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    • 2019.04.09 Tuesday
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    岡本さんったら、もう!(『真夏の夜の御伽噺』番外編)

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      「なんだよ、正。ボーッとした顔して。昨日、ちゃんと寝たか?」
      「……勝一さんが明け方まで寝かせてくれなかったんじゃないですか」
       眠たい目を擦り擦りテーブルにつくと、ハハ、と楽しげな笑い声がキッチンカウンターの向こうで上がる。
      「ほらよ。おまえ好みの半熟目玉焼きとトースト。はちみつ、かけといたからな」
      「ありがとうございます。あ……サラダ、トマトが入ってる」
       ベビーリーフやキュウリで彩られた器に鮮やかな赤のみじん切りが混ざっていることに、旗野正は思わず顔をしかめてしまった。トマトはどうも苦手なのだ。
      「食え。小さく切ってわからないようにしてあるから食え。フルーツトマトだから、甘くておいしいぞ」
      「でも……」
      「食わず嫌いの子はもう抱かねえぞ」
      「朝っぱらからバカ言わないでください! 昨夜だって、やだって言ったのに散々したくせに」
      「正がして欲しそうな顔ですり寄ってくるからだろ? 俺のサービス精神をなんだと思ってるんだ」
       十歳も上となると、相当の口達者だ。言い合いも、ベッドの中でも攻防戦も、いまのところ岡本勝一のほうが断然有利だということに、旗野はむっとしながらもサラダを口に運んだ。
      「……あ、ホントだ。このトマト、甘くておいしい」
      「だろ? 酸味が苦手だって言ってたから、特別に甘いヤツ、探してきたんだよ」
      「そうなんだ……、うん、おいしいです。ありがとう、勝一さん」
       素直に礼を言って、はちみつをたっぷり塗ったトーストを囓った。春先のきらきらした陽射しが楽しげにテーブルを踊るここは、岡本のマンションだ。
       つい二週間頃前、ようやく同居することが決まり、旗野は荷物をまとめてやってきた。岡本と恋に落ちるきっかけとなったキャンドルポットも、自分らしさに気づく鍵となったクローバーの絵も、もちろん一緒に運び入れた。
       以前住んでいたアパートと同じ2DKの間取りだが、岡本のマンションのほうが全体的にゆったりした造りだ。リビング兼キッチンも広いし、寝室もワイドダブルベッドが入っているのにまだ余裕がある。もう一部屋はあまり使っていないようなので、旗野が以前使っていたシングルベッドを入れてもらった。
       銀座の一角にある、『quest』というアンティークショップ兼喫茶店を構える立場上、多くの客を出迎える岡本はいくら剛胆に見えても、家に帰ったらひとりのんびり寝たい夜もあるのじゃないかと思う。そんなときは、離れて眠ろうと思って、自分用のベッドを持ち込んだのだ。だが、いまのところ、岡本のほうはシングルベッドを使わせるつもりはないらしく、深夜、もしくは明け方になって店から帰ってきてダブルベッドに旗野がいないと無性に機嫌が悪い。
      『俺をひとりで寝かせる気か、おまえは』
       そう言ってダブルベッドに引きずり込み、起きなければいけない時間ぎりぎりまで旗野を抱き締めてくるのだから、たちが悪い。自分の店を切り盛りする岡本と違い、旗野は老舗おもちゃ会社に勤めるサラリーマンだ。朝九時には出社しなければいけないし、営業部所属ということもあって、夜も取引先の接待に回ることが多い。
       ――でも、もうひとりじゃない。
       仕事で呑んだあとは酔い覚ましに、questに立ち寄る。そこで岡本の淹れてくれるおいしいコーヒーを飲み、ぽつぽつやってくる常連客と言葉を交わす楽しみを覚えた。旗野が先に帰ることもあれば、早めに店じまいして岡本と一緒に帰ることもある。
       どちらにせよ、最終的には同じ場所に帰れるという事実がなによりもしあわせだ。
       ただ、恐ろしく精力的な岡本につき合っていると、どうしても寝不足になりがちだ。昨晩も早めに帰ってきた岡本に抱かれて抗えず、二度もいかされ、腰のあたりがいまだにじんわりと熱を孕んでいる。
       ――このひとのほうがよっぽど子どもみたいだ。
       ちらりと睨むと、岡本はにやにや笑い返してくる。それが気に食わず、テーブル下で軽く足を蹴ると、相手も同じことを仕返ししてくる。何度か蹴り合い、自分たちのやっていることのバカバカしさにふっと笑ってしまった。
