劣悪な環境で恋は生まれる(オリジナル2009)

0


    「ちょっと、花沢さん、いつまでおにぎりの補充に時間かけてんですか。早くしてくれないと、客が来ちゃいますよ」
    「あ、すみません。いますぐやります」
     専用トラックから運ばれた新しいおにぎりに、新人バイトの花沢京がじっと見入っている。バックヤードから出てきた吉田強が苛々と声をかけると、花沢はようやく新しいおにぎりを棚に詰め始めた。そのもたもたしている動きを見るかぎり、コンビニのバイトは慣れていないのだろう。
     ――三十歳過ぎのおっさんがコンビニのバイトか。丁寧な態度で言葉遣いもきちんとしてるけど、この時間帯に勤務してるってことはリストラされたか、もしくはこれからされるのか。
     斜な目で見ながら吉田はレジに入り、二台のキャッシャーの中身をチェックする。冬の明け方、四時前後は客の出入りが少ないが、これがあと三十分もすれば、朝一番で仕事場に駆けつける客がおにぎりやら缶コーヒーやら菓子パンやら煙草やらを求めて殺到する。
     だからといって、嵐の前の静けさを楽しむわけにはいかない。時間の隙を縫うように小さな店のあちこちを掃除し、欠けている商品がないかどうかチェックするかたわら、たまにやってくる客の動向にも目を配らなければいけない。
     客が少ない時間帯というのは、言い換えれば危険度が増す時間帯でもあるのだ。二十四時間開いていて、いくばくかの現金がつねに置いてあるコンビニはせっぱ詰まった強盗に目をつけられやすい。
     ついこの間も、同じ町内のコンビニが夜更けに刃物を持った男に押し入られた。幸い、店員には怪我はなかったものの、数万円の売り上げを奪われ、ちょっとした騒ぎになってしまった。どこのコンビニも朝夜問わず二人から三人、多いときでは四人以上の態勢で勤務しているが、二人だけの場合、片方がうっかり休憩に入っていたり、店の外で煙草を吸っていたりすると、とんでもない目に遭う。近所のコンビニ強盗も、もうひとりの店員が休憩中で、店の外でずっと彼女と携帯電話で喋っていたため、騒ぎに気づくのが遅れたらしい。おかげで、刃物で脅された店員は怖がって辞めてしまい、もうひとりの店員も責任を感じて辞めてしまった。
     この不況時に、どこのコンビニでもつねに人員募集をしているのは、そういう理由もあるんじゃないかと吉田は思う。
     週三日から、一日三時間でもオーケー。細切れのパートタイムにしては、コンビニは重労働だ。店の狭さに反比例して扱う品数は眩暈がするほど多いし、客がいっせいに詰めかけるときに手際が悪いと怒鳴られることもある。
     だから、五日前に雇われた花沢に挨拶したときも、ぱっと一目で、――一週間保たねえだろうなと判断していた。二十五歳で、学生時代に柔道で鍛えてきた吉田はいかつい相貌と百八十五センチある屈強な体躯に恵まれ、たいていの客は威嚇できると自信がある。
     しかし、花沢は細身で頭ひとつ低い。たぶん、百七十センチぎりぎりというところだろうか。地味目だが、よくよく見ると端整な顔立ちをしていて、しなやかな身体つきをしている。若干人見知りをする性格らしく、吉田と初めて顔を合わせたときもかなり緊張した様子だった。
     十月の終わり、長袖のきちんとしたシャツにコンビニ専用の青いユニフォームを着た花沢は、何十個、何百個とあるおにぎりをきちんと奥のほうから詰めていく。その横顔をちらっと見ただけなら、まだ二十代といっても通用する若さだ。
    『……え、花沢さんって三十二歳なの? 見えねー』
    『よく言われるよ』
     最初に交わした会話がこんな感じだったから、その後も目上、目下と妙に気遣うことなく喋った。だいたい、このコンビニにおいては吉田のほうが先輩格だ。
    「もったいないよね、このおにぎり。賞味期限を一時間過ぎただけで廃棄されるなんて」
     棚の上段、端から梅のおにぎり二列、鮭のおにぎり二列、おかかのおにぎり一列、たらこ、野沢菜のおにぎりも一列ずつ補充していく花沢が、売れ残ったおにぎりを手にしてぽつりと呟く。
    「しょうがねえじゃん。そういう決まりなんだし、賞味期限切れのものを売って腹を壊す奴が出たら、花沢さん、責任取れんの? はい、手を休めないでどんどん補充。サンドイッチと麺類もあんだからさ」
    「はい」
     吉田の言い付けに従って花沢はさっき入荷してきたばかりのサンドイッチに麺類、サラダと棚に詰め込んでいく。だが、その視線は、廃棄処分にされる予定のおにぎりや総菜に釘付けだ。
     彼がそんな目をしていたのは今日が初めてではない。思えば、バイト初日から残り物をもったいなさそうに見ていた。
    「あのさー、花沢さん、ちゃんとメシ食ってる?」
    「え? あ、いや、その」
     食品類の補充がだいたい終わったところで、レジに戻り、おでんのつゆの温度を確かめながら聞いてみると、意外なほどびっくりされた。
    「メシ、ちゃんと食えてないから残り物に未練タラタラなわけ?」
    「そうじゃなくて……いや、そういう部分もあるけど……ただ、ほんとうにもったいないなと思って。いま、すごく不況でしょう。一日一食がぎりぎりってひともじつはかなり多いのに、こんなふうに一時間過ぎただけで処分するのって、なんか、需要と供給のバランスが取れてない気がして」
    「だからって、自分がおにぎり食いてえ、とにかく米食いてえってコンビニに駆け込んだときに、サンドイッチしかなかったらガックリするでしょうが」
    「そうだね。吉田くんの言うとおりかもしれない。僕はいつも読みが甘いから」
     歳上の男のぽそぽそした声にいちいち機嫌を取っていられるかと思うが、二人しかいない状況で事を荒立てるのもどうかと思ったので、「ま、花沢さんの言うこともわからんでもないけどさ」と表面が半分乾いたはんぺんにつゆをたっぷりかける。
    「でもやっぱり、賞味期限は大事なんだよ。三日も四日も新鮮なおにぎりがあったらそっちのほうが怖いじゃん。どんな強烈な防腐剤が入ってんのかってびびるよ。需要と供給が合ってないって花沢さんは言ったけど、入荷したぶん、残り物が多く出るのは俺らの責任じゃなくて、店長の見積もりが甘いのが責任。だから、辛気くさい顔してないで。なんかを可哀相たがりたいなら、レジ横にある災害募金に献金でもしたらどうですか。最近、世の中いろいろ大変なんだからさ」
     自分でも口が悪いなと思ったが、花沢は黙って聞いていた。それから口元をほころばせ、「うん」と頷き、スラックスのポケットから小銭入れを取り出して、百円玉を一枚、募金箱に落とした。


