬふうの吐息を漏らし、『あのね……』とより深みを増した声で囁く。
    『僕が惚れているのは、まさにその正直なところなんだよ。男らしく実直で、誰よりも度量の広いセンちゃんのあそこがどんなに熱く締まるか、世界中のひとに大声で言いふらしたいぐらいだよ』
    「お、おい、チカ」
     今夜も華々しいスタートを切ったチカはぎょっとする南の制止も振り切って、いきなり核心に切り込んできた。
    『早く帰っておいで、千宗。千宗の乳首に早く触りたい。たくさん舐めて、弄って、きみを狂わせたい』
     真っ青になるべきか、真っ赤になるべきか迷っている暇さえ与えてもらえず、南は無表情になってしまう。
     ――狂ってるのはおまえのほうだ、チカ。
     携帯電話から漏れ出る声が周囲に聞こえることはないだろうが、チカの囁きはあまりに強すぎる。ついついうつむいてしまうのは、坂をのぼっているせいだけではないはずだ。
    『シーツを替えているときにね、眠っているきみにいたずらしてあげたことを思い出したよ。ねえ、千宗。最近のきみって寝ぼけている最中でもちゃんと感じるんだよね』
    「寝ぼけてる最中って、なんだ、それ……」
    『いやほら、起きているあいだのお楽しみはお楽しみだけど、きみの寝顔を見ているとそれはそれで我慢できないんだよね。だから、たまに寝ているきみのあそこを弄ってあげることがあるんだよ。そうすると――ちょっとね、最近、反応がよくて、すぐに先走りがあふれてくるんだよね、あれってどうなんだろう、やっぱり夢の中でも気持ちよくなってるのかな。そのときの相手って僕だよね? 間違ってもほかの誰かじゃないよね?もちろん、そんなことにならないよう、僕は誠心誠意この先もきみを愛し続ける自信があるけどさ。ああ、その話じゃなくていまはきみのお尻を可愛がってあげているときの話だっけ。ごめんね、僕はどうも脱線しちゃうことが多くてだめなんだよね』
    「……なあ、あの、チカ……」
    『センちゃんだけに告白するね。いつもだったら指だけで我慢するんだけど、今日はちょっとだけ挿れちゃいました』
    「い……っ!」
     扇情的な言葉が耳に飛び込んできた拍子に身体が大きくよろけ、つんのめってしまった。
     なにを挿れたのか、聞きたいのは山々だが、そんなことを言えば電話の向こうの声はますます熱を帯びてどうしようもなくなる。
     熱い。なんだか頭の中が熱くて、ぐずぐずととけてしまいそうだ。
     いまや全身をだくだくと流れる汗はけっして暑さのためだけではなく、九割がたがチカのせいの気がする。
    『ごめんね、でもほんの先っぽしか挿れてません。意識のないきみを犯すのはやっぱり胸が痛くて……でも、ちょっといけない気分になったかな。だって僕が挿れたらきみ、寝ぼけていても可愛い声を出してすがりついてきてくれて、ひくひくさせるあそこで締め付けてくれちゃうもんだから僕としても乳首を弄ってあげたくてキスしたくて我慢できなくてだけど奥まで挿れたら怒られるかなとか泣かせるかなとか思ったんだけどガチガチになっているきみのペニスを扱いたらたっぷり濡れるから』
    「い――いい加減にしろ、それ以上言ったら俺は会社に戻るぞ!」
     ずらずらと並べ立てられる露骨な言葉に、ついに堪忍袋の緒が切れた。
     歩道の真ん中で立ち止まり、携帯電話に向かって怒鳴る南の両際を気味悪そうな顔でひとびとが通りすぎていくが、気にしていられるか。
     眠っているあいだに、なんということをしでかしてくれたのか。自分でも覚えていない痴態を晒していたのかと思うと恥ずかしくて恥ずかしくて、涙が出そうだ。
     あまたの店がひしめく六本木でその名を広く轟かせる、SMの老舗クラブ・ゼルダのトッププレイヤーであるチカを頭ごなしに怒鳴りつけたところで、羞恥心が収まるわけではなし。
     はあはあと息を切らす南にさしものチカもまずいと思ったのか、焦った様子だ。
    『ごめん、こういうことは家に戻ってきてから、だよね。ごめんごめん、街中であそこを勃たせる千宗も可愛いんじゃないかと思ったらなんか頭がおかしくなっちゃって』
    「おまえがおかしいのはずっと前からだ……」
     唸りながら顔を赤らめ、足を速めた。このまま、ふたりで暮らすマンションにまっすぐ帰るのは危険かもしれないが、だからといってほかに行くあてもない。
     それに、この暑さも限界だ。喉はからからに渇いているし、早く風呂に入って汗を流したい。
    「家の中だろうと外だろうと、そういう……やらしいことはあんまり言うなって」
    『わかったわかった、もう言わない。だから早く帰ってきて。すぐに帰ってこないともっといやらしいこと言うよ。ねえいまどこ? どのへん?』
     適当な言葉を返すチカの声がそわそわしているのがわかると、どうにも本腰で怒れなくなってしまうのだから、自分というのもたいがい甘っちょろい。
    「もうすぐ先にマンションが見えてきた。ビール、冷えてるか」
    『冷えてるよ。グラスも冷やしておいた。ねえ、もうマンションの下?窓からのぞいたらきみが見えるかな』
    「どうかな」
     気が狂ったような言葉を臆面なく振りまく男だが、最後の一歩で突き放せないのは、こんなふうに純粋な愛情を寄せてくれる面があるからだ。
     ――それがなかったらおまえを嫌いになるかといったら、また違う。でも、SMという性癖を仕事に生かすチカと、スポーツ誌の編集者という俺とじゃ考え方が大きく違うんだ。その違いがこの先、大きな悩みの種にならないといいけど。
     上の空で考え、豪奢なマンションのエントランスに足を踏み入れた。戸数は少ないが入口には二十四時間態勢で警備員が詰め、住民は専用のIDカードを提示し、外部からの人間も全員セキュリティチェックを受けるという物々しさだ。
     財布に入れてあるIDカードを警備員に見せたあと、専用の鍵を使ってエレベーターに乗り込み、目的の階を目指す。普通、エレベーターといったら階数のボタンを押して扉を閉じるだけだと思っていたが、政財界の重鎮や芸能人が住んでいると噂されるマンションだけあって、さまざまな点で秘密と安全を守る造りになっているのが特徴的だ。
     ――政財界のお偉いさんに混じって、SMプレイヤーが住んでいるっていうのもおかしな話だよな。
     ついさっきのとんでもないやり取りも忘れて南は笑い、笑顔のままで十二階に下りた。
     しんと静まりかえるエレベーターフロアから廊下をのぞくと、ずっと離れた先で扉が開き、銀色の頭がちらりと見えている。
     チカだ。自分が帰ってくるのを待ちきれず、出迎えてくれたらしい。
    「おかえり、センちゃん」
    「ただいま、チカ」
     苦笑いしながら、両手を差し出してにこにことしている男に鞄を預けた。自分の帰りをこんなにも待ちわびている男を、どうして本気で怒れるのだろう。
     根元から綺麗に染まった銀色のベリーショートも、右耳できらめく一カラットのダイヤのピアスも、チカならしっくりはまる。