      「勝一さん、……なんであんなに歯止めが利かないんですか」
      「しょうがねえだろ? 寝ぼけてるときのおまえってめちゃくちゃ可愛いんだよ。抱いてやるとすぐにぐずぐずに蕩けて俺にしがみついてくるときの顔がたまらん。あのよがり顔を一度でも見たら、さあ今日も張り切って犯すかと思うだろうが」
       露骨すぎる言葉に、思わずコーヒーを吹き出すところだった。
       言われっぱなしで黙っている性分ではない。言いたいことがあるなら、はっきり口にする。それも、岡本とのつき合いで覚えたことだ。
       さっきよりもぐっと力を込めて睨み返した。
      「……まったく子どもっぽいんだから。言っておきますけど、俺はそんなにがっついてませんからね」
      「へえ、そう? いまの俺が子どもっぽいっていうなら、十年前のおまえとかってどうなんだろうなぁ。もっとギャーギャー喚いて、へりくつばっかこねてたんじゃねえの」
      「そんなことありませんよ。十年前だと……十四歳ですから、真面目に勉強してました」
      「どうだかなー。高尚な理想を追っかけていても、頭の中は妄想でパンパンだったかもしれねえじゃん」
      「違います!」
      「あっそ、だったらよ」
       顔を赤くしながら否定する旗野に、小さく笑う岡本が濃紺のシャツの袖をまくり上げながら、テーブルを離れる。それから出窓に飾っているたくさんの時計の中からひとつ、小型の目覚まし時計を取り上げて押しつけてきた。
      「なんですか、これ」
      「今晩、寝る前にこの時計のねじを巻いてみな。時間が逆戻りして、若い頃の自分に戻れるって言い伝えがあるんだ」
      「また、もう……」
       過去二度にわたる岡本の不思議ワールドにつき合わされて慣れていたはずだが、三度目ともなると呆れたため息しか出てこない。
      「まあ、実際には若い頃に戻った夢が見られるって代物なんだけどよ。意識はいまのままで、そりゃもう、好き放題できるらしいぜ。正がほんとうにくそ真面目な十代を送っていたかどうか、自分でちゃんと確認してみろよ」
      「……マジで言ってるんですか?」
      「おまえを愛してるってのと同じぐらい、マジ」
       疑り深い顔をしている旗野の顎を掴み、岡本が笑いながらキスしてきた。朝のキスにしては甘く、濃密に吸われて、嫌でも反応してしまう。昨晩、とろりと身体の奥に流し込まれた蜜がまだ冷えて固まっていないのを知っているかのように、岡本は長い舌で口腔をまさぐってくる。
      「……ん……っ……」
       我慢できずに喉奥でくぐもった声を上げると、頭をくしゃくしゃと撫でながら岡本が顔を離し、「よし、上出来」と微笑む。
      「いい顔になった。今日も頑張って仕事してこい」
      「……勝一さんったら、もう!」
       耳たぶまで熱くてたまらない。
       たかがキスひとつで踊らされるなんて、子どもっぽいのはやっぱり自分かもしれない。


       岡本とつき合うようになってから、周囲には、「どうしたの、ずいぶん色気が出てきたじゃない」とか、「とうとう恋人、できた?」とか、からかわれるようになった。けれど、けっして嫌な気分じゃない。洗練された容姿をさらに際だたせるふわふわした長い巻き毛の岡本の隣に並んで立ったとき、少しでも見劣りしないようにと、一応、自分なりに気遣っている。
       ネクタイの色柄も洒落たものを選ぶようになったし、なにより、背中をまっすぐにして歩くようにするだけでも、営業部の人間らしく、自然と笑顔がほころぶ。
       いまはまだ付け焼き刃かもしれないが、ずっと忘れずに続けていけば、いつかは本物になるはずだ。
      「それじゃ、来週また打ち合わせに伺いますね。あ、主任、これ、職場の皆さんとご家族でどうぞ。ちょっと早めだけど、桜の花びらを練り込んだおいしい大福、買ってきたんですよ」
      「うわ、ありがとうございます。最近の旗野さんのオススメスイーツ、ほんと、ハズレがないんですよね。じつはみんな、旗野さんのスイーツ目当てでうちに来てくださるのを期待してるところもあって。うちの娘も桜が大好きだし、喜びますよ」
       甘いものが大好きな銀座のデパートのおもちゃ売り場主任は、旗野が営業部のド新人だった頃から根気よくつき合ってくれているひとりだ。あの岡本よりさらに年上だけに、最初はほんとうになにをきっかけに喋ればいいのか、悩みすぎてしまっていた時期がある。