     毎週、月、水、金に吉田はコンビニのバイトに入る。そのうち、水曜は夜勤で、偶然にも花沢とコンビを組むことになった。週に一回しか顔を合わせないと言っても、水曜の深夜バイトはいまのところ花沢と二人きりなので、商品チェックや仕入れの際、それと客が来ないときにはとりとめのないことを話すようになった。一週間保たないかと危ぶんでいた花沢だが、思いのほか、粘り強く頑張っている。
     七歳上の花沢は、外資系の大手証券会社に勤めているらしい。だが、未曾有の不況により、周囲がどんどんリストラされていくのを目の当たりにし、いつ自分も首を切られるのかと思ったら、いてもたってもいられなくなったようだ。
    『万が一のために、少しでも稼いでおこうかと思って』
     昼間はサラリーマンとして働いているから、コンビニでのバイトを深夜にしたのはそういう理由からとのことだった。
    『でもさ、会社勤めのひとって、普通、本業以外のバイトは禁止なんじゃねえの?』
    『うん。うちの会社でも禁止事項に入ってる。だから、内緒でやってるんだ。ここのコンビニは勤務先からだいぶ離れてるから、会社のひとが来る確率はかなり低い。……このことは誰にも内緒にしてほしい』
    『ふーん、まあ、いいけど』
     七歳上の男に頭を下げられ、『内緒にしてほしい』と言われて悪い気はしない。弱みを掴んだと言ったら嫌な顔をするひともいそうだが、バイト先でしか会わない人間のウィークポイントをひとつでも先取すれば、なにかと好都合だ。休憩時間を勝手に引き延ばしてバックヤードでだらだらしていてもいいし、面倒な商品搬入も花沢に押しつけてしまえばいい――という小狡いことをするのではなく、相手の弱みを知っているだけでも、吉田は楽しいたちだった。
    「そういう吉田くんは? 大学生……じゃないよね」
    「とっくに卒業してるよ。掛け持ちのバイトで食いつないでる。いまどきめずらしくもないフリーターってやつ」
    「そうか、……大変だよね。先が見えないってのも、不安でしょう」
    「べつに」
     花沢の心配を一蹴し、吉田は雑誌コーナーの整理を始める。立ち読みが多い店なので、手前に並ぶ雑誌は表紙の端が折れたり、破れたりしている。
     雑誌や漫画のたぐいを熟読している客を見かけると、たまにわざと、「すみませーん、ちょっと整理させてくださーい」と笑顔で割って入ることにしている。
     おまえが読みふけっている雑誌はタダじゃねえんだよ、売り物だってわかってんのかこの野郎、と怒鳴りつけたくなるのはしょっちゅうだ。吉田自身、雑誌の中身をちょこっとのぞきたくなる気持ちはよくわかる。だが、図々しい客は本気で凄まじい。一時間も二時間もかけて、さまざまな種類の本を立ち読みし、挙げ句なにも買わずに満足して帰られると、タダ読み代ならぬ居座り代をぶんどりたくなるのだ。
     とはいえ、そういう客が多くなったのも、世間の空気がどんよりしているせいだろうか。花沢の言うように、『先が見えない世の中、金を出さずにすむなら出しません』というひとびとが増えているのかもしれないが、吉田はそういう枠の中から飛び出したいとつねづね思っているのだ。
    「先が見えないことの不安なんて、いくらでもあるでしょう。仕事でも人間関係でも。そういうことを考えて動けなくなるほうが、俺にとってはアホみたいに思える。やらないで後悔するよりは、やって後悔するのがモットー」
    「すごいね。その若さでそこまで言い切れる強いひとってなかなかいるもんじゃないよ。……あの、なにか特別な訓練でもやってたの?」
    「小学校からずっと柔道をやってたけど、それとこれは別問題でしょ。ただ、やりたいと思ったことをやらずにそのままにしておくのがもったいないってだけ」
    「吉田くん、なにかやりたいことがあるの?」
     普段、おとなしい男がめずらしく率直に聞いてきたことで、雑誌の整理を終えた吉田は手をはたきながら狭いレジ台に戻り、頭ひとつ低い花沢を見下ろした。
    「……なに?」
     堂々とした体格の吉田にじっと見つめられていることで、花沢はうろたえている。
     びっくりしているが、怯えているわけではないことを感じ取り、吉田は軽く口元をほころばせた。さまざまなバイトを渡り歩いてきているせいで、それこそ多くの人間を目にしてきた。頑丈な体躯にふさわしい顔を持った自分と目を合わせるなり、なにも話していないうちから腰が低くなる奴は少なくない。相手の顔色を窺うのはコミュニケーションのひとつだとも思うが、意味もなく卑屈になられたり、挙動不審になられたりするのは困る。そういう意味では、花沢はそこそこ手応えのある相手かもしれない。
     レジの中身を確認しながら、吉田は言った。
    「俺がやりたいことは、強盗。ここにある金を全部奪って逃げる」
    「え? 嘘だよね」
     冊を数える吉田に、花沢が目を丸くしている。身を引かない度胸の良さも、案外いい。
    「嘘だよ。本気で狙うならコンビニなんかじゃなくて銀行を狙うよ。ていうのは冗談で、ほんとうに俺がやりたいのは、世界一周旅行。そのために、あちこちでバイトして金を貯めてる最中」
    「世界一周か……そりゃまた、スケールの大きい夢だね」
    「そう? そんなでもないって。子どもの頃からの夢だったんだ。アジアからスタートして、ヨーロッパを制覇。余力があったらアメリカ方面も回る。長い人生のうち、たかだか二、三年、世界のあちこちを気ままに放浪するだけじゃん。費用だって、せいぜい、三百万か四百万ぐらいあればいいし。ひとつの会社に何十年も勤めることのほうが、俺にとっちゃスケールがデカすぎる。そういう意味じゃ、花沢さんみたいなちゃんとしたリーマンは尊敬するよ。気が短い俺には到底真似できない」
    「そう、かな……ちゃんとしてる、かな……」
     曖昧な口調で呟く花沢は、慣れた仕草で冊を数えている吉田の手に見入っている。
    「僕には、そういうのがないな。毎日、生きていくのが精一杯で、夢も、目標もない。そういう人間でも、他人から見たら、ちゃんとしているように見えるのかな」
    「花沢さん?」
     最後のほうがうまく聞き取れなかった。うつむいた男の顔をのぞき込むと、レジ台の跳ね戸を開けて花沢が出ていく。
    「ごめん、少し早めに休憩取ってもいいかな」
    「あ、……うん、いいよ。どうせ客も少ないし」
     時計の針は午前三時を過ぎたばかりだ。バックヤードに消える花沢の頼りない背中に首をひねりながら、吉田はため息をつき、キャッシャーの中身を数え続けた。
     水曜の深夜にしか顔を合わせない男にも、それなりの悩みがあるのだろう。


