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    求めたら最後(「愛執の鎖」原型2006)

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       固く引き締めていたはずの意識がぐらりときたのは、呑んでいる最中だった。
       周りの目を盗んで膝頭をゆっくりとまさぐる大きな手をまじまじと見つめた次に、三浦浩一は隣に座る部下の顔に視線を移した。
       大石祐は、笑っていた。普段と変わらぬ親しみやすい笑顔で、向かい合わせに座る同僚の行員たちと客の話で盛り上がっている。
       金曜の夜十時、三浦は部下を連れて勤め先の銀行からほど近い中華料理店でささやかな打ち上げを行っていた。
       ずいぶん前から手がけていた企業への大型融資が今日ようやく決まったため、中心となって動いてくれた大石をはじめとした部下たちをねぎらっていたのだが、そろそろ食事も終わろうとする頃に、不埒な悪戯が始まったのだった。
       左に座る大石が、テーブル下の三浦の膝を掴んで撫で回している。スラックス越しに膝をじわじわと触れ、たまに冗談っぽくジッパーのほうに向かって、指が這い上がってきた。だが、それで三浦がぎょっとした顔をすると、指はすぐに膝へと下りていく。
       大石も自分も、男なのに。しかも、同じ銀行に勤める上司と部下だ。いくら呑んでいるからといって、こんな悪ふざけが許されるのか。
       ――あのときもそうだ。こいつの口車に乗ったせいで、散々な目に遭ったんだ。
       一か月前、十歳も年下の大石によって身体の奥に刻まれた熱は未だはっきりとした痕跡を残し、日々、三浦を悩ませ続けていた。夢に見ることもある。三十九歳になったいま、夢精にはもう縁がないと思っていたのに、大石に触られたあの場所や、大石が深く挿ってきたあの場所が無意識の世界では淫らに疼いてどうしようもなくて、はっと気がつけば下着を汚している朝が何度かあった。
       そうしたときの自分がどれほど情けない顔をしているか、ふたつ年上の妻である亜紀にはけっして見せられなかった。
       下着は、洗濯すればいい。それが面倒なら過去の女同様、片っ端から捨てて買い換えればいい。それと一緒に、この身体のあちこちに残る大石の感触も消し去ることができればいいのに。
       ――ああそうだ。ほんとうにそうできるなら、肌をこそぎ落としてもいい。醜い傷が残っても、こいつに挿り込まれた場所に残る熱さえ消えてくれるなら、なにをしてもいい。大金を払ってもいい。
       酔った頭で考えたが、実際にそんなうまい話があるはずもない。
      「課長、どうしたんですか。しかめ面してますけど、また頭でも痛いんですか?」
       ビールが半分ほど残ったグラスを握り締めてくちびるを噛む三浦に、正面に座る部下の山下由美が心配そうな顔でのぞき込んでくる。
      「わたし、頭痛薬なら持ってますけど。飲みます?」
      「あ……うん、ありがとう」
       偏頭痛持ちの三浦は、特定のメーカーの鎮痛剤しか飲まなかった。痛みがひどくなるとそれしか効かないので、いつも鞄の中に常備していた。もちろん、いまも足下の鞄に薬が入っている。だが、山下のやさしい気持ちを無下にすることはできない。
       そもそものことを言えば、とくべつ頭が痛いわけではなかった。ただ、隣の男から逃れたいだけだ。
       笑顔の山下が差し出す丸い錠剤を受け取るとき、かすかに手が触れた。今年で三十一歳になる山下がわずかに頬を染めたのを、隣の大石が見逃すはずがない。ひとのよさそうな顔で煙草を吸い、「山下さん、顔が赤いですよ」と笑い混じりにからかう。
       今日の大石は白いワイシャツに甘めのピンクのネクタイを締めている。軽いくせ毛が似合い、笑うと無邪気な男だが、口を閉ざしていると妙な威圧感があった。そのことを本人も知っているのかもしれない。黄色やピンクといった華やかな色合いのネクタイで雰囲気をやわらげているみたいだ。