       だが、岡本が売ってくれた魔法のキャンドルが見せてくれた夢の中で、岡本自身が、『同じ人間なんだから、共通点のひとつぐらいあるだろ。探してみろよ』とアドバイスしてくれたことで、現実の主任とも一気に距離が縮まった。以後、旗野はこのデパートに関するいくつかの企画を手がけ、主任と一緒におもちゃ売り場を活性化させるために尽力している。
       知らないひとの、知らない部分を知る。それが以前は煩わしいだけだったのに、いまはとても楽しい。少しずつ心の中の抽斗を増やし、他人とのつき合いを深めていくことで世界観が広がる新鮮さは、岡本が教えてくれたものだ。
      「じゃあ、また」
      「今度は僕がごちそうしますよ。職場のみんなも、旗野さんを囲んで一緒に食事したいって」
      「わかりました。是非、楽しみにしています」
       笑顔でデパートを出ると、銀座の街はもうすっかり艶やかなネオンで彩られている。今夜もきっと、岡本は店に出ているだろうから、少しだけ寄ってコーヒーを飲もうかなと思ったが、今朝方渡されたおかしな時計のことがどうも気になる。それに、ここ数日、睡眠不足だ。仕事と岡本のダブル攻撃で、ぐっすり眠れていない。
       ――たいがいバカバカしくて幸せな不眠なんだろうけど。
       苦笑いしながら、岡本の店に寄るのは止めて、マンションに戻るために地下鉄の駅へと向かった。
       岡本のマンションでひとり過ごすのも、慣れてきた。喫茶店を経営しているだけあって、料理の腕は岡本のほうが抜群だ。だから、同居を始めたときに、旗野は部屋の掃除を買って出た。
       部屋に戻ってすぐに風呂を磨き、ベッドのシーツを取り替えて洗濯機を回す。リビングのテーブルには、岡本の書いたメモが残されていた。
      『カレーをつくったから、温めて食べろ。サラダも冷やしてある。トマトも残さず食え』
      「はいはい」
       笑いながら冷蔵庫を開け、カレーの入ったタッパーを取り出した。ごはんも冷凍してある。同居しているとはいえ、基本的な生活時間帯が異なるので、夕食をともにすることはまれだ。なにも気にせず一緒に過ごせるのは、questの休店日ぐらいだろうか。
      「ん、おいしい」
       温めたカレーは、しっかりこくが出ていてとてもおいしい。旗野も簡単な料理はつくれるが、岡本の腕にはまだまだ至らない。
       気さくで、話し上手で、コーヒーの味も料理も抜群で、思わず同性でも目を惹く精悍な相貌となると、神様もずいぶんえこひいきだと思うが、そんな男を恋人にできた自分も相当ラッキーだ。
       自分の考えていることの甘ったるさに笑い、きちんとカレーを食べ終えた後は食器を片付け、新しい湯を張った風呂に入った。
       岡本と一緒に風呂に入るときは、長風呂だ。のぼせないようにぬるめの湯にして、色とりどりのボディシャンプーの中から今日の気分の色を選び、互いに泡まみれになってじゃれつく時間が、旗野は好きだ。けっして言葉に出して言ったことはないけれど、膨らんで弾ける泡だらけの裸の身体を擦り寄せていると、言葉にできない安堵感を覚える。無心になれる気がする。それこそ子どもに返れる気がするのだが、最後にはやっぱり互いに熱が昂ぶり、抱き合ってしまう。
       ベッドでも風呂場でも、岡本はさまざまなことを要求し、淫らな言葉を囁きながら、旗野でさえ触れられない場所に深く押し挿ってくる。
       そのひとつひとつを思い出していると、妙な気分になりそうだったから、慌てて頭と身体を洗って風呂を出た。
      「ホント、子どもなのは俺なのかも」
       ブレーキが利かないのは、岡本なのか、自分なのか。ひとり顔を赤らめてビールを呑み、アンティークな目覚まし時計を手にして静まり返った寝室に入った。
       大きなベッドにうつ伏せになり、目の前に置いた時計とにらめっこしてみた。この時計の裏側についているねじを回せば、時間が逆戻りして、意識はいまのまま、それでいて若い頃の自分に帰れる夢が見られるという。時計の円盤は綺麗な貝殻を使っているのだろうか。ベッドランプを弾いて七色に変化する。
       魔法のキャンドルも、幸運をもたらす四つ葉が隠れていたクローバーの絵も、最初はうさんくさいとしか思っていなかった。けれど、どちらもほんとうの魔法の力を持っていた。だから、いま、自分はこうして、岡本のベッドにいるのだ。
      「……だったら、これも本物なのかな」
       呟きながら時計を手にし、表、裏と何度もひっくり返した挙げ句に、ようやくねじをきりきりと逆に回してみた。目一杯回しきったところで時計の表を見ると、ほんとうに針が逆に回っている。
      「どんな仕掛けになってるんだ……?」