     月、水、金のコンビニ勤務の他に、火曜と日曜はビル警備のバイト、土曜は新宿二丁目にあるバーでバイトをしている。
     毎週土曜、ゲイのメッカである二丁目界隈に足を踏み入れるたびに、ガタイのいい吉田はあちこちから、「ちょっと飲まない?」とか「時間ある?」「ひとりなら俺とどう?」「そこの公園でどう?」と誘いを受けるが、それらをすべて綺麗にかわし、「バー・キブラ」という小さな店の扉を押し開ける。
    「おはよーん、ツヨシ。今日も早くからありがとう」
    「おはようございます。耀子ママ、今日の賄いっておでんですか?」
     バイトのバーテンダーよりも先に出勤しているオーナー兼ママに挨拶すると、粋な小紋に割烹着を身に着けた耀子ママが得意げにふふんと鼻を鳴らす。
    「アンタ、いい鼻してるわね。昨日から自宅で煮込んでたのを持ってきたのよ。店の外と内側、ちゃっちゃと掃除したらごちそうしてあげる」
    「わかりました」
     専用の服に着替える前に手際よく店の外、内側と掃除し、テーブルのひとつひとつを曇りなく磨いていく。
     キブラはいい男がそろう、ゲイ御用達のバーとして古くから知られていると聞いたが、吉田自身はゲイではない。たまたま、大学の先輩の友人の友人という遠い縁を辿ってきた、『ゲイバーで人手が欲しいって話があるんだけど、ゲイじゃない奴がいいらしいんだ。バイト料は結構いいってよ』という話に乗ってみただけだ。こういう仕事で、同性に興味がないほうがいいというのは、当然かもしれない。客にちょっかいを出されていちいち揺らいでいたら、話にならない。
     とはいうものの、いい男がそろう店だということも、否定しない。耀子ママが顔で客を選んでいるという噂が噂を呼ぶのか、毎晩、個性の異なる男が集まり、そこここでグラスを片手に盛り上がっている。ただ酒を飲みに来るだけの客もいれば、出会いを求めている客もいるのだろう。いたってノーマルな考えを持つ吉田としては、男同士が身体を寄せ合う場面を初めて目にしたときはほんの少し驚いたが、まあ、ひとの数だけ愛情の形もあるんだろうな、という考えに落ち着いた。
     まだ若いくせに、吉田の堂に入った構えは常連客の間でもひとしきり噂になり、勤め出して最初の一か月はひっきりなしに声がかかった。しかし、笑顔で、「ありがとうございます。でも、もう間に合っているので」と答え続けていたら、からかいめいた誘いはだんだんと減った。その代わりに、常連の中でもさらに凄腕の常連から話しかけられるようになった。
     この晩も、十年以上キブラに通っている男がふたり、十分差で店に入ってきた。
    「浅田さん、こんばんは。コートお預かりしましょうか」
    「ああ、頼む。あと、強めのモスコミュール」
    「かしこまりました。土曜に浅田さんが来るのって珍しくありませんか? たいてい、平日にいらっしゃると聞きました」
     注文された酒をつくっている間、カウンターに頬杖をついて煙草に火を点ける常連客は浅田諒一という。メタルフレームの眼鏡が端整な面差しにしっくりはまる男で、大手出版社に勤めているとなにかの折りに聞いた。シャツにスラックスというシンプルなスタイルが映える男というのも、そうそういない気がする。
    「いま、スゲエ忙しいんだよ。土日がない状態で働いてる。一昨日からずっと徹夜でさぁ……やっと今日、自宅に戻れるから、その前に一杯飲んでいこうかと思って寄ったんだ。なんだよ、土曜の晩に俺が来て迷惑か。安心しな。ツヨシみたいにこれぞ日本男児ってのは俺の好みド真ん中だが、おまえ、ノンケなんだろ。手は出さねえよ。……ノンケを相手にするのは暁ひとりでたくさんだっつうの」
     語尾をぼやかす浅田の前に、「どうぞ」とグラスを差し出したときだった。店の扉が開き、「こんばんは、ツヨたん」と艶のある声とともに、凄腕の常連のもうひとりがやってきた。
    「チカさん、こんばんは。今日はゼルダでのショウ、お休みなんですか?」
    「うん、たまにはゆっくりしたくて、休みをもらったんだ。あ、浅田さん、こんばんは。結構久しぶりですよね、ここで会うのって」
    「かもな。SMプレイヤーの人気は未だ衰えずってところか?」
    「そりゃもう、奴隷の応募は引きも切らずで、さすがにきりきり舞いですよ。僕って人間はたったひとりなのにね」
     優雅に笑いながらチカがスツールに腰掛け、「ツヨたん、僕も浅田さんと同じものを」と言う。
     真面目そうな格好の浅田とは対照的に、チカという愛称でとおっている男は銀色のベリーショートというド派手にも程があるヘアスタイルで、切れ長の目にふっくらしたくちびるが色っぽい男だ。とろみのある上質のシルクシャツに革のパンツがよく似合う。その容姿を生かした仕事が、六本木にその名を轟かす男性専用のSMクラブ「ゼルダ」での調教師だ。チカは極まったS属性のトッププレイヤーとして、マゾヒスティックな男たちを夜な夜な虐げているらしい。わざわざ新宿まで足を伸ばして飲むのは、六本木では顔を知られすぎていてなにかと気を遣うと、以前彼が言っていた。
    「あーあ、最近、どうしてこうもみんながみんな、簡単に奴隷になりたがるのかなあ……。誰かの命令に素直に従うことが即快感になるのって、浅田さんはつまらないと思いません? 少しは抵抗したほうがこっちも相手も楽しいのに」
    「俺にはSM属性がないし、そもそもチカさんと一緒でタチのほうが好きだから、そういうことを聞かれても困るんだよ」
    「ですよね。そのうえ、お互いにノンケの男にメロメロだし。正直な話、僕が生涯を懸けて躾けたい男はたったひとりしかいないんだけど、千宗の気の強さったら、ホントにもう……洒落にならない。今夜ここで勢いをつけて、自宅に戻ったら速攻千宗を犯す。本気で犯す。今夜は絶対に手を抜かない」
    「ハハ、やる気あるじゃん。じゃあ、俺も帰ったら速攻、暁を押し倒す。死ぬまでに一回は絶対に上に乗ってやる」
    「うわ、気が合いますね。じゃあ、乾杯しましょう」
     出版社勤務の男とSMクラブ勤務の男が隣り合わせに座り、笑顔でグラスを触れ合わせているなんて、さすがは老舗のキブラだからこそ見られる絵なのだろう。
     話に興じる常連たちに酒をつくり、合間にやってきた他の客の相手を冷静にこなしている時間が、吉田はわりと好きだった。同性だろうが異性だろうが、なんとなく他人の温もりが欲しい夜がある。それが即、性行為に繋がるわけではなく、目の前にいる浅田とチカのようにただ話をするだけで構わない、むしろそれでいいと考えている客は多いようだ。職場や学校以外に、気軽に話せる相手がどこかにいるだけで、ほっとするものなのかもしれない。キブラは建前上、未成年お断りの店だが、大学生ぐらいに見えればあまり文句はつけないことにしていると、耀子ママが以前、ひっそり呟いていた。
    『男を好きになっちゃった以上、どうにもならない悩みが生まれるじゃない。そういう悩みが少しでもうちの店で薄れてくれたらいいなと思うしね』
     他人には迂闊に言えない性癖を持った以上、閉ざされた空間では仲間意識が生まれるものなのだろう。他愛ない日常話に混ざって、誘ったり誘われたり、色気のあるやり取りをなんとはなしに聞いていると、また店の扉が開いた。
    「いらっしゃぁい。おふたりさま?……奥のテーブル、ちょうど空いたとこだからどうぞ」
     戸口付近のテーブルで客の相手をしていた耀子ママが、新客を奥へと誘う。吉田はそれをちらりと横目で確認し、手元のグラスに視線を戻したあと、弾かれたように顔を上げた。
    「ツヨシ? どうした」
    「ツヨたん、なに怖い顔してんの」
     吉田のただならぬ気配に、浅田とチカが不審そうな顔をしているが、無言でカウンターを出て、入ってきたばかりの客がついたテーブルへと大股で歩み寄った。
    「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか、花沢さん」
    「……吉田くん!」
     吉田の声にびくりと肩を跳ね上げたのは、水曜の深夜、コンビニでしか顔を合わせない花沢だ。
     まさか彼がゲイだとは思わなかった。隣には、髭面のサングラスをかけた男が座っている。
    「なんだよ、こいつと知り合いか?」
     ――花沢さんよりかなり歳上の男が相手か。