     その派手ないでたちを見るにつけ、――ほんとうになんで俺みたいな平凡な男を好きになったんだか、と可笑しくなるのだ。チカなら、けっして目をそらすことのできない強い磁力があるから、自分ばかりかほかの人間がこぞって惹かれるのもよくわかるのだが。
    「外、暑かったでしょう。まずはビール呑む? お風呂も沸いてるよ」
    「んー、そうだな、そうするか。風呂の先にやっぱ一杯呑もうかな」
     紺色の真面目なネクタイをゆるめる南の逞しい身体をうっとりした目つきで眺めるチカは、さらりとしたガーゼのシャツに砂色の麻のパンツという洒落た組み合わせだ。切れ長の目に笑みを滲ませ、南の一挙一動を追っている。
    「汗ばんだセンちゃんの顔ってほんとうにいいよね。なんでそんなに男らしいんだろう……」
    「おい、帰ってきたばっかなんだからだめだって」
    「わかってる。いまはまだしない。明日は週末だし、時間はたっぷりあるんだもんね」
     気恥ずかしい台詞に顔を赤らめたものの、チカもひとまずいまのところは激しい展開に進むつもりがないらしい。手をつないで、リビングに引っ張っられた。
     鬱陶しい暑さの広がる外と違い、ほどよく冷えた室内に南はほっとひと息つき、ふかふかした革張りのソファに腰を下ろした。
    「ちょっと待ってて。いま支度するから」
     そう言ってキッチンに消えていくチカの背中に、「悪いな」と言い添えてぐっと伸びをする。
    「あー、疲れた……家に帰ってくるとほっとするよ」
    「今日も一日、ほんとうにお疲れさまでした。ソラマメもゆでてみたから、食べて」
    「おっ、旨そう。いただきます」
     窓の外にはきらきら輝く東京タワーの胴体が見えるという絶好のロケーションで、チカが運んできてくれたビールを呑めば、文句なしにしあわせだ。渇いた喉に、キンキンに冷やしたビールが染み渡っていく。
     泡をくちびるにつけて、「旨い」と顔をほころばせると、床に座ったチカがかいがいしく酌をしてくれる。
     漆塗りのちいさな盆に乗った瓶ビールを互いに傾け、うだるような夏の宵を過ごすのもなかなか楽しい。
     つまみは青々しいソラマメだ。さっとゆでて塩だけで味付けしたソラマメは、口の中で爽やかにとけ崩れる。
    「チカも呑めよ」
    「ん。じゃ、一杯いただきます」
     江戸切り子の美しいグラスの縁ぎりぎりまでビールをそそぎ、遅まきながら乾杯をした。
     チカが深い紅色のグラス、南のは濃い藍色のグラスだ。触ると指が切れそうな深い彫り込みがほどこされたペアグラスは、この夏のボーナスで奮発して買ったものだ。
     チカの美的感覚がすぐれていることは、その容姿を見ればよくわかる。一介のサラリーマンである自分にはチカと張り合うほどの力はないけれど、それでもせっかくのボーナスだ。なにか綺麗なものを買って喜ばせてやりたいと思っていたところへ、他部署がつくっている情報誌でこのグラスが紹介されているのを見かけたのだった。
    「これ、やっぱりいいよね。ビールってジョッキよりもこういうちいさなグラスで呑むほうがずっとおいしい」
    「でも、一気にいけちゃうから、つい呑みすぎるよな」
    「そうそう、そうだよね」
     笑い合う声が高い天井に跳ね返る。ところどころに大ぶりの花弁が美しい百合が飾られている広々としたリビングは、四十畳以上もあるだろうか。ふたりで過ごすには広すぎる部屋だが、足下に寄り添うチカを見ていると、そんなこともまったく気にならない。銀色の髪からして、毛並みがよく、希少価値の高い獣を飼っているような気分だ。
     ――そいつに食われているのは、俺のほうなんだけどな。
     内心可笑しく思いながら細かな泡をたてるビールを飲み干し、南は請われるままに今日一日のできごとを話してやった。
     ゴールデンウィーク進行のあとにくるお盆進行も無事終え、いまは少しのんびりしている時期だ。一方、チカはクラブ・ゼルダでの勤めがしばらく休みらしい。ここしばらく立て続けにショウを行ったため、『少し休養するよ』と言っていた。
     多くの奴隷をさまざまな言葉で嬲ったあげくに、パドルやその他諸々の道具でいたぶるチカの仕事は、確かに疲れるものなのだろう。南にはまったく理解できないけれど、奴隷の快感と苦痛と羞恥心を鍛えるプレイヤーは肉体面だけでなく、彼らのメンタル面を管理することも必要とされるとのことだ。
     それにも増して、多くの客を前にして行うショウはなにかと気を遣うため、そう頻繁にはできないものだと言う。
    『万が一集中力を欠いて、奴隷に怪我をさせてしまったら大変だしね。高度なショウを続けていくためには適度な休養が大事なんだよ』
     以前、なにかの折りにそんなことをほざいていたチカに、南は首をひねり、『でもよ』と返したものだ。
    『怪我までいかなくても、奴隷だったら、ちょっと痛いぐらいのほうが感じるんじゃないのか。だっておまえの奴隷って……その、……なんていうか、……マゾ、だろ』
    『そうだよ。僕が見ているのはゼルダでもえり抜きのマゾヒスティックばかりだって自信があるね。それはさておき、確信を持って与える痛みと、そうじゃない痛みというのがあるんだよ。前者は奴隷の服従心を高めるために必要な要素だけど、後者は十分気をつけないといけない。相手は僕らを信頼したうえで、なにもかもさらけ出してくれるわけでしょう。こころばかりか、素肌まで見せてくれる相手に力加減を間違ったら、大事故につながるんだよ』
     そのことについては、なにを言われているかわからないでもないから、そうだよな、と頷いた。
     チカが言っているのは、SMという特殊な世界のことだけじゃない。互いに信頼して肌を重ねる時間に悪意がひそんでいたら大変なことになるのは、普通のセックスでも同じだ。
     とはいえ、プレイヤーとしての心情を芯から理解できるわけでもないので、ショウが休みでチカが家にいてくれるのは嬉しいという程度に留めておくのが無難だろう。
     ソラマメをつまみつつ、大瓶のビールを一本空けた頃にはほろ酔い気分になっていた。
    「それじゃ、風呂に入るかな。どうするチカ、一緒に入るか」
    「えっ、ほんと? センちゃんがそんなこと言うなんてめずらしい。なにかいいことあったの?」
     酔った勢いの言葉に、チカが嬉しそうに飛びついてくる。
     日頃、照れ屋の自分がこんなことを言うのも確かにめずらしいのかもしれない。
     愛情過多のチカと一緒に暮らしてもうずいぶん経つが、男同士だということや、もとは同級生だということを思い返すと照れくささが勝ってしまい、なかなかチカの希望どおりに甘えることができないのだ。
     だが、酒が入ったらべつだ。理性がうまいことショートしたときぐらい、自分らしくもない言葉ですんなり寄りかかってみるのもひとつなんじゃないだろうか。
    「でもね、その前にセンちゃんに見せたいものがあるんだよ。こっちに来て」
    「なんだ?」