       まじまじと時計を見つめているうちに、ゆっくりと逆回転する時計の針が眠気を誘う。
       ――戻る、戻る、若い頃の自分に戻る、五年前、十年前の俺は、いったい、どんなだったんだろう。もうよく思い出せないあの頃、なにを考えていたんだろう。
       どんどん瞼が重くなってくる。頭に霞がかかり、なにかを集中して考えるのが難しくなってくる。それでも、疑問は次々に浮かんだ。
       ――若い頃に戻る、戻っていく、戻る戻る戻る――若い頃の岡本さんは、どんなだったんだろう? 十年前、いまの俺と同じ歳の岡本さんはどんなふうだったんだろう? なにを考えて、どんな毎日を過ごしていたんだろう? あのひとの若い頃を、もし知ることができたら。
       そこで、旗野はことんと深い眠りに落ちた。強い願いの最後に、岡本の笑顔を思い浮かべながら。


      「……なあ、ちょっと、あんた、起きろよ」
      「ん……」
      「起きろって。こら、おい」
       がくがくと肩を揺さぶられ、嫌々旗野は目を覚ました。なんだかとても長い夢を見ていた気がする。まだ蕩けそうな瞼を擦って顔を上げると、逆光を浴びた大きなシルエットが眼前に立ちふさがっていた。
      「なにしてんだよ、ひとんちの前で」
      「……は?」
       男の声に聞き覚えがあるものの、よく知っているものとは若干違う。
       慌てて瞼を強く擦り、もう一度目の前の男を見た。相手もしゃがみ込み、顔をのぞき込んでくる。
      「どうしたんだよ。誰かの部屋と間違って来たのか?」
      「……勝一さん……」
      「なんだ、俺の知り合いか?」
      「……しょ、勝一さん!? ホントに!?」
       若い男は旗野の大声にびっくりしているが、ややあって、「そうだけど」と平然と返してきた。それで呆然とするのは旗野のほうだ。
       自分の前にいるのは、間違いなく岡本だ。それも、十年ほど若い頃の。半袖のTシャツ姿にジーンズというラフな格好で、よく履き込んだコンバースは靴紐の先がほどけかかっている。
       現実で知り合った岡本は三十四歳で、逞しい体躯にロングのウエーブヘアというインパクトあるスタイルだが、目の前にいるのは、現実よりもやや細身で、髪も短めだ。目元の鋭さや、口元の色っぽさはいまとまったく変わらない。かたわらには大きなバックパックが置かれていた。
      「あの……すみません、唐突なことをお聞きしますけど、あの……勝一さん、いま、いくつなんですか?」
      「二十四」
       さらっと返ってきた言葉に頭がくらくらしてきた。夢とはいえ、どうして岡本のほうが若返っているのだろう。一瞬、身体がぐらりと傾いだのを、自称二十四歳の岡本が慌てて支えてくれた。
      「大丈夫か? ちょっと中で休むか?」
      「いえ、あの、……いや、ちょっと混乱してるだけで……」
      「だったら、部屋に入れよ。冷たいものでも飲めば少しは頭がすっきりするだろ」
       張りのある若い声に引っ張られるままに、旗野は部屋に引きずり込まれた。それでやっと理解した。どうやら、ここは岡本の住んでいる部屋で、自分は玄関前に座り込んで眠っていたらしい。
      「あー、久しぶりだな、この部屋に戻ってくるのも。おい、あんた、ちょっと待ってろよ。いますぐ、冷たい飲み物買ってくる。アイスコーヒーでいいか?」
      「あの、気にしないでください、大丈夫だから」
      「いいって。俺が飲みたいんだよ。第一、この部屋には飲み物ひとつねえし。ちょっと行ってくるから、のんびりしてな」
       部屋の窓を開けて風を通し、岡本はさっさと出かけてしまった。
       ぽつんと取り残された旗野は思ってもみない展開にただただ呆然としていたが、ようやく気を取り直して、室内を見回した。
       一間しかない、なんとも簡素な部屋だ。トイレと風呂はついているようだが、台所もコンロがひとつしかない、典型的な若い独身男の住まいだ。目立つものといえばテレビと、年季の入ったいい色合いのチェスト、それにちゃぶ台が畳んで壁に掛けられている。押し入れがあることに興味を覚えてそっと開けてみると、一組の布団と、冬場に使うらしい電気ストーブだけが入っていた。
      「……ほんとうに、若い頃の勝一さんの部屋なんだ……二十四歳だって言ってた……」
       そこではっと思い出し、洗面所の鏡に自分を映してみた。
       鏡の中には、二十四歳の自分がいる。昨日、風呂から上がったときの顔とちっとも変わっていない。
       やっぱり、岡本だけが若返る世界に来てしまったのだ。
       ――なんで、どうしてなんだ?