     花沢がゲイだということについてはどうこう言うつもりはないが、連れの趣味が悪いと言いたいのは余計なお節介だろうか。店に入ってきたときからこれ見よがしに花沢の肩を抱き寄せ、人目につかない奥のテーブルについたことで、さらにエスカレートし、胸をまさぐっているいやらしい男が花沢は好みなのか。
     たぶん、耀子ママもこの新客は用心したほうがいいと咄嗟に判断したから、他の客の目に晒されることがなく、非常口にも近い奥のテーブルへと案内したのだろう。
    「ご注文がお決まりでしたら、伺いますが」
    「……あの」
    「ビール持ってこいよ、ビール、もたもたすんな」
    「かしこまりました」
     横柄な物言いの男に頭を下げ、カウンターに戻るなり、慎重に様子を見守っていたらしい浅田とチカが、そろって顔を近づけてきた。
    「ヤバくねえか、あのヒゲのほう。真っ当な筋じゃねえだろ。もう片方の男もどう見たってノンケだろ」
    「僕もそう思う。無理やり連れ込まれたんじゃないのかな。どっちも、過去、ここで見た顔じゃない」
    「じゃあ、直接聞いてみます」
    「おっ、おい、ツヨシ! 待てバカ、早まるな!」
    「名前どおり強気すぎだよ、ちょっと僕、惚れるかも……」
     浅田とチカの制止を無視し、きめ細やかなクリーム状の泡を浮かべたグラスビールをトレイに乗せて、花沢のテーブルに運んだ。
     ひそやかながらも、花沢の困惑した声が耳に飛び込んできた。
    「……っ、やめてください、僕はそういうつもりじゃ……」
    「なにいまさらなこと言ってんだよ。男とやりたいから、このへんうろついてたんだろ?」
     衝立で仕切られたテーブルで、花沢と髭面の男が小声で言い争っていた。隅に押しつけられた花沢は大きな手で胸や股間をまさぐられ、顔を引きつらせている。
    「違う――違います、そんなんじゃありません、ほんとうに違います」
    「とにかく、ここで一杯引っかけたらホテルに連れてってやるから。どっからどう見ても犯してくださいって顔してんじゃねえか。だから声をかけてやったんだろ……っ、って、……てめえ! なにしやがんだ!」
     聞くに堪えない言葉に、ふと気づけば、吉田はグラス一杯に注いだビールを髭面男の頭にザアッと浴びせていた。
     頭からぽたぽたと滴を垂らした髭面男が、顔を真っ赤にさせて正面に立ちふさがる。
     互角の体格かもしれない。まともにやり合えば、店が大混乱に陥るのは間違いない。だが、吉田は怯まずに一瞬の隙を衝いて相手の胸ぐらを掴み、非常口へと力ずくで押しやった。
    「出ていってください。この店は、あなたのような方はお断りです」
    「舐めた真似してんじゃねえ、俺を誰だと思ってんだ! 俺のバックには……!」
    「うるせえな! 後ろ盾がなきゃなにもできねえ奴が粋がってキブラに来るんじゃねえよ! 他の店に行け!」
     怒声とともに思いきり男を外へと突き飛ばし、頑丈な非常口をぱたんと閉じたとたん、それまで息を飲むような静寂に包まれていた店内が、どっと歓声に湧いた。
    「ツヨシ、やるなぁ、おまえ!」
    「ちょっとツヨシったら、アンタって子はもう……! 見てるこっちがハラハラしたじゃないのよう!もう、もう……、ホント、ありがとね」
     剛毅な耀子ママがほっとした顔で抱きついてくる。
    「すごいね、ツヨたん。男らしくて格好良かった。久しぶりにいいもの見せてもらいました」
    「スゲエ迫力だった。柔道の黒帯って冗談じゃなかったんだな」
     あちこちで拍手喝采が起きる中、吉田は、「迷惑かけてすみません」と頭を下げた。それから、放心している花沢に向かって、「大丈夫?」と声をかけた。
    「あ、……うん、大丈夫、です。……ありがとう」
     ようよう答えたものの、花沢は呆然としている。得体のしれない男に連れ込まれた先で、吉田に出くわすという突然の展開に脱力してしまったようだ。
     小さくため息をつき、吉田は耀子ママに耳打ちした。
    「このひと、俺の知り合いなんです。ちょっと心配だから、今日はこれで上がらせてもらえませんか。このひとを家まで送るんで」
    「うんうん、わかった。大丈夫。ヒロシに連絡して、店に入ってもらうから。今日の武勇伝に免じて、タイムカードはちゃんとラストで押しといてあげる」
    「すみません。ヒロシさんにもよろしく伝えてください」
     先輩にあたるバーテンのヒロシに急に来てもらうのは悪いが、気のいいひとだから、事情を聞けば、きっと許してくれるだろう。
     まだ惚けた顔の花沢を立ち上がらせ、乱れた服を整えてやってから店の戸口で客にもう一度頭を下げた。
    「皆さん、お騒がせしてすみませんでした。お先に失礼します」
    「いやいや、ツヨシに惚れた夜だったわー。また土曜にな」
    「気をつけてな、そっちの新顔もまた来いよ」
     笑いながら見送ってくれる客を背に店を出て、ふらふらよろける花沢の手を掴んで歩いた。土曜の夜だけにひとも多く、手を繋いでいないとはぐれそうだ。
    「……吉田くん、ありがとう」
     掠れた声が聞こえてきたのは、キブラを出て十分も歩いた頃だ。ゆっくりした足取りだったせいか、花沢の息遣いも落ち着いている。顔色もまともなものに戻っていることを確認し、手を離そうとすると、ぎゅっとくちびるを引き結んだ花沢が手を握り締めてきた。
    「花沢さん?」
    「ごめん、もう少しこうしていてほしい。……よかったら、そこの公園で少し休みませんか」
     花沢が指差すほうに、小さな公園があった。繁華街からちょっと離れた場所にある公園で、灯りも少ない。
    「ここ、ハッテン場だと思うけど、いいんですか」
     ゲイではないが、ここらで働いている者としては知っていることをあらためて確認すると、花沢は頬をひくりと引きつらせるが、「……ちょっと、休むだけだから」と答えた。
     答えた、ということは、ハッテン場という言葉の意味もわかっていることか、と内心複雑だ。
     コンビニでバイトしているときの花沢は清潔でおとなしく、残り物のおにぎりやサンドイッチをもったいなさそうに見ているだけで、とてもじゃないが、男あさりをするようなタイプには見えなかった。
     通りに面したベンチに腰掛けると、花沢が深く息を吐き出す。
     うつむき、両手で頭を抱えて、「……ごめん、恥ずかしいところを見せて」と呟く花沢の横で、「べつに」と答えた吉田は足を組み、コートのポケットから煙草を取り出して火を点けた。
    「……さっきの男は、たまたま声をかけられただけで、知り合いとかそういうんじゃない」
     言い訳をするような声に、吉田は煙を吐き出す。
     なにか鋭く尖ったものが胸を突き刺し、神経をささくれ立たせる。
    「たまたま声をかけられた男に、胸や股を触らせるんですか」
    「それはあっちが勝手にしてきたことで、僕が望んだことじゃない」
    「でも、そういうことを期待して二丁目に来たんじゃないんですか」
    「違う。たまたま、まぎれこんでしまっただけで……そういう吉田くんは? どうして吉田くんはここにいるんだ」
    「俺は単なるバイトです。前にも言ったでしょう。世界一周をするために金を稼いでるって。ゲイバーのバーテンって、結構いい金になるんですよ」
    「じゃあ、客に誘われることもあるよね」
    「あるよ。でも応えない」
    「なんで。どうして。吉田くんだったら選び放題でしょう」
    「選べる立場だからって誰とでも寝るわけじゃないだろうが。なにバカなこと言ってんだよ、あんた。俺のこと、なんだと思ってんの?二丁目のバーで働いてるからって、男なら誰とでも寝るって思ってんの?」
     苛立ちに任せて怒鳴りつけると、意外にも、花沢がきっとまなじりを吊り上げ、狙い澄ました視線を向けてくる。
    「……もし、吉田くんが、男に目を向けてくれるなら、って思ってた。ずっと、そう思ってた」
    「は? なに……それ」
    「一目惚れ、したんだ。吉田くんに……コンビニで一緒に夜勤勤務するようになったときから、好きだった」
     とても小さな声だったが、花沢のそれはきっぱりしていた。対して、吉田はいきなり始まった告白に呆然としていた。