     手を引かれ、リビングを出た南の前を白いシャツがすたすたと歩いていく。
     数年前にチカが原油取引の儲けでぽんと買ったというマンションは都心にありながらも、驚くほど広い。意識して部屋数をかぞえたことはないが、リビングにキッチン、マスターベッドルームのほかにゲスト用の部屋やバスルームなどをあわせたら、七、八室あるんじゃないだろうか。たぶん、一度も足を踏み入れたことのない部屋だってあるに違いない。
     そんなことを考えながらふらふらとチカのあとをついていくと、ゆったりした白シャツは一枚の扉の前でぴたりと足を止めた。
    「どうした、チカ。この部屋になんか……」
     そこで言葉が尻すぼみになったのは、振り向いたチカの微笑みによからぬものを感じ取ったからだ。
    「今日一日、きみがいないあいだに改造してみたんだよ」
    「改造ってなにを……」
     ごくりと息を呑んでしまうのは、こんな展開をもう何度も体験しているせいだ。
     ――ヤバイ。チカがこういう顔をしているときは、かならずとんでもない状況が用意されているんだ。
     そう思ってもぎっちりと掴まれた手は動かないし、空きっ腹に呑んだせいで身体もふらつき、動きが鈍い。
     室内だけでなく、廊下も冷房が効いている超一級のマンションで脂汗を流す南に向かって、さも楽しげな顔でチカが扉を大きく開いた。
    「どうぞ、センちゃん」
     おそるおそるのぞき込んだ部屋に、すうっと血の気が引いていく。
     たぶん、もとはゲスト用の部屋だったのだろう。だが、こんな装飾が普通のマンションにあっていいのだろうか。
     ――いや、ダメだろ。絶対にないだろ、こんなの……。
     だらだらと冷や汗が背中をしたたり落ちる南の視界に映るのは、剥き出しのコンクリ壁だ。美しい装飾がなされたほかの部屋とはうって変わり、冷たい印象を与えている。
     その壁から垂れ下がる、二本の重たい鎖に視線が釘付けになった。
     鈍い光を放つ鎖の先には、幅広の革の手錠が取り付けられている。位置から見て、立ったまま両手をくくりつけるためにあるようだ。腰の位置あたりにも、革のバンドが垂れ下がっている。殺風景な部屋を照らす照明も剥き出しの強いライトで、鎖や手枷を淫靡に輝かせていた。
    「なんだ、これ……おまえ……」
    「ひとつずつ説明してあげるね。あの手錠と腰帯の使い道はきみでもなんとなくわかるよね。あそこにくくりつけられることで対象者は身体の自由が奪われる。手が動かせないっていうのは想像以上にスリルがあるものなんだよ。追いつめられた心境の中で、きみは腰も揺らすこともできない。なんでかって、僕が千宗のあそこを舐めてあげるときに勝手に動かせないようにするためだよ。きみ、僕のフェラチオが大好きでしょう? 口ではどんなに嫌だと言っても、裏筋をしつこく舐めてあげると最後には濃いのを滲ませてくれるもんね。もちろん、手で隠すことはできないよ。足下を固定しないのは、千宗のもっといやらしいところをまんべんなく晒すため。ほら、途中で挿れてほしくなったときに足が固定されているとつらいでしょう。ああ、大丈夫。手首を拘束している鎖は長さが調節できるから、立ったまま正面から僕を受け入れることもできるけど、少し鎖を伸ばしてうしろ向きになってもらうことも可能だよ。千宗はねぇ……こんなに常識ある顔をしていて、犬みたいな格好でするのが好きだもんね」
     頬をつうっとなぞっていく爪の硬さが、夢であってほしい。嘘であってほしい。
     どこの世界のバカが、自宅に拷問部屋をつくるのだろうか。
     ――そんなバカは、いままさしく俺の隣にいるじゃないか。
     悪夢のような、というたとえはこの場にふさわしくない。悪夢そのものだ。初めこそはチカも「対象者」と曖昧にぼかしていたが、いつの間にか「きみ」と言っているあたり、ここでいたぶられるのはどうも自分らしい。
     ほかよりも寒々とした印象だけに淫靡さが強く漂う部屋で、チカの説明は延々と続いた。
    「まだまだあるから聞いていて。腰帯を取り付けた壁の一部は開閉式になっていて、簡易ベッドの役目を果たすんだよ。幅は五十センチ程度で、普段は折り畳みベッドの要領で壁にしまい込まれているんだ。でも、必要なときに前に倒してきみをそこにまたがらせれば、奥までじっくりと見てあげられるっていうわけ。考えてもごらんよ、身動きできないのに前からもうしろからも僕に視姦されるんだよ。ぞくぞくするでしょう。あ、そういえば言ってなかったけ。僕は視姦がなによりも好きなんだよね。快感に振り回されて泣きじゃくるきみを見ているだけでだめになる自信があるよ。そうそう、この簡易ベッドには足枷がついているから、きみの両脚を大きく拡げて固定するすることもできる。この場合も、どこも隠せないからね」
     口もきけず、硬直する南の前で、チカが壁の一部をぱたんと倒し、しっとりした手触りのよさそうな黒革を張った簡易ベッドを見せびらかす。その楽しそうな顔といったら、お気に入りのおもちゃを手にしている子どものようだ。
     思えば、今日のチカはずっとうきうきしっぱなしだった。電話で話していたときに、いつもより簡単に火が点いたのは、一刻も早くこの秘密を打ち明けたくてしょうがなかったのだろう。彼の足下には大型の黒い木箱が置かれているが、中になにが入っているか確かめる気力もない。
    「このベッド、使い方によっては三角木馬の代わりになると思うんだよね」
    「さ、ん、かく……も、く、ば……」
    「そう、子どものおもちゃでもあるでしょう。あれみたいに、きみをここにくくりつけて足を拡げさせたうえでバイブレーターを挿れてあげようと思ってね。きっと恥ずかしさのあまり、きみは泣くと思うんだよね。でも感じてしまってどうしようもないと思うんだよね。それから、こっちの木箱に入っているのは各種調教道具。千宗の乳首をもっと敏感にさせるニップルクリップにニップルキャップ、分銅がついたものもあるし、鎖の彫りに凝ったものもあるんだ。とても綺麗なものだから、あとでひとつずつ見せてあげるよ。それに、実際に使わないとは思うけど威嚇用の鞭とか」
    「威嚇用?」
    「雰囲気を盛り上げるためのものだよ。ほかには革のマスクもあるし、ポールギャグもあるし」
    「ポール、なに? なんだって?」
    「ポールギャグ。見たことない? 口の中にピンポン球に似たものをはめ込んで、くちびるを閉じられなくする道具。ベルトは革でできているから皮膚を傷つけることはないよ。まあ、言うなれば猿ぐつわのようなものだよね。声が漏らせない代わりにどうしても唾液がこぼれちゃうのは止められないけれど、それもまた素敵だと思うな。それからええと、ディルドーにバイブレーターもサイズいろいろ取りそろえました。副作用がなくて効き目のいい媚薬もあるし、締め付けのいい貞操帯もある。千宗さえ耐えられるなら全身マスクもいいなと思ってそれも用意してみたし……あ、全身マスクの場合はね、孔が空いているのが鼻だけね。呼吸ができないのはまずいから。でも、乳首と性器、アナルのところにはジッパーがついていて、いつでも好きなときに触ってあげられるから安心して。それと、壁に大型の鏡も取り付ける予定なんだ。そっちはまだ少し先になるけど、千宗の淫らな姿を全面に写すような特注サイズを注文してあるから、楽しみにしていてね。……それから……」