       玄関の扉が開く気配に振り返ると、「お、もう大丈夫なのか?」と岡本が缶コーヒーを放り投げてきた。
      「あ、ありがとう、ございます」
      「気にすんなよ」
       くだけた調子の岡本が勧めてくれたことで、一間しかない床に腰を下ろした。
      「悪いな、座布団もなにもなくて。ちょっと旅に出てたもんで、ここに帰ってきたのは俺自身も久しぶりなんだ」
      「いえ、こちらこそ、勝手にお邪魔してすみません」
       夢とはわかっていながらも、相手が岡本だと思うと胸の昂ぶりが収まらない。彼がいままで渡してくれたアイテムはどれも本物の魔力を持っていた。だとしたら、この夢でも、なにか大きなことがありそうだ。
       恐縮することしきりの旗野をおもしろそうに眺め、壁にもたれて座る岡本が、「煙草、吸っていいか?」と言う。
      「どうぞどうぞ」
      「サンキュ」
       顔を傾けてマッチを擦る堂に入った仕草が、胸を甘く疼かせる。見た目も声もずっと若いけれど、岡本たる片鱗は十年前から備わっていたのだ。
      「それで、あんた、なに? 誰? どうして俺んちの前にいたわけ? 名前は?」
      「は……、旗野、正と申します」
       頭を下げるなり、爆笑が返ってきた。
      「そんなに緊張しなくていいって。取って食うわけじゃないだろ」
      「そうですけど……すみません、慣れてなくて……こういうの」
       額を拭うと、じわりと汗が浮かんでいた。
       どんなことにも、三度目の正直という言葉があるが、まさか岡本の不思議ワールドで若い頃の彼に遭遇するとは思っていなかった。
       だが、岡本のほうはやっぱり肝が据わっている。可笑しそうに笑うだけだ。
      「歳は……俺とだいたい、同じぐらいか? 仕事は?」
      「おもちゃ会社の営業、やってます」
      「へぇ、真面目そうなのにおもちゃつくってんだ。どんなの?」
       興味津々なところも、やっぱりいまとまったく変わらない。問われるままに答えているうちに、旗野も腹が決まり、「――あの」と身を乗り出した。
      「あの、……勝一さん、俺に見覚え、ありません?」
      「ない」
       潔いほどに斬り捨てられて、がっくり肩を落とした。
       ――そりゃそうだろう。十年前の岡本さんが、いまの俺を知ってるわけない。彼がくれるアイテムには魔力があっても、岡本さん自身が超能力者ってわけじゃないんだから。
      「でも、嫌いなタイプじゃない」
      「ホントですか?」
       思わず食いつく旗野に、二十四歳の岡本はくくっと笑いを噛み殺すのに必死らしい。
      「性格柄、世界中のあちこちを回ってきたけどよ。あんたみたいなのは初めて見るよ」
      「……どういう意味ですか」
      「目一杯意地張りまくって、真面目で頑固でお堅そうに見えるのに、ちょっと触るとなんか変わりそうなトコ」
       艶っぽい言葉をさらりと言われて、頬が熱くなった。
       ――やっぱり、絶対に勝一さんだ。若い頃から、こうだったんだ。
      「旅してたって言ってましたけど、どこに行ってたんですか」
      「んー、インドを含むアジア方面。もう少ししたらヨーロッパにも足を伸ばそうかと思ってる」
      「凄いですね……」
       同じ歳なのにこうも違うのかということを夢の中でもまざまざと見せつけられ、驚くばかりだ。大胆な気質と行動力は、生まれ持っての性質なのだろう。
      「でさ、スゲエ聞きたいんだけど。なんで俺んちの前にいたわけ? 今日帰ってくるって誰にも言ってなかったのによ。偶然? それとも押し入り強盗するつもりだったか?」
      「違います。……信じてもらえないかもしれないけど……俺、あの……、あなたの、恋人です」
      「は?」
      「俺、勝一さんの十年後の恋人です」
       突拍子もない言葉に、岡本は煙草を吸うのも忘れている。そんな顔を見たのは初めてだったから、旗野も気が抜けたように笑い、「……信じられませんよね、いきなりこんな話しても」とうつむいた。
       岡本がこれからまだまだ世界中を放浪し、落ち着いた頃に銀座の一角に店を構え、そこで互いに出会ったのだ、と話したところで、相手はまるっきり信じられないだろう。それにもし、あの時計の魔力が本物だとしたら、岡本の先々のことを明らかにするのはよくないかもしれない。たとえ、これが自分だけの見ている夢だとしても。
       以前のキャンドルは、互いに夢を共通し、運命を結びつけるという途方もない力を持っていたのだ。今回の時計がどこまでの影響力を及ぼすかわからないから、恋人だという発言も冗談に終わらせてしまったほうがいい。