    「同性を好きになったのは生まれて初めてだから、どうしていいかわからなくて……吉田くんがそういう性癖じゃないってことはわかってたけど、僕自身も混乱していて、男を好きになるのってどういうことなんだろうとか、抱かれてみるとしたらどうなるんだろうって考え続けてたら頭がおかしくなりそうで、そういう性癖を持つひとが集まる二丁目に来て、もうとにかく誰でもいいから」
    「ちょ、ちょっと、待てよ。落ち着けよ。あんた、俺に惚れたっていま言ったばかりだろ。それがなんで急に誰でもいいってことになるんだよ」
    「僕だって冷静に判断できないよ。だいたい、男を好きになった自分自身もどうかと思ってるんだよ。普通、男は女を好きになるもんでしょう。なのに、なんで同性を好きになってんだか。だから、こんなめちゃくちゃなことになってるんじゃないか」
     肩で息し、強い語調で言い切った花沢に、日頃、めったなことでは動揺しない吉田もさすがに言葉に詰まった。
     なにをどう言えばいいのだろう。煙草を吸うのも忘れて、花沢の横顔を見つめ続けた。どんなに言葉を尽くそうとも、バカバカしい展開になりそうだということは間違いない。
     おとなしいと思っていた花沢がこんなにもいっぺんに喋るとは思っていなかった。キレると怖い相手だったのだろうか。週に一度しか顔を合わせていないのに、どうして自分なんかに惚れるのだろう。
     同性を好きになってしまった花沢も自分自身を持て余し、ぎりぎりまで思いつめた挙げ句に、二丁目にやってきてろくでもない男に引っかけられるなんて、正気の沙汰じゃない。
    「……俺のどこを好きになったの」
     根元まで赤く染まった煙草を踏み潰し、新しい煙草に火を点けて深々と吸い込んだ。すると、花沢はちょっと微笑み、「……煙草、僕にもください」と言う。
     思う存分逆ギレしたことで、すっきりしたのだろうか。いま見た笑顔は、とても自然で、可愛かった。
     煙草を渡し、咥えたまま火の点いた先端を近づけると、花沢も顔を寄せてくる。仄かな灯りで浮かび上がる横顔につかの間見とれていると、花沢がふぅっと煙を吐き出す。
     歳相応の品格と可愛さが絶妙に混ざった顔で、花沢は慣れた仕草で煙草を吸う。コンビニで商品をもたくさ扱う垢抜けない印象と、いま目にしている洗練された印象とのギャップから目が離せない。
    「花沢さん、スモーカー?」
    「ううん、ずいぶん前にやめた。でも、吉田くんがおいしそうに吸ってるから我慢できなくて。……ごめん、僕、ずいぶん変なことを口走ったね。迷惑かけてごめん」
    「謝るのはとりあえずあとにして。俺のどこが好きになったのか、まだ答えてないよ」
    「そういう、若いところ。まっすぐなところ。世界一周をしたいって大きな夢を素直に口にできるところ。あれを聞いたときに、いいなと思ったんだ。自分のやりたいことに迷いがない吉田くんが格好良く見えた」
    「それで、惚れたの? そんなことで?」
    「そんなことで惚れたんだよ。僕には夢も希望もないし、ついでに言えば職もなくて、一昨日からは部屋もない」
    「え、……でもあんた、証券会社に勤めてたんじゃないっけ」
    「三か月前までね。ごめん、じつはいくつか嘘をついてた」
     手足をぐうっと伸ばし、煙草をおいしそうに吸う花沢はスーツ姿で、ネクタイの結び目もきちんとしている。髭面の男と揉み合ったあと、無意識に身だしなみを整えていたのだろう。
    「ほんとうの僕は、現在、定職に就いていません。三か月前に急にリストラされて、いまはきみと一緒のコンビニとスーパー、あと、書店でバイトをしています。貯金も少しはあるんだけど、一昨日まで住んでいたマンションの家賃が払いきれずに部屋を出ました。新しい仕事に就くためにハローワークにも通っていますが、なかなか難しいです。でも、とりあえず次の新しい仕事に就けたとしても、なんのために稼ぐのか、もうわからない。会社からいきなり切られた時点で、僕自身、なんのために生きてるのか……ちょっとわからなくなった。誰にも必要とされてない気がして」
     よどみなく喋った花沢はひと息ついて、また喋り出す。一方的な話を聞かされている吉田が眉をひそめたり、驚いたりしている様子に気づいていないわけではないだろうが、――とにかく喋ってしまいたい、誰にも打ち明けられなかった胸の裡を一気にぶちまけてしまいたいという勢いに負けた。
    「誰にも必要とされない日が来るなんて、いままでに一度も考えたことがなかった。リストラされる瞬間までね。僕がいたのは外資系の企業で、数年勤めているうちにもっといい条件の勤務先を探すのが当たり前のところ。だから、日本人らしい考えにある、『終身雇用』とか『同僚』っていう意識はみんなほとんどなかった。一定期間、互いに力を貸していかにして効率よく金を稼ぐか、その方法を生み出すドライな関係でしかなかった。もちろん、僕もそれでいいと思ってた。違うと気づいたのは、首を切られたあとだったから遅いけど。……ほんとうは誰かを信じてみたかった。自分以外に信頼できて、好きになれる誰かが欲しかった。そういう弱さに気づいたのも、会社を辞めたあとだからとっくに遅いんだけど」
     吉田に言葉を挟ませず、花沢はまっすぐ正面を向いたまま喋り続けている。ずっと遥か後方に置き去りにしてきた過去を語るにしては、ずいぶんとちぐはぐな印象だ。
    「おまえはもう要らない。必要ないから出ていけ。戦力にならないから辞めろ――リストラされた直後は、世界中からそんなふうに言われている気になった。いままでの僕は誰もが羨む学校をいい成績で卒業して、会社でもつねに上位に食い込む成績を誇ってた。なのに、ただ一回、取り引きに失敗しただけで辞めろと言われたんだよ。『あんたのやり方はもう古いんだよ』って、一回り下の後輩に嗤われて……死のうかなって、その夜初めて思った……」
    「……でも、死ななかったんだろ」
    「うん、でもしょっちゅう頭にあった。もういつでもいいや、いつ死んでもいいって。会社帰りに電車に飛び込もうかとも思ったんだけど、そのときは周りにいる、自分と同じような疲れた顔のサラリーマンやOLさんを見て、迷惑をかけちゃいけない気がして。なんかね、自分でも変だと思うんだけど、億単位の金を堂々と動かしてたくせに、いざとなったら及び腰になるんだよね。あれだけ大きな額の金を動かせていたのは、結局、他人の金だからだったんだと思う。でも、いざ、自分の命をあっさり捨てようかと思うと怖くなる。僕がどんなことにつまずいて、なにに思い悩んで死のうとしたか、誰にも知られないままなんだろうかと思ったら寂しかった。……そんなときにさ、世界一周がしたいなんて夢みたいなことを言う吉田くんに会って、驚いた。いまどき、小説や映画の中にしか出てこない夢を実現しようとしているひとには初めて会ったから。それまで僕の周りにいたのは、目先の儲け話に必死になっている奴ばかりだったから――もちろん、僕もそのひとりで……なんか、気が抜けて……吉田くんみたいに子どもっぽいことを真面目に実行しようとしているひとがほんとうにいるんだってわかったら、いいなって、……憧れて、羨ましくなって……そのうち、本気で目が離せなくなって……吉田くんが次になにをするのか、気になって気になって仕方がなかった。それで、やっと僕自身、認めた。吉田くんに惚れてるんだって」
     バカだよね僕はほんとうに、と笑う声が青ざめた都会特有の夜空に虚しく響く。
    「いまでもたまに、ああ、死んじゃおうかなって思うときがある。べつに、すごく思いつめた結果じゃなくてさ……もういいか、このへんで終わらせようかって気分なんだよ。なんて言えばいい? これまで仕事だけに専念してきて、恋人も友人も自分ひとりきりの想い出もろくにつくらないで、金勘定ばかり意識して、もっと先の自分の将来をまったく想像してなかった僕自身が一番悪いんだってことを、リストラと同時に知ったんだ。僕はね、入社当時、一番の成績だったんだ。だから、会社は僕を裏切らないと思ってた。三年単位で人員が入れ替わる外資系でも、僕はしぶとく生き残ってきた。だから、いつの間にか勘違いしていた。一生懸命に仕事をしていれば、いつかはいいことがある、絶対にしあわせになれるって根拠のない思い込みをしていたんだ。――いつから僕は、こんなに空っぽな人間になったんだろう。いつから、こんなバカになっていたんだろう」
     淡々とした声だった。
    「――コンビニでさ、賞味期限が一時間過ぎただけのおにぎりやサンドイッチが捨てられるのを、僕がもったいながってたこと、覚えてる?」