    「まだあるのか……」
     知らない単語をいちいち聞き返すという愚行をしでかしたせいで、よけいに、ぐったりしてしまった。自分というのは、いつか好奇心に滅ぼされるに違いない。
     とんでもない光景に酔いもすっかり醒めて力なく呟く南の前で、チカが床にひざまずく。
     それにつられてふと視線を落とすと、床の一部が妙な形に盛り上がっていた。黒い光沢のある布で覆われているため、なにが隠されているのかわからないが、こころを和ませるものでないことはチカの笑顔から見ても間違いないようだ。
    「ほら、見て」
    「……うわぁぁぁっ!」
     チカがぱっと布を取り去ったとたん、思わず大声をあげてしまった。
    「なっなっなに、なんだそれ、その黒くて長いのは……っ」
    「もうひとつ足りません。黒くて長くて太い、よね? これ、千宗なら見覚え、あるでしょう?」
     にんまり笑う顔に問われたが、がくがくと首を横に振るしかなかった。誰がそんなものに覚えがあると言うのか。
     その奇妙な代物は、床に固定されていた。ぶ厚い鉄板の中央からぐんとそそり立ついかがわしい形状を見つめているうちに、身体じゅうの血という血が熱く煮えたぎり、眩暈まで起こしそうだ。
    「材質は人間の皮膚に近いものにしたかったから、よくなめした革を使っているんだ。色が黒いのは、まあ愛嬌だと思って。このほうがほら、きみの濡れたあそこを出たり挿ったりするとき、よりいやらしく見えると思ってね。感じてるときの千宗のあそこって、うっすら充血してほんとうに淫らなんだよね。……ああだめだ、思い出したら勃ってきた……。視覚的効果も忘れてないよ、僕は。これの中は鉄芯とシリコンを使っているから、弾力も僕自身にかなり近いはずだと思うね。ただまあ、体温だけはどうにもならないけど。この型を取るまでにずいぶん苦労があってねえ……、きみを楽しませられるものになるよう、かなり長いこと試行錯誤したんだよ」
     しみじみ語る男の頭の中身を疑うには、すべてが遅すぎた。
     床から生える黒い物体は、チカの性器をかたどっているのだ。頑丈な鉄板の真ん中に生えたそれにまたがった者が腰を落として咥え込んだときにずれて動かないよう、四隅をがっちりと床に固定している。
     張り出したエラの形も、根元に向かって太くなっていく竿の長さも、すべて南の記憶にあるまま。
     いったい、どういう方法でこれをつくったのかと聞けば、きっとチカは嬉々とした顔で話してくれるだろうが、冗談じゃない。誰がそんなもの聞くか。
     ――こいつが怖い。こんなものを自宅に用意する神経もそうだけど、そもそも、これをつくったのは誰なんだ。どこのどいつなんだ。
    「これをつくったのは、業界内でも有名な造型師でね。伝説の造型師とも言われているんだよ。性器をリアルに表現することに命を懸けているひとで、サイズや質感の誤差がかぎりなく低いんだ。きっときみも満足すると思う」
     南のこころの声を聞き取ったらしい、会得顔で語るチカが腕を組みながら、正面に立ちふさがる。
     サイズはともかく、質感の誤差が低いというのはどういうことだろう。
     ――直接触らせたのか。俺に断りもなしで、他人に触れさせたのか。
     そんなことが頭の隅をちらりとよぎるが、いいや待て、いま頭を痛めるのはそこじゃない、これを本気で自分に使わせるのかどうか確かめなければいけないと思うのだが、なにをどう言えばいいのか。
    「千宗」
    「な、なんだ」
     低い声に怯えてしまうのが、我ながらどうしようもない。いつの間にかチカが目の前に立ち、腰に両手を巻き付けてくる。
     目を瞠り、南は引き寄せられるままだ。これからここでなにが起こるのか、ある程度予想がつくようになってしまったという事実も悲しい。
    「一生のお願い。一度だけでいいから、僕の願いを叶えて」
     やさしく囁かれるほど、身体が強張っていく。
    「僕の目の前で、あれを咥え込んでみて」
    「じょ……冗談言うな! おまえ自身ならともかく、なんであんなものを受け入れなきゃいけないんだよ!」
    「なにごとも経験だよ。ここにはきみと僕しかいないから、どんなにはしたない姿を晒しても平気だよ」
    「おまえが見るから恥ずかしいんだろうがこのバカ! ……ぁ……ッ!」
     怒鳴りつけたのもつかのま、待ちきれない様子のチカにうしろ髪を掴まれ、力ずくでくちびるをむさぼられた。
    「んん……ン……」
     説明しているあいだから、チカのほうも昂ぶっていたのだろう。むりやりくちびるを割って入り込んできた舌に絡め取られ、きつく吸われることで膝ががくがくと震え出す。
     いつもなら反応を試すようなキスから始まって、ゆっくりと首筋、胸へと落ちていくのに、今夜は違う。長い舌で口腔を執拗にまさぐられ、息が詰まりそうだ。
     南が息苦しさに喘ぐと、その瞬間だけキスの力が弱まるが、すぐにまた強く舌が絡み付いてくる。髪を引っ張られてのけぞらされているから、伝わる唾液をすべて飲まされた。
    「チカ……」
     いきなりの強いキスにくらくらして、ろくに言葉も継げない。そのあいだにも尻を掴まれ、揉み込む手つきがいやらしい。
    「あ……っ」
    「千宗のここに、あれを挿れてよ。僕にそれを見せて。絶対に気持ちいいから大丈夫。痛いことはなにもないから、……ね? 言うことを聞いてくれたら、ほら、きみの大好きなここ、もっと弄ってあげるから」
     ゆるめたネクタイをえりわけ、シャツの下に忍んでくる指先が器用に乳首の周囲をなぞり、尖りを浮き立たせていく。
     そこが弱いと知っていて、わざといたぶるチカを突き飛ばせたらいいのに。だけど、頑丈な親指と人差し指で先端をやさしくつままれると、抵抗することすら頭から抜け落ちてしまう。
    「……いやだ……触る、な……」
    「可愛いね、千宗は。少し弄っただけなのに、もう下もぐちゅぐちゅになってる。聞こえる? ほら、ここの音」
     扉に押しつけられた格好で乳首や下肢をいいようにもてあそばれる南の視界に、床から生える黒いものが映る。
     ――あんなものを受け入れるなんて絶対に冗談じゃない。……でも、嫌だと言ってチカが許してくれるんだろうか。痛くないと言っていた。チカのものにかぎりなく近いサイズだと言っていた。たぶん、ほんとうに受け入れるとなったらローションで濡らしてくれるんだろうし、ちゃんと頼めばあそこもここも触ってくれるかもしれない、だから――。
     だから、なんだというのだろう。
     濃厚な愛撫に喘ぐうちに、チカの頼みを聞き入れそうになっている自分に気づいて動転してしまう。だが、彼の一風変わった性癖を断固拒否していたら、いまのふたりの生活というのはなかったはずだ。