      「……なんて、冗談です。嘘です、嘘ですよ。ここに来たのは、隣室の友だちを訪ねてきただけで、ただ部屋を間違ってしまって」
      「隣室はもう半年前から空っぽだ」
      「あ、じゃあ、逆の部屋」
      「そこは一年前から空だ」
      「じゃあ、あの、……あの、下の部屋と間違えました」
      「バカ、ここが一階だ。二階もこの間引っ越したばっかだよ。取り壊し寸前のボロアパートなんだよ、ここは」
       問いつめられてぐうの音も出ない旗野に、岡本がぐっと真面目な顔を突きつけてくる。
      「俺の十年後の恋人ってホントか?」
      「嘘ですってば」
      「じゃ、なんでそんなに顔真っ赤にしてうつむいてんだよ。俺の名前を呼び慣れてるじゃねえか」
      「それは練習の成果で」
      「なんのだよ」
      「……なんの、でしょう……」
       自分でも、もう支離滅裂だ。
       詰め寄られて、呼吸もろくにできない。どん、と響く音に驚いて顔を上げると、壁に両手をついて岡本が迫ってくる。逞しい両腕に挟まれて、逃げようにも逃げられない。
      「勝一さん……」
      「十年後に、またあんたと会えるか?」
       思いがけない言葉が胸をひどくせつなく揺らす。
       どうして疑わないのだろう。普通、いきなりこんな展開にぶつかったら、頭がおかしい奴だと放り出すはずなのに。
       不思議な物、出来事、新しい出会いをすんなりと受け入れる岡本の度量の広さに、不覚にも涙してしまいそうだ。
       ――目を覚ませば、ちゃんと『いま』の勝一さんに会えるってわかってる。俺がよく知っている、大人の勝一さん、三十四歳の勝一さんに。でも、十年若い勝一さんも、やっぱり好きだ。根本的に変わらないものを持っているこのひとが好きなんだ。これが夢だってわかってても、嬉しい。魔法の時計で時間をさかのぼって、若い頃の勝一さんに出会えて、もっともっと好きになる。
       もっともっと、この恋を深めていく。衝き上げる感情にそそのかされて、旗野は鼻先まで近づいていた岡本のくちびるにそっとくちづけた。熱っぽい弾力は、『いま』と変わらない。岡本は少し驚いたようだが、すぐにうなじを掴んで、やさしく、甘く吸い取ってくれる。舌を搦め合い、ちゅく、くちゅりと舐めしゃぶる感覚は『いま』よりもう少し性急だ。余裕のある大人の岡本とは違い、勢いに任せるあたりが十歳若い証拠だろう。
      「ん……っ……」
       とろっとこぼれ落ちるほどの唾液を伝わせてきて、岡本に顎を押し上げられた。その頃にはもう、身体中が汗ばみ、シャツは肌に張りついて鬱陶しかった。それを確かめるように、岡本が淫猥に身体を擦りつけてくる。早くも勃ち上がってる性器にジーンズの上から触れてきて、口の端を吊り上げた。
      「スゲエ、いい反応。俺の未来の恋人だけあるよな。十年後の俺に、あんたは満足してるか?」
      「して、ます。毎日みたいに、俺のこと抱くから……頭、おかしくなりそう」
      「そっか。俺、十年後もがっついてんのか。そりゃそうだよな、あんたみたいに可愛い奴、俺の好みのど真ん中だもんな」
       楽しげに笑った岡本に、釣られて笑ってしまった。そのまま床に組み敷かれても、抵抗しなかった。夢でも嘘でもいい。若い頃の岡本をもっと知りたいという欲求に勝てない。
      「また十年後に会えるんだとしても、いま、抱いてもいいか?」
      「……いいです。俺もそのつもりだったから」
      「十年後に会えるまで、ちょっと忘れてても許せよ。再会したら、あんたがヤダって言うほど愛してやるからさ」
      「もう、とっくに何度もやだって言ってます」
      「めんこくねえな、こら」
       聞き慣れた言葉にふと微笑み、もう一度くちびるをふさがれた。今度は最初からきつく舌を吸われて甘く噛まれ、身体の深いところに一気に火を点ける。シャツを脱がされ、胸を執拗に弄る手つきはやっぱり『いま』の岡本と比べるといささか乱暴だが、その力強さがたまらなくいい。
      「んっ……あ、……あ……」
      「へえ、あんた、ココで感じるのか。ますます俺好みじゃねえか」
       根元からぴんとそそり立つまで乳首をこね回し、親指の腹で押し潰し、旗野が我慢できずに悲鳴混じりの喘ぎを上げると、やっと口に含んでくれた。
      「……っく……ぅ……っ」
       大人になってからの岡本も胸を愛撫するのがことのほか好きらしく、いつも念入りに探り、舐め回してくる。