    「覚えてるよ。花沢さん、毎日毎日、しつこく見てたもんな」
    「あれ、たぶん食べても平気だよ。もったいないって本気で思ってた。そりゃ神経的にダメだってひともいるのはわかるけど、たった一時間であっさり捨てられるものがこんなにたくさんあるんだってことを目の当たりにして……人間にも賞味期限があるんだって初めて実感した。食べられる時間が過ぎたら捨てればいいって、周りに思われてたんだよね。僕自身が気づかなかっただけで」
     順調な人生のレールからふいに突き落とされたおのれを嘲笑うのでもなく、恥じるのでもない。そういった感情をすでに越え、完全に醒めきった声というのを吉田は初めて聞いた気がする。
     世界一周の夢に向けてがむしゃらに働いてきた自分にはまったくない深淵を、花沢はこころの奥深くに隠し持っている。
     彼には彼なりの目標があったのかもしれない。しかし、ただひたすらに走ってきた道が行き止まりだと唐突に知らされ、こころの一部が崩れたのかもしれない。
     ――だから、世界一周する夢を持ち続けている俺に惚れたのか。方向転換もきかないアホなのか。
     大人になればなるほど、傷の治り方が遅くなるという。
     花沢もそうなのかもしれない。三十代で初めて大きな挫折を経験し、職も住み処も失い、とりあえずは生きていくための最低限の仕事はするけれど、もう楽しい夢は二度と見られない。見たくても、あえて見ないのかもしれない。べつの方向へと思いきり跳躍するための勇気を失ってしまったのかもしれない。
    「僕が必要だと誰かに言ってほしい。僕自身も誰かをこころから愛して、そのひとが望むことをできるかぎりしたい。三十二歳にもなって言うことじゃないけど……ひとりきりなのは寂しい。誰かと一緒にいて、叶わなくてもいいから、夢を語りたい。喧嘩もしたい。仲直りもしたい。仕事ばかりでそんなこと、いままでに一度もしてなかったから、いまからでもやってみたい。たとえば同じものを見て、違う意見を出し合ってぶつかって、尊敬したい。揉めてみたい。自分とはまったく違う他人を愛したい。そうすることで、僕自身、いまからでももう少し変われるような気がするんだ。……ほんとうに、ただの気のせいかもしれないけど」
     夜空を見上げる花沢が、願い事のように呟く。
    「ここまで言ったんだから、もう我が儘剥き出しで言うよ。もし、ほんとうに死ぬことになったとき、僕は初めてこころから大好きになったなひとに見送ってほしい。ずっとずっと忘れないでほしい。たくさん泣いてほしい。時間が経って忘れかけても、たまに僕を思い出して泣いてほしい。僕はそれ以上にそのひとを愛して、この世から身体がなくなっても、ずっとずっと……ほんとうにずっと想い続けるだろうから。そのひとが僕以外の誰かを愛して生き続けていくのは寂しいけど、こころのどこかに僕を刻んでくれているなら、もうそれでいい。最期の瞬間を、誰かに笑顔で見届けてほしいんだ」
     まことに幼稚で正直すぎる本音、あるいは狂気の欠片を、吉田は黙って聞いていた。
     夢は、叶えるために存在するものなのだと誰かが言っていた。しあわせなことよりも、つらいことの多い世界で生き延びるための術として、神様が人間に、叶うようで叶いそうにない夢を見る幸福感と絶望感を持たせたのだと言っていたのは、キブラの常連である浅田だったか。けれど、けっして叶わないからこそいつまでも見続けられる楽しい夢もあるんだよ、苦痛や絶望を味わわされるばかりだったら人間はとっくに滅びてるでしょう、と鷹揚に笑っていたのは、やっぱり常連であるチカかもしれない。
    「……ごめん、ホント喋りすぎた」
     声が嗄れた花沢が、両頬を押さえてうつむく。
     大人にしては頼りなくて情けない姿を一瞥する自分がいますべきことは、煙草を吸い終えて颯爽と立ち上がり、なにも聞かなかったような顔で、「じゃあまた、コンビニで」とさりげなく手を振り、この場を去ることだけだ。
     そうすれば、面倒な荷物を背負うことなく、花沢という人間とも単なる通りすがり、数多く経験してきたバイト仲間のひとりとして、いつしか顔も声も記憶の底に埋もれて忘れていくはず――なのに。
    「……吉田くん?」
     煙草を吸い終えたのは、花沢のほうが先だった。その空いた右手を、吉田は強く掴んでいた。
    「俺のこと、いまでも好き? もしかして、俺が初恋?」
     低い問いかけに、花沢が目を瞠る。なにも返ってこない。だけど、口元がなにかを言いたそうにわなないていた。
    「俺のこと、ほんとうに好き? 最期の瞬間を見届けてほしいぐらいに、真面目に好き?」
    「す……好き、じゃ……」
     ない、と言おうとした花沢を制した。
    「好きって言いなよ。さっきみたいに、俺のことが好きって言いなよ。一目惚れしたんだろ。いまでも惚れてるんだろ」
    「なんで……、なんでそんなこと言うんだよ……」
    「わかんねえよ。でも、俺に夢中になっている間は、あんたは空っぽな人間じゃない。相当バカなのは間違いねえけど。俺に惚れ続けている間に、花沢さん自身、本気でやりたいことが見つかるんじゃねえの。そういう生き方があったっていいじゃん。とりあえずいますぐ死ぬ気がないなら、しばらくは俺に依存してなよ。俺はべつにそういうの、嫌じゃないし。花沢さんだったらいいよ。あんたみたいに気が狂ってるような異常なほどの寂しがり屋って、初めて会ったからおもしろい。俺を本気で好きなのか、単に世界一周に目が眩んでるのか、それとも花沢さんが自分自身を好き過ぎておかしくなってるのか、よくわからないところもおもしろい。あんた、醒めたことをずいぶん言ってたけど、ひとつでもいいから叶えたい夢を欲しがってるんだと思う。それがどんなものかいまの俺にはわからないけど、実際に探してみる価値はあると思うよ。この際、歳がどうのこうのとか、体裁を気にするのは止めにして、自分の気持ちに正直になることを選んだら? 花沢さん自身の頑固な鎖がとけたら、いまよりもっと楽になれる気がする」
    「吉田くん……」
     突拍子もない言葉に、花沢は絶句していた。しばらくしてから、やっと声を絞り出した。
    「……きみ、バカなの?」
    「あんたに言われたくない」
     むっとして顔を見合わせた。いまにも目の縁から涙がこぼれ落ちそうな花沢が鼻を啜ったのと同時に、盛大に吹き出した。思いがけない明るい笑い声に、吉田も一瞬目を瞠ったが、少し遅れて一緒になって笑った。
     肩が触れ合ってじんわり温かい。見栄もなにもあったもんじゃない歳上の男の素直な泣き笑いを見つめ、惹かれて、顎を掴むと、花沢がひくんと身体を強張らせて真顔に戻る。
     そのすれていない感覚がやっぱり可愛いと思えたから、自分の勘を信じて、吉田くん、と押し止める声を無視し、黙ってくちびるを重ねた。
     互いに定職に就かず、歳の差もあるうえに、男同士だ。それに、なにかと言うと死ぬ死なないと縁起でもないことを口にする相手を好きになろうとは、自滅行為もいいところではないだろうか。
     だが、こういうのも巡り合わせのひとつかもしれない。
     見た目も性格もよくて、将来になんの不安もなしという相手に、吉田はかつて一度もこころを揺り動かされたことがない。世界一周を目指しているのだって、自分が目にしたことのない景色や耳にしたことがない言葉に身を浸してみたいからだ。言葉が通じないもどかしさも味わってみたい。懸命のボディコミュニケーションで渡り歩けるだろうかという自分の底力を試してみたいところもある。
     つまるところ、日めくりのカレンダーをめくるように、いつでも新鮮な気分を味わっていたいのだ。
     ――俺自身、自分が考えている以上に貪欲な性格なのかもしれない。だったら、底が見えないほどの愛情に飢えている花沢さんを好きになるのは正しいのかもしれない。どこかトチ狂ってるこのひとがどこまで俺を愛してくれるのか、俺は俺でそういう奇妙なところにどこまで惹かれるのかわからないからこそ、この恋にトライする意味はあるんじゃないだろうか。
     さまざまな考えを瞬時にふるいにかけ、一般的な常識も根こそぎふるい落とし、最後に残ったのは純粋な好奇心だ。
     将来がどうなるかなんてまったくわからないまま、ただ、ひたむきに好きになってみる。
     それが、吉田の選んだ答えだ。
     こういう恋の始め方もあるのかと思ったら、内心可笑しくてたまらなかった。