      「ホント、山下さんって三浦課長にお熱ですよね。なにかっていうと課長の手に触ってませんか」
      「そんなこと、ないわよ。ちょっともう、大石くんったらみんなの前で変なこと言わないでよ」
       山下の頬がますます赤くなっていく。彼女の両隣に座る男性行員も、女性行員もいっせいにくすくすと笑い出した。これはいわゆる、酒の席での冗談というやつだ。三浦も、独身の山下が自分に対してほのかな好意を抱いていることは当然気づいていたが、むろん応えるはずもない。
       学生時代から妙に女にもてたので、それとなくはぐらかす術は身につけていた。
       見た目は悪くないと自分でも思う。若い頃はきつい感じが勝っていた整った顔立ちも、年を経るとともに相応の落ち着きとやわらかさを備えて、三十後半になってからはよけいに女から誘われる機会が増えた。
       ――でも、俺はだめだ。もうだめだ。
       鎮痛剤を水で飲み下したときだった。
      「でも、だめですよ」
       三浦の胸の裡を見透かしたように、そして山下に釘を刺すように、大石がにこりと笑う。
      「三浦さんは――」
       そこで言葉を切り、ちらりと視線を向けてくる男の目の中に浮かぶ獰猛さに背筋がぞくぞくする。
       なにを言うつもりなんだ、おまえは。やめろ、言うな。俺たちのことをもしもひと言でも漏らそうなら、俺もおまえもおしまいだ。
       みるみるうちに真っ青になっていく三浦だけに通じる目くばせをして、大石は笑顔のまま続けた。
      「三浦さんには可愛い奥さんがいるんだから、冗談でも手を出しちゃだめですよ」
      「……わかってるわよ、そんなのいちいち言われなくたって」
       三浦より十も下、山下自身から見てもふたつ下の男にひとくさりやられておもしろくないのだろう。それまでの笑顔をさっと消して眉をひそめる女性行員に、周囲の行員たちが慌てて機嫌を取り始めた。大手都市銀行の九段下支店、渉外課のエキスパートを怒らせると、自分たちにも災難が降りかかることを、みな賢明にも知っているのだ。
      「ねえねえ、山下さん。なにかデザートでも食べません? わたし、甘いもの食べたくなっちゃった」
      「僕も。あ、そうだ、よかったらこのあと、おいしいケーキの店にでも行きましょうか」
      「こんな遅くにやってるの? だってもう十時じゃない」
      「大丈夫。駅前に新しい店ができたんだよ。そこなら終電近くまでゆっくりできるし……」
       山下を取り囲む部下たちがにぎやかに喋りたてるなか、大石と言えば平然と煙草を吸っているだけだ。
       堂々とした態度にやりきれなさを覚え、トイレに行こうと立ち上がると、大石が伏し目がちに視線を動かす。その確信めいたなめらかな仕草を見ただけで、指先がじわっと熱く痺れていく。
      「……ちょっとトイレに行ってくるよ」
      「はい、どうぞー。課長が戻ってくるまでに、次のお店決めておきますね」
       気のいい女性行員が手を振り、隣で大石が「俺もちょっと」と席を立つ。
       うしろを振り返ることなく、逃げるようにしてトイレに向かった。すぐうしろから大石も追ってくる。
       大股気味に近づいてきて、もはや駆け足状態の三浦の肘を強く掴み、「ちょっと」と低い声で言って、ふたり足下をもつれさせながらトイレの個室に入った。
       バタンと扉が閉まる大きな音を耳にするのが早いか、それともついさっきまで見ていた笑顔をなくして、険しい目をする大石にくちびるをふさがれるのが早かったか。
      「ん――……ッ!」
       自分よりも頭半分ほど身長の高い大石に抱きすくめられて、強引に舌を絡めさせられた。たっぷりとした唾液を伝わせる長い舌で口内をいいように犯されるかたわら、背中から尻へとまさぐる手つきに声が漏れ出てしまいそうだ。
      「んぅっ……ん――ふ……」