       真っ赤に腫れ上がった乳首を軽く噛まれると、じぃんと頭の底が痺れるような刺激が走る。若い頃の岡本に抱かれているというあり得ない展開に身体も過敏になりすぎているようだ。両方の乳首をしつこくつまみ、くちゅくちゅと音が響くほど吸われると、せき止めなければいけない快感がどっとほとばしりそうだ。
      「ん、や、……っだ、……や、しょう、いち、さん……っそれ、以上……っ」
      「なんだよ、気持ちいいんだろ? 乳首を弄られて感じてんだろ?」
       のしかかってくる岡本が、意地悪く笑いながら囁いてくる。
      「イけよ。乳首を触られるだけでイくようなやらしい男なら、間違いなく十年後の俺の恋人だ」
      「あぁっ、……ぁっ……!」
       唾液でたっぷり濡らされた乳首を痛いぐらいにひねられ、背中が強くたわむほどの絶頂感に襲われて、岡本の背中にしがみつきながら射精してしまった。
      「あっ、あっ、あっ……」
      「あー……マジであんた、可愛いな。ジーンズも下着もぐしょぐしょだ」
       べったりと濡れた下着ごと引き剥がされ、いまさらながらに羞恥心がこみ上げてきて泣きそうだ。達した直後で、まだひくついている性器の先端を岡本が指で開いてきて、小孔からとろっと精液がこぼれる様を楽しんでいる。
       濡れた指が尻の狭間にすべり込んできて、窮屈に締まるアナルをゆっくりと蕩かしていく。
      「俺にも触れ」
      「……はい」
      「ふふ、ホント可愛いな。十年後って言わずに、このまま俺の恋人になれよ」
       ぼうっとのぼせた頭で、服を脱いだ岡本の下肢に手を伸ばした。ぐんと根元から勃ちあがるそれは逞しく漲っていて、先走りにしては多い滴を垂らしている。
       不思議な時計で十年前にさかのぼり、旅帰りの岡本と出会い、明るい部屋で抱き合っている。
       これから先、いくつの夢を見たとしても、率直に求めてくれたこの岡本を忘れることはけっしてない。目を覚まして、いつもの岡本に会ったら、もっと深い想いを抱きそうだ。
       互いに性器を触れ合わせ、ぬちゅっと淫猥な音を響かせた。岡本のものを受け入れるために窄まりもやわらかにほどけ、漲った肉棒の先端をゆるく押し当てられただけで、ひくっ、と微弱に震えて岡本を悦ばせてしまう。
      「抜群の身体だ。十年後の俺より感じさせてやる」
      「……あ、……っあ、勝一、さん……っ!」
       両脚を大きく割られて、ずん、と脳天まで突き刺さるような感覚に嬌声を上げた。若い岡本の攻め方は容赦なく、最初から深々と貫いてくる。極太の男根で蕩けた肉襞をせり上げ、激しく擦られることでどうしようもない疼きを感じ、泣きじゃくった。汗に濡れた繁みが互いの肌をちくちくと刺すのも気持ちいい。
      「感じるか?」
      「いい、すごい、……いい……っ、もっと、奥まで、挿れて、して、勝一さんの……奥まで、欲しい……」
       とぎれとぎれに呟くと、いきなり抱き上げられて、彼の膝の上に座らされた。それからもう一度、下からぐぅっとねじ込まれる。
      「あ――……あ、……ん……っ」
       自分の重みで、前よりもっと深いところまで岡本が挿ってくる。
      「自分で動いてみろよ」
       誘発するような視線をどうにか弾き返したが、このままじっとしていることもできない。
       彼の肩にしがみつき、ぎこちなく動き出すと、ざっと肌が粟立つような快感が広がる。ぬぽっ、ぐちゅっ、と肉洞を熟れさせる音が響くほどに、岡本が激しく挿入してくるのに合わせて、旗野も腰を揺らした。
       みずから尻を拡げて男を咥え込み、前を勃たせている姿がどれだけ岡本の目に淫らに映るか、旗野は意識できない。
      「あ、あっ、しょう、い……っさ、……!」
      「くっそ、なんでこんなにいい身体なんだよ……」
       ぎりぎりまで抜かれると、岡本の形を覚えたそこが奥までざわつき、次の波を浅ましく求めてしまう。汗ばんだ胸にくちづけてくる岡本が大きく腰を揺らしてきて、ぎらりときわどく狙い澄ましてくる。
      「……出したい、あんたの中でイきたい。ダメだ、なんか止まんねえ……こんなの、初めてだ」
      「勝一さん……」
       うわずった岡本の声に、無意識にきゅうっと奥のほうで締めつけてしまう。岡本のものがむくりと跳ね上がるのを感じて、意識がさらに甘く蕩けていく。
      「……俺の中で、イって。十年後も、そうして。俺だけを愛して」
      「ん」
       目と目を合わせたのを合図に、岡本が尻をきつく掴んでがむしゃらに突き上げてきた。抉り、くり抜くよう獰猛な動きに、旗野はもうついていけない。彼の首にしがみつくので精一杯だ。