    「……あの、吉田くん、いきなりする?」
    「花沢さんが嫌なら、やめるけど。じゃあ、途中までにしとこうか」
    「うん、……あの、すみません、気を遣わせて」
     緊張しているのか、花沢の声がどんどん小さくなっていく。
    「あ、でも、嫌じゃない。ごめん、言い方が悪くて……ただ、ほんとうにこういうのが初めてだから、いきなり最後までするのはちょっと怖い」
    「まあ、そうかもね。俺も男に触れるのは花沢さんが初めてだし。とりあえず、今夜は互いの身体がどういうものか確かめて、簡単に触るだけにしておこうか」
    「……うん。いまさらだけど、吉田くん、度胸があるね」
    「それしか取り柄がないから」
     苦笑いして、吉田はベッドに組み敷いた花沢の熱い耳たぶにくちづけた。
     あのまま公園で抱き合うのはさすがにどうかと思ったので、キブラから一駅離れた自宅アパートに連れ込んだ。六畳二間の古びたアパートだが、頑丈な造りのせいで、隣室の物音が聞こえてきたためしがない。
     慣れていない同士、たったいまから恋愛関係を始めようというなら、いきなり身体を深く繋げるという無茶をしでかすよりも、思春期のようにまずは手を繋ぎ、ためらうようにキスを試みて、少しずつ確かめ合うのが正しいかもしれない。
     浅いキスにたどたどしく応える花沢の反応に気をよくし、少し色気を出して舌を絡めてみた。同性だとわかっていても、くちびるの熱っぽさはかなりのもので、つい気をゆるめると一気にがっついてしまいそうだ。
    「……ん……」
     火照るくちびるを押しつけてくる花沢が、おずおずと首に両手を絡めてくる。その仕草もやっぱり初々しくて、「花沢さん、可愛いね」と言うと、シャツの襟元からのぞく花沢の首から額まで一気に真っ赤に染まった。
    「吉田くん、男の相手は初めてでも、かなり経験があるでしょう」
    「そこそこあるよ。でも、節操がないわけじゃないと思う。いままでセックスしてきた相手は、どれもみんな、どこか可愛いところがあったから」
    「僕にも、そういうところがあると思うわけ?」
    「そうじゃなかったら、こうなってないと思うけど」
     ジーンズを硬く盛り上げる塊に花沢の手を押しつけると、声にならないせっぱ詰まった息遣いが返ってきた。
    「とりあえず、直接触るのは大丈夫?」
    「……うん」
    「じゃあ、擦ってもいい? マスターベーションっぽいけど、互いに触れて気持ちよかったら、とりあえず良しとしよう」
    「あの、あまり、はっきり言わなくていいよ。恥ずかしいから」
    「なんで。花沢さんが怖がらないように確かめてるだけなんだけど」
    「おもしろがってるとしか思えない、けど、……ぁ……!」
     このぶんじゃいつまでも埒が明かないから、もがく花沢のシャツを軽くはだけて、平らな胸を凝視した。
     大丈夫だ。いまのところ、気が削がれる気配はない。それどころか、男にしてはなめらかで綺麗な肌に見とれ、ひんやりした空気に晒されてぷつんと尖った乳首に興味をそそられて指で弄り回すと、あ、あ、と花沢の息遣いがしだいに狭まっていく。女と同じように、男の胸も時間をかけて愛撫すれば、ふっくらとした熱を持ち、感じるようになるのだろうか。
    「……っいや、だ、それ……なんか、変な感じ、する……」
    「変な感じっていうことは、結構いいのかもよ」
     くりくりと根元からこよりのようにやさしくねじり上げ、指の腹で押し潰した。それだけ色づく胸が妙に色っぽい。男の真っ平らな胸に欲情する自分が可笑しく思えた。やわらかな女の胸は視覚的なものだけでもそそられるが、男はシャツを脱がせ、なめらかな肌触りを確かめてみるまでわからない。うっすらと汗を滲ませた平らな胸でぷつんと赤く尖る花沢のそこを存分に舐め回し、歯を突き立ててみたかったが、最初から貪るような真似をしたら、それこそ花沢が本気で怖じけるかもしれない。
     頭に血が上りそうなのを抑えつつ、硬くしこる乳首をしつこく弄り続けた。いつか、もっと時間と余裕があるときに乳首を重点的に責めてやりたい。
    「ん……っん……っ」
     腰をよじらせる花沢が声を殺している様子に誘われて、スラックスのジッパーを下ろしてやった。それから、自分のジーンズのジッパーも下ろし、互いにぎちぎちに昂ぶった性器を剥き出しにさせて触れ合わせると、ぬちゅりと淫らな音が響く。
    「……今日は全部脱がないで、擦るだけにしとくか」
    「ん、……うん、そのほうがいい、かも」
     自分も花沢も声が掠れたのは、けっして生々しい男同士の行為に腰が引けたせいではない。
     ――こんなに感じるとは思わなかった。ちゃんと順序を踏まないと、本気でヤバイことになる。毎日毎日、セックスすることしか考えられなくなるかもしれない。ことのひとも、俺も。だから焦らないで、少しずつ進めたほうがいい。
    「……そうじゃないと、破滅するかも」
    「うん……あ、……あっ、……あっ」
     シャツもスラックスも半端に脱いだ格好の花沢が背中をしならせる。勃ちきった互いの性器をまとめて、吉田がゆるく扱きだしたせいだ。
     同性の性器を掴んで擦り合わせ、微弱な皮膚の震えさえ感じ取って昂ぶっていく自分が、いまさらながらに信じられない。花沢の手を掴んで、「あんたも触って」と言うと、息を飲む気配とともに、筋が浮き立つ肉棒に指が絡み付いてくる。どちらのものともわからない先走りがあふれ出し、とろりと手を濡らしていく。それが気持ち悪いとも思わず、身体の奥からあふれ出すような衝動に押されて、ずりゅっ、ぬちゅっ、と淫猥な音が響くほどに互いの性器を押しつけ、腰を揺り動かした。
     本物の交わりとはほど遠いが、いまはこれでいい。肌の一部を晒して触れ合い、キスすることも許せる。
    「――ぁ……っ!」
     無防備に綺麗な喉を晒してのけぞる花沢の頭を掴み、深くくちづけた。舌先を絡めてきつく吸い取った瞬間、くぐもった声を上げて花沢が熱を弾けさせる。
    「ん、ん……」
     手の中にあふれた白濁を愛おしく感じて、吉田も息を詰めてぐっと背中を丸め、射精した。花沢のそれよりもとろみが濃く、量も多い精液で肌を濡らしてやり、最後には互いのものを混ぜ合わせて指先に移し取り、舐め取った。
     絶頂の余韻にぼうっと浸る花沢のくちびるにも濡れた指を押し込むと、少し驚いた顔をしたあと、ちろりと舌がためらうように巻き付いてくる。
     その躊躇した感じが、とてもいい。これから何度も何度も身体を重ね、深いところまで知っていく甲斐がありそうだ。
    「気持ちよかった?」
    「……おかしくなるかと思った」
    「これぐらいで? ま、いいか、あんたの身体がどう変わっていくのか、俺しだいだもんな」
    「そう簡単に変わらない。僕は一応これでも三十を過ぎていて、そんな簡単なことじゃ……」
    「変わりたいって言ったのは、あんたでしょうが」
     揚げ足を取られて耳たぶを赤くさせる花沢にもう一度キスして、吉田は微笑んだ。
     スローな感じで、もったいぶった触り方を続けていくうちに、互いにどうにも堪えきれずに一線を越えてしまう日が来るかもしれない。たぶん、間違いなく来る。
    「……なに笑ってんの」
    「なんでもない。内緒」
     どっちからどんな形で誘うのかと考えているだけでもいまは楽しいから、勢いに任せ、理性を吹っ飛ばして互いに貪り合うのはもう少し先にしておこう。