    「僕は千宗のいろんな姿が見たいんだよ。いやらしく腰を振る姿が見たい。泣きそうな顔で、ディルドーを受け入れる姿が見たい。でも、きっと気持ちよくて泣いちゃうはずだよ。途中まで挿れたら、ご褒美に乳首を舐めてあげるから――ねえ、してみようよ」
    「でも、あんなの、挿れて……おまえのよりも、よかったらどうするんだよ……」
    「まさか、そんなことになるはずないでしょう。どんなによがっても、最後には僕を求めるはずだよ」
     いやに自信たっぷりに返され、腹が立ってきた。確かにチカの身体は自分にぴったり合うが、伝説の造型師の才能が上回っていることだって考えられないわけではない。
     ――ひょっとしたら、ディルドーのほうが気持ちいいかもしれないじゃないか。
     なにごとも、試してみなければわからないものだ。編集者という仕事においても、自分の知らないことは体験してみるにかぎる、ということをモットーにしている。
    「どうしたの、黙り込んじゃって。もしかして怖じ気づいた? 千宗ともあろう者が、たかだかディルドーひとつに怯えちゃった?」
    「勝手なこと言うなよ。誰が怯えてんだ。あれぐらい、俺だって」
     首を傾げるチカに勢いよく啖呵を切ったはいいが、こみ上げる羞恥心にその先が続かない。
     熱っぽい視線を全身に感じて、覚悟を決めた。ここまで来て、引き下がれるか。
     ――チカの挑発に煽られるなんて、俺もどうかしてる。だけど、許してくれというのも嫌だ。俺だって男だ。一度ぐらい、あんなものを受け入れてもなにかが変わるわけじゃない。
     くちびるを噛みながら、シャツのボタンに手をかけた。だが、その手をそっと止められ、「向こうに行こう」とうながされた。
    「シャツは脱がないでいいから。ネクタイもそのままにしておいて。僕はね、きちんとした格好のきみが崩れるのを見たいんだ。それから、スラックスも膝まで下ろせばいいよ。全部脱ぐのは抵抗があるでしょう」
     譲歩だかなんだかわからないことを囁くチカが、ベルトをゆるめてくる。すとんと落ちそうになるスラックスを慌てて掴んだものの、仕方なくそれを膝まで下ろし、ついでにシャツの裾に隠れさせて下着も引き下ろした。
    「どう、したらいいんだよ……」
     床に膝をつき、チカを見上げた。幸いにも膝にあたる部分にはやわらかな毛皮が敷かれ、擦りむく心配はない。
    「これを使って、うしろを自分で拡げてごらん」
     正面にしゃがみ込んだチカが、とろりとした液体で満たしたボトルを手渡してくる。毎晩、彼に抱かれるときに使ってもらうローションを、まさか自分の手に拡げて塗り込めることになろうとは。
     ぼうっとする南の両手にローションが垂らされる。指のあいだから漏れるほどに、垂らされた。ぬめぬめと濡れる感触が淫らで、手を握り締めることもできない。
    「手をうしろに回してごらん。……そう、僕には音だけ聞かせてくれればいいから」
     言われたとおり、右手を背後に回し、窮屈に締まるそこにそっと触れてみた。
     ――こんなところを自分で弄るなんて。拡げるなんて、とてもできない。でも、それができなかったら、先に進まないんだ。
    「……は……ッ」
     前屈みになり、南は顔をしかめながらゆっくりとアナルを撫で、おそるおそる指をもぐり込ませていった。
    「あ、あ……」
    「指、挿った?」
     挿ったが、慣れない感触がおぞましくて泣き出してしまいそうだ。いつもチカにしてもらっているときよりも、ぎこちない動きがいとわしい。
     熱く湿るすぼまりに触れるだけでも気持ち悪くて、冷や汗が浮かんでくる。
    「挿った……けど、だめだ、……これ以上……」
    「だめだよ、続けて。いま、第一関節まで挿れてるの? だったら、もう少し奥まで挿れてごらん。そうしたらきみの好きなところにあたるはずだから」
     なにをバカなことを言うのか。自分の身体でもないのに勝手なことを言いやがって、と反論しようとしたが、身体をふらつかせた拍子に、微妙に動かしていた指がぐっと奥に忍び込み、ひどく疼く場所をかすめたことで思わず喘いでしまった。
    「あっ……?」
    「わかった? そこだよ、千宗の感じるところは。傷つかないように、そうっと擦ってごらん」
     涙混じりの目を瞠る南に、チカが笑いながら囁く。
     どうしてそこが感じるとわかるんだろう。これは自分の身体で、中を探っているのも自分の指だ。節がはっきりしていて、深爪気味の指。
     なのに、チカの声が全身に染み渡り、南自身の意志よりも強い支配力を持って自在に指を操るようだった。
     ――こんなところを弄って感じるなんて、俺はどうかしてる。
     自棄気味に自分をなじっても、もう止まらない。指を一本飲み込ませるのでやっとという場所に秘められた熱を知ってしまった以上、そこから広がる快感を無視することはできないのだ。
    「ん、うん……」
     噴き出す汗でワイシャツがぴたりと張り付き、胸の尖りがことさら目立つ。だが、そんなことも気にならないほど、身体の奥深いところで生まれる熱に没頭していた。
     ローションで濡らした指を二本に増やし、なんとか力を抜いてゆるめようと懸命になった。
     性器を弄って感じるならともかく、本来快感を覚える場所ではないところで喘いでしまうのがつらくて仕方ないが、チカの鋭い視線の前では嘘をつくことができなくなる。
    「気持ちいい?」
    「ん……」
     強い羞恥に顔をそらして頷き、二本から三本に増やして、もう少し拡げた。いやらしい染みができてしまったシャツの裾がひらひらと腿をかすめ、勃ちきったペニスにも触れていく。充血した先端からは透明なしずくがしたたり落ちて、自分で見るのも恥ずかしい。
    「ああ、チカ……もう、っ俺……」
    「そろそろ挿りそうかな……。ゆっくりでいいから、ディルドーにまたがってごらん」
     やさしい声に従ってしまう自分が自分ではないみたいだ。だけど、身体は見事に意志を裏切る。バランスを崩しそうなのが怖くて、南は一度床に手をつき、四つん這いの姿勢でそっとディルドーをまたいだ。
     すぐ近くに、チカの靴の爪先がぼやけて見える。このマンションはすべて大理石張りだから、寝室以外では普通に靴を履いていることが多いのだ。
     両脚のあいだで怖いぐらいにそそり立つ黒い張り型を見て、いまさらながらに震えが生じる。
     ほんとうにこんなものを受け入れられるのだろうか。生身のチカが時間をかけて気遣ってくれるのとはわけが違う。どんな角度で、どんな強さで受け入れるか、すべては自分しだいだ。
     思わず救いを求めるような目つきでチカを見上げたが、腕組みして睥睨してくる男は口元に笑みを浮かべているだけだ。
    「こ、んなこと、してるって、誰にも……」
    「言わない。絶対に秘密にする」
     人差し指をくちびるにあてたチカが鷹揚に頷いたのをきっかけに、腹をくくった。
     そろそろと腰を落とすと、ローションで濡れた艶めかしい感触が尻の狭間にあたる。
    「ッ……」
     どうやったら、こんな大きなものが挿るんだろう。エラもくびれもはっきりしていて、すべてを収めるまでに相当時間がかかりそうだ。
     痛みを軽減するために無意識に両手でアナルを押し開き、腰を突き出す格好で先端を飲み込んでいった。ぬぷっと絡む音がするのは、たっぷりまぶしたローションのせいだろう。
    「……ッく……う……」
     むりやり拡げられる苦痛に顔を歪める南の前で、チカはやけに真剣な顔だ。
     少しずつ受け入れ、ようやく真ん中まで飲み込んだときだった。素早くかがんだチカがシャツを開いて乳首をねじってきたことで身体の力が抜け、腰を落とした弾みでディルドーがずくんと根元まで突き刺さった。
    「あ……ッバカ、……やめろ、あぁ……ッ!」
    「その勢いで腰を振ってごらん」
     嫌だと頭を振るたびに、身体の真ん中を強い熱が走る。串刺しにされた状態で、わずかでも動くと強烈な快感が電流のように脳天を突き抜け、涙があふれた。赤く腫れる乳首をぐりぐりと揉み込まれる快感が下腹にも響き、否応にも腰が揺れてしまう。
    「すごい、千宗……。きみってそんなにいやらしい顔ができたんだね。やっぱり素養があったのかな」
    「そんな、……っちが、……っこれは……あ――ぅっ……いやだ……抜いて、抜けよ、いやだ、こんなの……!」
    「だめだよ。せっかく挿ったんだから、ちゃんと感じて」
     乳首から手を離して立ち上がるチカに思わずすがりついたことで、ようやくバランスを取り戻した。そしてそのまま、我を忘れて腰を振った。
     シャツもネクタイも着けたまま。スラックスだってまだ穿いている。なのに、黒々としたディルドーでむりに拡げたうえに、とろけそうに熱い奥深くを抉りたくて深々と咥え込んでいるのが自分でも信じられない。
     ――嘘だ、こんなのは絶対に嘘だ。チカじゃなくて、革の張り型を喜んで受け入れるなんて、俺はどういう淫乱だ。
     だが、身体の中に感じるのはチカの性器をかたどったものだ。体温こそないけれど、硬さも太さも馴染みあるものだけに、違和感はいつしか薄れ、ほんとうにチカに抱かれている気になって乱れてしまう。
     下から貫かれるせいか、圧迫感が凄まじい。しかも、自分から動かないかぎりどうしようもないというのも、また泣けてくる。ちょっとでも力加減を誤ると、血の通っていない真っ黒なディルドーに思わぬ強さで突かれてしまうのだった。
    「い、――あ、っ……ッ気持ち、いい……チカ、すごい……」
     床から生えた無機質な男根に犯され、快感と混乱で泣きじゃくる南の髪を撫でながら、チカが見下ろしてくる。その目に深い嫉妬のような感情を認めた瞬間、「舐めて」と硬く盛り上がった股間を押しつけられた。
    「僕のものを感じながら、ここを舐めて。犬みたいにしゃぶってごらん」
     朦朧とした意識でジッパーを引き下ろし、とうに張りつめていた性器に触れたとたん、じわっと目が潤む。
     じかに触れると、やっぱりチカがいいと思う。
     匂いも、熱も違う。ディルドーなんかとは比べものにならないほどの質感だ。間近で見るチカのそれは興奮のせいで赤黒く充血し、先端の割れ目からとろっとしたしずくをこぼしている。筋も太く浮き上がり、どくどくと脈打つ様子が研ぎ澄まされた容姿と裏腹に淫猥すぎる。
     ――これが欲しい。
     素直にそう言えたらいいのだけれど、根強く残る常識がどんな状況に追い込まれても露骨に求めることを固く阻む。
    「ん……むっ……」
     両手はチカの腰を掴んでいるから、顔だけ寄せて、口いっぱいに頬張った。すぐにチカも腰を突き動かしてきて、先端で喉奥を突いてくる。
     夢中で先端のくぼみを吸い、じわりと滲むしずくを綺麗に舐め取っても、あとからあとからあふれ出てきて間に合わない。竿に舌を這わせ、浮き上がる筋を舐めあげた。懸命な奉仕にチカも感じるらしく、目縁を赤く染め、頭を掴んで突き挿れてくる。なめらかな丸みを帯びた亀頭が頬の裏側を擦り、舌の上に濃い味を残して何度も抜き挿しされた。
     その動きに、自然と南の腰の動きも合わさっていく。熱く勃起するチカの形を舌で確かめ、ひくつく場所を黒いディルドーに犯されるという倒錯した構図に、頭の底が白くとけていきそうだ。だけど、こんなものでいくのは嫌だ。
    「いく、……いきそう……チカ……頼むから、……」
     尻の奥でぬちゅぬちゅと音を響かせながらディルドーを出し挿れする南に、額に汗を浮かべたチカが微笑みかけてくる。
    「ディルドーはお気に召した? なんだったらこの先、ずっとそれで感じてもらおうかな」
    「いや、だ……そんなの、……チカがいい……っ」
    「どうして? それだって僕だよ。だいたい、そこまで腰を振っておいて、僕がいいなんて説得力がないけど。それとこれと、違いがあるなら教えてよ」
    「バカ……これがいいんだよ、……チカのほうが、いいんだよ……」
     違いを口にできるほど、冷静になれない。
     たったいままで咥えていた太竿でぬるぬると頬や瞼を擦られ、おかしくなりそうだ。濡れた亀頭がくちびるの脇をかすめていく瞬間がたまらない。もう一度しゃぶろうとくちびるを開きかけたところを、いきなり両脇に手を差し込まれ、ぐっと引き上げられた。
    「……ッぁ……ああっ、チカ……っ!」
     突然身体の真ん中から楔が抜けた衝撃でペニスがびくびくと震え、漏らすような感覚で精液が滲み出す。
     普通の射精とは違う複雑な官能に突き落とされた瞬間を、チカも見逃さなかったのだろう。足首でもたつくスラックスを引き剥がし、両脚を大きく割って深くねじ込んできた。
    「……ッあ――」
     待ち望んだ鋭い熱に、我慢できなかった。チカの手が触れる前に白いしずくをまき散らして達してしまい、恥ずかしさに泣くしかなかった。
     だが、チカのほうはひどく驚いた顔の次に、たとえようもない色気を滲ませた微笑みを浮かべた。汗ばんで小刻みに震える南の内腿を高く抱え上げ、より深く交わるために腰を押し込んでくる。
    「……そんなに僕がいい? 教えて、千宗。ディルドーよりもやっぱり僕がいい?」
    「ん、ん――、チカのほうが、いい、チカのほうが熱い……」
    「僕のこれ、好き? 太いのが好きだって言って。奥まで欲しいっておねだりして。言ってくれたらめちゃくちゃにしてあげる」
    「あっ……チカの、太いのが、いい、好き、だから、もっと、胸も触れよ、……もっと奥まで……っ」
     うわずった声で口走りながらチカに腰を押しつけると、両手で尻を揉みしだかれた。息を吸い込むとすぼまりはきつく締まり、吐き出すとわずかにゆるむようだ。それを無意識のうちに繰り返し、硬く、きわどくねじり刺さる楔の感触を全身で感じた。ディルドーにはない、チカ自身の熱が身体の真ん中にあるのが、たまらなく気持ちいい。張り型でひどく擦った粘膜を、いまはみっちりとはまった肉棒でじくじくと嬲られ、声を掠れさせた。途中、「見て」とうながされて、曇る視界にチカを映した。