      「あ、――っ、あん、っん、ん、イく、……っイっちゃう……っ」
      「……っ……」
       岡本の手で扱かれた性器から白濁が噴きこぼれるのと同時に、ねっとりと深みのある熱がこもる最奥でどくっと脈が強く打つ。
      「あ――あ、あ……あ……」
       たっぷりとした精液を放ち続ける岡本のも息も荒い。淫猥に爛れた肉襞を隅々まで濡らすようにゆるく出し挿れしてきて、それでもまだ飽きたらずにキスしてくる。
       激しい求め方が岡本らしくて、やっぱりどこか若さが残っている。
      「なあ、俺、十年後もこの調子であんたのこと抱いてるのか?」
      「……うん、あんまり変わりませんよ」
      「マジか。ここまでタガがはずれたのって初めてだぜ。これから十年、あんたなしで我慢できるのか、俺?」
       胸を満たす言葉に笑い、旗野はぎゅっと彼の頭ごとかき抱いた。胸からあふれ出しそうな愛情が、途切れない鼓動と一緒になって彼に届くようにと願いながら。
      「我慢してください。十年後の勝一さんは、もっと凄いことになってます」
      「あんたもか? あんたももっとエロくなって可愛くなって、俺を求め続けてくれるのか?」
      「はい」
       笑い崩れて頷いた。
      「ふぅん……、じゃ、もう一度しとくか。次に会うのは十年後だもんな」
      「そんなの、たった一瞬ですよ」
       それこそ、まばたきする速さで時間は流れていくものだ。ほんとうだったら、この夢では自分が十年若返るはずだったのに、なぜか岡本を若返らせてしまうことになってしまったけれど、それでよかったのだといまは思える。
       こんな素敵な魔法には、二目とお目にかかれるものではない。
       心から大好きなひとの若い頃をかいま見て、キスしてもらえた。抱き締めてもらえた。それだけでもう、十分にしあわせだ。
       再び身体の中で岡本が雄々しくなっていくのを感じて、旗野は恥じらいながら彼の頬にくちづけた。
      「……また、十年後に会いましょう」


      「――おい、正、おい、こら、どうしたんだよ」
      「……ん、……んん? あ? ……しょ、勝一さんっ!?」
      「うなされてたぞ、怖い夢でも見てたのか?」
       揺り起こされてはっと飛び起きれば、見慣れたいつもの岡本が眉根を寄せてベッドの縁に座っている。悪夢にうなされていたと勘違いしたらしく、髪をくしゃくしゃと撫でてくれる。
       くるくると跳ね飛ぶ巻き毛に、ざっくりとしたシャツ姿に目を瞠った。店から帰ってきたばかりなのだろう。寝室のカーテンは引かれたままで、ベッドランプがぽつんと点いているきりだ。
      「勝一さん……」
      「なんだ」
      「……勝一さん……」
      「なんだ、どうしたんだ? まだ寝ぼけてんのか?」
       可笑しそうに笑ってこつんと額をあててくる男に、思わずしがみついた。彼だけの香りを胸一杯に吸い込み、彼だけの感触を確かめ、安堵のため息をついた。夢の中に出てきた岡本になかった、包容力がいまの彼にはある。
      「……夢、見てました」
      「どんな。……あ、おまえ、あの時計使ったのか? 若い頃の自分が見られたか?」
      「いいえ」
      「なんだよ、ハッタリじゃねえぞ、これ」
       枕元に転がる、不思議な力を持つ時計を訝しく見つめている男の横顔に何度も頬を擦りつけ、――やっぱり、このひとがいい、と微笑んだ。
       十年前もいまも、岡本だけがいい。
      「夢に、勝一さんが出てきました」
      「俺?」
      「はい。十年前の、若い頃の勝一さん。いまの俺と同じ歳の勝一さん。アジアの旅から帰ってきたばかりだって言ってた。勝一さん、……凄く格好良かった」
      「ふふ、まあそりゃそうだろうな」
       自信たっぷりに肩を揺らして笑う岡本を見つめ、言おうか言うまいか、ちょっとの間だけ楽しい真実を舌の上で転がしてから、旗野は甘く囁いた。
      「……俺ね、二十四歳の勝一さんとやらしいことをしてしまいました」
      「なにい!?」
       岡本の声が跳ね上がり、普段の余裕を剥ぎ取った顔が迫ってくる。強い熱を予感させるようにがっしりと両肩を掴まれて、どうしても笑いが抑えきれない。
       こういう顔が、見たかったのだ。ずっとずっと、これから先も、ずっと。
       時計を巻き戻さない現実で、岡本のこんな顔を見られるのは、この世界中で、自分ひとりきりだ。



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