     簡単に触れ合うだけの情事でも、花沢にとってはきわどいものだったらしい。事後、シャワーを浴びたらすでに眠そうな顔をしていたので、「今日は泊まっていきなよ」と引き留めた。明日の予定を聞いたら、休みだという。自分もちょうど休みだから、ゆっくり眠って、起きたらなにか食べさせてやり、気分が落ち着いたところで今後どうするか話し合ってみるとしよう。
    「……とりあえず、一緒に暮らしてみるか。住む部屋もないって言ってもんな」
     恐縮するように、狭いベッドの端で身体を丸めて眠る花沢の姿に、吉田は頬をゆるめた。
     花沢の思いがけない告白で、意識していなかったこころの奥底に閉じ込めていた箱の蓋が開いた気がする。
     ほんとうに欲しかったものが手に入った気がする。
     誰かを愛することに花沢はいたく執着しているようだが、一度も、「安心したい」とは言わなかった。そのことが、吉田を強く惹きつけたのだ。
     どこをどう探しても、真実の安らぎなどない。もし、それがほんとうにあるとしたら、他人から与えられるものではなく、自分自身との闘いに疲れ果て、どうにもならない現実と折り合いをつけねばならないときだけ、一生に一度だけ使える、おまじないのようなものだ。
     けれど、吉田はそんなものはいらないと思っていたし、花沢もどうやらそうらしい。
     みっともないほどにあがいているとわかっていても、欲しいものは欲しいとこころから叫べ。叶いそうにない夢を一度手にしたなら、声をかぎりに望みを口にしろ。それを聞き届けてくれる暇な神様がどこからかまぼろしのように現れるか、力尽きて諦めることをみずから受け入れる日が訪れるほうが先か、それこそ蓋を開けてみなければわからないことだ。
     どちらにせよ、黙っておとなしくしていることなんかできないことを自分も花沢も知っているのだ。
     誰もがこころにそっと隠している真実を、花沢は見事にみずから暴いて見せた。そんな男に惹かれ始めている自分もどこかいかれているのかもしれないけれど、花沢とちょうどよく釣り合いが取れていると思うから構わない。
     小説や映画の中で描かれるような美しいハッピーエンドを放り投げて、互いに探り、疑い、ときには本気で爪を立ててこころを抉り、血を噴き出させたことに後悔し、キスで慰め合う。それからまた、闘争心がかき立てられた頃に互いのこころがどこにあるのかとうろうろと獣のように探り出す。
     それこそが、吉田がずっと欲しかったものだ。けっしてけっして、自分だけのものにはなり得ない他人のこころを追い続ける焦燥感と楽しさが欲しかったのだ。
     誰からも認められ、祝福される関係なんかいらない。花沢と自分のふたりきりしか知らない想いの深さを、身体のいたるところに刻みつけ、その痕跡をふたりだけで見つける楽しみに浸りたい。
     終始花沢を意識しながらも、いつかほんとうに世界一周の旅に出かける準備が整ったら、そのとき自分はどうするのだろう。『いつか帰ってくるから』と守れない約束を交わして単身旅立つのか、それとも花沢も一緒に連れていくのか。思い描く未来はまったくもって白紙で、不安定で、だからこそ胸が躍る。
     ――そのほうがずっとおもしろいじゃないか。楽しくて、いつまでも新鮮だ。
     こころ温まるハッピーエンドを潔く放棄すれば、永遠に鮮やかなままでいられる。愛しすぎておかしくなるなら、いっそそれもいい。
     安らぎは約束できないけれどいつも新しくてみずみずしい、峻烈ながらも永遠の恋が始まる世界へ、ようこそ。
     けっして抗えない蠱惑的な甘い声がどこからか聞こえてくる。
     吉田は背中から花沢を抱き締めて微笑み、目を閉じた。
     ここからが、最初の一歩だ。



    calendar

    S M T W T F S
         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    31      
    << December 2017 >>

    selected entries

    categories

    archives

    recent comment

    • 11/11お茶会レポ
      marilyn
    • 11/11お茶会レポ
      のぼりん
    • ドキドキです
    • ドキドキです
      のぼりん
    • 水嶋/澤村(オリジナル2008)
    • 水嶋/澤村(オリジナル2008)
      さえめい
    • もうすぐお茶会
    • もうすぐお茶会
      のぼりん
    • 求めたら最後(「愛執の鎖」原型2006)
    • 求めたら最後(「愛執の鎖」原型2006)
      のぼりん

    links

    profile

    書いた記事数:49 最後に更新した日:2017/12/08

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM