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    • 2019.04.09 Tuesday
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    炎は青く(オリジナル2006)

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       数年が経ち、あの恋は間違いだった、あのとき別れてよかったのだと思い出すたびに胸のどこかが痛んだかと言えば、まるきり嘘になる。
       だいたい、とうに終わった関係を律儀に覚えておくほど川畑健吾は記憶力がよくない。善人でもない。
      「そんなに変わったかな」
       隣で首を傾げて微笑む昔の男をためつすがめつ眺め、川畑は「そうだな」と素直に相づちを打った。
      「どのへんが? 自分じゃどこが変わったんだかよくわからないよ」
      「顔」
       無遠慮に言い切ると、彼がちょっと目を丸くする。
      「整形なんかしてないって」
      「そうじゃない。なんていうか……ちょっと痩せたな。頬のあたりが」
      「ああ、ここ数年仕事が忙しいからな」
       気安い感じで頷くその仕草も、鋭角的なものを思わせる頬のラインも、昔の彼にはなかったものだ。ただ、表面的なものだけで判断したならば、工藤周一はさほど変わっていなかった。
       年が明けたらますます寒さが厳しくなった一月の半ば、灯りを絞った行きつけの店で川畑が四年ぶりに見たのは、相変わらず神経質そうなものを窺わせる切れ長の目に高い鼻梁。やや突き出た頬骨のせいで、見た者にどこか貴族的な印象を与える。
       もしくは、ある種の近寄りがたさも。それらとは対照的なふっくらした上くちびるを見ると、端々まで揺るぎなく制御されている精緻な機械に異質な官能が混ざっている気分に駆られる。四年前も、川畑は彼の奇妙なバランスを保った顔に強く惹かれていた。
       しかし、以前よりもさらに感情が読みとりにくくなった気がする。男にしては長い睫毛と灯りのせいで、工藤の目はよけいに暗く見えた。
      「それにしても久しぶりだな。三年……四年ぶりか?」
      「四年だよ」
       曖昧な感じで川畑が言ったのに対して、工藤が短くきっぱりと答え、グラスを手にする。
       間隔を空けて設置された天井のライトはちょうど川畑と工藤のそれぞれ端についていて、ふたりのあいだをぼんやりと照らしていた。
       そうだ。あれからもう四年も経ったのだ。忙しない毎日を送っていると、時間の流れがどんなに速いものか、改めて知る機会はあまりない。たとえばこんなふうに、旧知の仲にでも会わないかぎり。
       ――旧知の仲、か。
       ちょっと笑って、川畑は半分ほど残っているグラスを彼に向かって掲げた。
      「乾杯しよう。偶然の再会だよな」
       そう言って、彼の返事を待たずにグラスを触れ合わせると、工藤も口元にそれとない笑みをにじませる。
       こころから笑っているのか、それとも川畑の無神経さを嘲笑っているのか、判別がつかないが、くちびるの端をわずかに持ち上げるという少し崩れた色気を感じさせる笑い方は、四年前にはなかったものだ。
      「乾杯」
       透明で薄いグラスの縁がかちんと綺麗な音をたてて合わさった。

      ***

       同じ年の工藤とは、二十五歳のときに知り合った。場所は四年前と変わらない、行きつけのこの店だ。新宿二丁目の片隅にあるバー・キブラには、同性を愛するという奇妙な性癖を川畑が自認した二十代前半の頃から通っていた。いつ来ても数人の男が客として訪れ、雑然としながらも居心地のいい雰囲気をつくり出している。
       キブラにはただ普通に酒を呑みにやってくる客もいるし、店の耀子ママと他愛ないお喋りを楽しむだけの者もいる。だけど、たいていはなんとなく寂しくて、満たされない欲求をぶつける相手を探しに来る者がほとんどだ。
       川畑はどっちつかずの客だった。学生時代にラグビーをやっていた身体はいまでも硬く引き締まっており、精悍な顔立ちに甘さを併せ持つ顔に生まれついたおかげで、寝る相手に困った覚えがない。大手の証券会社に勤めているというあたりも、周囲からの信頼度を高めている一因だろう。
       ただし、性格は最悪だ。俺ほど冷淡な人間もめったにいないと川畑自身よく思うことがある。性格の悪さというのはもっぱら、個人的なひと付き合いの面だけに出た。仕事の場ではそんなことはない。顧客の資産管理を務めるファイナンシャル・プランナーという職にある以上、笑顔と誠実な対応というのはイコールで結びつけられており、無表情、無口、無愛想であったらサラリーマン稼業が務まるはずがない。
       しかし、個人的につき合った男は皆、川畑がどんなにひとでなしであるかよく知っていた。
       時間を守らない、約束を忘れる、そのうえ平気な顔をしてほかの男と寝る。
       いくらその場かぎりのつき合いになれている男が多くても、ここまで徹底しているのはめずらしいと、いつぞや店の常連客に笑われたことがあったっけ。浅田諒一と名乗るその男はどうかすると工藤に似た芯の硬さを感じさせたが、関係を持てなかったのは彼も川畑同様、タチを好む男だったからだ。
       そういえば、浅田も工藤と同じ、出版社に勤める編集者だった。徹夜仕事の連続で、土日の休日も満足に取れない彼らみたいな人種は、長年不規則な生活を送っているうちに、どこかおかしくなるのだろうか。太陽をまったく浴びない生活は、神経にも悪影響を及ぼすと聞いたことがある。
      「いまでも真っ当じゃない生活してるのか?」
       ジャケットの胸ポケットから取り出した煙草に火を点けながら言うと、低い笑い声が聞こえてくる。
      「変わらないな、川畑は。相変わらず口が悪い。それでよく証券会社に勤めていられるな」
      「外面がいいのが自慢なんだよ。で、どうなんだ。ちょっとは出世したのかよ。まさか二十九にもなってうだつの上がらない編集者のままとか言わねえよな」
      「このあいだデスクに昇格したよ」
       ずけずけ言う川畑に怒るでもなく、工藤のそれは淡々としている。
      「デスクってなんだよ。どういう立場なんだ?」
      「いちばん偉いのが編集長、次が副編集長、デスクはその次だよ」
       子どもに言い聞かせるような丁寧な口調に、川畑はふんと鼻を鳴らす。
      「なんだ、中間管理職ってとこか」
      「うちの雑誌部署は大所帯なんでね。二十九歳でデスクっていうのはこれでもわりと早い出世なんだよ」
      「へえ」
      「川畑は? いまはどうなんだ。仕事はうまくいってるのか?」
      「当たり前だろう」
       ふぅっと煙を細く吐き、川畑は笑った。
      「今年の年収は軽く一千万を超えた」
      「それは凄いな。うまくいってるようで安心したよ」
       穏やかな笑顔で工藤は頷き、銀色の小皿に盛られたナッツをぱりぱりとかじっている。
      「おまえはやり手だったもんな。これからますます忙しくなるんだろうな。もう結婚したのか?」
       なんでもない調子で言われただけに、危うく最後の言葉を聞き落としそうになった。
      「まさか。いまは忙しくてそれどころじゃねえよ。最近、上司から見合いだのなんだの持ち込まれるのがうざくてさ。こっちはそんなつもりねえのに。女も子どもも面倒なだけだろう」
      「でも、いつかは結婚するんだろう」
      「まあ、そのうちはな。うちの仕事はいろいろと体面上に気を遣うんだよ。そのうち、偽装でもなんでも結婚しなきゃいけねえんだろうなあ……。その点、工藤はいいよな。うるさいこと言われるような仕事じゃないんだろ?」
      「個人主義だからね。ちゃんと仕事してりゃ文句を言われることはない」
       グラスの縁をなぞったあと、濡れた指先を軽く口に含む男の横顔は年相応の落ち着きを備えている。
       デスクという、川畑にとってはわけのわからない立場にありながらも、まあそこそこの仕事はこなしているのだろう。前につき合っていたときだったら、さっきのような軽口はただじゃすまされなかった。
       同じ社会人で宮仕えにあっても、証券会社と出版社ではまったく雰囲気が異なる。
       神経質な工藤のほうがよほど、銀行と同じく一円の金にもうるさい証券会社に似合っていると思うのだが、実際には、うさんくさいのと自由なのと紙一重の業界に身を置いている。人間の本質と、その当人が抱く欲望はかならずしも一致するわけではないといういい見本だろう。
       それを言うなら自分だってそうだが、幸いにも川畑は自分のなかにある矛盾というものに頭を痛める悪癖がなかったので、自己嫌悪に陥ることは数少なかった。
      「あれから何人と寝た?」
       振り向いた工藤がぽつりと呟き、「何人?」と川畑も聞き返す。
      「覚えてないな。そんなもんいちいちメモしてるわけじゃないし」
      「おまえはそういう奴だったよなぁ……。よくそれで誰にも刺されないのが不思議だよ」
      「人徳、人徳」
       自分で言っていてもさすがに空々しいなと可笑しくなった。刺されることまではなくても、工藤をはじめ、別れる際に揉めたことは数かぎりない。だけど、工藤はそのなかでもとびきり、もっとも記憶に強く残っている男だ。
      「死んでやるって言われて本気でやられたのはおまえぐらいだよ」
      「そうだろうね。川畑のために死ぬのなんかもったいないっていまじゃそう思うのにな。あのときはどうかしてたんだ」
       思い出し笑いをする工藤は、四年前に睡眠薬を大量に飲み、自殺しかけた過去がある。
       妙に神経質になったり、かと思えばひどく饒舌になったりと、あの頃の工藤はとかく浮き沈みを繰り返していたため、心療内科に通っていた。薬はそこでもらったものをため込んでいたらしい。
       睡眠薬を飲んだからと言って、眠るようにたやすく死ねる幻想は物語のなかだけだ。発見したのは川畑だった。こっちから別れを切り出したその夜、一度は家に帰ったものの嫌な予感がして再度彼の部屋を訪ねたところ、丸く白い錠剤を床にばらまいた工藤を見つけた。幸いにも薬を摂取してからそう時間が経っていなかっただけに症状は軽くすんだが、本人にとって胃洗浄は思いのほか苦しかったらしい。
       自殺未遂の騒ぎを起こしたあと、川畑は一か月近く彼に付き添った。このまま見捨てるのはさすがに鬼畜生だと想ったからだ。しかし、工藤からはひと言の礼も聞かれなかった。
      『死に損なったことさえ恥だ』
       そう言っていた。
      『おまえなんかに付き添ってもらう覚えはない』とまで言われ、川畑も『そうだよな』と頷いたのだが、あのときだけは唯一、自分のなかにある良心が揺り動かされた瞬間だったのだろう。文句を言われながらも毎日見舞いに行き、まったく顔を見せない工藤の家族の代わりに身の回りを世話してやった。工藤の両親は健在のようだったが、自殺未遂で運び込まれたという不甲斐ない場面を見せたくなかったのだろう。『絶対に連絡するな』と言い渡されたので、『わかった』とだけ言った。工藤自身とつき合っていることは了承していたけれど、彼の家族にまで会うつもりは一切なかった。
       言い換えれば、工藤にまつわる過去とか未来とかなんてものに触れる気はしなかった。いつだって川畑の中には、「いま」と「いまつき合っている男」しかなかった。そして、そのときすでに工藤は「過去つき合っていた男」という存在になっていたのだ。
       川畑は自分がろくでもない男だとよくよくわかっていた。そんな自分に自信を持つわけではない。むしろ、この飽きっぽい性格はどうしようもない、手がつけられない、けっして死ぬまで治らない病気みたいなものだと諦めていた。だから、別れるときも素直にそう告げた。
      『工藤が嫌いになったわけじゃない。俺はだめなんだ。誰かひとりとずっとつき合うって考えただけで息が詰まるんだ』
       彼の部屋の玄関先、長い棒を飲んだようにしゃちほこばっていた工藤は、川畑が別れたい旨をつらつら話しているあいだ、ずっと真っ青な顔をしていた。
       彼とつき合った日数を数えてみると、半年にも満たなかったと思う。それでも、自分にしてはよく保ったほうだ。約半年のうち、四か月近くは工藤ひとりに絞っていた。キブラで知り合ったときから、彼の性格の脆さに気づいていたからだ。
       端正な顔立ちをしている工藤に声をかける男は多かった。自分を含め、誰とでも簡単に寝る奴が多いなかで、彼のまとう硬質な雰囲気に惹かれる者は後を絶たなかった。隣り合って座った同士、気さくに喋ったとしても、工藤はなかなか他人行儀な態度を崩さず、キブラの中でもちょっとした存在感を誇っていた。
      『誰かと親しげに喋ってるってとこ、アタシも見たことないのよねえ』
       いつだったか、耀子ママが気遣わしげな顔をして言っていたことがある。
      『うちの店に来てくれるようになってずいぶん経つんだけど……あれだけの顔してんだから、ほかにちゃんとした恋人がいるんじゃないかって話にもなったんだけどね。週に三回もうちに来るところを見ると、どうもそうじゃないらしいのよね』
      『男には興味があるけど、やったことないから怖いってだけじゃねえの』
       川畑がそう言うと、耀子ママはさも可笑しそうに笑っていた。
      『世の中の男みんながみんな、川畑ちゃんみたいに種馬じゃないのよ。やるだけやってハイおしまい、なんて、いつまでもそううまくいかないんだからね』
       さらりと言われた嫌みは、さらりと聞き流すにかぎる。ほんのちょっと体温を分け合い、触れ合って、気持ちよくなって、射精すればどんな関係だって片が付く。川畑はそう信じていたし、いまでもそう思っている。
       気まぐれに工藤とつき合っていたあいだ、彼の神経の細やかさに免じて四か月ほどは彼ひとりを抱いていたが、性格的な欠陥は簡単に直るものではない。五か月目に我慢できず、キブラで知り合った男を抱いたのをきっかけに、自制心はぼろぼろと崩れていった。
       男同士のつき合いでも、ほかの相手にこころを移すことを浮気と言うのだろうか。もしそう言われたとしたら、川畑は失笑していたと思う。
       こころを移した覚えはない。ただ寝ただけだ。誰かを傷つけるつもりはないし、気持ちよくなりたかっただけだ。
       そんな調子でほかの男を抱き、確か四人目あたりで工藤にばれたのだった。その頃にはもう、工藤の思いつめた表情が日に日にこころに負荷をかけていたから、事がこれ以上こじれないうちに「俺たち、別れたほうがいいんじゃないか」と切り出した。
       もちろん、工藤が素直に了承するはずはないと思っていたけれど、まさか自殺未遂を起こすとは思わなかった。
       あのとき彼を助けたことが唯一の良心の働きだというなら、あれだけ動揺したのも生まれて初めてだった。
       もっと簡潔に言えば、工藤が怖いと思ったのだった。たかだか自分と別れるだけだというのに、死にたくなるなんて。そこまで愛されてしあわせだと言える奴は、よほどおめでたい頭をしているとしか言えない。
       他人が生きるも死ぬも、自分の行動ひとつにかかっているとわかったら、誰でも逃げ出したくなるものではないだろうか。
       身体がもとに戻るまでのあいだ、彼のそばにいたときも、ずっとそんなことを考えていた。ここでもし、ずっとおまえについててやると言ってやれたらどんなにいいだろう。悲しませて悪かった、そこまで追いつめてごめんなと言えれば、万事めでたしめでたし。キブラでも話題もちきりになり、窮地を乗り越えたふたりとして語り継がれたかもしれない。
       だけど、やっぱり現実はそんな甘いものではない。しあわせな終わりを迎えたふたりはつかの間どこか誰かの寂しい胸を慰める物語になるけれど、すぐに忘れられる。思わず目をそむけたくなるような局面を経ている者たちほど、周囲は好奇の目をかがやかせ、最後はどうなるかと興味津々に食らいつく。
      『あいつらどうなったんだよ』
      『別れるとか別れないとか、まだごちゃごちゃやってんじゃねえの?』
       これが自分の身に起こっているのじゃなかったら、川畑も話題に乗っていたことだろう。笑い混じりにふたりの行く末を勝手に予想し、案じるふりをして良識派の仮面をかぶってみたり、はたまた毒舌とともに嘲笑してみたり。
       酒の席には欠かせない、他愛ない噂話のひとつとして口をすべらせたとたん、誰も彼もが、自分がいちばんこの件についてよく知っているのだという顔で勝手なことを言いふらす。
       川畑もよくそんな話で楽しんだ。そんなとき、まさか自分がいつか槍玉にあげられるかもしれないなんて想像するはずがない。これは罪のない噂話だ。実際には、自分にはなにひとつ関係のない話だ。知った顔で一席ぶつのは誰だって日常的にやることで、咎められることではない。真剣な顔をしていても本音はそうじゃなく、単なる場つなぎとしての話題。口裏を合わせるだけで明日になったら忘れてしまう、そんな軽さで話し合う。
       だが、いざ話題の中心人物になってしまったら、そんなことはもう言えなくなる。
       他人の恋について好き放題言っていた頃、当人たちもこの噂を耳にしないことはないだろうと不思議に思っていたことがあった。
       勝手なことを言うな、それは事実と違うと、どうして言わないのだろう。でたらめが事実として吹聴されることに、なぜ怒らないのか。そんなふうに考えていたことがある。
       しかし、いまの川畑はあの頃よりも年を重ね、経験も積んでいる。というわけで、抜き差しならない事態に足を踏み込んだとき、口を閉ざすのが賢いのだとわかっていた。
       ほんとうの意味での窮地に立たされた者は、怯えることしかできないのだ。噂話に興じる者など放っておけばいい。いまおまえたちが嬉々として口にしていることはすべてでたらめだ、といちいち指摘してまわる暇はない。ほんとうに恐れなければいけないのは泡のように不確かな存在である彼らではなく、ある日いきなり突拍子もない形で人生に食い込んでくる工藤のような男だ。
      「工藤のほうはどうなんだ。いま誰かとつき合ってるのか?」
       彼が隣に座ってから五本目の煙草を深く吸い込んだ。いつものペースから考えると相当に早いという点では、自分もそれなりに緊張しているのだと認めなければならなかった。
       工藤が退院したあとも彼の部屋に通い、見舞いで持っていった花束を投げつけられて以後、一度も――この店でも顔を合わせなかった男が、今日来てみたら普通の顔をしてスツールに座っていたのだ。驚くのも無理はなかった。
       川畑のほうは以前と変わりなく、ずっとキブラに通っていた。工藤とのあいだのことは常連客にすでに知れ渡っていて、耀子ママでさえ渋面をつくっていた。
       よくある別れ話に逆上した挙げ句、自殺未遂を起こした工藤に皆、恐れをなしただろうけれど、やはりこの場合、責められるべきは川畑であって、しばらくは誰も話しかけてこなかった。
       そこでもまた、川畑は自分の破綻した性格に向き合うことになった。
       工藤のことは確かに予想外の出来事だったが、だからといってキブラに出入りしてはいけないと言われたのではない。あるとき耀子ママにはっきりとそう言ったら、なんとも言えない顔を向けられたっけ。
       ゆるく流れる煙に顔をしかめ、工藤が「……いたり、いなかったり」と呟く。
       つき合う男がいたり、いなかったり。
       そんなふうに言い表す彼の私生活は、どうなっているのだろう。川畑がよく知っていた頃の彼はいまよりもっと硬度なバリアを張り巡らせていたものだ。なにを話すにしても、寝るときでも、こっちのやることなすことをいちいち確かめるような目つきをしていた。
       いまはそのバリアが薄く透けた膜に取って変わったように見える。指先でつつけばぷつんと穴が空き、なんとも言えない艶やかな感情があふれ出しそうな錯覚にとらわれる。
       しかし、その艶は以前にも増して不健康なものだ。エロティックではあるものの、崩れている。
       そんなところにまたも惹かれたといったら、呆れられるだろうか。
      「なあ」
       深く考える前に、川畑は火を点けたばかりの煙草を灰皿に押しつけていた。彼の吐息が感じ取れるほどに顔を近づけ、囁いた。
      「俺とこのあと――」
      「そのつもりだった」
       やんわりと言葉を遮った工藤が微笑む。
      「今日、この店でおまえが隣に腰掛けたときからそのつもりだったよ」
       くどくのにもう少し手こずるかと思っていたから川畑は拍子抜けしてしまい、「……いいのか?」と呟いた。
      「おまえ……」
       四年前のこと。忘れたわけじゃないだろう。あれはもういいのか? もう終わったこととして片づけていいのか?
      「リストカットして傷が残ったわけじゃない。おまえはどうも俺のことを勘違いしているようだから言っておくけど、そんなに繊細にできてるわけじゃないよ。二十九にもなって古傷に泣いてる男なんているはずないだろう」
       肩をすくめて笑う工藤が目くばせしてきたので、「そうだな」と川畑もほっとして笑い返した。
       だが、胃の底に正体のわからないしこりがある。
       どうして今日、ここで会ったのだろう。

       内にこもりやすい性質をのぞけば、工藤は理想的な男だ。それは当時もいまも変わらない。
       今夜の彼の肌は四年ぶりとは思えないほどのなめらかさでなじみ、川畑の強引な要求にもほぼ完璧に応えた。
       均整の取れた身体もあまり変わっておらず、うしろから抱え込んだときに背中に走る深い溝もくっきりしていた。
       ただ、ちょっと変わったなと川畑をおもしろがらせたのは、みずから進んで奉仕する点だ。前は、嫌がる彼を何度もあやさなければ望みどおりのことをしてくれなかったのに、今夜は彼のほうからのしかかってきた。
       苦しげに川畑のそこを咥える昔の工藤も禁欲的でよかったけれど、別れていたあいだになにかを吹っ切ったらしい。熱っぽい息を混じらせて、物欲しげな顔で指を添えてくる男の髪をきつく掴み、川畑は猥雑な舌遣いをこころゆくまで愉しんだ。
       工藤の舌はくねり、ねっとりと這い回る。まるで男のそれをしゃぶるのが好きでたまらないというようなあられもない仕草に興奮させられた。
      「どこでそんなの覚えてきたんだよ」
       馬乗りになった工藤は、先端の割れ目からあふれる先走りを舐め取るのに夢中になっていて答えない。
       キブラを出たあと、これまたよく行くホテルに直行しようとしたが、工藤が「俺の部屋に来ないか」と言ってきたので、そうした。
       タクシーに乗ってわりとすぐの場所にある彼のマンションは別れたときと同じで、室内もたいして変わった様子はなかった。
       川畑が住んでいる部屋と似たような、2DK。そこに工藤はいまもひとりで住んでいるらしい。寝室のカーテンは深い緑で、深夜のいま、きちんと閉じられている。ベッドの片隅には朝脱いだままの形でパジャマが置かれていた。さっき、それを川畑が足の爪先で蹴り落とした。
       いやらしく音をたててしゃぶる工藤の目元が赤いのも、カーテンが緑だとわかるのも、ベッドの脇に置いたフロアライトがほんのり点いているからだ。この点も、前とは違う。以前は、室内が少しでも明るいと嫌だと言っていた。
       ――恥ずかしい。見られたくないから嫌だ。
       拒否されればされるほど、無理をきかせたくなるのだとあの頃の工藤はわかっていたのだろうか。だとしたら、ずいぶんなやり手だったと笑うしかないが、本心から言っていたことは川畑も知っている。
      『おまえの嫌がる顔にそそられるんだよ』
       一度はっきりそう言ってやったら、工藤はほんの一瞬、泣き出しそうな顔をしていた。彼がかならず泣くとわかっていて四つん這いにさせ、奥深くまで犯してやるのも好きだった。工藤はその体位が好きなくせに、いつもいつも抵抗していた。きつく締め付けるところを意地悪く、甘く抉り、どうにもならなくなる頃までゆっくり揺すってやると、最後にはきまって彼のほうが耐えきれずにねだってきた。
       本気で無理強いをしたという覚えはない。いわゆる強姦罪というのが男同士にも適用されるとしても、工藤とのあいだに起こったことはすべて合意の上だ。互いにわかっていて、焦らし焦らされる。それが楽しいからやっているだけだ。