       ろくに息継ぎもさせてもらえないことに涙がじわりと浮かぶ。激しくもがいても、大石のほうがつねに一歩早い。壁に三浦を押しつけて舌をうずうずと擦り合わせ、急速に昂ぶる下肢にも手を伸ばす。
       下から揉み込むような手つきがいやらしい。陰嚢を手の中に収めて、竿ごとゆっくりと揉みしだくおぞましい快感にびくんとのけぞると、濡れたくちびるを離して、大石が笑いかけてきた。
      「……覚えてるんですね。俺がここを可愛がったこと」
      「おまえ……」
       やめろよ、と言おうとしたのを察したのだろう。またも大石の目に鋭い感情が浮かび、左手をねじりあげられた。
      「……ッい、た……っ大石……っ!」
       ワイシャツを透かして、大石の熱い体温が伝わってくる。二十九歳になっても大石の身体は引き締まっており、学生時代にずっと剣道をやっていたというのも頷ける逞しさだ。ぱっと見ただけではそのことがよくわからないが、彼のシャツの下に隠された衝動を三浦は一か月前に知ってしまった。
      「覚えてるんでしょう。三浦さん。俺と寝たこと、覚えてるでしょう?」
       左手をねじりあげるほうとは別の手で、ジリジリと音を立ててジッパーを下ろしていく大石が目と鼻の先で笑う。
       あれ以後、彼が正面切ってこの話を持ち出してきたのは、今日が初めてだ。いつなにを言われるかと毎日怯えていた自分を、きっと嘲笑っていたのだろう。
       微笑んでいるのに、凶暴なものを感じさせる男に頷いてしまったら、この先もずっと言いなりだ。
      「三浦さんのここ、……あの日もこんなふうにして触ってあげたこと、覚えてませんか」
      「――お、覚えてるわけ、ないだろう!」
       全身を揺らすような快感から必死に意識を立て直してちいさく怒鳴ると、ほんの一瞬、三浦がまったくの無表情になった。それがやけに恐ろしい。なにも言わない、眉ひとつ動かさない大石の中で、唐突に電池が切れてしまったみたいだ。
       日頃は朗らかな男が黙り込むととたんに落ち着かなくなり、せっかく振り切ったことも忘れて、「大石……」と囁くと、のろのろと視線が絡み付く。
      「どうしてそんな意地悪を言うんですか」
       掠れた声に答えられなかった。
       一か月前の夜、やはり酒に酔っていた三浦は、途中から隣に座る大石に半分身体を預け、ふわふわした気分に包まれていたものだ。確かそのときも、比較的大きな仕事に決着がついて祝杯をあげていたのだった。
       三浦が二年前に課長に昇進したのを機に融資課から異動してきた大石は、人懐こい性格と機転が利く性格で、渉外課にもすぐに馴染んだ。十歳も年上の三浦に対して臆することなく、それでいて礼を失さずに接してくれて、いつの間にか誰よりも頼れる懐刀となっていたのだ。
       その刀がどうして自分を斬りつけようと考えたのか。いまもって、三浦にはよくわからない。
      『三浦課長、呑みすぎですよ』という年下の男のやさしい声も、支えてくれる手のひらも、いままでに味わったことがないもので心地よかった。
       昔から、三浦は酒にだらしなかった。ある一定量を呑むととたんに自制心が崩れ、ふと気づくと見知らぬ女と寝ていることが数え切れないほどあった。
       だが、あの日隣に座っていたのは男だ。同性の大石だ。仕事の話をする名目で部下たちと飲み歩き、最後に残った大石とふたりでそれからも店をはしごして、しまいには完全に泥酔した三浦の耳に、あの蠱惑的な声が聞こえてきたのだ。
      『課長は、男に興味があるんですか』
       あのときの自分はなんと応えたのだろう。『なに言ってんだよ』と目を丸くしたか。『ばかなこと言うな』と吹き出したか。いずれにせよ、大石から身体を離さなかったのは確かだ。
       ――あなたって、酔うと他人の体温を欲しがるのよね。そこに、わたしも負けちゃった感じ。
       三浦の中にひそむ荒淫さを、妻の亜紀はそんなふうにたとえた。けっして自分から強く求めた覚えはないのに、ふっと気づくと彼女たちが自分の上に乗っかっていたり、胸の下で喘いで積極的に腰を動かしていたりするのだ。