    「僕がきみの中に挿ってる。こんなに深く、挿ってるんだよ。感じる?」
    「ん……」
     濃い繁みをまとわりつかせた肉棒が出たり挿ったりする光景を視界に焼き付けるあいだも、真っ赤に腫れ上がった胸の肉芽をしつこく舌で転がされ、すすり泣いた。苦痛に近い快感は感度を鋭くさせるようで、しまいには乳暈にふっと息を吹きかけられるだけでも感じてしまうほどだ。
    「可愛い、……千宗は感じやすくてほんとうに可愛い。ねえ、僕らがつき合いだした頃よりもきみの乳首は大きくなったよね。触るとすぐに硬く引き締まって、ずきずきするぐらい感じるんでしょう。あそこの締まりも前よりずっといい……熱くて、やわらかくて、気持ちいい。いまも、わかる? 僕を引き留めてるのがわかる? ほら、ひくひくしてるよね。……引っかかってる。ねえ、僕らの身体はこんなにぴったり合っているんだよ。こんなに可愛い男は世界中のどこを探してもいないよ。きみは、僕の運命だよ。これからはここで毎日可愛がってあげる。もちろん、きみの嫌がることはしないよ。どんなことをするのでもかならず千宗の意思を尊重するから、いつか――いつか絶対に僕の可愛い犬になって」
    「んっ……あぁ……チカ、だめだ、いく……」
     とろけて湿る襞を擦って出ていく屹立が、一層硬さを増していく。
     顔じゅうにキスを降らせてくるチカの呼吸が浅くなり、本格的に腰を遣われて声も枯れ果てた。
     床に毛皮を敷いているせいで背中は痛くないが、奥へ奥へと突き上げてくる力に負けそうで、ぎりぎりと肩に爪を食い込ませてしまう。
     熱の孕む奥を抉られ、悲鳴に近い喘ぎをあげたとしても、すべてチカのくちびるの奥へと消えていってしまう。肉厚の舌でくちびるの表面を執拗に舐められ、狂おしいまでの快感がじわじわと意識に染み込んでいく。チカが顔を離し、唾液がつうっと糸を引いていくのも束縛される甘い喜びをかき立ててくれるようだ。
    「あぁっ……!」
     どくんと脈打つ感触とともに、熱く生々しいしずくで身体中を満たされた。
    「千宗……千宗……」
     欲情に嗄れた声と一緒に、快感を惜しむような感じでチカがゆっくりと抜き挿しし、どこもかしこも濡らされていく感覚にじんと瞼の裏が痺れた。
     広い背中にしがみつくと、泣きたいぐらいにこの男が好きなのだという実感が湧いてくるのが、自分でも不思議だ。こんなことをされているのに、けっして嫌いになれない。それどころか、彼の極まった強さに引きずられてしまう一方だ。
     チカの情を受け止めるたびに、身体だけでなく、こころも塗り替えられていく気がする。いまはまだ、ディルドーを受け入れるだけですんでいるが、この先いつ自分が首輪をつけた聞き分けのいい犬になってしまうのか、予想もつかない。
     どんなにチカが好きでも、その力に引きずられたとしても、奴隷と主人という関係になってしまったら対等ではなくなってしまう気がする。
    「俺は、……チカの恋人なんだからな……。犬とは、違うんだぞ……」
     荒い息の下でようよう言い返したのが意外だったらしい。身体をつなげたままのチカはややあってから吹き出し、力のかぎりに抱きすくめてきた。
    「そうだね。……そうだよね、きみは僕の恋人。犬じゃない。奴隷じゃないよね。僕のたったひとりの恋人なんだよね」
     キスを甘くねだるように顔を近づけられてしまえば、南としても応えないわけにいかない。達した直後に怒ろうとしても、意識は端からゆるくほどけてしまう。
     ――しょうがない。これも惚れた弱みってやつだ。
    「……次はもっとやさしくしろよ」
    「うわ、もう一度していいの? ほんとうに?」
     身体の中でまだ硬さを残しているチカが頬を擦り寄せてくる。
     ほんとうならば、こんな怖い部屋じゃなくていつものベッドでしてほしいと言いたいところだが、「約束どおり、やさしくするよ」と頷くチカの嬉しそうな顔を見るかぎり、恐ろしい目に遭うことはなさそうだ。
     ひとまず、今夜のところは。

    「……それにしても、よくこんな部屋をつくる気になったよなぁ……。もしかして、おまえが装飾したのか?」
    「いやいや、いかに僕がSMの道を究めることに日々邁進していたとしても、さすがにこれは無理。専門の業者を呼んでやらせたんだよ」
     チカの言葉が真実ならば、この広い世界、床に張り型を設置する専門のバカがいるらしい。
     だけど、それで思うさま感じてしまった自分がいるのも、また事実だ。
     あれから二度もいかされて、空腹感が限界まで高まっている。
    「風呂の前にメシだ、メシにしよう」
     とりあえず下着だけ身につけ、ぐしゃぐしゃになったシャツやネクタイを拾い集めていると、まだいくらか湿っているディルドーに触れるチカがひとり微笑んでいるのが見えた。その横顔になにやら不穏なものを感じて、「チカ?」と呼びかけると、「ん?」と彼も振り返る。
    「どうしたんだよ。そんなのに……触って」
    「ああ、いや。思っていた以上に僕の形に近いなと思ってね。……じつは、このディルドーにはもうひとつ役目があってね。ちょっとした計画があって、そのために」
    「計画?」
     ますます疑わしい気分が高まるなか、ともあれ汗の引いた身体にシャツを羽織り、スラックスも穿き直したうえで、真面目な顔を向けた。
    「どういうことだ、計画って。なんのことなんだ」
    「きみも知っているだろうけれど、橘くんがいまちょっと大変なことになっているんだよ」
     橘、という名前に思い浮かぶのは、挑みかかるような目つきが魅力的なまだ年若い男だ。もとを正せば、クラブ・ゼルダの客で、チカの奴隷でもあった橘美散がいったいなぜここで話題に出てくるのだろう。
     なんだか、嫌な予感がする。
     不審な顔をしている南の前で、チカも気遣わしげな笑い方をし、裸の胸に薄いシャツをさらりと羽織る。プレイヤーとして、日々多くのひとに見られることを意識している男の身体は鍛え抜かれ、とくに胸筋や二の腕の逞しさといったら見事だ。
    「橘くんはいまのところ、バイヤー兼プレイヤーの真柴さんのもとで鍛え直されていることはきみも知っているとおり。最近、ようやく男根調教に入ったところなんだけど、ここにきて彼が激しく抵抗するようになっちゃってね。あんまりにも聞き分けが悪いものだから、鎮静効果も狙って一時的に僕が預かることになったんだよ」
    「はっ?」
     いま聞いたばかりの言葉がまるっきり理解できない。
     かつてチカが、『僕はSMプレイヤーなんだよ』と打ち明けたときよりも大きな衝撃に襲われ、呆然とするしかなかった。
     ――橘を預かるって、どういうことなんだ。この家に入れるのか?
    「もちろん、預かるのは一週間かそこらだよ。僕はなんといってもセンちゃんとの生活を優先させたいから、そのあいだになんとかするつもり」
    「なんとかって――なにを……」
    「橘くんのアナル拡張だよ」
     ここにきて初めて青ざめるというのは、反応が鈍すぎるだろうか。だがしかし、チカのくちびるからこぼれる言葉というのはつねにどれも激しすぎて、いちいち驚いていたらきりがないのだ。
     ――でも、でも、これはあんまりだ。ひどすぎる。
     アナル拡張という、常識から大きくかけ離れた言葉に口を開いたり閉じたりしたが、まともに言い返せなかった。それを了承の印と勘違いしたのか、チカが顎をしゃくる。その顔からは少し前の甘さが消え去り、クラブ・ゼルダで辣腕をふるうスタープレイヤーとしての自信がかいま見えるようだ。
    「いまの橘くんに必要なのは、真柴さんを受け入れるだけの勇気と柔軟性を持つことだよ。それともうひとつ、見られて恥ずかしいと思うこころもね。というわけで、僕なりにメニューを考えてみた。預かっているあいだ、橘くんには一日中裸で過ごしてもらう。うちにいるときは、僕とセンちゃんが彼のご主人様になるんだよ」
    「お、俺が」
    「ああ、もちろん三人でいやらしいことをしようってわけじゃないから安心して。首輪をつけただけの橘くんを見るだけで、いいから。僕はともかく、きみのような常識人に痴態を見られることで、橘くんの羞恥心というのも相当向上するはずだよ。それと、毎日、このディルドーで彼のアナルを馴らしてあげようと思うんだよ」
    「……おまえ……もしかしてそのためにこれを……」
     思いも寄らぬショックを受けてちいさくなる声が、無骨なコンクリ壁に吸い込まれていく。こんな状況にあっては、壁に取り付けられた手錠も床に据え付けられたディルドーも間抜けて見える。
    「勘違いしないで。あくまでも僕のこころはきみだけのもの。でも、僕の形をしていたら、部屋に設置するのを千宗も許してくれるかなと思ったんだ」
    「んなアホな……だって、橘に……い、い……挿れるのは……真柴なんだろ。なんであいつの形じゃないんだよ」
     掠れた声に、チカはぎゅっと眉根を寄せて不機嫌そうだ。
    「冗談でしょう、そんなのは絶対にだめ。いくら作り物とはいえ、真柴さんの性器と同じものが僕らの部屋にあってもいいの? 僕は嫌だよ。今回のことがあのひとの頼みだとはいえ、そこまではできないよ。だいたいね、真柴さんの性器をかたどったものだったら、間違ってもきみに挿れさせない。目にも触れさせない」
    「だったら、おまえの形に似せたものを橘に挿れさせるなよ!」
     鋭い声で怒鳴りつけたとたん、チカがびくりと身体を震わせた。その驚いた顔に、――俺がそこで怒ることを想定していなかったのかと思ったらますます頭に血が上ってしまう。
     いままでずっと、チカの性癖についてはあまり口を挟むまいとしてきた。自分のできる範囲内で理解し、譲歩しようとしてきたつもりだ。
     だが、橘を預かるという案にはまったくもって賛成できない。チカと同じように主人として痴態を見守るなんてこともできないし、真柴の形をしたディルドーが家の中にあるなんて考えただけでも虫酸が走る。だからといってチカの形をしたあのディルドーで橘を感じさせるのかと思うと、激しい嫉妬で神経という神経が焼き切れてしまいそうだ。
     プレイヤーとしての仕事を家に持ち込まないから、いままで許せてきたのに。
     ――でも、ここで嫉妬しているなんてことを明かしたら、チカはつけあがるに決まってる。そんなのはだめだ。絶対にだめだ。
    「いいか、……いままで俺はおまえの趣味をうるさく言わないようにしてきたけど、今回のこれだけは絶対にだめだ。橘を預かる案は断れ」
    「でも、……だけど、真柴さんも困っていて……僕としてもプレイヤーの意地があるから今回の件は絶対に成功させたくて……」
    「真柴と俺とどっちが大事なんだよ、バカ野郎! そんな意地なんか捨てろ! 真柴が困ってるから引き受けるんじゃなくて、おまえが望んで橘を引き取りたいんじゃないのかよ!」
    「違う! そうじゃない!」
     チカも即座に言い返してきたが、激昂するあまり南は手にしていたネクタイを思いきり投げつけた。
     普段、温厚な自分がここまで怒るとは思っていなかったのだろう。焦った顔のチカが腕を掴んできたが、怒りに任せて振り払った。
     今日、このマンションに帰ってくる途中、SMという性癖を仕事に生かすチカと、スポーツ誌の編集者という自分との考え方の違いについて思惟をめぐらせたっけ。
     あのとき、自分たちの違いが大きな悩みの種にならないといいがと考えたが、まさかこんな形で現れるとは、しかもこんなに早くに溝が深まろうとは思いもしなかった。
    「待って、センちゃん。橘くんを預かるのはせいぜい一週間だよ。きみを困らせることはしないから、お願い。真柴さんも本気で困ってるんだよ……ディルドーも使わないから、お願いだから、今度だけ」
    「だめだ! いったいおまえは何度今度だけってせりふを口にしたら気がすむんだ? ――あいつを預かるなら、俺が出ていく」
    「センちゃん、待って――待ってよ!」
     必死に引き留める声に捕まるよりも早く、南はシャツの胸を強くかき合わせて部屋を飛び出した。
     胸が痛くて痛くて、どうしようもなかった。

     

     

    後編:世界はチカでできている


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