      「川畑……」
       せっぱ詰まった声に瞼を開けると、工藤が口元を拭いながら身体の位置をずらしている。川畑のそこを掴み、自分から受け入れようとしている姿は初めて見るものだった。
       いまどきこんなものはめずらしくない、ありふれた光景だとしても、以前の工藤を覚えている身としてはやはり驚きを感じずにはいられなかった。
       四年前の彼は、とてもこんなことをできるような度胸も欲望も持ち合わせていなかったのだ。川畑のすることにかならず怯み、狭いベッドで逃げまどう素振りさえ見せていた。
      「自分でできるのかよ」
       ちょっとだけ腰を浮かし、猛々しくそそり立ったそれで工藤のそこをつつくと、「――あ」と息を呑む気配に続き、ぐらりと身体が揺れる。
      「……無理するなよ」
       腰を支えて位置を変えようとしたが、止められた。
       汗ばんだ胸を反らし、少しずつ、少しずつ受け入れていく工藤の顔が苦痛で歪んだのは一瞬だ。屹立したものを中ほどまで受け入れたところで動きを止め、かすかに息を漏らて視線をまっすぐ合わせてきたのをきっかけに、頬がさっと染まった。
       川畑が掴んでいる腰も淫らに揺れ始める。肌という肌に継ぎ目がないのは当たり前、だけどまたたく間にこんなにも熱くなるなんて、なんだか魔法にかけられたような気分だ。
      「っ……あ、ぁあ……っあ、っ……」
       のけぞる工藤の喘ぎ声を聞いているだけで、じっとしていられなくなった。
       この男は、自分と離れていたあいだに、どこでなにをしていたのだろう。しなやかな身体をばねのように反り返らせるところを、ほかの男にも見せてやったのだろうか。そうすれば男はもっと感じるのだと教わったのか。乱暴にすればとろけてしまうような場所で締め付けることを、ほかの男にもしてやったのだろうか。
       火照る肌をまさぐり、硬くしこる乳首を思いきりねじったときも、彼は掠れた声で応えた。勃起したそこを扱いてやったときも、わずかに開いたくちびるから熱っぽい吐息を漏らした。
       こんなにも熱くなるなんて。こんなにも感じるなんて。
       四年前の彼が不感症だったとはけっして言わないけれど、見事に騙されたという感触が拭えない。
       それでもいい。諦め悪く抵抗する彼にもそそられたけれど、一線を飛び越えたようないまの工藤の目つきはもっといい。
       川畑の胸を突っぱね、腰を揺らす男は新鮮に見える。ときどき思い出したように汗のにじむ額に触れる髪をかき上げる仕草も、川畑が突き上げてやるとくちびるをきつく噛むのも、次の瞬間にはもっと深く求めてくるところも、なにもかもが前とは違う。
       彼の目のなかに、色とりどりの光の欠片が浮かんでは消える。フロアライトが反射し、色素の薄い工藤の虹彩をよけいにあざやかなものに変えていた。
       虹は彼のなかでかがやき、ほとばしり、跳ね飛ぶ。狂的な光はきらきらしていて、とても綺麗だ。
       光の欠片が川畑の意識にも刷り込まれるようだった。

       工藤とまたつき合うことになったことを最初に知って驚いたのは、当然といえば当然か、バー・キブラの耀子ママだった。
      「ホントなの、その話」
       疑わしげに訊きながらも、ママは手にした薄い布でグラスを拭い続ける。
      「ホントもホント。再会してもう一か月になるかな」
      「焼けぼっくいに火がつくってのはよく聞くけど、アンタたちの場合はねえ……。工藤くんの前のことを思うと、素直に喜べないわよ」
      「どうして?」
       眉尻を下げて笑うと親しみやすさがにじみ出て、とても魅力的に映ることを川畑は自分でよくわかっていた。
      「そりゃまあ、前はいろいろあったけどさ。いまはいまだろ。あいつもとくにつき合ってる奴はいなそうだし、べつにいいんじゃねえの」
      「アンタは相変わらずね。その歪んだ性格、どうにかなんないの」
       店のママという立場にあるなら、たとえ客の事情を聞いても嫌悪感を示すことはタブーだろうに、いまの耀子ママはそれこそ掛け値なし、むっとした顔だった。
      「アンタとも長いつき合いだし、いまさらどうこう言うつもりじゃないけど。工藤くんがどんな子かは嫌ってほどわかってるんでしょう」
      「ああ、知ってるよ。俺が別れるって言ったら、死にそうになった」
      「だったらどうしてまた手を出すの!」
       耀子ママが磨いていたグラスをガンとカウンターに叩きつける。
       平日の夜八時、キブラに来ているのは偶然にも自分だけだった。これでほかの客がいたら、いいからかいの種になっていただろう。
      「四年も経てば人間変わるだろう。あいつも変わったんだよ」
      「アンタはちっとも変わってないじゃない」
      「俺は変わる必要性はないよ。工藤はちょっとばかり神経が細すぎたんだ。いまじゃ俺とのつき合いも楽しんでるみたいだしさ、文句ねえだろうが」
       呆れた、とため息を漏らすなり、耀子ママはふきんをぽいと放り出し、そばにいたボーイを呼びつけ、「アンタが相手しなさい。アタシはこの子の顔を見てるだけで頭きちゃうの」と言い捨てた。
       それでもなお、控え室に姿を消す寸前、耀子ママは険しい顔を向けてきた。
      「今度もし工藤くんになにかあったら、アンタ、この店出入り禁止だからね」
      「なにもないって。心配しすぎだよ」
      「……だったらいいけどさ……、一度ぐらい、あの子をしあわせにしてやんなさいよ」
       ごつい顔を曇らせたまま控え室に引っ込んだママの代わりに、ボーイのヒロシがあやふやな笑顔でカウンター内に立つ。彼も四年前の騒ぎを知っているひとりだ。
      「今日はおひとりなんですか」
      「いや、もう少ししたら周一が来ることになってるんだ」
       くわえた煙草に火を点けてもらい、川畑は「サンキュ」と言い足した。
       今日は校了明けだから、早めにあがれると言っていた。
       周一、と前のように呼ぶようになったのは、再会した晩からだ。彼がそう呼べと言ったのだ。
       川畑の肩を強く掴んで貪欲に求める最中、何度も耳元で言っていた。
      『俺の名前を呼べよ。覚えてるだろう』と。
       そう言われたから呼んでるに過ぎないが、こころのどこかにはあの日以来、ねじくれた快感が巣くっている。透明な糸は日に日に幾重にも川畑のこころに絡みつき、ある種倒錯した楽しさを味わわせてくれた。
       工藤、もとい周一は芯の強い男だが、その反面、脆すぎるところがあったために、全体のバランスが取れていなかった。だから、川畑と別れるときもあれだけの騒ぎを起こしたのだ。一見、冷静に見えても、ひどく動揺させられることがあるとそのことだけに囚われてしまう。よく言えば一途な性格なのだろうが、それも度を越せば鬱陶しい。
       久しぶりに会った彼のバランスは、ますますおかしなことになっていた。男同士ならば力も拮抗しているし、感じるところも分かり合える。とくにうしろめたい理由がないかぎり、どちらかが一方的に弱い立場に追いやられることがない。
       その点、以前の周一は、どんなことにおいても受け身に回るタイプだった。臆病で、胸の奥に多くの望みを抱えていてもたやすく口にすることができない。川畑のような男とつき合えば、間違いなく振り回される側だった。
       だが、いまの彼には臆病なところなど微塵も感じられない。代わりに、奇妙な自信が備わっているようだ。その根拠は四年離れていた川畑にはわからないもので、なにが前とどう違うのか明確に言い表すことはできなかったけれども、なめらかな視線や仕草が以前の彼とは違うことを物語っていた。
       川畑に抱かれながらも、実際のリードは周一が握っている。どんな手順で始めるかも、いついかせてもらえるかも、周一が全部決めていた。
       さまざまなやり方で川畑を感じさせる男は甘く喘ぎながら、「名前を呼べよ」と囁く。「もっとこんなふうに――」と淫猥な目つきで誘い込んでくる。「もっと」に続く行為は、男に慣れた川畑でも目を丸くすることが多かった。