       男に興味があるか、と聞いてきた部下に、自分がなんと答えたのかはいまでもはっきり思い出せない。
       だけど、その後のことならよく覚えている。熱くてたまらない頬をシーツに擦り付け、迫る大石の手から逃れようとして笑いながら身体をよじらせたのだ。
       ――そうだ、俺は笑っていた。こいつに抱かれるとわかっても笑っていたんだ。
       自分よりも若い男を惑わせるように肢体をくねらせ、徹底的に焦れさせたあげく、いよいよ硬い熱を受け入れる段になってもさして暴れなかった。
       ――まあいいか。そう思ったんだ。こういうことが一度ぐらいあっても、べつにいいじゃないかと思ったんだ。
       だが、正気に戻れば自分の乱れた思考に頭を抱えるほかなかった。あの晩、一杯でも酒を少なくしていれば、こんなことにはならなかったのに。
      「あのとき、三浦さんは男に抱かれるのが初めてだったんですよね」
       ひとり勝手に想いふける三浦を引き戻すように、大石が呟く。
      「俺が誘っても、一度も拒まなかった。いやじゃなかったんでしょう? 男に興味があったってことでしょう? 俺のことだって」
      「違う、あのときは……ほんとうに酔ってたんだ。いまでもどうしてあんなことをしたか、わからない」
       頭を強く振り、部下の言葉を最後まで聞かずに遮った。
       酒にだらしなければセックスにも節操のない自分から、目をそらしたい。忘れてしまいたい。渉外課の課長として仕事はできるかもしれないが、それ以外の点ではまるでだめな人間だ。
       家庭のことも亜紀に任せっぱなしだ。まだ子どもはいらないと気ままな暮らしを楽しむなか、連日したたか酔って帰る三浦に、『もう、いつまで経っても手を焼かせるんだから』と苦笑しながら靴下を脱がせてくれる亜紀と寝る回数は年々減ってきているが、大切な存在なのに変わりはない。
      「頼むから、おまえも忘れてくれ。あれは間違いだったんだ。あんなことは二度としちゃいけない」
      「どうしてですか」
      「どうしてって……」
       おうむ返しに問うてくる男は少し傷ついた顔をし、再び、「どうしてですか」と言った。
      「誰にも言いませんよ。たまに、こんなふうに触らせてくれれば……」
      「――それが迷惑だと言ってるんだろう!男同士でこんなことをするなんて変だと言ってるんだよ。わかれよ、それぐらい!」
       触らせてくれればなんて、ひとのことをダッチワイフみたいに言いやがって。
       瞬時に顔を引きつらせた三浦に、大石も眉をつりあげた。
      「そんなのわかりませんよ。だったらどうして一か月前、俺の前であんなに簡単に足を開いたんですか。俺は無理強いしませんでしたよ? 何度も確認しましたよ? ……でも、最終的にいいって言ったのはあなたのほうじゃないですか」
      「だからって、俺には妻がいるんだ」
      「ああ、そうですよね。いますよね、なんか面倒なのが」
       あんまりな言いようにきつく睨み据え、「……いい加減にしろよ」と唸った。
      「毎日うちに無言電話をかけてくるのも、おまえなんだろう。亜紀だって参ってるんだよ」
       一か月前に関係を持ってしまってから、自宅に名前を名乗らない電話が何度もあるのだ。「気味が悪い」と眉をひそめる亜紀に、「気にするなよ」と適当なことを言った自分自身がいちばん気に懸けていたなんてみっともないことは、絶対に口にできない。
       大石は「……へえ、そう」と言っただけだ。視線をそらしているあたりを見るに、痛いところを突かれてまともに反論できないのだろう。
      「俺とおまえは同じ課にいるんだし、こんなことをしていたら……」
      「わかりましたよ、そう何度も同じこと言わなくても」
       にやりと笑う男は、前触れもなしに耳をきつく噛んできた。