       彼を抑制していたのは、たった一本のねじだったのだろうか。それがなにかの拍子に吹っ飛んでしまい、硬い鋼のうろこがばらばらと剥がれ落ちたから、あんなにもなめらかで凄絶な本性が剥き出しになったのだろうか。
       一昨日は映画館でやった。映画が始まって十分もしないうちに舌なめずりする周一が手を伸ばしてきたので、どんな内容だったかさっぱり覚えていない。
       彼の目に浮かぶとめどない欲望を見ると、こっちも抑えがきかなくなってしまう。男同士がそういう目的で使う専門の映画館ならいざ知らず、一昨日は普通のひとびとが足を運ぶところだ。割合空いていたから、川畑の隣も周一の反対側もひとがいなかったけれど、ぬめった淫らな音に気づくひとがいないとも言えない。
       コートに隠れさせて川畑のものを愛撫する手つきに負け、「おまえもしてほしいか」と訊いた。すると周一は内緒話をするようにくちびるを近づけ、「触りたいんだろう。おまえのここ……凄いじゃないか。ちょっと触っただけでぬるぬるになってる」と笑っていた。
       こんな言い方をする彼も、初めて見た。誰がなにをどう言うか、他人のことはどうでもいい。問題は、周一だ。周一が場所もわきまえずに不埒なことをしでかし、口にするというのがいまもって川畑には信じられない。それでいて、快感のためにかすかにひび割れた声を聞くとどうにもたまらなくなるのだ。
       一昨日は映画館、その前は公園、そしてその前は――思い返せばこの一か月、あまり間を置かずに周一を抱いている気がする。この新鮮味がいつまで続くか、当事者である自分ではなく正真正銘神のみぞ知るというところだが、いまのところ彼以外に興味を惹く者はいなかった。
       離れていたあいだ、彼になにがあったのだろう。前は真っ暗な寝室でしかやらせてくれなかったのに、いまじゃいつでもどこでも彼が「したい」とひと言呟けば、そこが押し殺した喘ぎを漏らす場所になる。
       いったいどこの誰と、どんなことをしてきたのだろう。
       それを考えると、いつだって胸騒ぎがする。どことなく落ち着かない、不安定な感じがする。
       よく知っていた男がまったく知らない男になって戻ってきたというのは、川畑の興味を惹きつけてやまなかった。
       もしかしたら、無理しているんじゃないか。虚勢を張っているんじゃないかと最初は疑いもしたが、一か月も経ったいまとなっては、周一の振る舞いはごく自然なものであると川畑も認めていた。
       いくつもの夜に繰り返された不埒な指先の余韻に浸っていると、キブラの重い扉の開く気配がする。目を転じると、彼だ。外ではいつの間にか雨が降り出したらしい。きらきらしたしずくを散らせた髪を軽く振り、周一は隣に腰掛けてくるなり、カウンターに投げ出していた川畑の手を掴む。
      「出よう」
       飲み物を一杯注文するでもない周一と、ちょっととまどっているボーイのヒロシを交互に見やり、川畑はスツールから降り立った。こういう周一はいまに始まったことじゃない。目が合った瞬間に胸をかき乱すような声でねだる男を前にして、おとなしく酒を呑んでいられるほど川畑は老成していないのだ。

      「この部屋、広いよな。家賃いくらだっけ」
      「十三万ちょっとかな」
       いつものようにタクシーで周一のマンションに行き、すぐにも始めるのかと思っていたが、今夜はちょっと順序が違うらしい。綺麗に片づいたリビングに川畑を通したあと、周一は対面式のキッチンで料理をつくり始めた。
      「腹が減ってるんだ。今日は忙しくてろくに食べる暇がなくて」
      「構わないよ」
       ジャケットを脱いだ川畑はソファに深々と腰掛け、ぐうっと足を伸ばす。
       二月の夜、ワイシャツ一枚でも室内は暖かい。さっき、タクシーで帰ってくるあいだ、雨はみぞれに変わる兆しを見せていた。薄暗い道を寂しげに照らす電灯に、湿ったしずくが慎ましやかなかがやきを放っていたことをなんとなく思い出しながら、「それにしてもおまえ、料理できたのか」と返すと、慣れた手つきでほうれん草を刻んでいた周一が軽く眉をはね上げる。
      「長いことひとりで暮らしてれば、料理のひとつやふたつ覚えるだろう」
      「そうかな。俺は面倒くさくてやらないよ。疲れて帰ってきて、さらに疲れることなんか。だいたい、ひとりで食べるのもつまらないしさ」
      「……前におまえにも何度かつくったんだけど。覚えてないか?」
      「全然」
       ちっとも覚えていなかった。川畑にとって食べることはあまり大切じゃない。最悪にまずくなければ構わないという程度で、おいしかったものに対する記憶も不確かだ。周一に言われてみれば、何度か彼の手料理を食べた気もするけれど、どんなメニューだったか、どんな味だったか思い出せなかった。そして、そのことを正直に告げるのに、いささかのためらいも感じなかった。
      「そうか」
       フライパンに油をひいている周一は気のない返事だ。すぐににぎやかな音が聞こえてきた。
      「なにつくってるんだ?」
       興味を覚えて、川畑はカウンター越しにキッチンをのぞいた。
      「たまごとほうれん草の炒飯。おまえも食べるか?」
      「食べる食べる。ああ、いい匂いだなあ」
       くんくんと犬のように鼻を鳴らす姿に、周一が可笑しそうに笑う。
       できたての炒飯はとてもおいしかった。炒ったたまごが可愛い菜の花のようで、ほうれん草はあざやかな緑のままだ。さくさくした味わいも楽しい。
       綺麗に平らげたあと煙草に火を点けると、周一が皿を片づけ、灰皿を出してくれた。
       そういえば彼は煙草を吸わないのだっけ。この部屋に何度も足を運んでいた四年前も、いつもこうして川畑のためにガラス製の灰皿を置いてくれていた。
      「悪いな」
       周一は微笑んだだけでなにも言わず、渦を巻く煙を追っている。
      「相変わらず綺麗に住んでるんだな」
      「片づいてないと落ち着かないんだよ」
       床に置いたクッションに座り、周一はビールをグラスにそそいでいる。グラスには指紋ひとつついていない。きっと、普通に洗うだけじゃ気がすまず、キブラで使うような特製の布を使って磨いているのだろう。
      「おまえぐらいきれい好きだったら、キブラの耀子ママも喜ぶんじゃねえの? ほら、いま出版業界ってヤバイっていうじゃん。万が一リストラされたら、キブラで雇ってくれるよ」
      「俺にボーイが務まるとは思えないけどね。愛想がないし」
      「そりゃ言えてる。もったいないよなあ、いい顔してんのによ」
       ビールを呑み、煙草を吸い、川畑はとりとめなく喋り続けた。煙草の灰がスラックスにぱらぱらと散り、それを無造作に手で払う。テレビをつけず、音楽も流していないから、室内は静かだ。
      「料理も旨いし、部屋も綺麗。おまえみたいなのと一緒に暮らしたら楽だろうな」
       こういうことがつらっと言えるのも、川畑ならではだった。
       良心が揺り動かされたのは、かたわらで強張った顔を見せている男が死にそうになったあのときだけ。彼が受けた傷の深さも、実際の痛みも、川畑にとってはあくまでも他人事だ。
       煙草の煙がふっと揺れる。周一が立ち上がり、隣に腰掛けてくる。
      「……川畑さえよければ、一緒に暮らさないか? いまのところ俺は決まった相手がいないんだ」
      「え?」
       聞き返した瞬間、周一がにこりと笑う。常日頃の頑なさも嘘のように思える完璧な微笑みに思わず見とれ、最初に彼に声をかけたときのことを思い出した。
       四年前、キブラの片隅でひとり呑んでいた周一に耀子ママがなにごとか話しかけていたのを見たのが、最初だ。ママの言葉に、声をたてずに微笑んだ男を三つ離れた席から見ていた川畑は、彼のくちびるの動きに目を奪われて声をかけたのだった。
       周一が声をたてて笑うことはまれだった。内気な性格らしく、川畑とつき合っていたあいだも、なにか可笑しいことがあったところで静かに微笑むことがほとんどだった。
       ちょっとのあいだ黙ったのを勘違いしたらしい。周一が目にかかる髪をかきあげ、「前のことは忘れてほしいんだ。……ああいうのは、もうしないから」と言う。
       ああいうの、がなにを指しているか、すぐにわかった。死に損なったことだろう。これに対する当てこすりを言うのはさすがに大人げないと思ったので黙っていたが、同居の件についてはどうすべきか。彼のように気の利く男と暮らすのは確かに便利だろうけれど、それはそれでいろいろと問題が出てくるはずだ
       さしあたっては、この四年のあいだに自分がまったく変わっていないということが問題だ。キブラの耀子ママにもそう言ったことは決して自己卑下でもなんでもなく、れっきとした事実を述べたまで。
       ここでもし、「やっぱりおまえが好きなんだよ」とか、「俺は川畑がいなきゃだめなんだ」という言葉が周一の口から出たら、同居の話はなかったことにするつもりだった。
       四年前も、周一は暖かなオレンジ色の灯りがついた玄関先で、小説か映画のなかでしか見られない言葉をいくつも言っていた。
      『俺を捨てないでくれ』
      『川畑がいなかったら生きていけない』
      『おまえと別れたらこの先、どうしていけばいいかわからない』
      『どこにも行かないでくれ。俺から逃げないで』
       顔色は真っ青だったが、泣いていなかったと思う。
       一緒に暮らせば、またもあの凍り付いた顔を拝むことになるのかもしれない。
      「川畑?」
       首を傾げてのぞき込んでくる周一が、くちびるを色っぽくつり上げる。目元も頬のラインも鋭いのに、そこだけがやけに扇情的だ。
      「俺はあの頃と違うよ。そのことはもうわかってるんだろう?」
       鼓膜に忍び込んでくる囁き声に、どうして抗えるのだろう。あのときだって、こんな声で囁いてくれたら別れなかったかもしれない。
       このあいだ、七色が見えた周一の目に今夜は薄い青が浮かんでいた。リビングにかかっているカーテンの濃い青を映す目は、まばたきするたびに深みを増していく。
       頭で考えるのではなく、こころに従え。周一自身が、あの頃と違うと言うなら、そうなのだろう。
       二十九年間ずっとそうしてきた川畑は結局のところ、物事を新しい局面に進ませるときに判断を下すのは冷静な理性ではなく、勢いのある衝動だと知っている。だから、この先どうなるかなんてことも想像せずに頷いた。
      「わかったよ。一緒に暮らそう」

      ***

      「工藤さんとまたつき合ってるってほんとか? 一緒に暮らしてるらしいって聞いたけど」
       キブラで久しぶりに顔を合わせた浅田諒一がグラス片手に話しかけてきたので、川畑も笑顔で「ああ、よく知ってるな」と返事した。周一は今夜、仕事で遅くなると聞いている。家でひとり食事をとるのもいやだし、仕事が終わったあと、近くの店で夕食を食べ、キブラに寄ったのだった。
      「もう店中の噂になってるよ」
      「へえ。暇人が多いんだな」
       川畑の口の悪さにもめげず、浅田はちょっと肩をすくめて笑っている。
      「よく了承したよな。あんなことがあったのに」
      「まったくな。周一もよく俺みたいなひとでなしを選んだもんだよ」
      「違うよ、俺が言ってるのはあんたのこと」
       理知的なメタルフレームの眼鏡を押し上げながら、浅田はひとつため息をつく。
      「工藤さんがどんな男か、あんた知ってるんだろう。それでよくもう一度つき合う気になったよな」
      「どんな男かって、そりゃまあ、いまどきめずらしいぐらいに思いつめるタイプだよな。別れるって言ったぐらいで死にかけるんだから」
      「怖いとか思わねえの」
      「べつに。今度は一緒に暮らしてるんだし、あいつもバカな真似はやらないだろ」
       周一との同居が始まって、すでに二週間が経っていた。彼のマンションに川畑が押しかけた形だが、もともと住んでいたマンションは解約せずにいる。「荷物をいっぺんに運ぶのが大変だろう」と言ったのは、周一のほうだ。
      「……俺は工藤さんとつき合ったわけじゃないから、詳しいところまでは知らないけどね」
       くわえ煙草の浅田は目を細めている。
      「四年前の――自殺未遂は、あのひとにとって初めてのことじゃない。それは知ってたか」
       思いがけない言葉に川畑は目を丸くし、首を振った。
      「だろうね。じつはあのひと、あんたよりもずっと前からこの店に来てるんだ。俺もよく見かけたし、実際に誘われたこともある」
      「おまえが? あいつに?」
      「そう。有名だよ、工藤さんは男を喰うってんでね。あのひとはあんたの前にも二度、自殺未遂を起こしてるんだよ」
       これにはさすがに驚いた。周一が誰かを誘うような度胸を持っているなんて。川畑の知っている彼というのは無口で、塞いだ顔ばかりしている。でもそれだって思い出に過ぎず、いまは自分と一緒に暮らしていることで落ち着いているようだ。
      「陰口をたたくみたいで気が進まないけど、あのひとはちょっとまずい相手だぜ。だから、あんたたちが別れたって聞いたときはほっとしたぐらいだよ」
      「いまは違うだろう。変わったんじゃねえのか」
      「そんなに簡単に変わるもんかな」
       思案顔の浅田にふと思いついて、「そのときの相手は」と聞いてみた。
      「周一がつき合ってた相手は、いまどうしてるんだ?」
      「知らないな」
       浅田はすっと目をそらす。その不自然な仕草に、「嘘言うなよ」と声を荒らげた。少し離れたところで、耀子ママが心配そうな顔でこちらを見ているが、構うものか。
      「悪いことは言わない。いますぐ工藤さんとは別れたほうがいい」
      「どうして。そこまで言うなら、理由を教えろよ」
      「聞かないほうがいいって」
      「キブラのみんなは知ってるのか? 耀子ママも? ボーイも? 客も全員、周一がどんな男かって知ってるのか? それでいま一緒に暮らしてる俺だけが知らないのか? そんな変な話、あるかよ」
       周一がどう言われているのか、ほんとうはどんな男なのか。知らないから怖いのではない。自分の知らないことだから知りたいだけだった。
      「言うまで帰らねえぞ」
       念を押すと、浅田が諦めたようにため息をついた。自分からこの話を切り出したことを後悔しているような面持ちだ。
      「彼がつき合ってた男は、もう……」
       語尾を曖昧にして口を閉ざした男を、川畑は胡乱そうに見つめるだけだった。

      ***

       浅田の不穏な言葉をどう受け取るか、しばし迷ったものの、川畑は結局、いちばん最良だと思われる方法をとった。
       聞かなかったことにする。それでいい。いまのところ周一とはうまくいっているのだし、よけいなことで亀裂を生じさせたくない。
       昔は昔、いまはいま、ときっぱり割り切れる性格だからこそ、周一ともまたつき合うことができたのだ。
       過去の周一になにがあったのか、知りたくないわけではないけれど、どうしても突き止めたいというのでもない。
       いまの彼は、自分と一緒にいることでしあわせそうだ。こっちはこっちで、欠けていたこころの一部を補ってもらえたようで、落ち着く。どこにも問題はない。
       その夜、周一は午前二時を回った頃にようやく帰ってきた。彼はちっちゃなミニ・クーパーを持っていて、あらかじめ帰りが遅くなるとわかっているときは車で会社に向かう。今夜もそうだったのだろう。金属の鍵が擦れる音がベッドの近くで聞こえた。
       先にベッドに入っていた川畑は、冷たい爪先がそっと寄りそってきたことで目を覚まし、無造作に彼を抱き寄せた。
       周一の身体はいつも冷たい。熱くなるのはほんの一瞬で、抱いているあいだだけ。湿った髪から香るシャンプーの匂いは、自分と同じものだ。
      『あのひとはあんたの前にも二度、自殺未遂を起こしてるんだよ』
      『彼がつき合ってた男は、もう……』
       ぼやける意識に、浅田の言葉が煙のようにふっと浮かんで消える。
       そのあとに続く言葉はなんだったのだろう。
       周一が寝返りを打ち、パジャマの襟にしがみついてくる。
      「……起きてるか?」
      「うん……」
       寝ぼけた声で答え、川畑は瞼をこする。いまみたいな掠れた声を聞いたら、寝かせてもらえないのはここ二週間で承知ずみだ。
       襟を掴んでいた指が胸元を這い、そろそろと下半身に下りていく。彼はこんなにセックスが好きだっただろうか。なにをするにも怖じけていた頃とは大違いだ。
       笑い出しえたい気分を抑え、川畑はしだいに熱くなっていく身体を強く抱き締めた。

      ***

       前につき合ったときは四か月保った。それじゃ今回はどうなのだろうと、解けないクイズをひねくり回すような日々は、同居二か月を過ぎたあたりであっさり終わった。
       周一の仕事が忙しいことを理由に、性懲りもなくキブラに通っていた川畑は、たまたまその晩店に来ていた新顔と気が合い、目くばせひとつでホテルに向かった。
       名前も覚えていない男と忙しなく抱き合ったあと、周一のところとは違うシャンプーを使って髪を洗い、マンションに帰ったのは午前一時過ぎだった。
       自分のマンションと、周一の部屋。両方の鍵がついたキーリングをコートのポケットから取り出し、扉の鍵穴に差し込んだところで首をひねった。
       鍵が開いている。周一が先に帰ってきていたのだろうか。
       さして深くも考えずに扉を開き、「ただい――」と言いかけたところで、川畑はぎくりとして立ちすくんだ。
      「どこに行ってた?」
       灯りも点けずに、真っ暗な玄関に周一が立っている。川畑の背後、廊下から差し込む灯りで、彼がコートを着たままだとわかった。
      「周一? おまえ、帰ってたのか」
      「どこに行ってたんだ」
      「どこって……」
      「ほかの男と寝たのか」
      「なんでわかるんだよ」
       隠すこともせず、言いつくろうこともしない川畑に、周一はしばらく黙り込んでいた。だが、見ているあいだにも無表情だったのがゆるゆる崩れ、くっと肩を揺らしたのをきっかけに大声で笑い出した。
       その笑い声はしだいに大きくなり、壁に、天井に跳ね返り、川畑をぎょっとさせるのに十分だった。可笑しくてたまらないといった笑い声は、砲弾がばらばらとあたりに散っていくのにも似ていた。
      「――おまえは変わらないな、川畑。前は四か月保ったのに、今度はたった二か月か。おまえの下半身のモラルってやつはどうなってるんだよ。最悪だ」
      「しょうがねえだろう。俺は前にも言ったとおり……」
      「そう、ひとりに絞ることができない性格だったよな。それはわかってる」
       よくわかってるよ、と繰り返す周一がまっすぐ見つめてくる。
      「……ずっと考えてた。おまえみたいに、罪の意識を欠片も感じずにいられたらどんなにいいだろうって。俺はおまえになりたかったよ、川畑。誰にも頼らずに、その場かぎりの快感を追えたら楽だろうな」
      「周一」
      「たぶん今回もおまえがこうなることは予想してたよ。どうせいつかはみんな俺に飽きる。また離れていく。いつもその繰り返しだ」
       いま耳にした言葉が引っかかって、川畑は「みんな?」と眉をひそめた。どこからか、鼻を刺すツンとした匂いが漂ってくるが、いま気にかけなければいけないのは、笑いながらも尖った犬歯をのぞかせている男のことだ。
      「おまえが初めてじゃない。おまえの前に二回ある」
       周一の声は感情を欠いており、棒読みもいいところだ。
       浅田から話を聞いていなかったら、周一がなにを言っているのか、まるきりわからなかっただろう。でも、知っている。彼が言いたいことを川畑は知っている。
       ――俺の前にも二回。おまえは死にかけたんだ。
      「どうしてなんだ。どうして俺はおまえみたいな馬鹿ばかり好きになる? ろくでもない男ばかり好きになるんだ?」
       みるみるうちに周一の目に透明な涙が盛り上がり、頬にこぼれ落ちていった。
      「……俺の前につき合ってた男ってどんな奴なんだ」
      「おまえとそっくりだよ。自分のことしか頭にない、俺のことなんかちっとも考えてくれない、すぐに浮気して平気な顔してる奴ばっかりだ」
      「どうしてそういう奴を選ぶんだよ」
      「さあな。自分と違うからだろう」
       鼻をすすり、乱暴に瞼をこする男がぐらりと身体をふらつかせ、壁にもたれる。その拍子に、彼の足下でゴツンとなにかが倒れる音がした。
       川畑がうしろ手にゆっくり扉を閉めかけようとすると、「早く閉めろ」と周一が鋭く言った。それから二度、三度荒く息を吸って吐き、言葉を続けた。
      「……おまえが変わってくれるかもしれないなんて、期待したわけじゃない。俺ひとりを愛してくれるなんて夢見たわけじゃない。だから、俺のほうで変わることにしたんだ」
      「どんなふうに」
      「もう少し前向きになろうかって、思ってさ」
       彼とまともにつき合ったのは四か月と今回の二か月、合計半年。でも、泣くところを見たのは今日が初めてだ。別れると言ったときでさえ、彼は泣かなかった。顔色を変えていただけだ。それでいまは、泣きながらも笑っている。
       おまけに、自分の言ったことに噴き出すことまでしたから、川畑もこんな状況にありながら、つられて笑い声をあげた。
       ほんとうに変なことを言う。鬱屈した周一が前向きになるなんて、あり得ない。だけど、セックスの面でいえば確かに変わったと思う。場所を選ばずに求められるやり方には、確かに興奮させられた。
       思ったままを口にすると、周一も「そうだな」と頷く。
      「俺もこの二か月は生まれ変わったみたいに楽しかったよ。……俺はひとりじゃいられない性格なのに、どうしてだかいつもろくでもない奴を好きになるんだ。おまえみたいに、誰にも気兼ねしないでいられたらどんなにいいかって、何度も考えた。……おまえとつき合う前に二度、俺は死にかけてるんだ。理由はだいたい同じだ。俺がしつこいから、相手はいつも逃げる。馬鹿だよな、俺も。そういう相手ばかり選んでた」
      「やさしい奴はいくらでもいただろうが」
      「ああ。いたよ。絶対に俺を泣かせたりしない、大事にするって約束してくれる奴は数え切れないぐらいいたよ。でも、結局俺が惹かれるのはだめな男ばかりなんだよ。俺を愛してくれない奴ばっかり」
       ハイカラーの黒いコートをはおったままの周一は暖かそうな生地を身体に巻き付け、ちょっとうつむいている。
       どうして俺のような男を選ぶんだろう。前からそう思っていたが、その理由がなんとなくわかった。
       ある種の病気みたいなものだ。
       愛されないとわかっている相手を好きになり、こころを痛めることを、彼はひょっとしたら楽しんでいるんじゃないだろうか。
       とすれば、自分たちのようなひとでなしは、可哀相な工藤周一が思う存分憐憫に浸るための引き立て役。ついていない彼の人生を飾るための小道具だ。
      「……おまえさ、自分で望んで傷ついてるんだろう。わざと俺みたいな男を選んで、楽しんでるんだよな。こっちから別れを切り出すのだって計算に入ってるんじゃないのか?」
      「そうかもな。……違うと思いたいけど、もうよくわからないんだ」
       周一はまだ泣いていた。だけど、口元だけはどうにか微笑もうとしている。
       彼が足を組み替えた拍子に、またコツンと音がして、空のガラス瓶が転がってきた。それに目をやる川畑の耳に、続いて、シュッと擦る音が聞こえてきた。
      「周一」
       匂いと、いま耳にした音に、弾かれたように顔をあげた。
       ちいさな炎が周一の指の先に灯っている。
       マッチの火は扉を閉めていてもゆらゆらと頼りなく揺れ、すぐにも消えそうだ。
      「前の男は俺の嫉妬深さに耐えきれなかった。俺が自殺未遂を起こしたのは、興味を惹きたかっただけなんだ。なのに、あっちのほうが勝手に先に死んだ」
       低く呟き、周一がマッチを吹き消す。
       彼の言ったことを、どう理解すればいいのだろう。
       ――興味を惹きたかっただけ。
       狂言だったのか。俺のときも、芝居だったのか。ほんとうに死んでしまわないよう、薬の量を調節したとでもいうのだろうか。
       白い錠剤を床にばらまき、うつぶせに倒れていた男が目に浮かんでくる。
       ――なのに、あっちのほうが勝手に先に死んだ。
       そこでふいに、浅田の言葉がよみがえってくる。
      『彼がつき合ってた男は、もう……』
       あれは、こういう意味だったのか。底知れぬ周一の執心に相手の男が追いつめられたというわけか。
       まるで安っぽいドラマのようだ。いまどき、こんな展開ははやらない。信じられない。
       笑い飛ばすことは簡単だが、川畑はできなかった。
       室内であるにもかかわらず、周一の足下には水たまりが広がっている。それは川畑のところまで届き、独特の尖った臭気を放っている。
      「川畑は、ひとりで食事するのが嫌だって言ってたな……。俺もひとりは嫌なんだよ。もう絶対に嫌なんだ。だから、四年ぶりにあの店で会ったとき、決めたんだ。もし、おまえとまたつき合ったとして、またほかの男を抱くようなことがあったら――いや、それは嘘だ。キブラにおまえが通ってるのは知ってた。再会したのは偶然じゃない……。何か月も前からおまえが俺の隣に座るのをずっと待ってたんだ……狙っていたんだ……」
       そこで再び、マッチに火が灯る。暗闇のなか、どこからともなく生まれる炎は、周一の胸からこぼれ出てくるように思えた。
       揺れる先端は赤く見えるけれど、周一の指を焦がしそうな細い木の軸の根本で炎は青く見える。それに照らされる彼の顔も、微妙な陰影を刻んでいる。
       ――それじゃ俺は、まんまと引っかかったわけか。虫をも殺さぬ顔をして、危害を加えるのはいつだって俺のような奴らだと周囲の同情をひくおまえが張りめぐらせていた罠に。
       周一がくるりと指を回すと、赤い軌跡に従って彼の切れ長の目、鼻筋がぼんやり浮かぶ。それが、なんだかとても綺麗に見えた。暗がりにくるりと尾を引く赤い線。ふわりと跳ね飛ぶちいさな炎。翳る周一が少しだけくちびるを尖らせると、炎は左にふっと揺れて消える。
      「ごめんな、川畑。たぶん、俺のほうがおまえなんかよりずっとおかしいんだ。でも、これで終わりにするから」
       周一の正気を疑っている余裕はない。彼がこれまでにどんな恋をしてきて、傷を受けたのか、四か月と二か月のつき合いしかない川畑にはわかりかねた。
       だが、最後の相手になれという言葉は気に入った。いや、正確には「これで終わりにするから」というものだが、たいして変わりはないだろう。
       いま、初めて見るような目つきで周一の顔をまじまじと眺め回した。これだけ目鼻立ちが整っている男もめずらしい。強固な意志を思わせる目元と鼻筋。だけどそれを裏切るようなエロティックなくちびる。
       バランスの悪い男。
       彼という人間が、少しだけわかったような気がする。自分などよりもずっと冷酷にできているのだ、工藤周一という男は。愛されるために不実な男を追いつめ、そいつが神経を病もうとも手をゆるめず、死と引き替えに永遠を誓わせたところで、こころに刻みつけるのではない。さっさと忘れ、次の男、次の男――そして自分へと乗り換えてきたのだ。
       なぜ周一がそんなことをしたのか、聞いても仕方がないだろう。でも、ひとつだけは確かだ。
      「欲が深すぎるんだよ、周一は」
       遠慮のない言葉に周一が目を瞠る。
      「……そう言ったのはおまえが初めてだ。誰もそんなこと、言わなかった……」
      「言う暇も知恵もなかったんだろ、たぶん。おまえは男を喰うんだって、浅田が言ってたよ。そのとおりだな。前の奴も、その前の奴も食い散らかすだけ食い散らかして、綺麗さっぱり忘れたんだろう。おまえは誰かに大事にされたいんじゃなんだよ。俺みたいな屑をわざわざ選ぶのは、しあわせになりたいからじゃない。可哀相な自分に酔ってるんだろう? 俺がいつほかの男に目を移すか、待ち構えてたんじゃないのか。俺が浮気をすれば、なんで自分は愛してもらえないんだって堂々と胸を張れるもんな」
      「……そうだったのかもしれないな」
       周一はちいさく笑う。その声がまたも奇妙な具合に震えだしている。
      「でも、寂しかったのはほんとうなんだ。ひとりじゃ嫌だったんだ。なのに、みんな俺と一緒にいるのを拒んだ」
       三本目のマッチに火がついたとき、川畑は決定的な言葉がいともするりと自分の口をついて出ることに、いささかの動揺も感じずにいられた。
      「いまは俺がいるじゃないか」
       誰でもひとりは寂しい。だから、ほんの少しでもいい、温もりを分け与えてくれる誰かを必死に探す。
       目の前でちいさな火に手をかざす男もそうで、自分もそうだ。いびつな欲望を抱えた者同士、暗闇のなかで死を呼ぶ水たまりに足を突っ込んでいる。
       車を乗り回す彼ならば、容易に準備できたのだろう。ふたりの足下には揮発性の高い液体が広がり、扉を閉めていることで胸苦しくなるような匂いを充満させていた。
       ひたひたと忍び寄る水のような液体。ガソリン。
       周一が手にしているマッチの火で、透明な液体は禍々しい虹色を描き出している。
       これが彼なりの、「前向き」ということなのだろう。ひとりがいやなら、ふたりで。川畑はその相手に選ばれたということだ。
       一緒に死ねというのかと激昂することはもちろんできる。いますぐここを逃げ出すことだってできる。だけど、そうしないのは、周一の目にある虹を刷り込まれてしまったから。彼が見せてくれる青い火に魅入られてしまったせいだ。
       ――一度ぐらい、あの子をしあわせにしてやんなさいよ。
       そう言っていたキブラの耀子ママに、いまなら笑ってやれる。
       周一が欲したしあわせは、永遠の終わりだ。
       かつては死と引き替えに愛情を求められたことが苦痛でたまらなかったけれど、あれから四年が過ぎ、不埒な遊びも十分過ぎるほどに楽しんだ。だから、もういい。どの男を相手にしても得られなかった極度の興奮を、周一はもたらしてくれる。
       ――俺を巻き添えにすることで。
      「……俺に会ったことを後悔してるか?」
       そう聞かれて、川畑は微笑んだ。いままでに、誰にも一度も見せたことのない穏やかな笑顔は、周一の視線を釘付けにさせるのに成功したらしい。
       よもや、ここまでやる男にはお目にかかったことがない。自分の願いを叶えるためなら他人を道連れにしても構わないという、恐ろしいまでの利己的な考えは、単に相手を取っ替え引っ替えして楽しんでいた自分を遥かに上回る。
      「おまえみたいな男は見たことがねえよ」
       こころから微笑んだ。
       四年前、彼を怖いと思ったのが嘘みたいだ。こんなに可愛い男もめったにいない。自分自身を愛しすぎるあまり死にたくなるなんて、どうしようもない。
       炎の向こうで周一の顔が揺れる。なにかが焦げる匂いがする。マッチの火が彼の指を焼いているのかもしれない。息詰まるような匂いもする。
       これでなにもかも終わる。ひとでなしだと散々言われた自分も、綺麗な顔をして灰色のこころを抱え続けてきた周一も、あっという間に、この火が消えればまるで魔法のように、なにもかもなくなる。
      「俺がいる」
       もう一度言った。移り気な自分が永遠を約束することはできないけれども、まばたきに匹敵する一瞬だったらそれも可能かもしれない。
       周一が泣き出しそうな顔で腕を伸ばしてきたのと同時に、燃え尽きる寸前のマッチが落ちた。
       


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        • 2019.04.09 Tuesday
        • -
        • 06:15
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