      「やめろ……離せよ……!」
      「大声を出したら誰か飛んできますよ」
       大石の冷ややかな声が合図になったかどうかは知らないが、そのときほんとうにトイレの扉が開く気配がし、誰かが入ってきた。
      「……ッ!」
       扉一枚向こうに誰かがいるとわかっているのに、大石がシャツの上から乳首をゆるく擦ってくる。ちいさくて、肌に埋もれてしまいそうな肉芽を執拗に弄られることで、もどかしい快感が腰のあたりにまとわりつく。
      「気持ちいいんでしょう」
      「そんな、わけない……」
      「だめ、我慢してください」
       声を漏らさないために大石の手できつく口をふさがれたが、それがなんだというのだ。そんなことをするなら、いますぐ胸から手を離せと言いたかったのに、親指と人差し指のあいだで硬い芯を孕ませられていくそこから意識が離れない。
       気づけば、自分から物欲しげに胸を突き出してしまっていた。
      「……あっ……ん……」
       どんなに必死に声を押し殺しても、声が揺れてしまうことに大石が目を細める。
       こりこりとねじったり、丸く円を描いてみたり、つまんで軽く揺らしてみたり。他愛ない愛撫なのに、頼りにしていた部下に淫らなことをされていると思うと信じられないぐらいに感じてしまう。
       ――男の乳首なんか弄ってなにが楽しいんだ。女と違うのに。
       だったら、どうしてそこを弄られて下半身を熱くさせるのだろう。自分でもうまい理由が見つけられずに、混乱するばかりだ。
       外から、鼻歌が聞こえてきた。声を聞くに部下のひとりだ。それが大石にもわかったのだろう。小声で囁いてきた。
      「今夜だけでいい。もう一度だけ、俺と寝てください。そうしたら、もうなにも言わない。しつこくつきまとったりしないから」
      「いや、だ……、いやだ……」
       胸の尖りに与えられる愛撫が、しだいに本格的になっていく。そんなところへの刺激に慣れていない身としては、つらすぎて涙が滲んでしまう。もともと、快感に流されやすいたちなのだ。膝ががくがく震えてきて、無意識に大石の首にしがみついてしまった。
      「いやだ……」
      「いやじゃなくて、いいって言ってください。今夜だけ。もう一度だけ抱かせてくれたら、無言電話もしない」
       冗談じゃない。誰がこんな確証のない約束を信じるか。
       けれど、あの晩と同じ、甘く低い声で囁かれると意識は端からゆるくとけだしてしまう。胸も弄られっぱなしで、男の愛撫に応えて痺れるように疼いていた。
      「ほら、三浦さんの身体も俺を欲しがってる」
      「あぁ……」
       シャツをせり上げる硬い尖りを指摘され、ほんとうに涙がこぼれた。甘い毒を含んだ大石の言葉を笑い飛ばす余裕など、これっぽっちもなかった。
       浅ましい自分をこれほど嫌悪したことがあっただろうか。
       どうしていつもこうなんだろう。だめだとわかっているのに、体温に惹かれてしまう。肌を熱く燃やしてくれる手を求めてしまうのだ。それで、過去どれだけもめ事を起こしたことか。妻の亜紀と知り合う四年前まで、三浦は女と女のあいだに挟まれてつねに困惑し、けっして自分から別れを切り出そうとはしなかった。
       ――ただ、気持ちいいことがしたかっただけだ。温めてほしかっただけなんだ。
       不遇な幼少時代を送ってきたわけでもないのにと、自分でも失笑することがある。だけど、いつも誰かの体温を欲していた三浦は、押しの強い亜紀に出会ったことで、このへんで諦めるかと長い長い爛れた遍歴に蹴りをつけたのだった。
       それ以後、亜紀以外には手を出していない。年齢に比例して地位もあがったのだから、些細な不祥事で足下をすくわれることは絶対に避けるべきだ。そうでなくとも、銀行というところはモラルにとかくやかましい。
       なのに、このざまだ。そんなに体温が欲しけりゃ風俗にでも行けばよかったのだが、金を払ってシステマティックにいかされるのはつまらなかった。
       ――できれば相手は普通でいてほしい。俺と同じように朝起きて、夜に寝る健康的な生活を送っていて、友だちもいる、家族もいる、だけどとりあえず恋人はいなくて、なんとなく寂しい同士ならちょうどいい。
       そんなふうに考える自分がどれだけひとでなしか、幸か不幸か、三浦はいままでに誰にもなじられたことがなかった。「あたしとあの女と、どっちを取るの」と詰め寄られたら「いまはきみだけだと思っている」と言い、「ほかに女はいるの」と聞かれたら「いたり、いなかったり」と笑ってみせることで、たいていの局面は切り抜けてこられたのだ。
      「いまは」きみだけだ、と、時間を限定させてしまえば、昨日や明日に違う女と寝ても構わないと本気で考えていた。
       いたりいなかったり、と言うときにちょっと寂しい顔をすれば、誰もきつい言葉を口にすることなく、逆にとらえどころのない男として夢中になってくれた。
       そして、そんな女たちが求めるままに寝ることが、誠実な男のすることだと信じて疑わなかった。
       ――でも、こいつだけは無理だ。いままでのやり方が通用しない。
      「三浦さん?」
       人前では「課長」と呼ぶくせに、ふたりきりになったとたん、親しげに名前を呼ぶ男をぼやける視界に映し、それでもまだ三浦は頷かなかった。一度頷いてしまえば、二度目も三度目もなし崩しになってしまうことは自分がいちばんよくわかっている。
       頬を撫でる男はベッドの中で豹変する。女のやわらかな感触しか知らない三浦の奥の奥まで探って硬い楔を打ち込み、摩擦に慣れていない粘膜を擦ってとろけさせ、泣かせ、求めさせて、喘がせたのだ。
       身体はとっくに倒れかかっているのに頑固に口を結ぶ三浦にくすりと笑い、「うんって言わないなら」と大石が歌うように囁く。
      「無言電話じゃなくて、声、出しますよ。奥さんに俺とあなたのことを言いますよ。ほかの行員にも、ばらします」
       やさしい声に顔を強張らせたが、大石も引くつもりはないらしい。視線を合わせながら、三浦の左手の薬指を掴んで、そこにはまる銀色の指輪をそっと舐めていく。
       濡れた舌先に魅入られて、「あ……」と漏らした声の弱々しさに三浦自身が瞠目する思いだった。大石の温かい口の中で泳ぐ指に、血が伝ってくるような錯覚を感じる。
       なにかを期待する声は、ほんとうに自分のものか。この一か月、同じ職場の部下と寝たことを何度も何度も否定してきたくせに、こころの底では、またあの夜と同じことをしたいと願っていたのか。浅ましいにもほどがある。だらしないどころの話じゃない。
      「……だから、言うことを聞いてください。今夜だけ」
       くちゅりと音を立てて指を舐める男と視線を絡めてしまえば、頷くほかない。
       脅されているのだから、仕方がないではないか。このあと彼に連れられていくだろうホテルの一室で、はしたなく乱れてしまっても、しょうがない。
       寝なければ関係をばらすと強要されているのだ。自分はなにも悪くない。酔ったところをつけ込まれたにすぎないのだ。
      「誰にも言わないって……約束するか」
       絞り出した声に大石は「はい」と言う。
      「……ほかの奴にも、亜紀にも……」
      「言いません」
       念を押すあいだにも、大石の手がスラックスの上から尻をやわやわと揉み、くぼみに指をすべらせて、くっと押してくる。そのちょっとした刺激に押されて、とうとう頷いてしまった。
      「……このあいだみたいに、縛らないって約束しろよ。タオルでも手が痛かった。跡も残って亜紀に変な顔をされて……」
      「あれはあなたがしろって言ったんですよ。一度でいいから、こんなふうにしてみたかったって」
      「嘘だ」
      「嘘じゃありません。……べつにいいですけどね、信じなくても。俺のせいにすることで気が楽になるなら、それでいいですよ」
       大石の声にうっすらした痛みが混じっていることに、三浦は気づけなかった。年下の男の胸の下で暴かれていく凄まじい本性に、眩暈を覚えていたのだ。
       自分の中に、違う性を見出してしまったような心境は最悪だ。男の身体を持ち、男としての意識もちゃんとあるのに、中に挿れて欲しくてよがり狂うなんて正気の沙汰じゃない。
       だけど、それも今夜かぎりだ。
       ――この一か月、何度も忘れようとして忘れられなかったことを、こいつがまたしてくれる。気が狂いそうだ。したくてしたくて――大石が欲しくておかしくなりそうだ。
      「山下さんやほかの奴らには俺がうまく言いますから、心配しないでいいですよ。このまま行きましょう。いま、あなたの鞄を取ってくるから……三浦さん?」
      「早く」
       すると決まったら、もう待てない。一分一秒だって待てなかった。ここへきて都合よく酒が一気に回ったらしく、驚く部下にすがりつくのも簡単だった。ついでに、「早く」とうわずった声でせがんだ。自分のくちびるがどんな言葉を吐き出すか、いまこの場では知ったことか。
       傷つくなら傷つけばいい。三浦自身、抱かれるまで気づくことがなかった、身体の中にひそむとろりとした熱にくちづけた男がすべて悪いのだ。
      「おまえとアレがしたい。亜紀にばれないように――したい。でも、今夜かぎりなんだろ。だったら、前のときよりも激しくしていいから……言うことを聞かなきゃばらすんだろ、俺はいやなのに……でもいい、おまえの好きにしろよ……」
       扇情的な言葉のひとつひとつは鋭い弾丸となって、男の胸を確かに撃ち抜いたようだった。
       大石はつかの間呆然としていたが、やがてじわじわと顔を歪め、「……ずるいよ」と呟いた。
      「どうしてそんなこと言うんだよ……」
       後ろ髪を掴まれて強く強く抱きすくめられる三浦の胸に、けれどその言葉は正しい意味を持って届くことはなかった。その頃にはもう、大石がもたらす熱に神経がとろけていた。
       いずれこの男によって滅ぼされるとわかっていてもなお、我慢することができない。自分はそういうふうにできている。
       彼という男が、怖い。
       そして、たまらなく魅力的だ。


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        • 2019.04.09 Tuesday
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        コメント
        秀せんせー、はじめまして。

        『愛執の鎖』は初めて読んだ秀せんせーの作品です。
        今回のブログ記事を見て読み返しました(〃ω〃)

        最初は嫌々だったのに、いつの間にかメロメロになってる三浦さん…。
        失いそうになって初めて自分の気持ちをはっきりと認識するちょっと鈍いところも可愛いですね♪
        年下攻、この作品で初めて読んでしばらくハマりました(*^^*)

        久しぶりに読み返して楽しかったです(//∇//)
        • のぼりん
        • 2017/10/19 11:41 AM
        のぼりんさん、こんにちは!
        「愛執の鎖」だいぶ前になりますが、私もこれを読み返して、おおおおとなりました。なんか、話が若いです笑
        三浦はかなり癖があるキャラなので、当時出版して下さった担当さんはおおらかだったなあと……!

        またこういうダークなイメージの話を書きたいです。

        嬉しいコメント、ほんとうにありがとうございました!またぜひ、お話してくださいねヽ(´▽`)/
        • 2017/10/22 2:23 AM
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